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「永遠の命とは」

2017年08月13日 聖書:ヨハネによる福音書 17:1~5

ご一緒に、ヨハネによる福音書を、少しずつ読み進んでいます。

先週は、最後の晩餐における、主イエスの訣別説教の、締め括りの御言葉を、ご一緒に聴きました。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」という、力強い勝利宣言でした。

主イエスは、深い愛の眼差しを向けながら、この御言葉を、弟子たちに語られました。

そして、その後、今度は、目を天に向けられました。そして、天を仰いで、祈られました。

この主イエスの祈りは、「大祭司の祈り」として、広く知られています。ユダヤでは、大祭司が、民のために、執り成しの祈りを、献げました。でも、私たちのためには、主イエスご自身が、執り成しの祈りを、献げてくださいました。いえ、今も、献げてくださっています。

マタイ、マルコ、ルカの福音書においては、主イエスは、地上における最後の夜、ゲツセマネにおいて、胸の裂けるような、切なる祈りをしておられます。

迫りくる十字架の死。それは、どんな時も、一体であった、父なる神様と、引き裂かれ、父なる神様に敵対する罪として、呪われ、滅ぼされて、陰府の底に、打ち捨てられることを、意味していました。それは、主イエスにとって、最も辛いことでした。

主イエスは、できることなられ、それを、避けさせて頂きたいと、父なる神様に、必死に訴えられたのです。血の滴りのような、汗を流して、祈られました。

しかし、父なる神様は、この主イエスの、必死の祈りに、一言も、答えておられません。

終始、沈黙しておられます。何故でしょうか。神様は、冷たいお方なのでしょうか。

御子イエス様の、血の汗の祈りを、聞き流しておられるのでしょうか。

とんでもありません。この時、父なる神様も、胸が張り裂けるような、悲しみを、味わっておられたのです。悲しみで、胸が塞がれて、語る言葉も、見つけることが、できなかったのです。

最愛の独り子と、引き裂かれる。でも、それ以外に、人間を救う手立てはない。

最愛の主イエスを、呪いと、滅びの中に、打ち捨てなければならない。その苦しみに、ひたすら、耐えておられたのです。語る言葉を、失っておられたのです。

そして、主イエスは、その沈黙の中に、父なる神様の御心を、聴いて行かれたのです。

その御心に、従う決意を、されたのです。

そして、一旦、決意された後は、もはや、嘆き悲しむことは、されませんでした。

静かに、しかし、敢然として、十字架に向かって、進んで行かれたのです。

もう、誰も、十字架へと向われる、主イエスの、決意を変えることは、できませんでした。

このゲツセマネの祈りの、激しさとは対照的に、「大祭司の祈り」には、十字架の死を、既に受け入れられた、主イエスの、静かな決意が、込められています。

その静かな決意をもって、後に残される弟子たちと、そして、教会のために、心を尽くして、祈っておられるのです。執り成してくださっているのです。

皆さん、この場面を、想像してみてください。この時、主イエスは、十字架の苦しみを、受けようと、されているのです。しかも、それは、ご自身のためではありません。背き続け、裏切り続けている、私たちのために、十字架にかかられようと、されているのです。

もし、これが私たちなら、何と言うでしょうか。「私は、これから、お前たちのために、苦しむのだぞ。だから、お前たちも、私のために、もうちょっと真剣に、祈りなさい」。

きっと、このように、言うのではないかと思います。

でも、主イエスは、そんなことは、一言も言われずに、ひたすら、祈られました。

ご自身のためではなく、私たちの、救いのために、祈られたのです。

ある人が、「私たちは、この主イエスの祈りを聞く。だから生きられる」、と言っています。

その通りだと思います。この主イエスの、「大祭司の祈り」があるからこそ、私たちは、この後に続く、受難の出来事を、読むことができるのです。

そうでなかったなら、あまりにも無残な、人間の仕打ちに、とても耐えられないと思います。

私たち人間は、とんでもないことを、やってしまったのです。何と、神の御子を、十字架につけてしまったのです。神の言葉を殺し、神の愛を殺し、神の真理を殺したのです。

人間は、そこまで行くのです。そんなことまで、してしまうのです。

しかし、まさにそこで、その只中で、実は神様が、命懸けで、働いておられることを、私たちは知らされるのです。神様の眼差しが、最も熱く、最も鋭く、あの十字架に集中している。

