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過去の礼拝説教

「まず心を清めよ」

2021年07月18日 聖書:マタイによる福音書 15:10~20

今私たちは、感染症対策のため、今まで経験したことがない位、熱心に手を洗っています。
場所が変わる毎に、手指の消毒をしています。細心の衛生面の注意を払っています。
では、それによって、私たちは、清い者とされているでしょうか。
果たして、主イエスから、「あなたは清い」、と言っていただけるでしょうか。
今朝は、そのことを、御言葉から聴いていきたいと思います。
ファリサイ派の人たちは、昔の人の言い伝え通りに、きちんと決められた仕方で、手を洗わなければ清くなれない、と教えていました。
言い伝え通りに手を洗う人は清い人。その通りに洗わない人は汚れた人。
彼らは、そうやって、人を差別していました。
そういう教えを聴いて、それに従っていた群衆に向かって、主イエスは言われました。
「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
外から入ってくるものによって、人は汚れるのではなく、心の中から生じるものによって、人は汚れるのだ。
汚れの原因である罪は、外にあるのではなく、心の内側にあるのだ、と言われたのです。
私たちは、うっかりすると、罪は外から来る、と考えることがあります。
外から入ってきたものが悪かった。だから、罪を犯してしまった、と考えることがあります。
環境が悪かった。状況がそうさせた。社会が自分をそう仕向けた。誘惑した人が悪かった。
そのように考えることがあるのではないでしょうか。
ですから、人は、外側からの汚れに染まらないように、人間社会から離れて暮らしたい。
修道院のような隔絶された世界に逃げ込みたい。そういう願いに駆られることがあります。
汚れから身を守るために、世俗から離れて、別世界に逃げ込もうとするのです。
しかし人は、試験管の中で生きている訳ではありません。この世において、様々な人との交わりの中で、生きているのです。
人との交わりを完全に遮断したら、人は生きて行かれません。
主イエスは、そのことをよくご存じでした。
ですから、他の人との交わりによって、その人が、汚れたり、汚れなかったりすることは、あり得ないのだ、と言われたのです。
主イエスは、外側から入ってくるものではなくて、心の内から出て来るものこそが、問題なのだ、と言われたのです。
問題は、私たちの心である、とはっきりと言われたのです。
『口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。』
ペトロは、この主イエスのお言葉は、何かの譬え話だと思ったようです。
そこで、その譬えを説明してください、と主イエスに頼みました。
ペトロの質問に答えられる形で、主イエスは、更に詳しく説明されました。
言い伝え通りの仕方で、手を洗わないで食事をすること。それがその人を汚すのではない。
あらゆる食べ物は、消化されて、外に出て行くだけである。口から入る食べ物は、人の心の中までは入らない。
しかし、口から出て来るものは違う。それは心の中から出てくるものだからである。
心から出てくる悪い思いこそが、人を汚すのである。
だから、内に潜む悪しき思いが、取り除かれない限り、いくら表面を清くしても、神様の目には清い者とはされない。
なぜなら、人は行いを見るけれども、神様は心を見られるからだ。
主イエスは、そう言われたのです。
古くから伝えられている、詠み人知らずの歌に、こういう歌があります。
「我が心 鏡に映るものならば さぞや醜き 姿なるらん」 まさに、その通りだと思います。
私たちは、心の中の思いが、鑑に映ることなどないから、安心して生きています。
でも、もし、心の中の思いが、すべて、頭の上に設置された、モニターに映し出されるとしたらどうでしょうか。
例えば交渉の時に、「向こうは焦っているから、これくらい吹っ掛けても乗って来るだろう」。
こんな思いが表に出たなら、相手は怒ってしまって、交渉は破談になってしまうと思います。
「記憶にございません」。国会でのこんな答弁も、できなくなってしまいます。
教会でも、困ったことになると思います。
誰かが風邪をひいて、今朝の礼拝を休んでいると聞くと、「早く治るようにお祈りしています」と言いつつ、心の中で、「まあ、人間だから、風邪くらい引くだろうな」、と思っている。
いや、この教会には、そんなことを思われる方は、おられないと思います。
でも、もしそんな思いが、すべて表に現れてしまったら、私たちは、恥ずかしくて生きていけないと思います。
