MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「愛に堅く立つ教会を目指して」

2024年03月03日 聖書:エフェソの信徒への手紙 3:14~21

今年のイースターは3月31日です。
イースターは、春分の日の後に来る、最初の満月の後の、最初の日曜日と定められています。
ですから、毎年変動します。
前回、3月31日がイースターであったのは、11年前の2013年でした。
因みに、この後、3月31日がイースターとなるのは、なんと62年後の2086年です。
11年前の2013年のイースター。この日は、私にとって、忘れることのできない日です。
この日、私は、茅ヶ崎恵泉教会の主任牧師として、初めて礼拝説教をさせて頂きました。
その日から、主任牧師として9年間、その後協力牧師として2年間、皆様と共に、この教会において、礼拝を守らせて頂きました。
そして、今朝は、その最後の礼拝です。
過ぎ去った11年間を想い起しますと、成すべきことが多かったにも拘らず、成し得たことが、余りにも少なかったことを覚えて、神様の前に、ただただ申し訳ない思いに満たされます。
しかし、同時に、こんな至らない私をも、尚も見捨てずに、用い続けて下さった、神様の深い愛と忍耐に、ひたすら感謝するしかない、自分を示されます。
そして、教会員のお一人お一人も、この貧しい者を、愛を持って支えて下さり、共に歩んでくださいました。
心から、感謝いたします。
私は、本当に何もできない、ダメな牧師でした。
神様や、教会員の皆様のご期待を、裏切ってばかりいました。本当に申し訳なく思います。
そんな私にできた、ただ一つのこと。それは祈ることでした。
私は、この11年間、ひたすら祈ってきました。一体、何を祈って来たと思われますか。
茅ヶ崎恵泉教会が、愛に堅く立って、一つとなって歩んで欲しい、と祈って来たのです。
私が赴任した11年前、残念ながら、この教会は一つとなって、歩んではいませんでした。
教会内に、二つのグループがあって、お互いにせめぎ合い、対立していました。
赴任して間もなく、私は、ある人から、「先生はどっちの味方ですか」、と聞かれました。
私は驚いて、「私は皆さん全員の味方です」、と答えた記憶があります。
ですから、教会が一つになって欲しい、というのは、本当に切実な祈りの課題でした。
憐れみ深い神様は、その祈りを聴いてくださり、教会内の分派争いは次第に収まり、今は全く見られなくなりました。本当に感謝なことです。
どのような問題があろうと、牧師は教会のために祈ります。日夜祈り続けます。
ただ今、読んで頂いた箇所で、パウロも祈っています。ひざまずいて祈っています。 
ひざまずいて祈る。今の私たちにとっては、それは、別に珍しいことではありません。
ある教会員のご婦人は、お元気なころ、時々ふっと教会に来られ、「祈らせてください」と言われて、誰もいない会堂で、ひざまずいて静かに祈っておられました。
その後ろ姿に、言葉には言い表せない、とても尊いものを感じて、深く教えられました。
このご婦人のように、今は、ひざまずいて祈ることは、良くあります。
しかし、当時のユダヤにおいては、ひざまずいて祈るのは、異例だったのです。
当時、ユダヤの人たちは、立って祈りました。立ったままで、両手を広げ、手を上に向けて祈ったのです。
ところが、パウロはここで、ひざまずいて祈ります、と言っています。
恐らく、ひざまずいて祈っているうちに、次第に頭が低くなり、最後は、ひれ伏して祈ったのではないかと思います。
この時、パウロは捕らわれの身でした。恐らくローマの牢獄にいたと思われます。
皆さん、暗い牢獄の中で、一人ひれ伏して祈るパウロの姿を、想像してみて下さい。
パウロの純粋な信仰と、ひたむきな思いが、強く心に迫って来るのではないかと思います。
この時、パウロは、暗い牢獄の中で、一人ひれ伏して、一体何を祈っていたのでしょうか。
早くこの牢獄から出られるように、と祈っていたのでしょうか。普通なら、そう祈るでしょう。
しかしパウロが、この時、牢獄の中で祈っていたこと。それは、自分のことではありません。
そうではなくて、遠く離れたエフェソの教会のために、一人ひれ伏して、祈っていたのです。 
暗く、冷たく、陰湿な牢の中。でも、その時、そこは、聖なる祈りの場となっていたのです。
私は、キリスト教信仰の素晴らしさの一つは、ここにあると思います。
この時パウロは、自分がいつ死刑にされるか、分からないような状況に置かれていました。
