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過去の礼拝説教

「神を見る清さを慕い求めよう」

2020年04月05日 聖書:マタイによる福音書 5:8

今朝は、主イエスが、十字架にかかられるために、エルサレムに入城された日を覚える、棕櫚の主日の礼拝をささげています。
この棕櫚の主日に、私たちに与えられた御言葉。それは、『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』です。
この御言葉が、主イエスのご受難と、どのように関わるのか。そのことを尋ねつつ、御言葉に聴いていきたいと思います。
『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』。御言葉は、心が清い者は、神を見る幸いに与れる、と言っています。これは、私たちの心を打つ御言葉です。
心の清い者となりたい!神様の御顔を仰ぎ見たい!これはすべてのキリスト者の切なる願いです。
この御言葉には、私たちの憧れのような思いが、込められています。
作家の三浦綾子さんは、「私が、この御言葉に心惹かれるのは、私の中に、清い心が無いからである。人は、自分が持っていないものに、憧れるものだ」、と述べています。
私たちも、三浦さんのように、清い心を持っていないと、感じています。ですから、誰もが、清い心を持って、神様を見ることに、憧れているのではないでしょうか。
聖書の中には、清い心を持って、神様を見た人が、何人か登場します。その中でも、私が特に憧れているのは、教会の最初の殉教者、ステファノです。
ステファノは、ユダヤ人から激しい迫害を受けました。しかし、純粋な信仰でこれに立ち向かい、一歩も譲りませんでした。そして、最後は、石打の刑によって殺されてしまいます。
しかし、召される時にも、自分に石を投げる人たちの、罪の赦しを願って祈りました。
そして、「天が開いて、主イエスが、神様の右に立っておられるのが見える」と言って、輝いた顔で召されて行きました。
その顔は、さながら天使の顔のように見えた、と書かれています。まさにステファノは、清い心をもって、神様を見た人であったと思います。
もう一人、この御言葉を読む時、いつも想い起す人物がいます。以前にもお話ししましたが、「聖母の曲芸師」という小説の主人公の、バルナベという旅芸人です。
彼は、六個の玉や、十二本の出刃包丁を操って、曲芸をしては人々を喜ばせていました。
貧しかったけれども、純粋な信仰に生きていました。そんなバルナベの純粋さに感動した修道院の院長が、バルナベを修道院に招きました。
修道院では僧侶たちが、難しい神学書を書いたり、美しい讃美歌を作ったり、聖書の物語を清らかな絵に描いたりしていました。
そのような僧侶たちの姿を見て、バルナベは自分の無学さを嘆きました。
「ああ!神様。私は愛するあなた様のために、何もすることが出来ないのです。同僚たちのような才能を持っていないのです。ああ!私は何も出来ないのです」。
バルナベは、次第に落ち込み、涙に暮れる日々を、過ごすようになりました。
ところがある日、彼は御堂の方に走って行って、そこで一時間余りを、一人で過ごしました。 そして夕食の後も、また御堂に入っていきました。
その時から、バルナベは、誰もいない時を見計らっては、御堂に入り、長い時間を、そこで過ごすようになりました。彼はもう、泣くことも嘆くこともなくなりました。
僧侶たちは、どうしてバルナベが毎日、あんなに頻繁に御堂に入り、そこで長い時間を過ごすのか、不思議に思い始めます。 一体彼は何をしているのか。
そこで、院長と二人の長老が、バルナベが御堂で何をしているのかを、覗きにいきました。
そして、彼らが、そこで見たものは、聖母マリアの像の前で、逆立ちをして、六個の玉と十二本の出刃包丁をもって、一心に曲芸をしているバルナベの姿でした。
二人の長老は、「バルナベは神を冒瀆している」と叫びます。
院長は、バルナベが、清い純粋な心を持っていることを知っていました。しかし御堂で曲芸をしている様子を見て、彼は頭がおかしくなってしまったのだ、と思いました。
三人は、バルナベを引きずり出そうと、御堂に入っていきます。
するとそのとき、彼等は見たのです。聖母マリアが祭壇の階段を静かに降りてきて、水色の上着の袖で、バルナベの額の汗を優しく拭ってくださるのを。
その姿をみて、院長は床にひれ伏して言いました。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」 二人の長老たちも、同じように床にひれ伏して言いました。「アーメン」。
私たちは、このような純粋な信仰の姿に憧れを持ちます。自分もこのような清さに生きたい。自分も神様を仰ぎ見たいと思います。
しかし、この御言葉は、単に、私たちの憧れを、言い表しているのでしょうか。そのように、単純に受け止めて良いのでしょうか。
そもそも、心が清いとは、どういうことなのでしょうか。
デンマークの哲学者キルケゴールは、この8節の御言葉について、短い論文を書いています。
その論文には、「心の清さとは、一つのことを意志することである」という長い題が付けられています。この題が、すべてを語っています。
清い心とは、「一つのことを、そのことのために考える心」である、というのです。
私たちは、Aということを考える時、Aのことを考えているようで、実は、Bのことを考えている、ということがあります。
相手の人の事を考えている。そう思っているのに、実は、自分のことを考えている。そういうことが、よくあります。心が一つでない。つまり、二心があるのです。
御言葉にある「清い」という言葉も、もともとは、「混じり気がない」という意味の言葉です。
心が一つであって、分かれていない、ということです。
神様に対して二心を持っていない。それが、心が清いことである、というのです。
