MENU

過去の礼拝説教

「恐れを取り除く愛」

2017年06月25日 聖書:ヨハネの手紙一 4:13~21

私の子供が、まだ小さかった頃、子供をお風呂に入れながら、よくこんな遊びをしました。

洗面器を伏せて、下向きにして、お湯の中に沈めます。洗面器の中には、空気が一杯入っているので、空気抵抗があって、なかなか沈んでいきません。かなり力が必要です。

力を入れて、洗面器を沈めて、お湯の中で、一気に洗面器を、上向きにします。

そうすると、中の空気が、ボワッとお湯の中から、湧き上がってきて、子供が驚きます。

たわいもない遊びですが、子供が喜ぶので、よくしました。

洗面器を、下向きに沈めるには、かなり力が必要です。

でも、上向きにして、沈めるのは、簡単です。上向きにして沈める時は、洗面器はお湯の中に、すっぽりと浸り、洗面器の中にもお湯が、満たされます。

このお湯を、神様と見做し、洗面器を私たちと、見做してみます。

私たちが、神様の方ではなく、下を向いている時には、私たちという洗面器は、お湯の中、つまり神様の中に、なかなか沈んでいきません。

洗面器に、空気が満ちているように、私たちの心も、様々なもので塞がっているからです。

でも、私たちの心を、空にして、上に向けて、沈めれば、お湯の中に沈むことが出来ます。そして、その時、洗面器の中にも、お湯が満ちています。

私たちが、神様というお湯の中に、すっぽりと覆い包まれ、私たちという、洗面器の中にも、神様がいてくださる。そういう恵みに、与ることができます。

神様の内に、私たちがいて、私たちの内に、神様がいてくださる。

今朝の御言葉の前半の13節~16節では、私たちが、神様の愛の内におり、また神様も、私たちの内に、宿ってくださるという、信仰の奥義が、3回も繰り返して、語られています。

ヨハネにとって、このことが、どれ程大きな恵みであったかが分かります。

私たちは、時々、思いもかけない、恵みの迫りを、受けることがあります。

聖書の御言葉を読んでいる時、礼拝で説教を聴いている時、或いは、一人静かに祈っている時、突然、強い恵みの迫りを受けて、息苦しくなる。

そして、「あぁ、私は今、神様の愛の御手に、握りしめられている。神様が、私の心に、親しく語り掛けてくださっている」、と感じることがあります。

それが、神様の内に、私たちがいて、私たちの内に、神様がいてくださる、ということではないでしょうか。

勿論、一人一人によって、程度の差はあるでしょう。

でも、私たちは、皆、そのような、恵みの体験を、少なからず、味わっていると思います。

心が熱く燃えるような、神秘的な体験を、していると思います。

洗礼を受けた時に、訳もなく、嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。それも、この体験の一つです。このような体験があるから、私たちは、信仰生活を、続けていられるのです。

私たちの信仰が、危機に陥った時、戻るべきは、ここです。この体験です。

たとえ一度でも、そのような体験を、持っているなら、私たちは、そこに帰り、そこからまた、再出発できます。

ある若い牧師が、信仰に挫折し、牧師を辞めたい、と言って来ました。その牧師の恩師で、かつて、その牧師が学んだ、神学校の校長をしている、先輩牧師が、面談しました。

若い牧師が、現在の心境を、訴えた後に、校長先生が、優しく言いました。

「兄弟、一緒に祈ろう。君が、主によって、捕らえられている、と実感した時があっただろう。その時、心が熱く燃えるような、体験をしただろう。その時のことを想い起して、一緒に祈ろう」、と言いました。

ところが、その牧師は、「いえ、先生、そのような体験を、一度もしたことがないのです」、と答えたのです。それを聞いて、校長先生は、悲しみを込めて、言いました。

「それではだめだ。一度もないのでは、戻り様がない」。

どうか、皆さん、一度でも良い。一度でも良いですから、神様に握り締められている、ということを、そして、私の内に、神様がいてくださる、ということを、体験してください。

一度でも、その体験があるなら、そこに戻っていけるのです。

讃美歌518番の1節は、こう歌っています。ご一緒に、歌ってみましょう。

「主にありてぞ われは生くる われ主に 主われに ありてやすし」。

私が知っている限り、3人の教会員の方が、この曲を、愛唱讃美歌としておられます。

恐らく、「われ主に 主われに ありてやすし」という、体験をされたのだと思います。

もう1曲あります。讃美歌512番です。512番の4節は、このような歌詞です。

これも、ご一緒に、歌いましょう。 「主よ、献げます、私の愛を、知恵も力も 宝もすべて。

私のうちに あなたが住んで みむねのままに 用いてください。」

この讃美歌を、愛唱讃美歌として、登録しておられる、教会員もおられます。

「私のうちに あなたが住んで みむねのままに 用いてください。」

その方も、このような思いに、導かれた経験を、お持ちなのだと思います。

このように、クリスチャンの生活には、二つの面があります。一つは、「私は、キリストの内にある」、ということです。もう一つは、「キリストが、私の内におられる」、ということです。