そういう中で、遠く離れた教会のために、愛する信仰の友のために、ひたすら祈っているのです。
暗い牢の中で、たった一人で、ひれ伏して祈っているのです。
教会は、このような祈りによって支えられてきました。そして、今も、支えられています。
第二次世界大戦中に、治安維持法違反の容疑で、一斉に検挙された、ホーリネス教会の牧師、134名。
その内、7名が殉教しました。
投獄された牧師たちや、見舞いに行った、家族の手記が、残されています。
それを読みますと、獄中にあって、牧師たちは皆、熱心に祈っています。
その祈りの殆どが、教会と信徒に、向けられた祈りです。
自分は投獄され、教会は強制的に、解散させられている。
そして、愛する家族は、その日の暮らしにも、事欠くような、困難の中にいる。
そういう中にあっても、どうか教会が守られますように、信徒の信仰が守られますように。
そのことを、ひたすらに祈っているのです。
自分や家族のことではなく、教会と信徒のために、祈っているのです。
2千年に亘って、教会は、このような祈りによって、支えられてきました。
いえ、今も、支えられています。
今も、教会を支えているのは、牧師たちの、そして信徒である皆さんたちの、ひたむきな祈りです。
皆さんたちが、それぞれの場所で、ひざまずいて祈ってくださる祈り。
その一つ一つの祈りによって、教会は支えられているのです。
教会が、教会であり続けるためには、この祈りが、どうしても必要なのです。
祈られていない教会は、立ち続けることが出来ません。
皆さん方お一人お一人の、熱い祈りによって、この茅ケ崎恵泉教会は支えられてきました。
どうか、その祈りの火を、これからも、絶えることなく、燃やし続けて下さい。
パウロは、ここで、エフェソの教会のために、ひざまずいて祈っています。
でも、具体的に、何を祈っていたのでしょうか。
先ず初めに、パウロは、父なる神様が、エフェソ教会の信徒たちの、「内なる人を強めてくださるように」、と祈っています。
「内なる人」とは、何を意味しているのでしょうか。
私たちは、「内なる人」と聞きますと、直ぐに、人間の精神面のことだと思いがちです。
しかし、ここでパウロが言っている、「内なる人」というのは、肉体に対する、精神を指しているのではありません。
ここで言われている「内なる人」とは、「キリストにある生活」、のことです。
もっと簡単に言うなら、「信仰生活」のことです。
パウロは「神様、どうかあなたの豊かな栄光と、御霊と、御力を総動員して、エフェソ教会の人たちの、信仰生活を強めてください」と祈っているのです。
これが第一の祈りなのです。
教会員の信仰が、強められますように。これは、全ての牧師の共通の祈りだと思います。
牧師が第一に祈ること。それは、教会の評判が、高められることではありません。
教会の建物や設備が、整えられることでもありません。まして、教会の財政が、満たされることではありません。
教会員お一人お一人の信仰が、強められることなのです。これが第一なのです。
信仰が強められ、お一人お一人の心の内に、キリストが、しっかりと住んでくださるように。
牧師は、心からそう願い、祈りを献げています。
「信仰によって、心の内にキリストを住まわせ」、とありますが、この「住まわせ」という言葉は、一時的な滞在を、意味する言葉ではありません。
「定住する」という意味の言葉です。
あなた方の心の中に、主イエスが定住されますように、と祈っているのです。
一時的な滞在なら、それはお客様です。しかし定住されるなら、その人はそこの住人です。
英語の註解書の言葉を借りれば、パーマネント・テナントです。
主イエスが、お客様のように、出たり入ったりするのではなくて、パーマネント・テナントとして、ずっとあなた方の心の中に、住み続けてくださいますように、と祈っているのです。
皆さん、どうでしょうか。主イエスは、皆さんの心の、パーマネント・テナントになっておられるでしょうか。
それとも、都合のいい時だけお迎えする、一時的なお客様でしょうか。
どうか、主イエスが、私たちの心の、パーマネント・テナントとして、定住してくださいますように、と祈っていきたいと思います。
内なる人が、強められた結果、実現すること。
その第二は、「愛による生活が、出来るようになる」、ということです。
愛の源である主イエスが、私たちの心の内に、しっかりと住まわれるなら、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」、信仰生活が実現するのだ、と御言葉は言っています。
