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過去の礼拝説教

「神は人を分け隔てされません」

2018年10月14日 聖書:使徒言行録 10:34~48

皆さん、教会は、驚くべきことが、起る場所です。

こんなことを申し上げると、皆さんは、一体何が起きるのかと、疑問を持たれるでしょう。教会で起こる、驚くべきこと。それは、人が変えられる、ということです。教会で、今までの生き方が変えられて、新しい人生を歩み出した人は、たくさんいます。

例えば、元やくざであった人が、教会で主イエスと出会って、全く変えられて、今は牧師をしている人が何人もいます。

実は、私自身も、教会において、造り変えられる体験をしました。誤解しないでください。私は、元やくざをしていた、訳ではありません。

私は13歳で洗礼を受け、それからずっと、教会に連なっていました。教会では役員を務め、教会学校の教師をし、会社でも、自分はクリスチャンであることを、公言していました。

そして、高慢にも、自分は、模範的なクリスチャンである、と秘かに思っていたのです。

しかし、仕事に邁進していく内に、いつしか信仰は、形だけにものになっていって、活き活きとした喜びを、失っていました。

そんな私が、香港勤務となり、40代前半の数年間を、香港で過ごすことになりました。そして、香港日本キリスト者会(HKJCF)という教会に、お世話になりました。

そこで、私は、生涯の恩師となる、島隆三という牧師に出会ったのです。

島先生は、別に、強烈な個性の持ち主ではありません。いわゆる、カリスマ的な牧師ではありません。どちらかと言うと、静かで、飄々とした牧師です。

しかし、その生活の全てを、主にささげ尽くしておられました。とても謙虚で、常に祈り、どんなことにおいても、まず御言葉に聞く、という姿勢を、貫いておられました。優しい人柄の中にも、揺らぐことのない、しっかりとした筋が、一本通っていた信仰でした。

その先生の信仰の姿に触れていく内に、私の心の中に、いつしか変化が生じて来ました。

表面上は、模範的な信仰者に見えても、内実は、形骸化した信仰生活を送っていた。そんな私に、島先生の全き献身の姿勢は、大きな衝撃を与えました。そして、御言葉と祈りを大切にする、本来の信仰の姿勢へと、徐々に導かれて行ったのです。神様との活き活きとした交わりを、何よりも喜ぶ者へと、次第に変えられていったのです。

それまでは、会社で認められる事が、最も大切でした。それが第一でした。しかし、神様を喜ぶことを、最も大切に思う者へと、徐々に変えられていったのです。

でも、それによって、仕事を疎かにする様になった、という訳ではありません。仕事は、今まで以上に、誠実に、一生懸命に、するようになりました。それが、社会において、主を証しすることになる、と示されたからです。

ただ、仕事第一から、神様第一へと、優先順位が変わったのです。その思いが、次第に強まっていって、やがて時を経て、献身へと導かれていきました。

使徒言行録10章にも、教会において、新しくされた人の出来事が、語られています。

ここで変えられた人とは、使徒ペトロです。ペトロは、「使徒」ですから、既に、主イエスを信じる信仰者でした。それどころか、福音の宣教者であり、教会の指導者でした。そのペトロが、尚もここで、新しく造り変えられたのです。

教会において、新しく造り変えられる体験。それは、その人の信仰暦の長さや、教会における立場などとは、関わりなく起きます。たとえ使徒であっても、尚も、変えられるのです。

ペトロは、カイサリアという町に出かけて行って、ローマの百人隊長コルネリウスと、その家族、友人たちに、福音を宣べ伝えました。

コルネリウスは、異邦人です。ユダヤ人は、異邦人を汚れた存在と見做して、交際を避けていて、家にも入りませんでした。ですから、ユダヤ人であるペトロにとって、異邦人であるコルネリウスの家を訪ねて、そこで伝道をすることなど、考えられないことだったのです。

