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過去の礼拝説教

「茅ヶ崎恵泉教会という神の家族」

2019年11月03日 聖書:マルコによる福音書 3:31~35

今朝、私たちは、茅ヶ崎恵泉教会創立記念礼拝をささげています。

茅ヶ崎恵泉教会は、68年前に茅ヶ崎教会と分かれて、別の道を歩むことを選択した結果、誕生した教会です。ですから、元々は茅ヶ崎教会と一つであったのです。

そして、母体であった茅ヶ崎教会の前身は、1928年に設立された茅ヶ崎美普教会です。

当初茅ヶ崎美普教会は、平塚美普教会(今の平塚教会)の指導を受けて、平塚美普教会の枝教会のような形で、スタートしました。

ですから茅ヶ崎恵泉教会は、茅ヶ崎教会や平塚教会と、歴史的な関わりを持っているのです。茅ヶ崎教会や平塚教会と、信仰のルーツを共有している、と言っても良いと思います。

今、美普教会という、聞きなれない言葉が出てきました。美普とは、美しいという字の「美」と、普通の「普」という字を、繋いだ言葉です。

美しくて普通である。それが教会と、どう関わるのか。見当もつかないと思います。

それもその筈です。この美普という字は、それ自体には意味がない、当て字だからです。

アメリカのことを「米国」、イギリスのことを「英国」と呼んでいるように、字そのものには、意味はありません。発音から考えられた当て字です。

美しいの「美」は、「メソジスト」という言葉を表しています。そして普通の「普」は、「プロテスタント」という言葉を表しているのです。

ですから、「美普」とは、「メソジスト・プロテスタント」を略した、当て字なのです。

茅ヶ崎恵泉教会のルーツは、茅ヶ崎メソジスト・プロテスタント教会なのです。

では、メソジストとは、一体、どのような教会なのでしょうか。

メソジストという言葉自体は、「几帳面屋さん」という意味です。信仰生活において、決められた規範を、きちんと守る几帳面屋さん、という意味です。

このメソジストというキリスト教の教派は、18世紀のイギリスで、ジョン・ウェスレーという人が起こした、信仰覚醒運動によって、生まれた教派です。

若い頃、ジョン・ウェスレーは、清く正しい生活をしなければ、救われないと思っていました。

ですから、一生懸命に、清い生活を目指して、几帳面に励んでいたのです。でも、その信仰生活には、救いの喜びも、救われたという確信も、ありませんでした。

しかし、ある時、順序が逆であることを、示されたのです。

清くなってから、救われるのではなくて、主イエスの十字架の贖いによって、汚れたままで、一方的に罪赦されて、救われているのだ。

主イエスが、自分のすべての罪や汚れを負って、自分に代わって、十字架の刑罰を受けてくださった。だから、自分は、罪あるままに、罪赦されている。

この十字架の救いが、まず先にあるのだ。そして、この大きな恵みによって、救われた自分は、その恵みに応えて、清い生活を目指して行く。

その時、初めて、清さに向かって、少しずつ歩み出すことが出来るのだ。これが、聖書が教えている順序なのだと、分かったのです。

先行する赦しの恵みを頂いた者は、その恵みに応えて、生きなければならない。

汚れたままであるのに、真白な衣を着させていただいたのなら、中身もそれに相応しく、少しずつでも白くなるように、応えていかなければならない。

これが、ジョン・ウェスレーが起こした、メソジスト運動のエッセンスです。

このメソジスト運動は、イギリス中に広まり、やがてアメリに渡り、大きく発展しました。そして世界中に、伝えられていきました。

しかしメソジスト教会は、生活の規律を重んじるため、几帳面屋さんの名の通り、どうしても監督色が強くなってしまう傾向があります。そこで教会の運営においは、監督色を弱めて、出来るだけ平等にして、活き活きとした教会を形成しよう、というグループが生まれました。

それが、メソジスト・プロテスタント教会です。メソジスト・プロテスタント教会は、とても小さな教派でしたが、日本での伝道に力を入れて、横浜英和女学院を設立し、横浜本牧教会、蒔田教会、静岡草深教会、平塚教会、伊勢原教会などを、設立しました。

