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過去の礼拝説教

「金で買えないものとは」

2018年08月12日 聖書:使徒言行録 8:4~25

先週は、ステファノという人が、教会の歴史において、最初の殉教者となった出来事について、ご一緒に御言葉から聴きました。

このステファノの殉教をきっかけにして、エルサレムの教会に対する、大迫害が起こり、信徒の多くは、迫害を逃れて、ユダヤとサマリアの地方へと、散らされて行きました。

4節には、「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」、とあります。

散らされていった人たちは、その道すがら、福音を伝えながら歩いた、というのです。

そして、それによって、行く先々で、主イエスを信じる人たちが、起こされていったのです。

それまでは、エルサレムだけにあった教会が、このことによって、多くの町々へと、広がっていきました。

教会を、抹殺してしまおうとする、激しい迫害の嵐が、湧き起こった。しかし、不思議なことに、そのことがきっかけで、却って教会が広がっていったのです。

迫害によって、教会は、かえって成長していきました。それは、人間の力によることではありません。神様が、そこに、働いてくださったから、起こったことなのです。

神様が働いてくださるところでは、私たちの思いを超えた、出来事が起きるのです。

この時もそうでした。命の危険に晒されて、エルサレムを逃げ出した人たちが、行く先々で、主イエスの救いの出来事を、告げ知らせながら、巡り歩いたのです。

この「巡り歩いた」、という言葉には、「通り抜ける」とか、「達成する」、という意味があります。信徒たちは、ただ惨めに、逃げ去ったのではないのです。行く先々で、神様のご計画を、達成しながら、旅をしたのです。

では、その神様のご計画とは、どのようなものであったのでしょうか。

それは、主イエスが、弟子たちに語られた、最後の御言葉に示されています。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」。この御言葉です。