けれども彼は、祈っている時に、神様から、幻による示しを受けました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」、という声を聞いたのです。汚れた者とされている異邦人にも、福音を宣べ伝えなさいと、神様から命じられたのです。

ですから、コルネリウスの家を、訪ねたのです。このようにして、使徒ペトロによる異邦人伝道が始まりました。

福音が、世界に伝えられ、私たちが、今、ここで、この日本で、主イエスの救いに、与ることができている。その最初の歩みが、ここに踏み出されたのです。

伝道とは、他人を造り変えようとすること、ではありません。そうではなくて、伝道をする人が、新しく造り変えられるのです。そのことを通して、福音は伝えられていくのです。

コルネリウスの家に到着したペテロは、彼らの願いに応えて、語り始めました。

34節で、ペトロは、「よく分かりました」、と言っています。これは、ペトロの、深い驚きから出た言葉です。「あぁ、本当によく分かった」、という意味を含んでいます。

一体何が分かったのでしょうか。それは、「神は人を分け隔てなさらない」、ということです。神様は、人間を分け隔てなさらない、だから私たち人間も、人を分け隔てしてはならない。そのことを、ペトロは、本当によく分かったのです。

ペトロは、この言葉を、いとも簡単に、サラっと、言いのけているように聞こえます。しかし、ここまで、異邦人の家を訪ねることに、大きな葛藤を覚えて、真剣な戦いの末に、漸くそれを乗り越えてきた、ペトロです。そのペトロが、この言葉を口にしたということは、本当に驚くべきことなのです。

神様は、人を分け隔てなさらない、だから私たちも、人を分け隔てしてはならない。これは、民主主義の時代に生きる、私たちにとっては、当り前のことのように思えます。けれども私たちは、このことを、本当によく分かっているでしょうか。

「分け隔てをする」という言葉は、元々は、「顔や外見で判断する」、という意味の言葉です。顔を見て、人のことを判断する。外見や、表面に現れた姿によって、人を評価することです。

性別の違い、民族の違い、どのような職業についているか、社会的地位はどうか、財産があるかどうか、学歴はどうか。そういうことで、人を評価したり、判断したりしている時、そこに「分け隔て」が生じます。

私たちは、「分け隔てをしてはいけない」、ということを、頭では分かっています。しかし、そのことが、「本当によく分かって」いると、果たして言えるでしょうか。

「差別はいけない」という総論には、皆、賛成します。しかし、身近な事柄になると、どうでしょうか。例えば、子供が結婚する、というようなことになると、相手の職業はどうか、学歴はどうか、肌の色はどうか。そういうことが、気になってしまう、ということはないでしょうか。そして、それは差別ではなくて、子供のためを思う、当然の親心だ、と思ってしまうのです。

そう考えますと、現代でも、人を分け隔てしない、ということは、簡単なことではないと、思わされます。学校でのいじめも、分け隔ての心から、生じているのではないでしょうか。

ペトロは、ここで、ユダヤ人と異邦人との間の、分厚い隔ての壁を、乗り越えることができました。それは、ペトロが、御言葉によって、変えられたからです。

彼は、こう言っています。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。

異邦人であっても、神様を畏れて、正しいことを行うならば、神様が、ご自分の民として受け入れてくださる。ペトロは、はっきりと、そう言い切ることが出来ました。

今、彼は、本当によく分かったのです。主イエスの十字架は、すべての人を救うための、贖いの御業だった。主イエスは、すべての人のために、十字架で死なれたのだ。

だから、この救いの前には、ユダヤ人と異邦人という、隔ての壁は取り去られている。すべての人は、この救いに、等しく招かれているのだ。

主イエスは、天に昇られる前に、最後に言われました。「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい」。この主イエスの御心を、彼は、このとき初めて、分かったのです。

ですから、ペトロは、確信をもって、このように言うことができました。「この方こそ、すべての人の主です」。すべての人の主である、イエス・キリストの故に、もはや、ユダヤ人と異邦人との区別は、存在しない。このお方こそが、人を分け隔てなされない、眞の愛のお方なのだ。