「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」。何と素晴らしい生き方でしょうか。
どうしたら、そのような生き方が出来るでしょうか。
どうしたら、茅ヶ崎恵泉教会が、そのような教会になるでしょうか。
御言葉は言っています。是非、キリストの愛の大きさを、知って欲しい。そうすれば、そのような生き方を、実現することができる。
だから、パウロは祈っています。
「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになりますように。」
「人の知識をはるかに超える愛」とあります。本当に、その通りだと思います。
私たち人間は、主の愛の広さ、長さ、高さ、深さを、知り尽くすことはできません。
「あぁ、初めて、主の愛が分かった。何という大きな愛、何という深い愛、なのだろう」。
そのように、感激して涙し、心震える感動に、満たされたとしても、それは主の愛のほんの一部に過ぎません。
主の愛の大きさを、知り尽すことなど、私たちには出来ないのです。
私の友人に、熱帯魚を飼っている人がいます。綺麗な熱帯魚を見るのは楽しいものです。
しかし、ある時、この人が、熱帯魚のために、どれほどの時間と、労力を使っているかを聞いて、驚きました。
規則正しく、適量の餌を与えることは、勿論です。でも、それ位なら、私にも出来そうです。
しかし、そんなものではないのです。
定期的に、水槽の中の砂や藻を、きれいに洗い、頻繁に水を取り換え、水中の酸素の量を調節し、温度を一定に保つ。
それらの作業を、実に丁寧に、こまめにやっているのです。
聞いていて、本当に大変だな、と思いましいた。
でも、水の中を泳いでいる魚は、そんなことを全く知りません。
餌は、自分で探して食べている、と思っています。
きれいな水と、きれいな砂が、いつも備えられていることを、当然のように思っています。
快適な温度も酸素も、飼い主のお陰で保たれている、などとは思っていません。
皆さん、私たちは、この水槽の中の、熱帯魚のようなものでは、ないでしょうか。
神様が、どれほど大きな愛で、私たちを覆い包んでくださり、私たちを養っていて下さるか。
どれほど大変ことをしていてくださっているか。私たちは知りません。
背き続け、裏切り続ける私たちを、私たちが、想像することもできない愛を持って、神様は赦し続けて下さっているのです。
十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と、今も、私たちのために、執り成しの祈りを、献げてくださっているのです。
この愛は、私たちの知識や思いを、遥かに超えています。
ある人が、これは「気絶するような愛」だ、と言っていますが、本当にその通りだと思います。
ここでパウロは、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを、是非知って欲しいと言っています。
でも、この広さ、長さ、高さ、深さとは、具体的には、どんなことを意味しているのでしょうか。
イギリスの優れた神学者で、名説教者であったジョン・ストットという人は、こう言っています。
「キリストの愛は、すべての人を包み込むほど「広く」、永遠に続くほど「長く」、最も堕落した罪びとに届くほど「深く」、そしてその罪びとを天国にまで引き上げるほど「高い」のです。」
とても心惹かれる解釈です。まさに、その通りだ、と思います。
主イエスの十字架の縦の木。その木は、天の御国の、高さにまで達しているのです。
主イエスの愛の高さ。それは、天に達するまでに、気高い愛なのです。
そして、十字架の下の端は、陰府の深みにまで、達しています。
主イエスの愛は、陰府のどん底にまで、降りて行ってくださる、深い愛なのです。
いくらなんでも、こんなところには、神などいないだろう。
そう思うような悲惨な場所にも、主イエスは必ず、共にいてくださり、愛の御手を差し伸べてくださっています。
ですから、主イエスの愛の、外側に置かれている人など、一人もいないのです。
主イエスが、訪ねて行かれないような場所は、どこにもないのです。
また、十字架の横木は、限りなく広がる、地平線を示しています。
その長さ、広さは、地上のすべての人々を、覆っているのです。
この主イエスの愛は、賞味期限のない愛です。私たちの愛には、賞味期限があります。
期間限定の愛です。何年も、何十年も、待ち続けることができる、愛ではありません。
しかし、主イエスの愛は、期間限定の愛ではありません。賞味期限がないのです。
