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過去の礼拝説教

「神は我らと共におられる」

2019年12月08日 聖書:マタイによる福音書 1:18~25 

アドベントクランツの2本目のローソクに火が灯されました。

私たちは、今、喜びと期待をもって、クリスマスを待ち望んでいます。

クリスマスは、主イエスのご降誕を感謝し、祝う時であることは、広く知られています。

幼稚園のお友だちも、「クリスマスはイエス様のお誕生日なんだよ」と嬉しそうに言います。

でも、クリスマスのまことの意味について問われると、誰もが答えられる訳ではありません。

クリスマスのまことの意味。それは、主イエスは、何のために生まれて来たのか。主イエスの誕生の目的は、何であったのか。それを知ることによって、与えられます。

クリスマスを、本当の意味で理解し、祝うためには、主イエスの誕生の目的を知り、それが、私たちと、どういう関わりを持っているのか。それを知ることが必要なのです。

そして、そのことが分ると、私たち自身についても、大切なことが、分かってきます。

私たちの人生の目的は何であるか。そのことを、理解することが出来るようになります。

人間は誰でも、目的があって、生まれてきている筈です。誰の人生にも、生きていることの意味がある筈です。

しかし、自分が生まれてきた目的は何か。そのことを、自分自身に問い掛けても、そう簡単に、答は得られないと思います。

私はこのために生まれてきた、と自信をもって言い切れる人は、それ程多くはいません。

仮に、今の状況で、それを言うことが出来たとしても、状況が変わった時に、尚も同じことを、言い切ることができるかどうか。それは確かではありません。

人生の目的とは、状況に応じて、コロコロと変わってしまうようなものではない筈です。

聖書は、自分の人生の目的を知るためには、主イエスの誕生の目的を知る必要がある、と言っています。それは、どういうことでしょうか。

では、まず、主イエスの誕生の目的を、御言葉から聴いていきたいと思います。そして、そこから、私たちの人生の目的も、教えられていきたいと思います。

そうは言っても、今朝の御言葉には、主イエスの誕生の目的が、直接的な言い方で、語られてはいません。まして私たちの人生の目的など、どこにも書かれていません。

今朝の御言葉に書かれていること。それは、ヨセフの苦悩です。ここには、ヨセフの深い苦悩が、生々しく記されています。

愛する許婚のマリアが、自分の子ではない子を、身籠ってしまった。何と言うことか。一体誰の子なのか。ヨセフの気持を察しながら読んでいくと、切なくなってしまいます。

しかし、ヨセフは、深い苦悩の末に決断し、そして驚くべき従順示しています。

クリスマスの出来事は、このヨセフの苦悩と決断と従順がなくては、実現しなかったのです。

今朝の御言葉の中で、一番長いのは、ヨセフが見た夢の記述です。

苦悩していたヨセフは夢を見たのです。恐らく、眠られない夜を、幾夜か過ごした後に、夢を見たのだと思います。苦悩することがなかったら、夢を見ることはなかったでしょう。

そして、もしヨセフが夢を見なかったなら、神様の御心は告げられませんでした。

ヨセフが、苦悩したこと、そして苦悩の中で夢を見たこと。これらは、クリスマスの出来事において、決定的なことであったのです。

ヨセフが苦悩したのは無理もありません。許婚のマリアから、突然、妊娠していることを聞かされたのです。ヨセフには、全く身に覚えがありません。

当時の婚約というのは、法的には結婚と同じ意味を持っていました。

ですから、その期間中に、他の人の子を宿したなら、それは結婚後の姦淫と同じ罪である、とされていました。それが分かったら、石打の刑で、処刑されることになるのです。

「ヨセフは正しい人であった」と書かれています。律法に忠実で、良心的に生きていこうとしていた人であったのです。マリアのことも、心から愛していたと思います。

ですから、ヨセフがどんなに深く傷ついたかは、容易に想像できます。

傷ついただけではありません。嫉妬と、怒りで、ヨセフの心の中は荒れ狂ったと思います。

しかし、それでもヨセフは、怒りと嫉妬に狂って、マリアを告発しようとはしませんでした。

19節に、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」、と書かれています。

「表ざたにする」というのは、マリアが、公の場で裁かれることを意味しています。

当時の掟に従えば、マリアは裁判にかけられて、殆ど確実に死刑にされるのです。

しかし、ヨセフは、それを望みませんでした。それをしてはいけない。マリアを死なせてはならない。ではどうしたらよいか。今は、事実を公にせず、ひそかに離縁しよう。

しかし、離縁した後はどうなるのか。やがて離縁したことが、世間に知られる。

マリアが身ごもっていることもいずれ分かる。世間の人は、当然それは、ヨセフの子だと思うだろう。

自分の子を宿らせておきながら、離縁するとは何事か。何と酷い男かと非難されるだろう。

ヨセフは、そういう非難を、甘んじて受けてでも、マリアの命を救おうとしたのです。

たとえ自分が、どのように非難されても、マリアの命だけは守ってあげよう。苦悩の末に、ヨセフはそう決心したのです。

クリスマスの出来事は、このように、まことに人間的な、深い悩みの中で起こったのです。

ところが、ヨセフは、その決心を、なかなか実行に移しませんでした。20節には、「このように考えていると」、とあります。決心した後も、ヨセフは、尚も、思い巡らしています。

