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過去の礼拝説教

「神様の子どもになるには?」

2017年11月12日 聖書:マタイによる福音書19:13~22

今朝、私たちは、子ども祝福の祈りを献げる礼拝を、共に守っています。

この礼拝のために、与えられた御言葉は、マタイによる福音書19:13~22です。

この御言葉から、神様の子どもになるには、どうしたらよいのか、ということについて、ご一緒に、聴いてまいりたいと思います。

今朝の御言葉には、二つの出来事が、記されています。初めに書かれているのは、主イエスが、幼い子どもたちを、受け入れられた、という出来事です。

13節は、こう言っています。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」

この時、子どもたちは、自分の意志で、主イエスの許に、やって来たのではありません。親に連れられてきたのです。

子どもたちの、頭の上に手を置いて、祈ってもらいたい。そう願った親たちが、子どもたちを、主イエスの許に、連れて来ました。親は、我が子の幸せを願います。

では、子どもの幸せの中で、もっとも幸いなことは何でしょうか。それは、神様の愛と祝福を受ける、ということではないでしょうか。それ以上の幸いはないと思います。

ですから、親たちは、我が子を、主イエスのところに、連れて来たのです。

しかし、弟子たちは、この親たちを叱った、と書かれています。

一体、何を叱ったのでしょうか。恐らく、親たちの、配慮のなさを、叱ったのだと思います。

この時、主イエスは、ガリラヤから、エルサレムへと移動しておられました。十字架にかかるために、エルサレムへと、向かっておられたのです。

弟子たちは、その本当の意味を、未だ理解していません。しかし、主イエスが、これから緊迫した、大事な場面を、迎えようとしておられる、ということは、感じ取っていたと思います。

その先生に、できるだけ余計な負担を、掛けないように、しなければならない。それが弟子としての務めだと、と考えていたのです。

ですから、主イエスが、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」、と言われた時の、弟子たちの衝撃は大きかったと思います。

主イエスは、「子どもたちの邪魔をするな」、と言われたのです。

そして更に、「天の国はこのような者たちのものである」、と言われました。

これを聞いたとき、弟子たちは、言葉を失ったことだろうと思います。 主イエスは、天の国の住民は、あなたたちではなくて、この子どもたちなのだ、と言われたのです。

恐らく、この時、弟子たちは、主イエスの、衝撃的なお言葉の意味が、分からなかっただろうと思います。何を言っておられるのか、直ぐには、理解できなかったと思います。

でも、この出来事が、三つの福音書に、共通して書かれている、ということは、弟子たちが、この出来事を、福音として、つまり喜ばしい出来事して、語り伝えたことを示しています。

自分たちにとっては、まことに衝撃的であった、この出来事が、実は、福音であった、喜びの出来事であった。そのことに、後になって、気付いたのです。

ですから、これを、喜ばしい出来事、福音として、語り伝えたのです。

これは、自分たちにも、そして、あなた方にとっても、喜ばしい出来事なのですよ、と言って伝えたのです。

この子どもたちの話に続いて、一人の青年の話が、語られています。

何も持っていない、ただ恵みを受けるしかない、子どもとは、全く別の立場の人です。

この人は、若くて、教養もあり、多くの財産を持ち、人々の尊敬を受けていた人のようです。

ですから、一見すると、この青年の話と、子どもたちの話とは、直接関係がないように、思えます。ところが、不思議なことに、マタイ、マルコ、ルカの福音書のすべてが、子どもたちの話と、この青年の話とを、ワンセットのようにして、続けて語っています。

それは、この二つの話には、深い繋がりがあると、福音書の記者たちが、捉えたからです。

そうなのです。実は、この二つの出来事は、二つで一つの出来事なのです。

この青年が、主イエスに、近づいてきたのは、質問したいことがあったからです。

青年は、主イエスに、こう尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 これが、この青年の質問でした。

この青年は、小さい時から、まじめな信仰者として、神様の戒めを守って、生きて来ました。

でも、そういう中で、自分のしていることに、何かが足りないと、ずっと思って来たのです。

戒めを守って、正しく生きる。そういう生活をしながら、でも、何かが足りない。このままでは、永遠の命は、受けられない、と思っていたのです。

永遠の命を、受けるためには、今、自分がしていること、以上の事が、必要だと思ったのです。では、一体、何が、足りないのか。

そのことを、教えてもらいたいと思って、この人は、主イエスの許に、やってきました。

この青年が得たいと思っていた、永遠の命。私たちは、この永遠の命を、信じています。

先程も、使徒信条を、唱えました。その中で、「とこしえの命を信ず」、と告白しました。

私たちが、信じている永遠の命。それは、今、私たちが生きている、この肉体の体が、いつまでも、そのまま続いていく、ということではありません。不老不死の事ではないのです。