私たちは、そのことを知らされるのです。それは、この「大祭司の祈り」が、あるお陰です。

ここに、光が射しているからです。だから、私たちは、尚も、生きられるのです。

主イエスが、祈っておられる間、弟子たちは、その傍らにいて、祈りの言葉を、じっと聞いていました。それは、ちょうど、主イエスが、父なる神様と、電話しているのを、弟子たちが、傍で聞いているのに、似ています。

弟子たちには、電話の向こう側にいる、父なる神様の声は、聞こえません。でも、主イエスの声は、聞こえています。だから、何を話されているのかは、分かります。

主イエスの口調から、電話の向こう側の、父なる神様の様子も、窺い知ることができます。

ゲツセマネでは、父なる神様は、終始、沈黙されておられた。しかし、この「大祭司の祈り」に対しては、父なる神様は、一つ一つ、頷いておられる。弟子たちは、そのことを、感じ取ることが、できたと思います。

あぁ、父なる神様が、優しく頷いておられる。「分かった、そうしてあげよう」、と言われている。弟子たちは、そのことを、感じ取っていたに、違いありません。そして、言葉では、言い表すことのできない、深い慰めを、与えられたと思います。

先ほど、この「大祭司の祈り」は、私たちのための、執り成しの祈りだと、申しました。

でも、今朝の箇所の、1節~5節では、主イエスは、ご自身のために、祈っておられるかのように、聞こえます。しかし、この1節~5節も、よく読んでみますと、実は、それは、私たちのための、祈りなのです。

まず、主イエスは、「父よ、時が来ました」と、静かに祈り出されました。

「時が来た」。一体、何の時でしょうか。十字架に上げられる時が、来たのです。

しかし、その時を、主イエスは、栄光を受ける時である、と仰っておられます。

この福音書の、12章23節、24節でも、主イエスは、こう言われました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

ここでも、主イエスは、ご自身が、栄光を受ける時が来た、と言っておられます。

しかし、それは、一粒の麦が、地に落ちて、死ぬ時である、というのです。

つまり、ご自身が、十字架で死なれる時、それが、栄光を受ける時である、と言っておられるのです。なぜ、十字架で死なれることが、栄光を受けることに、なるのでしょうか。

皆から、賞賛されるような、素晴らしい、劇的な、死に方だったからでしょうか。

そうではありません。事実は、全くその逆でした。

主イエスの十字架ほど、惨めで、哀れなものは、ありませんでした。

全身鞭打たれ、頭には茨の冠をかぶせられ、人々から、嘲られ、罵られて、何度も倒れながら、ヨロヨロと歩かれる主イエス。十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私を、お見捨てになったのですか」、と絶望の叫びを、上げられた主イエス。