私などは、一日たりとも、牧師として、立っていられなくなると思います。
心の中にある悪しき思いが人を汚す。この事実に立つとき、私たちは、「主よ、罪人の私を、お赦しください。どうか清めて下さい」、という祈りを、祈らざるを得なくなります。
人は、罪を犯したから、罪人になるのではありません。罪人だから、罪を犯すのです。
それ程までに、罪の汚れは、私たちの心の内に、深く根付いているのです。
そのことを知らされて、愕然とした人がいます。イスラエル史上、最も偉大な王と言われたダビデです。
彼は、まさに、その絶頂期に、取り返しの付かない罪を犯しました。
部下の妻と姦淫の罪を犯したのです。しかも、その罪を覆い隠すために、その部下を殺してしまったのです。
相手が、他人の妻ではなく、未亡人となった。それならもう、姦淫の罪を指摘されることはないだろう。
そのように安心していた時、預言者ナタンから、その罪を厳しく糾弾されました。
そして、「死刑にすべき罪人。それは、あなただ」、と言われたのです。
ダビデは、自らの罪の深さを知って、恐ろしさにおののき、ただ神様に赦しを乞い願います。
その祈りの言葉が、詩編51編に記されています。ここで、ダビデは、叫んでいます。
「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。
私の咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。」
ダビデは、ひたすらに神様の赦しと、清めを願って、さらに続けます。
「ヒソプの枝で私の罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」。
ダビデは、自分の中には、清さの一かけらもないことを、知らされました。
そして、神様のみが、自分のこの汚れを洗い落とし、清くしてくださることを示されました。
ですから、続けてこう祈ったのです。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」
ダビデは、「清い心を創造してください」、と神様に祈っています。
ここにある「創造」という言葉は、聖書の最初に書かれている言葉です。
「初めに、神は天地を創造された」。この御言葉にある「創造」と同じ言葉です。
実は、この言葉は、神様を主語とした時しか、使われない言葉なのです。
神様は、何もないところから、天地を創造されました。まさに、無から有を創られたのです。
そのように、「主よ、私の内に、清い心を創造してください」、とダビデは祈っているのです。
ダビデは、自分の内には、清い心が全く無いことを、深く思い知らされました。
姦淫の罪を覆い隠すために、忠実な、かけがえのない部下までも、殺してしまった。
そのことを通して、自分の内には、清い心など、どこにもないということを、イヤという程、思い知らされたのです。
ですから、天地創造の時に、無から有を創られたように、どうか私の心の中に、清い心を創り出してください、と祈っているのです。
「主よ、あなただけが、それをお出来になります。どうか、私の心に、清い、確かな霊を創造してください」、と涙ながらに叫んでいるのです。
でも、皆さん、感謝なことに、私たちは、ダビデよりも、確かな心で、祈ることができます。
なぜなら、私たちは、主イエスが、私たちの罪を、全部背負って、十字架について、私たちの身代わりとなって、死んでくださったことを、知っているからです。
十字架において、私たちの罪が、全部清算されたことを、知っているからです。
私たちが、それに相応しいからではなく、ただ、私たちを愛するが故にそうしてくださった。
無から有を創り出されるお方が、私たちの汚れた心を、雪のように白い衣で覆ってくださった。
そのことによって、私たちは、罪あるままに、清い者と認められたのです。
ダビデは、ヒソプの枝で、自分の罪・汚れを、払ってください、と祈りました。
しかし、皆さん、私たちには、ヒソプの枝は必要ありません。主イエスの、十字架の血潮によって、私たちは清くされるからです。
私たちは、その確信に立って、希望と喜びに生きることが許されているのです。
この恵みに、心から感謝したいと思います。
さて、12節で、「弟子たちが近寄って来て、『ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか』と言った』、と記されています。
「つまずく」と言う言葉は、「怒る」とも訳せる言葉です。それも、「激しく怒る」、という意味を含んだ言葉です。
ファリサイ派の人たちは、主イエスの弟子たちが、昔の人の言い伝えに背いて、決められた仕方で手を洗わないことを非難しました。