これが、使徒たちだけでなく、すべてのキリスト者に託された、神様のご計画なのです。

この時、エルサレムから散らされて行った、信徒たちは、この主イエスのご計画を、達成するために、行く先、行く先で、御言葉を宣べ伝えながら、歩いたのです。

神様は、追われて、逃げていく信徒たちを、そのように、用いられたのです。

神様は、今も、私たちを、用いようとされています。

私たちにも、行く先々で、御言葉を宣べ伝えて、巡り歩くことが、期待されているのです。

今は、天に帰られた、私の親しい信仰の友であった、K兄弟は、出張に行く時には、いつも伝道トラクトを、胸に忍ばせて、出掛けていました。

新幹線や飛行機で、隣の人と目が合うと、すかさずトラクトをさっと取り出して、「宜しかったら、読んで頂けますか」、と言って手渡したそうです。

彼は、「もし明日、終末が来たならば、この隣の人はどうなるかと思うと、伝道せずには、いられないのです」、と言っていました。

まことの愛の行為とは、こういうことをいうのかもしれません。見習いたい姿勢です。

さて、エルサレムから、散らされていった人々の中に、フィリポという人がいました。

ステファノと共に、教会の奉仕者として立てられた、七人のうちの一人です。

この人が、サマリアの町で、主イエスのことを伝えました。

聖霊が共に働いてくださったので、フィリポは、汚れた霊につかれた人や、病気の人を癒すという、すばらしい働きをすることができました。

町の人たちは、彼の話を熱心に聞き、その結果、その町に、大きな喜びが起こりました。

6節に、「群衆は、こぞってその話に聞き入った」、と書かれています。

ここにある「こぞって」という言葉は、元々は「心を一つにして」、という意味の言葉です。

サマリアの人たちは、心を一つにして、フィリポの話に聞き入ったのです。

そして、その時、そこに、リバイバルとも言うべき、大きな喜びが、湧き起ったのです。

翻って、私たちは、どうでしょうか。私たちは、心を一つにして、御言葉に聞き入っているでしょうか。そして、大きな喜びに、包まれているでしょうか。

もし、私たちが、毎週の礼拝において、心を一つにして、御言葉に聞き入っているなら、この茅ケ崎恵泉教会も、大きな喜びに包まれ、リバイバルが起こされると信じています。

そのことを期待しつつ、ご一緒に、聖霊なる神様の、導きを求めていきたいと思います。

このサマリア伝道を行なった、フィリポは、使徒ではありません。信徒伝道者です。

しかし、使徒たちに劣らない、働きをしています。

今日でも、成長している教会は、殆どが、信徒の働きが、活発なところです。

なぜなら、牧師の働きには、限界があるからです。牧師が、社会や家庭の中に、日常的に入っていくことは、出来ません。職場での伝道、学校での伝道、家庭での伝道、それらは、そこに遣わされた、信徒一人一人に、託されているのです。