ですから私たちは、どんなに長い間、背き続けていても、帰って行くことが出来るのです。
いくら主イエスでも、さすがに、もう待っていてくれないだろう、と私たちが思っても、主イエスは、私たちが離れていったその場所で、ずっと佇んで、待ち続けて下さっています。
あの放蕩息子の帰りを、ひたすら待ち続ける父親のように、いつまでも待っていて下さるのです。
ですから、私たちは、主イエスの愛の御手の中に、帰ることができるのです。
この主イエスの愛の長さが、私たちの救いであり、私たちの希望なのです。
一人の人を救うために、どこまでも探し求めてくださる広さ。いつまでも忍耐して待ち続けてくださる長さ。
天の極みをも越える、その愛の気高さ。陰府にまで降っていかれる、その愛の深さ。
それらすべてが、私たちの知識を遥かに超えています。それが、主イエスの愛なのです。
私たちは、こんな大きな罪を犯している自分が、赦される筈がない、と思うかもしれません。
しかしそれは、神様の愛がこんなに大きな筈がない、と思っていることと同じことなのです。
いくら神様の愛が大きくても、こんなに汚れた私の罪が、赦される筈はないと思う。
それが、私たちです。しかし、神様の御心は、そうではありません。
神様の御心は、すべての罪を、こんなに汚れた私の罪さえも、赦してくださることなのです。
無制限に、赦してくださることなのです。
この無限の愛を、しっかりと握り締め、お互いに祈り合い、励まし合って、歩んで行きたいと思います。
私は、今までに何度か、私たちは、ジグソーパズルの一齣です、と申し上げてきました。
「またか」、と思われる方もおられると思いますが、最後ですので、もう一度聞いてください。
皆さん、私たち一人一人は、ジグソーパズルの一齣一齣なのです。
誰一人欠けても、神様が描こうとされている、茅ヶ崎恵泉教会という絵は、完成しないのです。
私なんか、居てもいなくても良い存在だ、と思っておられる方がおられるでしょうか。
でも、あなたは、神様が描こうとしている絵の、大切な主人公の瞳の駒かもしれません。
もし、それが欠けたら、絵が台無しになってしまう。そんなかけがえのない駒なのかもしれないのです。
欠けても良い駒など、一つもないのです。
ジグソーパズルの駒は、皆、変な形をしています。どこかが出っ張ったり、凹んだりしています。
正方形やきれいな円のように、形よく整っていません。
だから、良いのです。 だから、茅ヶ崎恵泉教会という絵が、完成するのです。
私たちの出っ張った所は、他の人が凹んだ所で、受け入れてくれているのです。
そして、私たちも、他の人の出っ張った所に、自分の凹んだ所を、差し出していくのです。
他人の出っ張った部分に、自分の出っ張った部分をぶつけて行っては、神様が描こうとしている絵は完成しません。
他人の出っ張った部分を、自分の凹んだ所で、受け入れていくのです。
そんなことできない、と言われるでしょうか。でも、考えてみてください。
主イエスは、誰も受け入れてくれないような、あなたの出っ張った部分を、引き受けて下さっているのです。
主イエスは、私たちの出っ張った部分を、受け入れるために、あの十字架に、かかってくださったのです。
私だけでなく、私が受け入れるのが難しいと思っている、あの人の出っ張った部分をも、十字架の主イエスは、受け入れて下さっているのです。
そのことに思いを寄せる時、私たちは、難しいと思っている人をも、受け入れられるのではないでしょうか。
「この人も、主イエスの限りない愛の対象なのだ。この人のためにも、主イエスは十字架にかかられたのだ。」
この思いをもって、お互いに受け入れていくのです。
皆さん、私たちは皆、欠けを持っています。皆、汚れに満ちています。
でも皆が、主に招かれ、主によって救われ、神の家族として、今、ここにいます。
皆さん、この朝、私たちは、茅ヶ崎恵泉教会という神の家族に入れられている幸いを、改めて感謝したいと思います。
お互いに、この素晴らしい神の家族を、心から喜び、感謝し、愛していきたいと願います。
そして、この素晴らしい神の家族を、もっともっと増やしていきたいと願います。
皆さん、もし皆さんが、「茅ヶ崎恵泉教会って、どんな教会ですか」、と尋ねられたら、皆さんは、何とお答えになるでしょうか。
「茅ヶ崎恵泉教会は、愛に満ちた教会です。」
そのように答えることができるなら、どんなに素晴らしいでしょうか。
そのような教会を目指して、先立ってくださる主イエスを見上げながら、共に歩んで行っていただきたいと、心から願っています。