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過去の礼拝説教

「神様は決して忘れないよ」

2018年11月11日 聖書:イザヤ書 49:14~16

今朝は、ファミリー礼拝を、ご一緒に守っています。

この説教の後、子どもたちへの祝福の祈りが献げられます。

神様が、それぞれのご家庭に、最高の贈り物として、与えてくださったお子さんたちが、祝福を頂くために、この礼拝に来てくれています。

ですから、今朝は、子どもたちに対するメッセージを、語らせて頂きたいと思いました。

でも、来てくれる子どもたちは、殆どが10歳以下のお子さんたちです。幼稚園から小学校低学年の子どもたちが殆どです。

一方、礼拝に来られる教会員は、ご高齢の方が多いので、年齢差がとても大きいのです。

それで、その中間を取って、今朝は、子育て中のお母さんについて語っている、聖書の御言葉を選ばせていただきました。

勿論、お父さんのことも、覚えさせて頂いています。今朝の御言葉は、母の愛について語っていますが、これを父の愛に置き換えても、全く変わりはないと思います。

私自身も父親として、子どもに対する愛は、決して母親に負けないと思っています。

どちらの愛が、より深くて、より大きいかではなく、母親と父親の愛は、その視点や、表し方において、違っているのだと思っています。

今朝、来てくださったお子様方は、この礼拝だけでなく、是非、毎週土曜日の朝10時からの、キッズチャーチにも来ていただきたいと思います。

そこでは、絵やスライドを使って、分かり易く聖書のお話が語られます。

また、ゲームや工作をしたり、クワイアチャイムの演奏をしたりして、皆で楽しんでいます。

そして、毎週、手作りの美味しいおやつが、用意されています。

リーダーの方たちが、祈りと心を込めて準備して、お待ちしていますので、是非、お子さんやお孫さんたちを、キッズチャーチにお連れください。

さて、先程読んで頂いた御言葉には、母親の子どもに対する愛と、神様の私たちに対する愛とが、見事に重ね合わされています。

ユダヤの諺に、こういうものがあるそうです。『神様はどこにおられるのか。そのことを証明するために、神様は母親を造られた』。

母親の愛は、私たちに対する、神様の思いを指し示している、というのです。

また、こういう譬え話があります。その譬え話によれば、神様は、この世界を創造された時に、母親を創造するのに、格別に時間と労力を、費やされたというのです。

それを見て、天使が言います。「神様、ずいぶん集中しておられるのですね。でも、もう遅いですよ。今日はもうこれ位にして、後は明日にされたら如何ですか」。

神様は天使に答えました。「いや、もう少しだ。もう少しで、わたしに最も近い存在である、母親が完成する」。その光景をじっと見ていた天使が、驚いて叫びました。

「神様、大変です。神様が、こんなに一生懸命に作られたのに、このほっぺたの所が、既に壊れていますよ。水が漏れています。」

神様が静かに言いました。「いや、それは水が漏れているのではない。そのほほにあるのは、母の涙なのだ」。

母が涙を流す。母親にとって、最も辛いこと。涙せざるを得ないこと。それは、何でしょうか。

それは、我が子の悲しむ姿を、見ることではないでしょうか。我が子の嘆きの声を、聞くことではないでしょうか。

母親が心を痛める、我が子の嘆き。それを、神様に置き換えてみますと、神様の御心を痛めるのは、神様の子どもである、私たちの嘆きの声であると思います。

旧約聖書の時代においては、それは、神の民イスラエルの嘆きの声でした。

今朝の御言葉で、イスラエルの民は、嘆きの声を上げています。14節です。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。」

イスラエルの人々は、自分たちは、神様から見捨てられた、と思っています。

彼らは、神様に対して、罪を犯し続けて来ました。預言者を通して語られた、神様の言葉を無視して、自分たちの勝手な思いに従って、生きてきたのです。

ですから、本当は、彼らが、神様を見捨てていたのです。

彼らは、とうとう、その罪の代償を、払うことになります。北のイスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされ、南のユダ王国は、バビロン帝国に滅ぼされてしまいます。

エルサレムの神殿は破壊され、民は捕囚として、バビロンに連行されました。それは、彼らの罪に対する、神様の裁きでした。

しかし、彼らは、この大きな裁きを、謙虚に受け止めることが、できませんでした。ですから、悔い改めることをせずに、絶望と諦めの中で、ただ嘆いていたのです。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と。」

