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過去の礼拝説教

「秘かに前進する神の計画」

2019年07月14日 聖書:使徒言行録 23:12~35

今朝は、初めに、教会に古くから伝えられている、例話を一つ紹介させていただきます。

昔ある人が、敵に追われて、山や谷を逃げ歩き、疲れ果てて、ある洞窟に身を潜めました。

その洞窟は、分かり易い所にあったので、すぐに追手に発見される、危険がありました。

しかし、もはや逃げる力がなかったので、やむを得ずその洞窟に、身を隠しました。

彼は、追手が入って来て、発見されるのは時間の問題だ、と覚悟していました。

ところが、追手は、その洞窟の入口を見ただけで、中には入って来ませんでした。

不思議に思って、洞窟の入口を見ると、一匹の蜘昧が、入口に見事な巣を張っていました。その蜘昧の巣は、彼が洞窟に逃げ込んだ後に、できたものだったのです。

彼は、神様が、一匹の蜘昧を用いて、自分を救ってくれたことを感謝して、こう言いました。

「神様がおられるところでは、蜘昧の巣は城壁のようであり、神様がおられないところでは、城壁は蜘昧の巣のようなものだ」。

神様が共にいますところでは、蜘昧の巣も堅固な守りとなり、小さな一匹の蜘昧と、破れやすい蜘昧の巣を用いて、神様は救いの手を、差し伸べてくださるという話です。

どんなに小さなことにも、そこに神様の御手が働いておられる、という信仰を持つということは、大切なことです。

今朝の御言葉には、ユダヤ人の迫害によって、生命の危険に晒されたパウロが、神様の御手によって、どのようにして救われたかが、ドキュメンタリー風に記されています。

パウロにも、例話にあった、蜘蛛の巣のような救いが、いくつも用意されていたのです。

パウロは、エルサレム神殿でも、また最高法院においても、力強くキリストを証ししました。

そのパウロに対して、ユダヤ人の敵意は、ますます激しく、燃え上がりました。

その中でも、特に過激な40人程のユダヤ人は、パウロの暗殺を計画しました。

彼らは、パウロを殺すまでは、何も飲み食いをしない、と固く誓い合ったのです。

何故、パウロは、ここまで敵視され、憎まれたのでしょうか。

パウロは、キリスト教に回心する前は、熱心なユダヤ教徒でした。

その当時は、サウロと呼ばれていて、ファリサイ派の若きエリートでした。

そして、キリスト教の教えを憎み、教会を迫害し、荒らし回っていたのです。

しかし、その彼が、180度方向転換をして、「イエスこそキリストである。神様が約束して下さった救い主である」、と宣べ伝えるようになりました。

その上、ユダヤ人だけでなく、異邦人でも、イエス・キリストを信じることによって、救いに与ることができる、と教え出したのです。

これは、「自分たちだけが、神の救いに与ることができる」という、強い誇りに生きていた、ユダヤ人たちにとっては、許し難いことでした。

かつては、ユダヤ教の若きリーダーであり、将来の指導者になる筈だった男が、突然裏切って、とんでもない教えを、宣べ伝えている。

そのパウロに対する、憎しみ、敵意は、とうとう激しい殺意にまで、高まっていたのです。

パウロは、ローマの守備隊に、捕えられたことによって、彼を殺そうとして、押し迫って来た群衆から、間一髪のタイミングで、助け出されました。

ユダヤ人たちは、ローマの軍隊によって、パウロを殺すことを、妨害されてしまいました。

そこで、彼らの中の過激な者たち40名余りが、今度こそパウロを殺す。それまでは何も飲み食いしない、と固く誓い合ったのです。彼らは、こういう暗殺計画を立てました。

パウロについて、もっと詳しく調べたいので、翌日の最高法院の会議に、パウロを再び連れて来るようにと、祭司長や長老たちから、千人隊長に願い出てもらう。

そしてパウロが、兵営から最高法院に移される途中で、襲って暗殺しようという計画です。

連行されてくるパウロを、襲って殺すということは、パウロを護衛している、ローマの兵士とも、戦うことになります。彼らは、兵士と戦うことによって、命を失うことも覚悟していました。