主イエスは、「あなた方は、神と富とに兼ね仕えることはできない」、と言われました。
神と富の、両方に仕えようとする。それが、二心を持つということなのです。
主イエスは、「あなたは、二心を持たずに、ひたすらに神様を信じようとしていますか。混じり気のない心で、神様に従おうとしていますか」、と問い掛けておられるのです。
自分の心のすべてを、混じり気のない思いで、神様の方に向けている。
ステファノやバルナベのように、純粋な思いで神様を慕い、神様に喜んでいただくことに、その心と思いのすべてを向けている。
その時に、神様を見ることが出来るのだ、と御言葉は言っているのです。
では、神様を見るとは、どういうことでしょうか。
神様を見るとは、私たちが、厳しい修行を重ねた結果、無我の境地に達して、神様を見るという幻覚を、体験することではありません。
御言葉が言っている、神様を見るとは、神様を肉眼で見ることではありません。
あのイースターの昼下がり、二人の弟子が、エマオに向かって歩いていました。そこに、復活された主イエスが近づいてこられて、ご自身の十字架と復活の意味を教えられました。
しかし二人は、目で見ていたのに、その人が、主イエスだとは、気づかなかったのです。
しかし、エマオに着いて家に入り、主イエスがパンを裂かれるお姿を見て、その人が主イエスであることが分かりました。その時、主イエスのお姿は見えなくなったと書かれています。
お姿が見えなくなった時に、初めて、自分たちは主イエスを見たのだ、と知ったのです。
他の弟子たちもそうでした。主イエスと一緒に旅をして、生活を共にしていた時には、主イエスのまことのお姿が、見えていなかったのです。
しかし、主イエスが天に帰られた後、ペンテコステの日に聖霊を注がれた時に、初めて、主イエスのまことのお姿を知ったのです。本当の意味で、主イエスを見たのです。
神様を見るとは、肉眼で見ることではなくて、神様を、本当に知る、ということです。
神様を本当に知り、その神様と生きた交わりを持つ。それが神様を見るということなのです。
実は、私たちは気付いていませんが、神様は、私たちを、ずっと見つめてくださっています。
そして、すべての人に、ご自身を示したいと、願われているのです。
私たちが、神様を見たいと願うよりもずっと前に、それよりも遥かに強いお気持ちで、神様の方から、私たちに、ご自身を顕したい、と願っておられるのです。
神様は、私たちを見つめつつ、言われています。「どうか、私の眼差しに気付いてほしい、そして、どうか私を見て欲しい、私を知って欲しい、私との交わりに生きて欲しい」と。
神様を見るということは、神様を知って、神様との交わりに生きることだ、と申しました。
そしてそれは、自分のすべてを、神様の眼差しの中にさらけ出して、神様と活き活きとした交わりを持つことから始まります。
しかし、神様の眼差しの中に、自分のすべてをさらけ出す時、私たちは恐れを感じます。
なぜなら、自分の中にある、暗闇の部分を、否応なく、認めなくてはならないからです。
これだけは、最後まで、神様に隠しておきたい。自分でも認めたくない、という陰の部分。
変えたくても変えられない、本当に救いようがない自分が、顕わにされてしまうからです。
神様の光に照らされた時、そこに見えて来るのは、罪、汚れに満ちた、自分の姿です。
その時、私たちは、どうすれば良いのでしょうか。
ダビデは、自分の部下の妻と、姦淫の罪を犯し、更に、その罪を隠すために、部下を殺してしまう、という大罪を犯しました。
その罪の深さを、預言者ナタンによって、厳しく糾弾された時、初めて犯した罪の大きさに気づきました。そして、どうしようもない自分の罪深さを、悲しみ、もだえるような悔い改めをしています。
詩編51編は、その時のダビデの気持を、詠ったものと言われています。
その12節で、ダビデはこう祈っています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」。
自分の内には、清い心はないのです。ですから主よ、どうか私の内に、清い心を造り出してください。それ以外に、あなたの聖なる御前に、立つことはできません、と叫んでいるのです。
ダビデは、心の底から絞り出すような思いで、神様によって清くされることを、祈り願っています。それ以外には、自分は神様の御前に立つことが出来ない、と言っています。
「心の清い人々は、幸いである」。この言葉に、耐えられる人はいません。
私たちの罪汚れは、それ程までに、私たちの中に、巣食っているのです。自分の中から、次々と、悪しき思いが生まれて来るのです。
ですから、誰一人として、神様の聖なる眼差しには、耐えられないのです。私たちは、ただ、叫ぶしかないのです。「主よ、私の内に、清い心を造り出してください」、と。
そして私たちが、心からそう叫び、涙ながらに、主の御顔を仰ぎ見る時、私たちは主の御声を聞くのです。
「私の血潮によって清められなさい。私はそのために、十字架について血を流したのだ。あなたは、自分の力で清くなろうと、もがき苦しむことはない。その苦しみは、全部、この私が代って味わったから。」
私たちの本質が、清くなるのではありません。主イエスの十字架の贖いを信じる時、私たちは、汚れたままで、主イエスから、清い衣を着せて頂けるのです。
心が清い人々とは、主イエスの十字架の贖いによるしか、自分は清くなれないことを、知っている人です。十字架の救いの恵みを、知っている人です。
主の愛の眼差しの中に置かれ、主の恵みに応答するという、交わりに生きている人です。そういう人が、神を見ている人なのです。
『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』。
この御言葉は、単に私たちの憧れを語っているのではありません。心の底から、絞り出すような、私たちの、願いと感謝を、言い表しているのです。