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過去の礼拝説教

「迫害と熱狂のはざまで」

2019年01月13日 聖書:使徒言行録 14:1~20

私たちは、今、パウロの第一回伝道旅行について、御言葉から聴いています。先週の箇所には、ピシディアのアンティオキアにおける、伝道の様子が語られていました。そこでは、多くの異邦人が、パウロの説教を聞き、信仰に入れられました。

ところが、アンティオキアのユダヤ人たちは、パウロとバルナバに、激しく反対して、迫害を加えたのです。そこで、パウロとバルナバは、そこから130キロほど東にある、イコニオンの町に、伝道の舞台を移しました。

彼らは、ここでも、先ず、ユダヤ人の会堂に行き、そこで、主イエスのことを、証ししました。

1節にこう書かれています。「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」

しかし、アンティオキアの場合と同じように、信じようとしないユダヤ人たちは、パウロやバルナバの人気を、妬みました。そして、激しく反対し、伝道を妨害したのです。

2節に、「信じようとしない」という言葉がありますが、この言葉は、「反逆する」というような意味を含んでいます。

ユダヤ人たちは、信じようとしないどころではなく、パウロたちに、反逆したのです。

彼らは、御言葉に、心を開こうとさえしませんでした。宅配便に例えれば、せっかく命の言葉が、届けられているのに、玄関先で受け取りを拒否してしまって、中味を見ようともしなかったのです。

これでは、救いに与ることはできません。本当に残念なことです。可哀想な人たちです。

3節には、「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」、と書かれています。ここに「それでも」、とあります。迫害を受けたが、それでも、そこに長くとどまり、伝道を続けた、というのです。

この「それでも」という言葉は、原文を字句通りに訳せば、「それで」、という意味です。

「それでも」と、「それで」とでは、一字違うだけですが、ニュアンスは大きく異なります。

「それでも」と訳せば、迫害を受けても、それでも伝道し続けた、という意味になります。

しかし、「それで」と訳しますと、「迫害を受けた。それで、それだからこそ、そこに長くとどまった」、というニュアンスになります。外国語の聖書の多くは、この意味に、訳しています。

迫害が起こったからこそ、使徒たちは、生まれて間もない、教会を守るために、できる限り長く、とどまった、ということになります。

どちらの解釈を取るにしても、厳しい状況であることには、変わりはありません。

では、そのような、厳しい状況の中で、パウロたちを支えていたのは、一体何であったのでしょうか。御言葉は、こう言っています。

パウロたちは、「主を頼みとして勇敢に語った」。パウロたちが、勇敢に語ったのは、主に信頼していたからだ、と書かれています。主イエスに信頼して、彼らは、語り続けたのです。

果たして、私たちは、誰に信頼し、誰を見上げて、福音を伝えているでしょうか。もし、私たちが、勇敢に福音を語ることが、できないでいるとしたら、それは、心から主に信頼を、置いていないからかもしれません。

ある女性の看護士さんがいました。彼女は、苦しんでいる患者さんに、主イエスの恵みを、何とか伝えたいと思いました。主イエスが、この患者さんを、愛しておられることを、ぜひ分かって欲しいと思いました。

口下手な彼女は、どのように、そのことを伝えれば良いのか、色々と考えました。どうか、相応しい言葉を、与えてください、と真剣に祈りました。祈りを通して、主に信頼し、委ねるしかない、と示されて、勇気をもって、その患者さんの前に立ちました。

ところが、色々と考え、真剣に祈ったのに、いざとなると、言葉が出てきませんでした。

彼女は、ただ一言、「私はクリスチャンです。イエス様を信じています」、としか言えませんでした。彼女は、自分の無力さに、落ち込みました。

しかし、皆さん、その患者さんは、その後、どうしたと思いますか。

その患者さんは、主を信じたのです。そして、退院した後、教会に行ったのです。

主に信頼して語るなら、主ご自身が、働いてくださいます。人間の拙い言葉を超えて、主が、御業を為してくださるのです。主を信頼し、主に委ねていく時に、主は、大きな炎を、灯してくださるのです。