そのために、信徒は、それぞれの場に、散らされているのです。

御言葉を宣べ伝えるために、私は、今、ここに置かれている。

その様に、一人一人が自覚できたなら、日本の伝道は、どれ程、力強く進むことでしょうか。

私も、信徒時代に、職場の人たちに、何とか福音を伝えたいと願って、色々と試みました。

しかし、その殆どが、失敗でした。

唯一、小さな実りがあったのは、職場の人たちを、近隣の教会の、正午礼拝に誘ったことでした。正午礼拝とは、昼休みに行われている、ビジネスマンのための、短い礼拝です。

丸の内に勤めていた時は、銀座教会、四谷に勤めていた時は、番町教会、水道橋に勤めていた時は、三崎町教会の正午礼拝に、職場の仲間を誘いました。

数人で正午礼拝に通い出すと、たいていその教会の牧師は、驚きます。ビジネスマンのための礼拝なのですが、滅多に、ビジネスマンは来ないからです。

三崎町教会のY牧師は、ユーモアに富んだ方で、私たちが通い出すと、「一体、彼らは、どんな人たちなのだろか」、と教会の人たちと、噂し合ったそうです。

そして、Y牧師は、なんと、「こんなつまらない正午礼拝に、毎回通って来るのは、何か怪しい。ひょっとしたら、北朝鮮の工作員ではないか」、と言ったそうです。

勿論、冗談ですが、それ程、職場での伝道は難しい、ということです。

でも、皆さん、諦めてはいけません。主イエスの宣教命令は、今も、私たちに、語り掛けられているのです。私たちは、期待されているのです。

私たちにできることは、本当に、小さなことです。しかも失敗ばかりです。

でも、神様は、その小さな業を、喜んでくださり、尚も、用いてくださるのです。

あの、五つのパンと、二匹の魚の話を、想い起してください。五千人に対して、パン五つと、魚二匹。たったそれだけです。余りにも僅かです。

でも、それを、どうか用いてください、と差し出すのです。その時、主は、「ありがとう」と言って、それを受け取ってくださり、用いてくださるのです。

私たちは、自分の力のなさを見て、諦めてはいけないのです。こんな小さな者でも、愛してくださり、用いようとしてくださる、主に期待しなければ、いけないのです。

ある若い芸人がいました。ある日、彼は、演出家に呼ばれて、こう言われました。

「君は、歌も歌えないし、踊りも出来ない。芝居も下手だし、話も面白くない。

第一、君はまじめ過ぎる。だから、芸人には向かない。早くやめた方がいい」。

その芸人は、その言葉に頷いて、団長のところに行き、「いろいろとお世話になりましたが、芸人になることを諦めますので、退団させていただきます」、と言いました。

団長は、「それでお前は、気が済むのか」、と尋ねました。

その芸人は、「気持ちの切り替えをするために、出来れば後3ヶ月、置いてください。3ヵ月後に、団長から、私を首にしてください」、と答えました。

団長は、「ではそうしよう」、と言ってくれました。そして、3ヶ月が経ちました。

でも首になりません。その芸人は、演出家のところに行って、理由を尋ねました。

すると、演出家は意外なことを、言いました。「団長は、お前の、『はい!』という返事が、大好きだから、あいつを置いてやって欲しい、と言っている。

芸人にとって、一番大切なことは、歌が上手いとか、話が面白いとか、踊りや演技ができる、ということではない。そういう素質があるか、ないかではない。

一番大切なことは、トップに愛されることなんだよ」。

この言葉に励まされて、その芸人は、一生懸命に努力して、やがて、日本中の人気者になりました。その人の名は、萩本欽一。欽ちゃんの、若き日のエピソードです。

大切なのは、素質の「ある、なし」ではない。トップに愛されることなのだ。

これは、教会においても真実です。では、教会のトップとは、誰でしょうか。

皆さん、もうお分かりですよね。教会のトップとは、主イエスです。主イエスは、教会の頭です。主イエスに用いられるのに、大切なのは、素質があるか、ないかではないのです。

「はい!」と、元気良く応えることによって、主イエスに愛されることなのです。

そして、私たちは、皆、例外なく、主イエスに愛されています。命懸けで愛されています。

ですから、大丈夫なのです。私たちは、用いて頂けるのです。

私たちには、素質なんかありません。でも、主イエスは、そんな私たちに、「私の目には、あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」、と言ってくださっています。

その主イエスの愛に生かされて、本当に小さなお互いですが、福音の前進のために、用いられていきたいと願います。

さて、サマリアの町に、「以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」、と書かれています。

そしてサマリアの人々は、その魔術に心を奪われていた、というのです。

ところが、そこにフィリポがやってきて、救いの言葉を語り、数々の奇跡を行いました。

その結果、多くの人々が、フィリポが語る福音を信じて、洗礼を受けたのです。

そしてなんと、魔術師シモンも、洗礼を受けました。しかしシモンは、洗礼を、受けるには受けましたが、フィリポが語る福音よりも、彼が行う奇跡の方に、心が奪われていました。

シモンは、フィリポの力の秘密を、知りたかっただけなのです。

もしかしたらシモンは、フィリポのことを、魔術師の兄貴分と、捉えていたのかもしれません。勿論、フィリポは魔術師ではありません。では、どこが違うのでしょうか。

フィリポは、聖霊の働きによって、奇跡を行っていたのです。それに対して、シモンは、自分の持っている、魔術の力で、不思議なことをしていたのです。

フィリポは、奇跡を通して、神様に栄光を帰していました。しかし、シモンは、不思議な業をすることによって、自分を偉大な者に、しようとしていたのです。

私たちは、学問において、芸術において、或いはスポーツにおいて、神様から、特別な賜物を頂くことがあります。そのことで、人々から、称賛されることがあります。

その時、気を付けなくてはいけないことは、自分を大きくするのではなく、飽く迄も、その賜物をくださった、神様を大きくし、自分を限りなく小さくしていくことです。

奇跡を行った使徒たちや、フィリポも、神様の賜物を、その様に捉えました。

しかし、シモンは、自分を大きくしたかったのです。自分が、偉大な者として、崇められたかったのです。そこに、根本的な違いがありました。

さて、エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人たちが、主イエスの福音を信じたことを聞いて、喜ぶと同時に、大変驚きました。

なぜなら、サマリア人は、信仰的に堕落した民であると、思っていたからです。

ユダヤの人たちにとって、サマリア人は、異邦人以上に、軽蔑していた人たちでした。

そのサマリアの町に、主イエスを信じる者たちの群れ、教会が生まれたのです。

主イエスの福音は、ユダヤ人とサマリア人との間の、高い、大きな壁さえも、乗り越えさせるものなのだ。彼らは、そのことに驚き、神様をほめ讃えたのです。

使徒たちは、早速ペトロとヨハネを、彼らの代表として、サマリアに遣わしました。

ペトロとヨハネは、サマリアの教会を訪れ、ユダヤ人もサマリア人も、同じように、主イエスの救いに与っていることを、確認しました。

そして、ペトロとヨハネが、手を置いて祈ると、サマリアの人たちは、聖霊を受けたのです。

これは、ユダヤ人たちの教会と、サマリア人たちの教会との間に、聖霊による一致が与えられた、ということを意味しています。使徒言行録は、その聖霊の働きを、記した書です。