或いは、捕らえられて、死刑にされることも、覚悟していたのです。

ですから、この計画は、自爆テロのような、無謀なものでした。

ところが、この暗殺計画が、どのようにしてかは分かりませんが、パウロの姉妹の子、つまりパウロの甥の耳に入りました。この甥が、どういう人物だったのかは、全く分かりません。

しかし、この甥が、兵営に捕えられているパウロに、この陰謀を伝えました。

それを聞いたパウロは、百人隊長に頼んで、この甥を、千人隊長のところに連れていってもらい、報告させました。

このようにして、パウロ暗殺の陰謀が、千人隊長の耳に入ったのです。

千人隊長は、事態の重大さを察知して、果断な措置を取ります。

ユダヤ人過激派の、先手を打って、その夜のうちに、パウロを、カイサリアのローマ総督の許に、護送することを決めたのです。

カイサリアは、エルサレムから100キロほど北西にあって、ユダヤ人過激派の手が、届きにくい場所でした。

千人隊長は、総勢470名の大部隊で、パウロを護送させます。囚人一人の護送にしては、少し大袈裟のように思えます。

しかし、相手は40人余りの、自爆テロリストの集団です。慎重にも慎重を期したのです。

パウロは、この大部隊に守られて、夜のうちに、秘かにエルサレムを出発し、カイサリアに駐在している、ローマの総督フェリクスの許に、届けられました。

こうしてパウロは、ユダヤ人による、暗殺計画から、救われたのです。

今朝の箇所は、緊迫した場面の連続です。しかし、これらの出来事の背景には、パウロを、ご自身の使者として召し出された、主イエスが、いつも立っておられました。

主イエスが、いくつもの蜘蛛の巣を張って、パウロを守ってくださったのです。

パウロを、暗殺の危険から救ったのは、急を知らせた、パウロの甥ではありません。

或いは、ユダヤ人の裏をかいて、夜の内にカイサリアに護送させた、千人隊長でもありません。神様の御手の業が、それをなされたのです。

パウロの甥も、千人隊長も、護送した兵士たちも、気付かないままに用いられて、自分に託された役目を、果たしているのです。

今回の出来事で、注目すべきことが、一つあります。

それは、今まで使徒たちを、絶体絶命の危機から救い出して来た、奇跡的な出来事が、ここでは起きていないということです。

例えば、12章では、ペトロが捕まっていた時に、天使が鎖を外して、脱出を助けました。

また16章では、パウロがフィリピで、牢獄に入れられていた時に、大地震が起こって、牢の戸が全部開いて、鎖が外れた、ということがありました。

しかし今回は、そのような奇跡は起きていません。しかし、そうであっても、今回の出来事にも、神様の素晴らしい介入がありました。

今回、神様は、ご自身の計画を達成されるために、パウロの周りの人々を、自由自在に用いておられます。

パウロの周囲にいる人々、つまりパウロの甥や、千人隊長や、兵士たちや、総督フェリクスを用いられて、パウロを、ユダヤ人の暗殺計画から、救い出されたのです。

もし暗殺計画が、パウロの甥に知らされなかったら、計画は実行されていました。

もし甥が、パウロに面会できなければ、この貴重な情報も、生かされませんでした。

もし千人隊長が、その情報を、真剣に受け止めなければ、彼は、パウロをもう一度、最高法院に連れて行って、そこで、ユダヤ人たちの襲撃を、受けたことでしょう。

ところが不思議なことに、パウロの甥は情報を得て、パウロに伝えることができました。

そして、暗殺計画を知らされた千人隊長は、それを防ぐために、適切な判断をすることができたのです。

これらは全くの、偶然のように見えるかもしれません。しかし、そうではないのです。

神様の見えない御手が働いて、人々を用いて、パウロを危険の中から、救い出してくださったのです。

それは、パウロには、ローマでキリストを証しする、という大きな使命があったからです。

その使命について、先週の御言葉の11節で、主イエスが、パウロに語っておられました。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。