パウロとバルナバは、どこまでも、主に信頼し、勇敢に語りました。その結果、イコニオンの町での伝道は、力強く進められていきました。

では、その時、そこで、一体、何が起こったのでしょうか。

神様の言葉が広められた結果、イコニオンの町の人々の中に、分裂が生じたのです。

ある人たちはユダヤ人の側につき、ある人たちは、パウロとバルナバの側につく、というように、二派に分かれることになったのです。

神様の言葉が、力強く語られる時、そこには分裂が起きます。神様の言葉を、信じて受け入れる者と、反対して拒絶する者の、二つに分けられるのです。

絶対的な真理に対しては、中立ということはあり得ません。神様の御言葉は、それを受け入れるか、拒否するか、二者択一を私たちに迫るのです。

何度も申し上げていますが、信仰とは、あれか、これかの選択なのです。あれも、これも、ではありません。なぜなら、真理は一つだからです。光が顕れれば、闇は消え去るのです。

ですから、信仰とは、最終的には、賭けです。信じるか、信じないかの賭けなのです。

突き詰めて言えば、私たちの生き方には、二通りしかありません。神様がいると信じて、生きるか、神様などいないと信じて生きるか。この二通りしかないのです。

もし、神様などいないと信じて生きていって、人生の最後に、やはり、神様はいるのではないか、という不安に襲われても、もう取り返しがつきません。

しかし、神様がいると信じて、神様の教えに従って生きて行ったなら、もし仮に、人生の最後に、神様はいないと示されても、その人の人生は、実り豊かなものとなると思います。勿論、これは譬えです。人生の最後に、神様はいない、と示されるようなことはありません。

ですから、もし賭けるなら、神様がいる方に賭けた方が、賢い生き方なのです。

でも、イコニオンのユダヤ人たちは、パウロの言葉を、信じようとせず、間違った方に賭けて、永遠の命に与る機会を、逸してしまったのです。

さて、私たちは、一体、どちらの側に賭けて、歩んでいるでしょうか。

イコニオンにおける迫害を避けて、パウロとバルナバは、リカオニア州の町、リストラに向かいました。リストラは、イコニオンの南、約30キロにある、ローマの植民都市です。

このリストラにおいて、癒しの奇跡が、行なわれました。足が不自由で、生まれてから、まだ一度も、歩いたことのなかった、一人の男の人が、パウロによって癒されたのです。

この人は、パウロの語る一言一言を、吸い込むようにして、熱心に聞いていました。その真剣な眼差しで、この人が、神様の言葉を、純粋に慕い求めていることが、伝わってきました。

パウロは、この人の内に、「主イエスを信じて、従って行きたい」、という純粋な思いがあるのを見て取りました。この人には、癒されるに相応しい信仰がある、と知ったのです。

パウロは、大声で言いました。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。すると、その人は、躍り上がって、歩き出しました。

この奇跡は、使徒言行録3章に書かれていた、使徒ペトロによる、「美しい門」での奇跡と、大変よく似ています。両方とも、生まれながらに、足の不自由な人が、癒された奇跡です。

とてもよく似ています。しかし、違うところもあります。

ペトロは、「イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」、と言いました。しかし、パウロは、「イエス・キリストの名によって」、とは言っていません。

でも、この男の人は、既に、パウロの話す言葉を、熱心に聞いていました。主イエスによって与えられる、永遠の命の救いについて、しっかりと聞いていたのです。

そして、彼の心には、主イエスの対する、純粋な信仰が、芽生えつつあったのです。ですから、パウロは、「イエス・キリストの名によって」、と言う必要が無かったのです。

ペトロによって、癒された人は、癒された結果として、後から、信仰が与えられました。ですから、ペトロは、手を取って、立ち上がらせたのです。

しかし、パウロによって癒されたこの人は、信仰が先に与えられ、その結果、癒されたのです。ですから、手を取って、立たせる必要が無かったのです。自分の足で、立ち上がるようにと、命じられるだけで、良かったのです。