決心したのに、それを実行できずに、尚も悩んでいるのです。どうしてでしょうか。

ヨセフは、きっとこう考えたのだと思います。自分の決心は、確かに正しい。けれども、そういう正しさだけで、事を済ませて良いのだろうか。

この後マリアは、一体どうなるのか。離縁された後、彼女はもはや、社会的には葬られた者として、一生を送らなければならないだろう。

生まれてくる子は、私生児として、生涯その負い目を負わなければならないだろう。

自分の決心は正しいとしても、これで問題が解決したとは思えない。

ヨセフは、尚も、思い悩まざるを得なかったのです。ヨセフは、誰にも相談できずに、一人で苦しみ悩みました。

皆さん、人が神様に出会うとは、まさにそういう時なのではないでしょうか。誰にも打ち明けることが出来ないような深い苦悩の中で、人は真実に神様と出会うのではないでしょうか。

私たちも、ヨセフのような立場に、身を置くことはないでしょうか。受け入れがたい理不尽なことを、どうしても引き受けなければならない。そういうことはないでしょうか。

しかし、そういう時は、もしかしたら、私たちが、神様と出会う時、なのかもしれません。

ヨセフは、まさにそこで、夢を見たのです。夢の中で、神様と出会ったのです。

そして、神様のお言葉を聞きました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

神様は、ヨセフに、マリアと離縁するのではなく、自分の妻として迎えなさい、と言われました。それは、マリアの産む子を、自分の子として引き受けなさい、ということです。

どうか、マリアの産む子を、お前の子として迎え入れて欲しい。神様がそう頼んでおられるのです。これは、ヨセフが下した決断とは、正反対の言葉です。

ヨセフは、マリアと離縁することが、問題解決の最善の方法であると考えました。

しかし神様は、マリアを受け入れることこそが、問題を解決するのだ、と言われたのです。

更に、マリアが男の子を産む、そして、その子はイエスと名付けられて、民を罪から救う者となる、と告げられたのです。

怒りや嫉妬を、すべて捨て去って、神様のお言葉を信じて、マリアを妻として受け入れるなら、すべてが解決する。

それどころか、その決断が、人々を罪から救い出すことに繋がるのだ。ヨセフは、神様からこのように告げられたのです。

ヨセフは、このお言葉に従います。しかし、何の抵抗もなく、素直に従った訳ではありません。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」、と神様は仰いました。

ということは、ヨセフに恐れがあったのです。マリアを受け入れることは、そんなに簡単なことではなったのです。

聖霊によって身ごもった、という神様のお言葉を信じて、マリアを受け入れるには、尚も、心の中で激しい戦いを必要としたのです。

私たちは、聖日礼拝において、使徒信条を告白しています。その時、「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより産まれ」と、はっきりと告白しています。

しかし、もし、私たちが、この時のヨセフであったらどうでしょうか。そんなにすらすらと、「信じます」と言えるでしょうか。ヨセフに、尚も葛藤があったのは、当然だと思います。

クリスマスは、人を神の子とするために、神が人の子となってくださった出来事です。

それは、本来、あり得ないことです。そのあり得ないことが起こったのです。

ですから、これは、全く聖霊の御業なのです。人間には、決して為し得ないことなのです。

どうして、人間が手を貸して、人間の力によって、神の子を産むことが出来るでしょうか。

聖霊によって、処女マリアから生まれなくて、どうして神の子が生まれるでしょうか。

神が、人の子として生まれるということは、何から何まで、神様のご意志と働きによる他はなかったのです。神様の方で、すべてを為してくださらなければ、できなかったのです。

ですから、「主は聖霊によりて」宿られたのです。

このことは、教理としては、理解できます。ですから、私たちは、そのことを告白します。

しかし、これを本当に受け入れて、心から信じることは、決して容易いことではありません。

ヨセフは、これを受け入れ、信じるために、激しい心の戦いをしたのです。苦しんで、苦しんで、悩みに、悩んだ末に、「聖霊によって身ごもった」ということを、受け入れたのです。

私たちも、聖日礼拝で、「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより産まれ」、と告白する時、このヨセフの苦悩に、自分の思いを重ねながら、唱えたいと思います。

このヨセフの、苦悩の末の決断があったからこそ、クリスマスの出来事が実現し、主イエスの十字架の救いがもたらされたのです。今朝、私たちは、そのことを覚えたいと思います。