使徒パウロは、物凄いことを、言っています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。今生きているのは、私ではなく、キリストが私のうちに生きておられます。」

今、私は、生きているように、見えるかもしれない。でも、実は、私が生きているのではなくて、私の内におられる、キリストが生きているのだ、と言っているのです。

これは、人間が言える、言葉ではありません。聖霊なる神様の、導きによって、初めて言える言葉です。そのことを、13節の御言葉が、説明しています。

「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります」。

神様は、信じる者一人一人に、聖霊を分け与えてくださった。その聖霊が、働いてくださる時、私たちは、「われは主にあり、主われにある」、という奥義を、理解することは出来るのだ、と言っているのです。

聖霊の働きによって、私たちは、この恵みを、自分のものと、することが出来るのです。

私たちは、自分の力では、主イエスを、神と信じることは、出来ません。

パウロが、コリントの信徒への手紙一の12章3節で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」、と言っている通りです。

私たちは、長い教会の歴史の中に、生きていますから、「イエスは主です」、という言葉を、最も基本的な、信仰告白として、当然のように、受け入れています。

しかし私たちが、「イエスは主です」、と告白できることは、実は奇跡のようなことなのです。

自分とは、何の関わりもない、と思っていた人。二千年も昔に、遠くユダヤの片田舎に生まれた、見知らぬ男の人を、自分の主とする。そして、自分は、その人の僕になる。

そんなことは、普通では、考えられません。不思議なことです。

でもそれが、実際に、私たち、一人ひとりの身に、起こったのです。それは、聖霊の働きによるのです。私たち自身の、力や知恵では、及びもつかない、ことなのです。

同じように、私たちの内に、本来は無い、「人を愛する」ということも、聖霊の働きによって、初めて、できるようにされるのです。

16節の、「神は愛です」という御言葉は、素晴らしい言葉です。この御言葉が、ここに記されているだけで、大きな恵みです。「神は愛です」。

ヨハネが、長い信仰の旅路の末に、辿りついた結論。それが、この言葉なのです。

ヨハネという人は、愛されていた人であったと思います。ガリラヤ湖畔の、大きな網元の子として生まれ、両親からも、兄弟からも、周囲の人々からも、愛されて、育った人です。

しかし、ヨハネは、主イエスに出会って、主イエスの、十字架と復活の意味を、知った時に、それまでとは、全く違った愛を知ったのです。

実は、それまでは、本当の意味で、愛を知らなかったのです。

主イエスが、十字架の上で、「父よ、彼らを、お赦しください、自分が何をしているか知らないのです」、と叫ばれた時、ヨハネは、十字架の下にいて、この言葉を聞いていました。

そして、この言葉を聞いたヨハネは、気づかされたのです。

「あぁ、この言葉は,祭司長や律法学者たちではなく、この私のための、執り成しの祈りなのだ。主イエスを、見捨てて逃げた、この私を赦すための、執り成しの祈りなのだ」。

そのことを、知ったのです。裏切って逃げた、この私を、赦すために、命をささげてくださった、神様の愛を、知ったのです。

ヨハネは、それまで、人から、愛されていなかった、訳ではありませんでした。

でも、この時、初めて、本当の愛が、分かったのです。

ですからヨハネは、言うのです。「神は愛です」。

この言葉に、心から「アーメン」、と応えたいと思います。

キリスト教信仰の真髄を、一言で表現する、というのは、無謀な試みだと思います。

でも、敢えて、それをするとしたら、この「神は愛です」、という一言になる、と思います。

そして、この「神は愛です」という言葉に、ほんの少し付け足して、説明すると、ヨハネによる福音書3章16節の、御言葉になるのだと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この御言葉は、「神は愛です」という、キリスト教信仰の真髄を、解説してくれています。

「神は愛です」と言うけれども、それは、どのような愛なのか。それは、最愛の独り子の命を、私たちの救いのために、与えてくださった愛なのだ。御言葉は、そう説明しているのです。

18節では、そのような、神の愛を頂いた者は、恐れから解放される、と語られています。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締めだします。」

これも、素晴らしい、恵みの言葉です。聖書には、「恐れ」という言葉が、頻繁に出て来ます。

聖書全体では、675回も、「恐れ」という言葉が、出て来るそうです。また「恐れるな」、という呼び掛けは、53回も出て来るそうです。

一年は52週ですから、神様は、毎週のように、「恐れるな、恐れないで良いのだ」、と言い続けて、おられるのです。どうして、そんなに、繰り返して、言われるのでしょうか。

私たちの心の内に、それだけ、恐れが、いっぱいあるからです。

でも、私たちが、本当の愛を知ったなら、恐れはなくなります。

天地を創られた、全能の神様が、私たちのことを、命懸けで、愛してくださっている。

そのことが、本当に分かったなら、私たちから、恐れが消え去ります。

ちょうど、母親が、子どもを、ギューっと抱き締めて、「大丈夫よ。怖がらなくていいのよ」、という様に、神様の御手に、握り締められていることが、分かるなら、恐れは消え去ります。