このように、人が信仰に入れられる道筋は、一人ひとり、違っています。

神様は、一人ひとりに、最も相応しい仕方で、近づいて来られ、その人にとって、最も受け容れ易い方法で、招いてくださるのです。私たちも、そのようにして、救われたのです。

皆さん、ご自分が、救われた時のことを、想い起してみてください。私たちの神様は、本当に優しい心配りをして、一人ひとりを、丁寧に、取り扱ってくださるお方なのです。

さて、リストラの人々は、この癒しの奇跡を見て、大きな衝撃を受けました。そして、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお降りになった」、と言い始めました。

彼らは、バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」、と呼び出したのです。ゼウスもヘルメスも、ギリシアの神々です。ゼウスは、ギリシア神話の最高神です。ヘルメスはその子供で、神々の使者の役割を果たす、雄弁の神です。

リストラの人々は、バルナバの方が、年長であったので、彼をゼウスと見做し、話をするのは、もっぱらパウロだったので、パウロをヘルメスと見做しました。

そして、ゼウス神殿の祭司が、彼らがいた家に、雄牛数頭と花輪を運んできて、いけにえを捧げようとしました。つまり、パウロとバルナバを、神様として、礼拝しようとしたのです。

実は、人々が、二人のことを、ゼウスとヘルメスと呼んだのには、ある理由があります。

この地方に、古い伝説が、伝わっていました。その伝説によれば、昔、この地方に、ゼウスとヘルメスが、人間の姿をとって、お忍びで訪れたことがあった、というのです。

でも、それとは知らない町の人たちは、皆、この神々に無頓着で、誰一人として、もてなす人はいなかったのです。

ところが、ピレモンとバウキスという、貧しい農家の老夫婦は、この見知らぬ旅人が、神々であるのを知らずに、貧しい中でも、精一杯のもてなしをしました。

その後、この地方を、大洪水が襲った時、この老夫婦だけは、ゼウスとヘルメスによって、難を逃れて救われた、という伝説です。

この伝説を、受け継いでいた、リストラの人々は、いつかまた、ゼウスとヘルメスが、人間の姿を取って、訪れるかもしれない、という恐れを抱いていたのです。

ですから、見知らぬ二人の人によって、偉大な奇跡が行なわれたのを見て、その伝説と、二人とを、結び付けてしまったのです。パウロとバルナバに、いけにえを捧げて、礼拝しようとした背景には、このような伝説があったのです。

神々をちゃんともてなし、大切に迎えた者には、恵みが与えられる。しかし、それをしなかった者には、洪水のような、災いが来る。その災いに、会わないために、彼らは、いけにえを捧げて、礼拝をしようとしたのです。

彼らにとって、神々というのは、粗相のないようにもてなせば、恵みを与えてくれる。しかし、ないがしろにしてしまうと、恐ろしい災いをもたらす、そういう存在なのです。

日本の社会で、広く信じられている先祖崇拝も、それと同じ面を持っています。ご先祖様が守ってくれる、という迷信がある一方で、先祖のたたり、ということも、よく言われます。ですから、ちゃんと供養をして、先祖の霊を、慰めなければならない、というのです。

パウロたちに、いけにえを捧げて、礼拝しようとした、リストラの人々の心にも、同じような、恐れと不安があったのです。

新興宗教の多くは、人間の心に、恐れや不安を植え付けて、離れられなくしてしまいます。救いよりも、たたりや、滅びを強調することによって、人々の心を、支配しようとするのです。