そのお姿を、どうして、栄光のお姿と、言うことができるでしょうか。

でも、主イエスは、それこそが、栄光の姿である、と言われるのです。なぜでしょうか。

その時、主イエスが、救い主としての使命を、完全に、成し遂げてくださったからです。

主イエスしか、為し得ない、私たちの救いを、完全に、成し遂げてくださった。

私たちを、滅びの死から、解放するための戦い。その戦いに、完全に、勝利してくださったからです。

父なる神様が、言われました。「愛するイエスよ、どうか、十字架の死を引き受けておくれ。

これ以外に、人間を救うことはできないのだ。そして、お前以外に、このことを、成し遂げることができる者は、いないのだ。だから、辛いだろうけど、引き受けておくれ。」

そう言われて、託された使命。その使命を、果たす時が、来たのです。ですから、主イエスは、「父よ、時が来ました」と、祈られたのです。

そして、更に、「あなたの子が、あなたの栄光を、現すようになるために、子に栄光を、与えてください」と、続けられました。

皆さん、「栄光」とは、一体、何でしょうか。「栄光」、それは、神様の輝きです。神様が、本来持っておられる、恵みと、栄誉と、力が、輝き出ることです。

主イエスは、私たちの罪を、代って負ってくださり、十字架にかかってくださいました。

十字架にかかって、私たちの罪を、滅ぼしてくださったのです。

その時、私たち人間の目には、光が闇の中に、消えてしまったように、見えました。

主イエスの勝利など、どこにも、見えなかったのです。見えたのは、主イエスの、惨めなお姿だけでした。

しかし、実は、その時、神様の「愛」と「力」が、「罪」と「闇」に、勝利したのです。

神様の輝きが、闇を貫いて、現れ出たのです。

「子に栄光を与えてください」、という祈り。この祈りは、十字架の勝利によって、私たち人間を、暗闇から救い出して、命の光の中へと、導き入れてください、という祈りなのです。

ご自身に、栄誉を与えてくださいという、自分本位の願いでは、ないのです。

どこまでも、ご自身のことよりも、私たち人間の救いを、願っていて、くださるのです。

何という深い愛でしょうか。こんなお方は、他にいません。主イエスただお一人です。

では、主イエスが、願われた、私たちの救いとは、具体的に、どのようなことなのでしょうか。十字架の贖いを通して、主イエスは、私たちに、何をしてくださったのでしょうか。

主イエスは、言われています。「子は、あなたからゆだねられた人、すべてに永遠の命を与えることができるのです。」

主イエスは、私たちに、永遠の命を、与えてくださる、というのです。

私たちが、永遠の命を与えられて、救いの喜びに生かされること。それが、主イエスにとっての、栄光なのだ、というのです。

その永遠の命について、主イエスは、こう言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。

ここで言われている、「知る」ということは、単に、認識する、ということではありません。

主イエスを、本当に知る、ということは、主イエスと、一つになる、ということです。

分かり易く言えば、主イエスの恵みに、全身が覆い包まれてしまう、ということです。主イエスの、愛と恵みの内を、生きていく、ということです。

主イエスは、言っておられます。父なる神様が、この私を通して、為し遂げてくださった、十字架の救いの御業を知りなさい。それを、頭で理解するだけでなく、自分自身の、救いの出来事として、知りなさい。ただ、知るだけでなく、その恵みを、自分のものとして、しっかりと握り締めなさい。そして、その恵みに覆われて、生きなさい。

それが、永遠の命に生きる、という事なのだよ。主イエスは、そう言われているのです。

これは、世間一般が考える、永遠の命とは、大きく異なっています。主イエスは、一般に考えられているような、霊魂の不滅や、不老不死のことを、言っておられるのではありません。

主イエスの与えられる、永遠の命とは、死んだ後ではなく、生きている今、ここで、持つことの出来る命なのです。永遠の命とは、今、ここにおける現実なのです。

恵みを、本当に知る、という事は、その恵みに、生かされる、ということです。それによって、新しくされる、ということです。そうでなければ、本当に知ったことには、なりません。

ある女性が、結婚することになりました。仮に、この女性の名前を、A子さんとします。

A子さんは、お妾さんの子として、育てられました。物心ついた時から、お父さんには、会ったことがありません。母親も、幼い頃に亡くなってしまい、お祖母さんに、育てられました。

A子さんは、お父さんのことを、私たちを捨てた、冷たい人だと、ずっと恨んできました。

私は、望まれないで、生まれてきた子供なのだ、と思い続けていました。

結婚する前日、お祖母さんが、一通の古い電報を、見せてくれました。その電報は、お父さんから、お祖母さんに、宛てたものでした。

そこには、たった一行、「ケサ、6ジ20フン、Aコウマレル」、と短く書かれていました。その電報を見た時、A子さんは、激しい感動に、胸が一杯になって、泣き続けました。