では何故、ヨセフは、理不尽とも思われるような、神様のお言葉を、受け入れることが出来たのでしょうか。

22節、23節をご覧ください。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」。

ヨセフは、マリアの産む子が、インマヌエルなるお方である、と示されたのです。

「インマヌエル」とは、「神我らと共にいます」という意味です。

マリアの産む男の子が、「共におられる神」である、と告げられたのです。

自分の子ではない子を宿したマリアを、受け入れなければならないという過酷な状況。

避けられるものなら、避けたいと思うような辛い状況。まさにそこで、共におられるご自身のお姿を、神様はヨセフに示されたのです。

彼は、一度は、マリアと離縁する決心をしました。しかし、それを実行できずに、尚も、苦しみ悩んでいる中で、夢を見たのです。

そして、その夢の中で、神が共におられる、という救いの事実を知らされたのです。

ですから、神が共におられるということは、苦しみ悩む者への、恵みの言葉なのです。

苦しみ悩み、迷っている所で出会い、支えてくださるお方。それが共におられる神様です。

そして、この「共に」には、限りがないのです。

ここまでは共にいるが、これ以上は、もう共にいる訳には行かない。それが、私たち人間の「共に」です。私たちの「共に」には、限度があるのです。

でも、神様の「共に」には、そのような限度がないのです。限度のない「共に」なのです。

クリスマスが伝えるのは、どんな時でも、どんな状況でも、共におられる神様なのです。

そのような「共におられる神様」として、主イエスは生れてくださったのです。

そして、このクリスマスの出来事を実現するために、ヨセフは苦悩し、決断し、そして服従したのです。このことを通して、ヨセフの信仰は、整えられていったのです。

おとめマリアの身に起こったことは、まさに奇跡でした。しかし、私は、このヨセフに起こったことも、もう一つの奇跡だと思います。

神様は、何の権力もない、一介の大工のヨセフに、ご自身の独り子を、委ねられました。

「どうか、私の子を守ってくれ」、とお委ねになったのです。

神様は、主イエスの母となるマリアを、選ぶのと同じくらいの、準備と思いをもって、主イエスの育ての親となるヨセフを、選ばれたに違いありません。

そして、私たちもまた、このヨセフに倣うことが、求められているのではないでしょうか。

ヨセフのように、自分の考える正しさを覆して、神様の正しさを受け入れる。

そのような勇気ある決断と従順が、求められているのではないでしょうか。

さて、この説教の冒頭で投げ掛けた問いの答が、未だ与えられていません。

主イエスの誕生の目的は何か。そして、私たちが生まれてきた目的は何か。

クリスマスの出来事は、その問いへの答を与えてくれる、と申しました。しかし、その答えが、まだ与えられていません。

今朝の御言葉に、主イエスに与えられた、二つの名が記されています。一つは「イエス」という名。もう一つは、「インマヌエル」という呼び名です。

これらの二つの名は、お互いに結び付いて、主イエスの誕生の目的を告げています。

「イエス」という名は、「彼は救う」という意味の名前です。では、一体、誰を救うのでしょうか。

「彼はおのれの民を救うものとなる」、と書かれています。では、主イエスにとって、「おのれの民」とは、誰でしょうか。それは、ご自身によって造られた、私たちすべてです。

主イエスは、罪の中にいる私たちを、罪から救い出すために、生まれてくださったのです。

しかし、どのようにして、罪から救い出すのでしょうか。

私たちの身代わりとなって、十字架の刑罰を受けて、死んでくださることによってです。

ですから、「イエス」という名が示している、主イエスの誕生の目的は、私たちの罪を赦すことです。そして、そのために、十字架に死ぬことであったのです。

実に、主イエスは、十字架で死ぬことを、目的として誕生されたのです。

人は、様々な目的をもって生まれてきます。しかし、初めから死ぬことを目的として、生まれてきたお方は、主イエスだけです。

もう一つの名は、「インマヌエル、神我らと共にいます」です。主イエスは、このことをも目的として、誕生されました。

「神我らと共にます」という言葉は、この福音書の最後の28章20節にも出て来ます。

復活された主イエスは、天に帰られる前に、最後にこう語られました。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」。主イエスの最後のお言葉も、「インマヌエル」でした。

マタイによる福音書は、インマヌエルで始まり、インマヌエルで結ばれているのです。

これは、主イエスの誕生の目的は、十字架にかかることだけではなく、復活して「いつも私たちと共におられるため」であった、ということを示しています。

主イエスは、「いつも」、今、この時も、そして、世の終わりまでも、私たちと共にいてくださいます。まさに、そのために、誕生してくださったのです。

十字架を目指して誕生された主イエスは、今も、そして、世の終わりまでも、私たちと共におられることを、目的として誕生されたのです。

そして、このことは、私たちの人生の目的をも、はっきりと示しています。

神様の愛の対象として造られ、主イエスによって罪赦された、私たちの誕生の目的。

それは、「私たちも、神と共にいるため」ではないでしょうか。

私たちの人生の目的。それは、神様と共に生きていくことです。

「インマヌエル」。神は我らと共におられる。そして、私たちも、神と共にいる。私たちは、そのために生まれ、そのために生かされているのです。

そのことを感謝して受け入れたいと思います。そして、励まし合い、支え合い、喜び合いながら、神様と共に生きる人生を、共に歩んでいきたいと思います。