この「しなければならない」という言葉は、「そうすることになっている。神様がそのように決めておられる」、という意味の言葉です。

神様が決めておられる。だから、これは必ず実現する。あなたは、神様の御心によって、ローマに行き、そこで証しをすることになっている。

主イエスは、そう約束してくださったのです。だから、「勇気を出せ」、と言われたのです。

この主イエスの、励ましの御言葉が、今朝の箇所全体に、力強く鳴り響いています。

12節以下の出来事は、すべて、この主イエスの、励ましの言葉を受けて、進められているのです。すべては、主イエスの約束が、実現していくための、歩みであったのです。

パウロは、ローマの兵隊の保護のもとに、カイサリアへと護送されました。

それは、主イエスが約束された、ローマへの長い旅の、第一歩となるものでした。

そのように、神様のご計画は、着々と進められました。

しかし、ここで、人々が、実際にしていること。それは、憎しみに基づく、暗殺の陰謀です。

そして、千人隊長の利己心に、基づく行為です。千人隊長の取った行動は、一見すると、パウロに、好意的なように見えます。

しかし、彼が、総督フェリクスに宛てた手紙を見ると、全くそうではないことが、分かります。

27節にこうあります。「この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです」。千人隊長は、こう書いていますが、これは事実と違います。

彼は、ローマ帝国の市民であるパウロを、ユダヤ人から、救い出したと言っています。

しかし、パウロがローマの市民であることを、彼は、後から知ったのです。

逆に、彼は、パウロを、ローマ市民に対しては、認められていない、鞭打ちの拷問にかけようとしていたのです。そういう、自分に都合の悪いことには、一切触れていません。

また、彼が、パウロを、カイサリアに送ったのも、総督のもとに送ってしまえば、面倒なことに巻き込まれて、責任を問われることが、なくなるからです。

自分の手柄でもないことを、さも自分の手柄であるかのように誇り、逆に責任を問われそうなことは、人に押しつけようとしているのです。

ここには、打算的で、利己的な、人間の姿が、示されています。

そのような人間的な思いと行動によって、パウロは、エルサレムからカイサリアに移されたのです。しかし、そのことを通して、神様のご計画は、進められていくのです。

人間の敵意や、利己的な思いさえも用いて、神様のご計画は、実現していくのです。

神様は、ご自身のご計画のために、どんな力をも、自由に用いていかれるのです。

このような、神様のご計画のことを、「摂理」と言います。神様を信じて生きるとは、この神様の摂理を信じる、ということです。

この世は、人間の自分勝手な思いに、支配されている。私たちには、そのように見えます。

しかし、そのような世の中にあっても、最後には、神様のご計画が、成し遂げられる、と信じて生きること。それが、私たちの信仰なのです。

「信仰とは、人的偶然を、神的必然と、捉え直す決断である」、と言った人がいます。

「たまたま」とか、「思いがけず」、と捉えるのは、人的偶然の世界です。

しかし、このことは、神様のご計画によるのだ。神様の御心がこれを為されたのだ、と捉えていくのが、神的必然の世界なのです。

言い換えれば、何事も運命だと思うか、神様の摂理によると捉えるか、ということです。

何事も人的偶然、と思うなら、良いことがあった時には、ただ「ラッキー」と喜ぶだけです。

しかし、何事も神的必然、摂理によると捉えているなら、「神様、感謝します」、という祈りに導かれます。

苦しい時、辛い時に、一方は「ついてねーなぁ」と、この世と、自分の運命を恨む。

もう一方は、「神様、私を憐れんでください。どうか、苦しみを乗り越える力を、与えてください」、と必死に祈る。このような違いが出ます。

ある人が、「運命は冷たいけれど、摂理は温かい」、と言っています。

自分の人生が、運命に支配されている。ただ偶然の積み重ねでしかない、と思っているなら、良いことがあっても、感謝することはありません。また、悪いことがあれば、自分の運命と、この世を恨みます。