或いは、肉体が滅んでも、霊魂は生き続ける、ということ。いわゆる、霊魂不滅のことを、言っているのでもありません。

そうではなくて、永遠の命とは、この私が、神様のものになる、ということです。

この私が、永遠に変わることのない、神様のものになる。そして神様が、どんな時にも、何が起きようとも、共にいてくださる。この確信に生きる、ということです。

たとえ、死んでも、神様は、私を見捨てることなく、共にいてくださる。一人で、滅びの闇の中に、放り出されることはない。それが、私たちが信じている、永遠の命です。

ですから、私たちにとって、一番大切なことは、この私が、神様のものに、していただけるかどうか、ということです。

私たちが、神様のものになる、ということは、死んだ後のことではなくて、今、この地上で、起こることなのです。私たちは、この地上で、永遠の命を、受けるのです。

永遠の命というのは、いつか、漠然とした将来に、授かるものではありません。今の、私たちに、与えられるものなのです。

では、そのために、どんな善いことをすればよいのか、と青年は尋ねました。

「どんな善いことをしたら、私は、神様のものに、していただけるのでしょうか」。この質問に対して、主イエスは、お答えになりました。

「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

この青年は、善いことについて、尋ねました。どういう善いことを、すれば良いのか、と尋ねたのです。ところが、主イエスは、本当に大切なのは、あなたがする、善いことではなくて、ただ一人おられる、善い方なのだ、と答えられたのです。

神様が、本当に善いお方なのだ、ということが、あなたにとって、決定的に、大切なのだ、と言われたのです。今朝の、御言葉の中心は、このことです。

この本当に善い方が、私たちと共にいてくださる。私たちを、ご自身のものとしてくださる。

それどころか、この善いお方は、どうか、私のものになってもらいたい。私は、あなたを救いたいのだ。あなたに、永遠の命を、生きて欲しいのだ、と言ってくださっているのです。

そして、そのために、御子イエス・キリストの、命さえも、差し出してくださったのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、と書かれている通りです。

本来は、私たちの方が、神様を必要としているのです。それなのに、このただ一人の、善いお方が、身を低くして、私を、あなたの神にしてもらいたい、と言ってくださっているのです。

そのために、私は、命をささげる、と言ってくださっているのです。

皆さん、これが、私たちが信じている、神様なのです。

ですから、ここで主イエスは、青年に対して、あなたのする善いことが、問題なのではなく、善いお方が問題なのだ、と言われたのです。

神様が、私たちの神様になることを、願っていてくださる。そういう神様でいてくださる。

そのことが大切なのだ。そして、そのような神様だからこそ、私たちのような者が、神様の子どもにしていただけるのだ。その道が、開かれているのだ、と主イエスは言われたのです。

だから、その神様が、あなた方は、こう生きなさい、と言われて、与えてくださった、神の言葉である、掟を守ったら良い。

神様の子にして頂いた、喜びと感謝をもって、唯一の善いお方である、神様の言葉に、生きて行きなさい、と言われたのです。

この主イエスのお言葉を、本当に理解していたなら、この青年は、どんな掟ですか、などとは、聞かなかったと思います。

分かりました。何をするかではなくて、神様を、どのようなお方として、見上げて生きるか。

それが、大切なのですね。ありがとうございました。そう言って、帰って行ったと思います。

しかし、この青年は、主イエスのお言葉を、理解できずに、その掟とは、どの掟ですか、と更に尋ねました。この青年の心には、自分は、どの掟も守って来た、という思いがありました。

ですから、まだこの私の知らない掟がある、とでも言われるのですか。あるなら、教えてください、と尋ねたのです。

恐らく、この青年は、主イエスのお答えに、失望したと思います。何か、もっと、深いことを言ってくださると思って、やってきたのです。

ところが、掟を守りなさい、などという、ありきたりの答しか、帰って来ない。主イエスともあろうお方が、このような分かり切ったことしか、言わないのかと、失望したと思います。

この青年の失望は、主イエスの次の言葉によって、さらに大きくなります。

どんな掟ですか、と問われて、主イエスは、答えられました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」

これは、最も基本的な教えです。十戒の後半と、レビ記19章18節の御言葉です。

ユダヤ社会では、誰でもが知っている戒めです。小さな子どもでも、知っている教えです。

本当に誰でもが知っている掟を、主イエスは挙げられて、「これだよ、これを守りなさい」、と言われたのです。恐らく、青年は、更なる失望に、覆われたと思います。そして、当然のように、答えました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

私が聞きたいのは、そんな初歩的なことではないのです。もっと、先のことを、聞きたいのです。あなたは、何も新しいことを、付け加えて、おられないではないですか。

そう青年は言い放ったのです。

それをお聞きになって、主イエスが答えられました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

青年は、この言葉を聞いて、悲しみながら立ち去った、と聖書は書いています。

ここで、主イエスが言われた、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」、という言葉は、とても厳しい言葉です。しかし、よく考えてみますと、この主イエスのお言葉は、「隣人を自分のように愛しなさい」、という戒めと、同じことです。