そのことが分かったペトロは、コルネリウスたちに、語り掛けました。だから、このお方の御言葉は、平和を告げる言葉なのです。このお方の許には、本当の平和があるのです。ペトロは、溢れるばかりの喜びを持って、そう言ったのです。

そうなのです。主イエスの御言葉は、愛の御言葉です。希望の御言葉です。そして喜びの御言葉です。しかし、また、それは、平和の御言葉でもあるのです。

主イエスが告げる平和こそが、まことの平和なのです。しかも、それは、すべての人に、与えられる平和なのです。あらゆる隔ての壁を越えて、与えられる平和なのです。

主イエスによって、与えられる平和は、一般的な平和ではありません。力の均衡や、妥協の上に、辛うじて保たれている、平和ではありません。では、主イエスが言われた平和とは、どのような平和なのでしょうか。

それは、神様との平和です。罪の故に、神様と敵対していた私たち。神様との関係が、断絶していた私たち。だから、滅びの死に向かっていた私たち。その私たちのために、主イエスが、十字架にかかって、死んでくださった。私たちの罪を、すべて負ってくださり、私たちの身代わりとなって、呪いの死を引き受けてくださった。

そのようにして、罪の壁を打ち砕いてくださった。私たちは、それによって救われたのです。神様との間に、平和を回復したのです。ペトロは、この平和の福音を、コルネリウスたちに、語りました。

私たちは、皆、等しく、主イエスの十字架の贖いによって、罪赦された者なのだ。そのようにして、神様との間の平和を、回復して頂いた者なのだ。そのことにおいては、皆、同じなのだ。ユダヤ人であろうと、ローマ人であろうと、ギリシア人であろうと、アジア人であろうと、そのことにおいては、皆同じなのだ。

皆が、同じ恵みによって、罪赦され、神様との平和を回復させて頂いて、神の子とされている。この救いは、どんな人にも、等しく与えられている。世界中のすべての人が、主イエスの十字架の愛の対象とされている。すべての人のために、主イエスは、その命をささげられたのだ。

そうであれば、どうして、主の愛の対象である人を、憎むことができるだろうか。傷つけることができるだろうか。どうして、主が命懸けで愛している人を、殺すことができるだろうか。すべての人が、この信仰に立つ時に、初めて世界に、まことの平和が、実現するのです。

ペトロは、この平和の基である、主イエスについて、38節以下で、心を込めて語りました。

主イエスこそが、油注がれた救い主であること。この地上におられた時には、数々の善い業を為して、人々を助けてくださったこと。そして、十字架にかかられ、三日目に復活されたこと。自分は、それらのことを、確かに目撃した証人である。

そして、この主イエスというお方は、やがて再び来られて、生きている者と、死んだ者、すべてを裁かれる。しかし、主イエスを信じる者は、その裁きにおいても、赦されて、救われる。

ペトロは、我を忘れたように、熱い思いをもって、語りました。

すると、未だ語り終えないうちに、聞いていた人たちに、聖霊が降りました。そして、あのペンテコステの時のように、彼らは、異言を話し、神様を賛美したのです。

ペトロと一緒に、ヤッファから来たユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人の上にも、聖霊の賜物が注がれたことに、驚きました。

ユダヤ人クリスチャンたちは、聖霊が異邦人にまで及ぶとは、考えてもいませんでした。「神は人を分け隔てなさらない」ということは、分かっていたつもりでした。でも、異邦人にまで、聖霊が注がれるとは、思いも及ばなかったのです。これは、彼らにとって、考えられない事でした。まさに奇跡でした。

でも皆さん、考えてみれば、私たちが、主イエスを、信じることも、奇跡ではないでしょうか。なぜなら、私たちは、主イエスを見たことも、会ったこともないからです。

では、皆さんは、主イエスを、架空の人物だと、思っておられますか。おとぎ話の中の、空想の存在だと、思っておられますか。そうではないですよね。皆さんは、主イエスが、今も生きて、共にいてくださる、救い主である、と信じていますよね。