しかし、自分の人生が、神様によって導かれていると信じるなら、良いことがあれば、素直に感謝することができます。

辛く、苦しい時には、心を注ぎ出して、助けを祈ることができます。そして、その時に、共にいてくださる神様の、慰めと励ましを、頂くことができます。ですから、温かいのです。

誤解しないで頂きたいのですが、摂理信仰に生きても、苦しみがなくなる訳ではありません。

しかし、苦しみの中でも、共にいてくださり、苦しみを共に担ってくださっている、神様の愛の眼差しの中を歩んで行けるのです。慈しみの御翼の陰に、覆われることができるのです。

その時、「御手の中で、すべては変わる賛美に」、と歌うことができるのです。

パウロはローマの信徒への手紙8章28節で、こう言っています。

「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。

これが、摂理信仰のエッセンスです。しかし、これは、何もかも益になるのだから、心配ない。

くよくよせずに、楽しくいきていこうという、ノー天気で、無責任な生き方を、勧めている御言葉ではありません。

なぜなら、摂理信仰に生きていても、尚、私たちの人生には、様々な苦難や、不幸な出来事があるからです。この世は、不条理な出来事で、満ちているのです。

予期せぬ苦しみに遭った時にも、この摂理信仰を、持ち続けることは、容易いことではありません。

神様が、愛のお方なら、なぜこのような苦しみや、悲しみに遭うのか、と嘆くことがあります。

そのような時は、すべては神様のご計画によって、為されている、と信じることに、難しさを覚えます。

摂理信仰に疑いを持ち、神様を信じられなくなる。人生の中で、そのような、場面に出会うことは、珍しくありません。そのような時、私たちは悩みます、迷います、苦しみます。

しかし、摂理信仰とは、そこでもなお、私たちには、今は、見ることができないけれども、見えない恵みが、必ず用意されている、と信じることなのです。

今は、見えないけれども、主は、必ず、今の苦しみを、恵みに変えてくださる。

たとえ今は、分からなくても、いつか必ず、それを分からせてくださる。必ず、隠された救いがある。それが、私たちには見えなくても、神様の目には見えている。

私たちには、そのように信じることが、許されているのです。

世の中には、とても恵みとは受け取れないような、辛い出来事が、たくさんあります。

慟哭するしかない、現実があります。

しかし、そこになお、目に見えない神様の恵みを、信じる道があるのです。

星野富弘さんは、20代の時に、首の骨を折るという大怪我をして、首から下が、全く動かなくなってしまいました。

寝たきりになった星野さんは、「自分の人生には、何の意味があるのだろう?何のために生きているのだろう?」と苦しみ、悩み続けました。

しかし、聖書と出会い、神様と出会い、自分の人生にも、神様のご計画があると信じて、生きるようになりました。そして、口に筆をくわえて、美しい草花の絵を描き、温かい詩をつくり、私たちの心に、感動と喜びを、届けてくれています。

星野さんは、電動椅子で移動するとき、道のでこぼこで、車いすが揺れるのが、とても嫌だったそうです。

けれども、人からもらった鈴をつけたところ、でこぼこのところで、その鈴がチリーンときれいに鳴るようになって、その時から、道のでこぼこが、楽しみになったそうです。

たった一つの鈴が、嫌なことを和ませてくれたのです。

私たちも、心の中に「信仰という鈴」を付けて、人生のでこぼこ道を進みたい、と思います。

そして、自分の歩んできた、でこぼこ道を振り返った時、「神様が、私をここへ遣わしてくださった。この人生を歩ませてくださった。本当に良かった」、と感謝できたら幸いです。

そのような、人生を目指して、神様に信頼しつつ、歩んで行きたいと思います。