隣人を、自分のように愛してご覧なさい。隣人の中に、貧しい人がいたら、その人を、本気になって助けてみなさい。そうしたら、自分の持ち物をもって、その人を助ける他ないだろう。

あなたは、全部守ってきました、と言いましたね。でも、あなたが守ってきましたという、その戒めを徹底したら、こういうことになるのだよ、と主イエスは言われたのです。

完全な形で、戒めを守ったなら、こうなる筈だ、と言われたのです。

ですから、「完全になりたいのなら」、と言われたのです。特別なことを、言われたのではないのです。基本的な戒めを、おっしゃっただけなのです。

こういう御言葉に接した時に、誰もが抱く、問いがあると思います。永遠の命を頂くためには、無一物になって、主イエスに、従わなければならないのか、という問いです。

そして、もし、そうだとしたら、到底自分にはできないと、誰もが思うと思います。

そして、私たちは、必死の思いで、問い掛けます。主よ、私も、そうしなければならないのでしょうか。それとも、そうしなくても良いのでしょうか。

そして、もし、そうしなければならないと言われたら、絶望します。そうしなくても良い、と言われたら、安心するのです。しかし、そのどちらも、ここで、主イエスが、語られていることを、正しく受け止めているとは、言えません。

なぜなら、それは、「どんな善いことをすれば、よいのでしょうか」、と尋ねた、この青年と同じ所に立っているからです。

私たちは、別の所に立たなくては、ならないのです。主イエスは、こう言われたのです。

自分のする、善いことを見るな。善い方をご覧なさい。あなたの神様を、ご覧なさい。

あなたを捕えてくださり、もうあなたは私のものだ、あなたは私の子、私はあなたの神なのだ、と言ってくださっているお方。そのお方を、ご覧なさいと言われたのです。そのために、独り子主イエスを、遣わしてくださった。そのお方を、ご覧なさいと言われたのです。

主イエスは、十字架の上で、ご自分の命を、捨てられました。

青年は、全財産を売り払え、と言われて、それができずに立ち去りました。

しかし、主イエスは、全財産どころではなくて、ご自身の命を捨てて、私たちが、神様のものとなるための道を、開いてくださったのです。

あなたの神になろうと、言ってくださっているお方。この本当に善いお方を、見たら良い。

最愛の独り子の命を、犠牲にしてまでして、あなたの神様になろう、と言ってくださっている、その神様を見たら良い。喜んで、その神様を、受け入れたら良い。

それだけの熱い思いをもって、自分が、招かれていること。そして、神様の子どもにして頂ける道が、開かれていること。そのことを、喜んだら良い。そこに永遠の命があるのだ。

主イエスは、そう言っておられるのです。

しかし、そのことが理解できずに、この青年は、悲しみながら、立ち去って行きました。

この青年と、主イエスの所に、連れて来られた子どもたち。この二つの出来事の意味を、弟子たちが、本当に悟ったのは、ずっと後の事であったと思います。

でも、ずっと後になって、彼らは、その意味が、分かったのです。

そして、この出来事を、福音の出来事として、喜びの出来事として、語り伝えたのです。

その時、この弟子たちの、心に残っていたのは、子どもたちの姿です。

神様の前に、何一つ、差し出すものがない、小さな子どもたちの姿です。何一つ、差し出せない、本当に小さな者たちです。ただ神様の恵みを、頂くしかない者たちです。

でも、主イエスは、何も差し出せない、本当に小さな者たちを、受け入れてくださいました。

神様は、そういう者を、受け入れてくださる。だから、この私も、受け入れて頂ける。

戒めが守れる、守れない、が問題なのではない。誰も、完全には、守れないのです。

でも、「主よ、私を、あなたのものにしてください」、という願いは、誰でも持つことができます。そして、神様は、そう願う者を、誰でも受け入れてくださるのです。

その善いお方を、しっかりと、見ていることが、大切なのです。

自分の善い行いを、積み重ねて、その目録を神様の前に、提出する必要はないのです。

そんなものは要らないのです。神様、ありがとうございます。あなたがしてくださったことを、感謝いたします。そう言えば良いのです。そうしたら、誰でも、受け入れてもらえるのです。

弟子たちは、後になって、そのことが分ったのです。

ただ、神様の愛によって、神様の恵みによって、神様のものとして頂ける。

そのことが、本当に分かった時に、彼らは、言葉に言い尽くせない程の、大きな喜びに、満たされたのです。私たちは、そして教会は、この喜びの上に、立っています。

何一つ差し出すことのできない、小さな子どもさも、受け入れてくださり、神様のものとしてくださる。この福音の上に立っています。

そのことを感謝し、神様の御名を称えながら、共に歩んで行きたいと思います。