私は、望まれることなく、生まれてきたと、ずっと思っていた。でも、お父さんは、私が生まれる前から、ちゃんと名前を用意して、待っていてくれた。

生れるとすぐに、用意した名前を付けて、電報で知らせるほど、喜んでくれた。

「ケサ、6ジ20フン、Aコウマレル」。たった一行の、短い電報です。

でも、それによって、見たこともない父の愛を、初めて知ったのです。

そして、その父に対する、感謝と、愛に満たされたのです。たった一行の電報でも、そこに込められた、愛を知らされ、その愛に生かされる、という事があるのです。

まして、主イエスは、命をささげてくださったのです。そのことを、本当に知ったなら、私たちは、その愛みに、生かされて、生きていける筈です。

永遠の命とは、神様の愛を知り、その愛に、すっぽりと覆い包まれる、ということです。

主イエスとの、愛の交わりの中に、入れられる、ということです。

それは、世の何物も、病も死も、断つことが出来ない、交わりです。ですから、私たちは、どんな時にも、決して、一人ではありません。主イエスが、共にいてくださり、主イエスの、愛の翼の陰に、覆われているのです。それは、決して絶望しない生き方です。

苦難に遭って、戸惑い、落胆し、悲しむことは、あるかも知れません。しかし、絶望しないのです。苦難の中にも、尚、希望の光を、見ていくのです。

永遠の命とは、分かり易く言えば、絶望しない人生です。私たちは、絶望しません。

なぜなら、どんな時も、どこにいても、主イエスが,共にいてくださるからです。

主イエスは、マタイによる福音書の最後で、「私は、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」、と約束してくださいました。ここにある、「いつも」という言葉は、「すべての日に亘って」、という意味の言葉です。一日たりとも、例外はないのです。

私たちのために、命さえも惜しまずに、献げてくださったお方が、どんな時も、必ず共にいてくださる。

この神様との、愛の交わりの中にいる時、私たちは、既に永遠の命に、生きているのです。

永遠の命とは、難しい教理ではありません。厳しい修行をしなくては、得られないような、遠い所にあるのでも、ありません。永遠の命とは、主イエスの愛の中に、留まり続けることです。主イエスの恵みに生かされて、活き活きとした人生を、生きることです。

アントニー・デ・メロという人が書いた、「小鳥の歌」という本に、こんな話があります。

最近、キリスト教に改宗した人と、信仰を持たない友人との会話です。

「そこで君はクリスチャンになったというわけだね?」 「そうだよ」

「では君は、キリストについてたくさんのことを知っているに違いない。話してくれたまえ」。「彼はいつ、どこの国に生まれたの?」 「知らないよ」

「死んだとき何歳だったの?」 「知らないよ」

「彼がした説教の数はいくつ?」 「知らないよ」

「君はキリスト教徒になったけれど、キリストについて、ほとんど知らないんだね?」

「そうなんだ。キリストについて、ほとんど知らないことが恥かしい。でもこれだけは知っている。3年前、僕は酔っ払いだった。借金があった。僕の家族は、ばらばらになっていた。妻と子どもは、毎晩、僕が家に帰るのを、怖がっていたんだ。

でも今、僕は飲むのを止めた。借金もない。僕の家庭は幸せだ。子どもたちは僕の帰りを、毎晩とても待ち望んでいる。これはみんな、キリストが僕にしてくれたんだ。僕はキリストについて、これだけは知っているんだ!」

短い話しです。でも、とても大切なことが、教えられています。

それは、主イエスを、本当に知ったなら、私たちは、この人のように、変えられる、ということです。そして、そのような人生を、生きることが、永遠の命に生きる、ということなのです。

ご一緒に、永遠の命の恵みを、感謝しつつ、喜びつつ、歩んでまいりましょう。