ここで、シオンと呼ばれているのは、エルサレムの都のことです。

かつて、エルサレムに住んでいた人々は、捕囚となったバビロンの地で、前途に希望を持つことができず、ため息をつきながら、その日暮らしの生き方をしていました。

私たちにも、そのような時があると思います。もし、目の前の現実のみに、目を向けるなら、絶望と諦めしかない。「主よ、なぜ、私を見捨てられたのですか。なぜ私を忘れられたのですか」、と呟かざるを得ない。そのような、状況に置かれることが、あるかも知れません。

目の前に立ち塞がる大きな壁。その現実だけを見ている時、そう呟かざるを得ません。

でも目を上に向けて、神様を見上げる時、私たちは、もう一つの現実を、見ることができます。絶望や諦めの先に、希望の光が差し込んでいるのを、見ることができるのです。

実は、この時、神様の御心は、イスラエルの人々の思いとは、全く違っていました。

「あぁ、私たちは、神様に見捨てられた」、と嘆いている民。

その民に、信じられないような、神様の、驚きの愛が、語り掛けられていきます。

それが15節、16節です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。 見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」

神様は、ご自身の、その驚きの愛を、母親の思いに託されました。

「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」。そう嘆くシオンの民に対して、神様は、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。・・・たとえ、女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない」、と断言されるのです。

たとえ、母がその子を忘れることがあっても、私があなたのことを忘れることは、決してない。これが、「私は見捨てられた」、と嘆く民に対する、神様の答です。まことに力強い答えです。

母親の愛は、理屈を超えた愛です。常識を超える愛です。

しかし悲しいことに、そんな母親でも、極限状態になると、断腸の思いで、自分の子供を捨てざるを得ないことがあります。中国残留孤児などは、その一例です。

或いは、他のことに夢中になって、子どものことを忘れてしまうことも、ごく稀にあります。

しかし、神様は違います。神様は、絶対に、私たちのことを忘れることはありません。

神様は、忘れないのです。決して忘れないのです。

母親が、自分の子を忘れるということは、通常ではあり得ない話です。しかし、もし仮にそういうことがあったとしても、神様は、ご自身の民を、私たちを、決して忘れないのです。

母親に愛されている子どもは、自分はお母さんのことを、絶対に忘れないと思っています。でも、実は、それ以上に、お母さんは、子どものことを、絶対に忘れないのです。

そのことを、神様と私たちに置き換えてみますと、そこにキリスト教の本質が見えて来ます。

私たちが、絶対に神様のことを忘れない。その信仰をしっかりと持っている。それはとても大切なことです。

しかし、その思いが強くなり過ぎると、自分が神様を忘れないから、救われるのだ、と思うようになってしまいます。自分が、神様を忘れないから、自分は救われる。そう思ってしまう。

しかし、福音の本質というのは、そうではないのです。逆なのです。

私たちが救われるのは、神様が、私たちを忘れないからです。

私たちが、神様を忘れないからではないのです。母親が、子どものことを忘れないように、神様が、私たちを忘れないから、私たちは救われるのです。

私のような者が、神様の許へ帰ることを許されている。それは、神様が、私を忘れておられないからです。

私のような者が、信仰を持ち続けることができている。それは、神様が、私を憐れんでくださっているからです。ですから、私は信仰の中に、留まり続けることができているのです。

私たちが、神様のことを忘れようとも、神様は、私たちを決して忘れることはないのです。

以前にも紹介しましたが、カトリック作家の遠藤周作の、晩年の作品に「深い河」という小説があります。この小説の中に、大津という一人の学生が出てきます。

生真面目なクリスチャンで、放課後はチャペルでお祈りをするという、ちょっと変わった男でした。このうだつの上がらない学生を、悪い友達が何とかして、からかおうとします。