教会は、聖霊の働きによって、様々な違いや対立を、一つ一つ乗り越えてきました。

その聖霊は、今も、私たちの間に、働いてくださっています。

ペトロとヨハネが、手を置いて祈ると、聖霊が降った。

その聖霊が、今、私たちの上にも、豊かに降って、私たちに信仰を与え、救いに与らせてくださっています。

そして、様々な違いや対立を超えて、一つのキリストの体として、結び合わせてくださっているのです。ですから、今、私たちは、使徒言行録の続きを、生きているのです。

さて、魔術師シモンは、エルサレムから、ペトロとヨハネが来て、手を置いて祈ると、人々に聖霊が降るのを見て、フィリポの力の秘密を、知りました。

フィリポの力の秘密。それはどうも、聖霊というものらしい。

そして、このペトロとヨハネが、手を置いて祈ると、聖霊が降る。ということは、この二人は、フィリポよりも、更に力のある人たちなのだ。彼はそう思ったのです。

そこでシモンは、ペトロたちのところに、金を持って来て、「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」、と頼んだのです。

これは、とんでもない思い違いです。神様の賜物を金で買える、などと思うのは、許されない間違いです。

聖霊によって与えられる、救いの恵みは、神様からの、一方的な贈り物、ギフトなのです。

私たちが、お金を払ったり、難行苦行の修行をしたり、或いは、どのような対価を払っても、得られるものでは、ありません。値踏みできるような、次元のものではないのです。

私たちも、真心を込めて贈ったプレゼントに、値段を付けられたり、「お金を払う」、などと言われたら、どう思うでしょうか。きっと、悲しい思いを通り越して、怒り出すと思います。

シモンも、ペトロに、激しく叱られました。シモンの行動は、愚かです。叱られて当然です。

しかし、私たちも、シモンと同じように、神様の恵みを、自分の努力や、修行や、或いは、熱心に奉仕することによって、獲得しようとする過ちに、陥る危険性を持っています。

これだけ努力したから、こんなに熱心に奉仕したから、神様の賜物を、得られるだろう。

もし、そう思うなら、私たちも、シモンと大差ありません。

神様の賜物、救いの恵みは、人間の努力や、修行や、奉仕によって、ましてお金によって、得られるものではありません。そんなに安っぽいものではないのです。

神の独り子、主イエスが、十字架において、その尊い命をささげて、成し遂げてくださった、救いの恵み。それは、とてつもなく高価なものなのです。

しかし、それは、無対価で、つまり、ただで、神様から、一方的に与えられるものなのです。

ですから私たちは、ただ「神様ありがとうございます」と言って、受け取るしかないのです。

そのことを、今朝、改めて、心に刻み込みたいと思います。

私たちは、金で買うことのできない、聖霊の賜物を頂き、金で買うことができない、神の子としての身分を与えられ、金で買うことのできない、永遠の命という宝を授かっています。

そして、金で買うことのできない、福音宣教という、光栄ある務めを、託されているのです。そのことを、心から感謝しつつ、共に歩んでいきたいと思います。

北欧のある詩人がこんな詩を書いています。

『食べ物はお金で買えるが / 食欲は 買えない

薬はお金で買えるが / 健康は 買えない

ベッドはお金で買えるが / 睡眠は 買えない

化粧品はお金で買えるが / 美しさは 買えない

別荘はお金で買えるが / くつろぎは 買えない

快楽はお金で買えるが / 喜びは 買えない

友達はお金で得られるが / 友情は 買えない

使用人はお金で得られるが / 誠実は 買えない

静かな日々はお金で得られるが / 安らぎは お金で買えない』

私は、この詩を読んで、更に少し、付け加えたくなりました。

『聖書はお金で買えるが / 永遠の命の恵みは 買えない

讃美歌はお金で買えるが / 賛美する喜びは 買えない

会堂はお金で買えるが / 霊とまことの礼拝は 買えない

冷蔵庫はお金で満たせるが / 聖霊の満たしは お金では得られない』