しかし、パウロが伝える、生けるまことの神様は、そうではありません。人を、滅ぼすのではなく、何とかして、一人でも救いたい、と願っておられる神様なのです。

パウロは、渾身の思いを込めて、「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」、と叫びました。

私たちを、礼拝など、してはいけません。私も、同じ罪の性質を持つ、人間なのです。

でも、こんな私さえも、まことの神様は、罪の闇から救い出してくださったのです。

まことの神様は、天地万物を造ってくださり、そして、私たち一人ひとりを、造ってくださったお方なのです。

そして、私たちが、どんなに、神様に背こうとも、雨を降らして、作物の実りを与えてくださり、食べ物を与えてくださり、私たちの心を、喜びで満たしてくださるお方なのです。

しかも、それに対して、何の対価も、何の見返りも、求められないお方なのです。

生けるまことの神様は、災いやたたりをもたらす、神様ではありません。恵みと喜びを与えてくださるお方なのです。どうか、このまことの神様に、立ち帰ってください。

人間が、木や石で作った偶像は、生けるまことの神ではありません。それは、何の力も持っていません。何の助けにもなりません。

生けるまことの神様は、人間が作った神様ではなく、人間を造った神様なのです。

何のために、神様は、人間を造られたのか。愛の対象として造られたのです。恵みの交わりをするために、造られたのです。

ですから、まことの神様は、何の対価も、何の見返りもなしに、人間に恵みを与え、喜びを与えてくださるのです。それが、御心なのです。

生けるまことの神を信じる信仰は、たたりを恐れて信じるとか、不幸に陥らないために信じる、というような信仰ではありません。

一方的な恵みの中で、喜んで生きるための、信仰なのです。

生けるまことの神様は、私たちに、いつも、恵みを与えようとしておられるのです。私たちを、喜びの内に、生かそうとしておられるのです。

パウロは、必死になって、まことの神様の、恵みについて語りました。そして、あなた方が、礼拝すべきは、この神様であって、私のような、罪人ではない、と叫びました。

皆さんは、このリストラの人々のことを、どう思われるでしょうか。無知で、幼稚な信仰の人々だと、思われるでしょうか。

しかし、この人たちが、犯した過ちは、決して、私たちと、無関係ではありません。

インドに、永年伝道に行っていた宣教師が、宣教報告のために、アメリカに帰ってきました。

多くの人たちを前にして、彼は、木でできたお守りを、見せてこう言いました。「皆さん、これが、現地の人たちが信じている、偶像です。」会場から、一斉に笑いが洩れました。

続いて、その宣教師は、財布から100ドル紙幣を取り出して、こう言いました。「皆さん、これが、アメリア人が信じている偶像です。」

会場に、気まずいような、恥ずかしいような、空気が流れました。

私たちは、この宣教師が指摘したように、お金という偶像に操られ、それを失うことのたたりを恐れて、びくびくして生きている、ということはないでしょうか。

或いは、また、教会に熱心に通っていても、神様ではなく、その教会の牧師に、依存して信仰生活を、送っているということはないでしょうか。その牧師が、いなくなると、礼拝に出なくなる。

もし、そういうことがあるなら、その時、私たちは、まことの神様ではなく、ただ一人の罪人に過ぎない、牧師を神としてしまっているのです。

まことの神様は、昨日も今日も、永遠に変わらないお方です。私たちの罪を赦すために、ご自身の命さえも、ささげてくださったお方です。

しかも、何の対価も求めずに、無条件で、無制限に、私たちを受け入れてくださるお方です。そこまでして、私たちを、愛してくださるお方です。

パウロは、リストラの人々に、このお方を、知って欲しかったのです。そして、私たちにも、このお方を、知って欲しい。このお方に、しっかりと、結び付いて欲しい、と、聖書を通して、今も、語っているのです。

このお方に結び付いているなら、私たちも、あの足の不自由な男の人の様に、苦しみや、悲しみから立ち上がり、新しい歩みを踏み出すことができるのです。