この流れの中で、茅ヶ崎教会が生まれ、更に、そこから分かれて、茅ヶ崎恵泉教会が、誕生したのです。ですから、茅ヶ崎恵泉教会のルーツは、メソジスト・プロテスタント教会であり、元々は、ジョン・ウェスレーの信仰を受け継いで、スタートした群れであったのです。

「救いの恵みに応えて、聖なる生活を目指そう」という信仰を、受け継いだ群れが、その原点なのです。今朝は、その伝統を、今一度想い起したいと思います。

ところで、教会はよく「神の家族」である、と言われます。それはどういう意味なのでしょうか。

先程、読んで頂きました、マルコによる福音書3章31節~35節には、この「神の家族」について語られた、主イエスの御言葉が記されています。

主イエスが、多くの群衆たちに、教えを語っておられた時、主イエスの母と兄弟たちが、やって来ました。主イエスを、自分たちの許に、引き戻すためです。

主イエスの家族は、主イエスの最も身近にいました。しかし彼らは、主イエスがなさっている、神の国の御業を、理解できないでいました。

自分たちは、肉親だから、主イエスのことを良く知っている、と思っていました。

でも、身近な家族で、あればあるほど、主イエスが、なさっておられることや、語っておられることを、理解できなかったのです。今や、自分たちの思いを、遙かに超える存在となってしまった主イエスを、理解することができなかったのです。

彼らは、主イエスのことを、「わが子イエス」とか、「わが兄イエス」、とは呼べました。しかし、「わが主イエス」、とは呼べなかったのです。ですから、中に入らずに、外にいたのです。

家の外に立って、中に入ろうとしない。そんな家族の姿を見られて、主イエスは、深い悲しみを、覚えられたのではないかと思います。

身内として、私を、誰よりも身近に感じるのであれば、なぜ「私の外に」、立つのですか。

なぜ、中に入ろうとしないのですか。主イエスは、そのように嘆かれたと思います。

この時、家の「内と外」では、大きな違いがありました。

家の中では、主イエスの、御業と御言葉によって、神の国が、もう既に始まっていました。

でも、外にいる限り、たとえ肉親であっても、主イエスの真実に、触れることはできません。

主イエスの家族は、身内が呼んでいるのだから、当然出てくるだろう、と思っていました。

でも、主イエスは、その家族に対して、中に入ってくるようにと、招かれたのです。

「外にいては、神の支配に、入ることができないではないか。どうか、中に入ってきてください」、と招かれたのです。

そして主イエスは、周りに座っている人々を、ぐるっと見回して、「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」、と言われました。「ここに私の家族がいる」、と言われたのです。

そこには、幼な子がいたかもしれません。或いは、主イエスに癒されることを願って、担ぎこまれた病人もいたかもしれません。

主イエスは、そういう人たちすべてを、愛の眼差しの中に、捕らえておられたのです。

そして、そこに、新しい家族を造られました。血の繋がりに拠らない、新しい家族を造られたのです。

主イエスが造られた、この新しい家族とは、実は、私たちのことなのです。教会に繋がる、私たち一人一人のことなのです。

主イエスは、今も、ここにおられて、私たちを指差して、言われています。

「ここに、私の母がいる。ここに、私の兄弟がいる。ここに、私の姉妹がいる。」

主イエスは、このような、心躍る言葉を、私たちに語ってくださっているのです。

しかし、主イエスは、この後、続けて、「神のみこころを行う人こそ私の兄弟、姉妹、また母なのだ」、とも言われました。神の御心を行う者が、神の家族なのだ、と言われたのです。