どうして、信じることができているのでしょうか。皆さんが、あらゆる文献を、くまなく調べて、研究に研究を重ねた結果、そういう結論に辿り着いたのでしょうか。そうではないですよね。

主イエスのことなど、そんなに詳しく、調べてはいないと思います。でも、皆さんは、主イエスのことを、自分の救い主だと、信じています。神様が、あなたのことを、限りない愛を持って、愛して下さっていると、分かっています

誰が、そのことを教えて下さり、そのことを信じさせて下さったのでしょうか。

皆さんの心の内に働かれて、主イエスを信じる思いへと、導いて下さったお方が、おられたからです。そのお方が、主イエスのことを、分からせて下さり、信じさせてくださったのです。

そのお方こそが、聖霊です。聖霊なる神様が、働いてくださって、私たちに、主イエスを示してくださり、教えて下さり、信仰へと導いてくださったのです。

ペトロが、「よく分かった」、と言ったように、皆さんも、「よく分かった」、と言えるように、導いて下さったのです。私たちにも、確かに聖霊が注がれたのです。

ですから、見たことも、会ったこともない、主イエスを、救い主として、受け入れることができているのです。これは、私たちに起こった、奇跡なのです。

さて、ペトロは、コルネリウスたちに、その場で、洗礼を授けました。主イエスの福音を、初めて聞いてから、わずか数時間後です。そんなに直ぐに、洗礼を授けても良いのか、と思われる方も、おられるかもしれません。

信仰を、もっとはっきりと告白できるように、なってからでなければ、洗礼を授けてはいけないのではないか。そう思われる方が、おられるかもしれません。

しかし、洗礼とは、信仰の細かなところまで、理解していなければ、受けてはいけないものなのでしょうか。もし、完全な信仰を持っていなければ、洗礼を受けられない、ということであるなら、一体誰が、洗礼を受けることができるでしょうか。

洗礼を受ける基礎は、人間の側の、信仰の確かさではありません。神様が、その人を捕らえて下さり、御言葉と聖霊を与えてくださっている、という神様の働きにあるのです。

ですから、その人が、その神様の働きに応えて、御言葉と聖霊を受け入れていて、また、これからも、受け続けて行こうとしているならば、洗礼は授けられるべきなのです。

教会は、そのような者たちの群れです。洗礼とは、そのような群れである教会に、その人が、受け入れられた、という印でもあるのです。

コルネリウスたちは、ペトロの話を、もっと聞きたいと思ったのでしょう、なお数日間、滞在するように願いました。

こうして、ユダヤ人と異邦人が、同じ家に住み、同じ食卓につく、という奇跡が起こったのです。ユダヤ人と異邦人との間の、厚い壁は、共に主イエスを信じるという、この一点で、打ち砕かれたのです。主イエスによる、まことの平和が、ここに実現したのです。

教会には、様々な人が集まります。生い立ちも、年齢も、生活環境も、考え方も、社会的立場も異なる人々が、集まっています。

しかし、そこで、私たちが、一つとなることができるとすれば、それは、主による平和が、あるからではないでしょうか。

主イエスの十字架によって、罪赦されたお互いであるという自覚。私のために、そしてこの人のためにも、主は十字架で死なれたのだ、という信仰。だから、一人一人が、主イエスの限りない愛の対象とされている、という敬虔な思い。

それらが、ユダヤ人と異邦人との壁を、見事に打ち砕いたように、私たちの中にある、隔ての壁も、打ち砕いてくれることを、心から願っています。

「神は人を分け隔てなさらない」、ということが、本当によく分かりました。この言葉を、皆が口を揃えて、心から告白する。

そのような、茅ヶ崎恵泉教会を目指して、共に歩んでまいりましょう。