ところが、逆に主イエスから、あなたたちこそ、神の掟を破っているではないか、と言われたのです。それを聞いて、彼らは、怒ったのです。激しく怒ったのです。
なぜなら、彼等は、自分たちこそが、神の掟を、誰よりも忠実に守っている、清い者だと、自負していたからです。
自分たちこそが、天の父によって植えられた木だ、と自負していました。
しかし、主イエスは、彼らは、天の父がお植えになった木ではない、と言われたのです。
そして、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」、と言われました。随分と激しいお言葉です。
また、彼らは、自分たちは、目がよく見えていると思っていました。
自分たちは、他の人たちよりも、よく見える霊的な目を備えている、と自負していました。
周りの人たちは、目が見えていない。だから、穴に落ち込まないようにと、導くのが自分たちの仕事である、と思っていたのです。
そのような人たちに、主イエスは、「あなたたちこそ、目が見えていない。あなたたちこそ、滅びの穴へ、人々を導く者ではないか」、と厳しく指摘されたのです。
彼らは、昔の人の言い伝えを、表面的に守ることが、信仰深いことだと思っていました。
そして、それを、他の人たちも守るようにと、教えていたのです。
しかし、主イエスは、そのような、昔の人の言い伝えを守ることによっては、救われないと言われたのです。
では、私たちは、どのような言い伝えを守ればよいのでしょうか。
ここで、私は、もう一つの言い伝えを想い起こします。
それは、コリントの信徒への手紙一の15章3節以下に記された言い伝えです。
そこには、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」、と書かれています。
ここで「伝えた」と訳されている言葉は、「言い伝え」と同じ言葉です。
ここで、パウロは、彼自身が受けた、「言い伝え」を記しているのです。
その言い伝えとは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」です。
主の教会は、そして私たちは、この言い伝えに立っています。この言い伝えに生きているのです。
それは、どう手を洗うかというような、形だけの決まり事ではありません。
私たちを赦し、私たちを救い、私たちをまことの命に生かす、恵みの言い伝えです。
私たちは、まさに、そこに生きます。他の所では、生きることができません。
この恵みだけが、私たちを、汚れから、清さへと造り変えてくれるのです。
いくら熱心に洗っても、清くならない私たちです。罪あるままの自分を、主の前に差し出すことしかできない私たちです。
しかし、その時、主の十字架の血潮によって、私たちは清くされるのです。
清めとは、この主の十字架の愛のうちに、入れられることです。この主の愛によって、満たされることです。この主との愛の交わりに、生きていくことなのです。
人をまことに生かす、この言い伝えに生きるのが、私たちキリスト者の生き方なのです。
弟子たちは、主イエスに言いました。
「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存知ですか」。
主よ、あなたは、ファリサイ派の人たちを怒らせましたよ。どうなさるおつもりですか。
弟子たちは、主イエスに、そう問いかけたのです。
主イエスは、静かに答えられました。「そのままにしておきなさい」。
「そのままにしておきなさい」。これが、主イエスのお答えでした。
この「そのままにしておきなさい」、という言葉は、原語を直訳すると、「させておきなさい、彼らを」、となります。
主イエスは、「させておきなさい」、と言われたのです。それは、言い換えれば、「神様にお委ねしなさい」、ということです。
「あなたが、天に代わって、決着をつけることはない。その問題を、その状況を、神様にお任せしなさい」、と言われたのです。
これは、「どうせ言っても聞かないから、放っておけ」、という冷たく突き放す言葉ではありません。愛を持って、神様に、お任せするのです。
自分の思い、自分の主張を、押し通そうとせずに、神様の愛の御手にお委ねするのです。
私たちの内に、清い心を創造してくださる、神様にお委ねするのです。
主よ、私の内に、清い心を創造してくださるように、この人の心にも、そして、あの人の心にも、清い心を創造してください、と祈っていくのです。
茅ヶ崎恵泉教会が、そのような祈りで満ちているなら、そこには主にある、清い交わりが生まれる筈です。
そのような教会となりますように、お互いに祈り合ってまいりましょう。