そこで、私たちは、立ちすくんでしまいます。考え込んでしまいます。

もし、そうだとしたら、御心を行っている、という確信のない者は、神の家族と呼ばれるのに、相応しくないのだろうか。そう思って、不安になってしまいます。

では、神の御心とは、一体何なのでしょうか。御心を行うとは、どういうことなのでしょうか。

ある牧師が、ノンクリスチャンの友人から、質問を受けました。

その友人は、「終活」セミナーを受講したそうです。ここで言う「終活」とは、就職のための活動ではなく、人生の終わりに備えて、準備をするという「終活」です。

セミナーの最後には、一人一人が本物の棺桶に入ったそうです。棺桶の中に横たわり、白い布団を掛けられ、手を胸の所で組みます。そして、棺桶の蓋が閉められます。

真っ暗な棺桶の中で、これまでの自分の人生とは、何だったのだろうか。これから自分は、何のために生きれば良いのだろうか。そういうことを、深く考えさせられたそうです。

そして、終活セミナーを終えた、その人は、真っ直ぐに、友人の牧師のところに来て、「神様の御心とは何ですか」、と質問しました。

その牧師は、テサロニケの信徒への手紙一4章3節をもって、その質問に答えたそうです。「実に、神の御心は、あなた方が聖なる者となることです」。

いきなり、この言葉では、ちょっと厳しいかな、と思いつつ、この御言葉を読んだそうです。

ところが驚いたことに、その人は、「それなら、自分はクリスチャンになる」と言って、熱心に教会に通い出したそうです。

どうやら、この人は、「神の御心を行う」、ということを、正しく受け止めたようです。

神の御心を行うとは、完璧な人になる、ということではありません。

聖なる者となるとは、汚れのない、完全無欠な者となる、ということではありません。

そうであれば、誰もなれません。聖なる者とは、神様によって、選び分かたれている者、という意味です。神様によって区別されて、神様の許にいる者、という意味です。

もっと具体的に言うなら、十字架の血潮によって、罪赦され、汚れを洗われた者として、神様の許にいる者、という意味です。

ですから、この友人のように、教会に来て、神様の許にいる、ということは、聖なる者となる道筋の、第一歩なのです。

私たちは、自分の力では、父なる神様の御心を、行なうことなど、とてもできません。

むしろ、御心を悲しませてばかり、している者です。

でも、そんな私たちに対しても、主イエスの愛は、決して変わらないのです。

主イエスは、そのような私たちを、神の家族として、最後まで愛し抜いて下さいます。

そして、そういう私たちを、赦すために、十字架に上られたのです。

ですから、神の御心を行うとは、主イエスの十字架は、私のためであったと受け入れ、その救いに与ることなのです。

そして、そのようにして生きる者の群れが、教会という新しい神の家族なのです。

今、私たちは、礼拝を守っています。主イエスの招きに応えて、礼拝の席に着いています。

この私たちの群れの真ん中に、主がおられます。そして、主は、愛の眼差しをもって、「御覧、ここにわたしの母、わたしの兄弟、わたしの姉妹がいる」、と言って下さっているのです。

ですから今、私たちは、間違いなく、神の御心を行う、神の家族として、ここにいるのです。

私たちは、皆、欠けを持っています。皆、汚れに満ちています。でも、皆が、主に招かれ、主の許に呼び集められ、主の家族として、御許に置いて頂いています。

主の御心を行う者として、選び分かたれて、聖なる者とされているのです。

ある教会学校に、多動性障害を持つ子がいました。その子のために、教会学校は、しばしば滅茶苦茶になりました。

せっかく準備してきたプログラムも、何も出来ずに終わってしまう、ということもありました。

教会学校のある教師は、いけないと思いながらも、「あの子さえいなければうまくできるのに。あの子は問題児だ」と、つい思ってしまうことが、度々ありました。

ある日、いつものように、その子が動き回っていたので、その教師は、たまりかねて、「イエス様が来たらどうするの!」と、怒鳴ってしまいました。

皆さん、その子は、何と答えたと思いますか。その子は、「イエス様が来たら、抱っこしてもらう」、と言ったのです。それを聞いて、その教師は、深く示されました。

私たちは、皆が、主イエスの前では、同じ問題児なのだ。でも、主イエスは、そんな私たちを、抱き締めて下さっている。この愛によって、愛されている喜びを、その幸いを、その祝福を、共に味わっていくのが、教会なのだ。私は、何を勘違いしていたのだろうか。