恐れとは何でしょうか。恐れとは、何か大切なものを、失うことに対する、不安から生じていることが、多いのではないでしょうか。

自分の命を、失うことへの不安、大切な人、或いは、大切なものを、失うことから来る不安。

それらが、恐れの原因と、なっているのではないでしょうか。

しかし、ヨハネは、ここで言っています。

主イエスの十字架に示された、完全な愛に覆い包まれ、その愛の交わりの中に、置かれる時、そのような恐れは、締め出されてしまう。

主イエスの、圧倒的な愛に、覆われる時に、もうこれさえあれば、何も要らない、他のものを、失っても良い、という思いに導かれる。その時に、恐れは消え去る、というのです。

そして、主イエスの愛に、覆われて生きていく時、他人に対する恐れも、消えていきます。

アメリカで、黒人の人権のために働き、命をささげた、マルティン・ルーサー・キング牧師は、自分を迫害する人たちに対して、こう言っています。

「私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。」

もし、私たちが、このキング牧師のような、愛に生きられるなら、恐れはなくなります。

愛する人を、恐れることはないからです。完全な愛は、恐れを締めだすのです。

ヨハネは、「神は愛です」、「愛には恐れがありません」、と語った後で、兄弟を愛することを、勧めています。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」

十字架の主を見上げる時、私たちは、まことの愛を知ります。私たちが、まことの愛によって、生かされていることを、知ります。

もし、それを、本当に知ったなら、あなたの周囲にいる人も、すべてが、神様の限りない愛の対象であることを、あなたは知る筈だ。あなたが、愛せないと思っている、あの人も、神様に愛されている人である、ということが分かる筈だ。

使徒パウロは言っています。「その兄弟のためにも、主は死なれたのです」。あなたが、愛せないと思っている、その兄弟のためにも、主イエスは、十字架にかかられたのです。

あなたが、愛されているように、その人のことをも、主は愛しておられるのです。

だから、もし、あなたが、主の愛に覆い包まれているなら、その兄弟をも愛さずにはおられなくなる筈だ。

もし、あなたが、神様を心から愛しているなら、神様が愛している、その兄弟をも、愛する筈だ、というのです。なぜなら、それが、主の愛に応える、ということだからだ、というのです。

あなたが、お母さんで、愛する一人息子が、いるとします。その息子に、親友ができました。

息子は、その親友のことが、大好きで、とても大切にしています。

その時、お母さんは、どうするでしょうか。愛する息子が、大切にしている、その友達をも、精一杯愛そうと、するのではないでしょうか。

それが、息子に対する愛に、繋がると思うからです。

同じように、私たちが、本当に神様を、愛しているなら、その神様が、愛しておられる人を、私たちも、愛さずには、いられなくなる筈なのです。

北海道で、中堅の会社を経営している、佐々木さんという、クリスチャンの方の、証しを聞いたことがあります。

ある時、佐々木さんの、昔の友達から、私を雇ってください、と頼まれました。

会社の人は、皆、反対しました。この人には、問題があることを、知っていたからです。

でも、佐々木さんは、「もし、あなたが、教会に通うなら、雇いますよ」、と言いました。

教会に来たら、この人も変えられて、何とかなるだろう、と思ったのです。

でも、その人は、そう簡単には、変わりませんでした。仕事のミスが多いのです。

しかも、そのミスを、いつも、他人のせいに、しようとするのです。

会社の人が困っているので、何度も注意しましたが、なかなか変わってくれません。

佐々木さんは、彼を雇ったことは、失敗であったと、後悔しました。

その時です。主イエスが、佐々木さんに、語り掛けました。「お前は、あの人を愛している、と言っているね。友達だと、言っているよね。でも、お前の愛は、条件付きなんだよね。

私は、あの人を、条件をつけずに、愛しているのだよ。」

佐々木さんは、その人に謝ったそうです。「ごめんね。変われと言われても、変われないんだよね。そのままで良いよ。」そう言って、その人を、初めて、本当に受け入れたそうです。

それから、暫くして、その人は洗礼を受け、次第に、変えられていったそうです。

神様が、私を、そのまま、ありのままで、愛してくださっている。同じように、神様は、この人のことをも、そのまま、ありのままで、愛しておられるのだ。そのことが分った時に、私たちは、初めて、兄弟を受け入れ、本当に愛することが、出来るのです。

主イエスの、十字架の愛によって示された、神様の愛は、私たちから、恐れを取り除きます。日々の生活を、平安と信頼で、覆い包みます。そして兄弟を愛する、根拠となります。

その主の愛を感謝し、その主の愛に生かされ、その主の愛に応答して、信仰の旅路を、歩んで行く、お互いでありたいと願います。