そうなのです。私たちは、皆、主イエスの目には、欠けや汚れに、満ちている問題児なのです。それなのに、主イエスの無限の愛によって、抱き締められているのです。

ですから、お互いに欠けや弱さをさらけ出し、お互いにそれを受け入れ合っていくのです。

家族とは、どのような存在でしょうか。家族の間では、自分の欠けや、弱さを、隠すことができません。それをさらけ出さざるを得ません。そして、それを受け入れ合うのが、家族です。

主イエスは、十字架にかかられる前の晩に、弟子たちの足を洗われて、こう言われました。

「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

主イエスは、互いに足を洗い合いなさい、と言われました。その言葉を聞くと、私たちは、無意識のうちに、足を洗ってあげる側の人間として、自分を捉えてしまいがちです。

身を屈めて、汚れた足を洗う。そういう謙遜な奉仕の大切さに、目を向けてしまいがちです。

しかし、足を洗い合うためには、洗う人だけではなく、足を差し出す人が必要なのです。

足を差し出す人がいなければ、足を洗い合うことはできません。

汚れた足を、差し出す。自分の弱さや、欠けや、汚れを謙虚に認め、それを差し出す。

それをさらけ出す人がいなければ、足を洗い合うことはできないのです。

まことの家族とは、自分の弱さや、欠けや、汚れを、さらけ出せるところです。家族の間では、すべてをさらけ出し、それを受け入れ合っています。

教会が、まことの神の家族になるためには、お互いが、弱さも、欠けも、汚れも、すべてさらけ出すことが必要なのです。そして、それが、受け入れられることが、必要なのです。

自分の弱さや欠けを、隠したままでは、まことの交わりはできません。

恥をかかないために、事前に、自分で足を洗っておいて、きれいな足だけを差し出す、というのでは、主イエスが望んでおられる、まことの神の家族にはなりません。

そんな、表面を取り繕った交わりなら、教会の外にもたくさんあります。

お互いが、問題児なのです。主イエスに抱っこしてもらっているのです。そういう者同士として、足を差し出し合い、洗い合う。そこに、まことの神の家族が生まれるのです。

「神の家族」という言葉を、ある人は、「主イエスの親戚」と、言い換えています。

キリスト者になる、ということは、主イエスの親戚になることだ、というのです。

「主イエスの親戚」。何と素晴らしい言葉でしょうか。

主イエスは、今、ここにおられて、私たちを指差して言われています。「ここに、私の母がいる。ここに、私の兄弟がいる。ここに、私の姉妹がいる。ここに、私の家族がいる。」

そのように、主イエスは、呼んでくださるのです。教会は、そういう神の家族なのです。

この家族に入れられている幸いを、大切にし、心から感謝したいと思います。

今回、創立記念礼拝を迎えるに当たって、この教会に招かれた、7年前のことを想い起して、黙想しました。

その時、私の愛唱聖句の一つである、詩編16編6節の御言葉が、心に迫ってきました。

「測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。」

7年前、神様は、私に、茅ヶ崎恵泉教会という、麗しい地を示して下さり、私は、輝かしい嗣業、尊い宝として、それを受け取らせて頂いたのでした。

ここに初めて立った時の、あの喜び、あの感動を、改めて想い起こしました。

そして、それが、色あせてしまうのではなく、更に強められていきたい、と思わされました。

皆さんは、如何でしょうか。皆さんにとって、茅ヶ崎恵泉教会は、麗しい地、輝かしい嗣業となっているでしょうか。

茅ヶ崎恵泉教会と、そこで与えられている神の家族を、麗しい地、輝かしい嗣業として喜び、感謝をもって、受け入れているでしょうか。

麗しい地として示された茅ヶ崎恵泉教会。輝かしい嗣業として与えられた茅ヶ崎恵泉教会。

お互いに、この素晴らしい神の家族を、心から喜び、感謝し、愛していく群れでありたいと願います。