彼らは、美津子というお金持ちで、美人で、人気者の女子大生に、大津のことを誘惑して、からかうように勧めます。

美津子は、大津が、あまりに真面目なので、何とかして、その真面目さを引き剥がしてみたい、という誘惑に駆られます。そこで、ある時、大津を飲み会に誘います。

大津は、酒が飲めないにも拘らず参加します。その飲み会で、美津子は大津に迫ります。

「本当に神なんか棄てたら。棄てるって約束するまで酒飲ませるから。棄てるんだったら、これ以上飲むのを許してあげます」。

「さぁ、どっちを選ぶの。飲むの、やめるの」、そう言って美津子は、大津に迫ります。

大津は、飲めない酒を懸命になって飲みますが、とうとう気持ちが悪くなって、トイレに駆け込んでしまいます。

出てきた大津が、水を飲もうとすると、美津子が「水でなくて酒を飲みなさい。それでなければ、さっきの約束どおり、神なんか棄てなさい」と、なおも迫ります。

もう飲めない、神を棄てざるを得ない。そんな状況で、大津が泣きそうな声で言います。

「でも……」。「でも、何よ!」

「僕が神を棄てようとしても…神は僕を棄てないのです」

「僕が神を棄てようとしても…神は僕を棄てない」

この言葉こそ、今朝の御言葉の15節が語っていることです。「たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」。

「僕が神を棄てようとしても…神は僕を棄てない」。いえ、神様は、私たちを棄てることができないのです。それ程までに、私たちに対する、神様の愛は深いのです。

クリスチャンになったからと言って、事業が成功する訳ではありません。病気にならない、ということはありません。クリスチャンになっても、様々な挫折や失敗があります。

でも、100%確実なことが、一つだけあります。それは、どんなことが起こっても、どんな状況になっても、神様は、必ず共にいてくださる、ということです。

神様は、決して、私たちを、見捨てることも、忘れることも、なさらないということです。

これは、100%確かなことなのです。

絶対に忘れない、ということを、確かなものとするために、神様は、更に言われました。

16節です。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」

私たちは、大事なことを忘れないために、メモ用紙がない時には、とっさに自分の手に、メモ書きをすることがあります。

しかし、神様がなさることは、その程度ではありません。神様は、こう言われているのです。「見よ、私はあなたを、私の手のひらに刻みつける」。

メモ書きするどころではないのです。私たちのことを、何と、ご自分の手のひらに、刻みつけると言われるのです。そんなことをすれば、痛くて、血が滲むことでしょう。

それでも構わずに、私たちのことを、ご自分の手のひらに刻みつける、と言われるのです。

ですから、何が起ろうとも、神様は、決して私たちを、お忘れになりません。

「私の手のひらに刻みつける」、という表現は、聖書の中では、ここにしか出て来ません。

普通は、手のひらに書くのです。でも神様は、手のひらに刻みつける、と言われるのです。

決して消えないように、「あなたを、手のひらに刻みつける」と言われているのです。

神様は、手のひらに、あなたの名前を刻み付けて、握り締めてくださっているのです。

ですから、私たちは、どんな時も、決して孤独ではありません。

時々、私たちは、誰も自分を顧みてくれないとか、自分は誰からも愛されていない、全く孤独だ、と思うことがあります。でも、それは、私たちが、この神様を見ていないからです。

私たちは、神様の手のひらの中に、どんな時も、握り締められているのです。

この世の皆が、私のことを忘れ去ったとしても、神様は、私をお忘れにならない。それどころか、永遠に私を覚えてくださり、愛し続けてくださるのです。

実は、ここにある「手のひら」は、ヘブライ語の原語では、複数形になっています。

つまり、「両方の手のひら」なのです。

皆さん、一寸実験してみてください。まず、自分の左の手のひらだけを見てください。

次に、そこに右手も添えて、両方の手のひらを合わせて、その中を見てください。

如何でしょうか。恐らく、両方の手のひらを、合わせて見る時の方が、片手だけの時よりも、私たちの眼差しは、もっと深くて、真剣で、慈しむような感じに、なっていると思います。

神様も、私たちを、限りなく深い、慈しみの眼差で、ご覧になってくださっています。

ご自分の、両方の手のひらの中で、私たちを、高価で大切な宝物のように、見詰めてくださっているのです。何という神様の愛でしょうか。

孤独で、辛くて、悲しい時。そういう時には、両手に刻みつけられた、私たちの名前を、優しく見詰めてくださっている、神様の眼差しを、想い起したいと思います。

神様の手のひらには、私たち一人一人の名前が、彫り込まれているだけではありません。

その手のひらには、私たちの名前と共に、十字架の釘の跡が、はっきりと刻まれているのです。この十字架の傷は、あなたのために、刻まれたのだよ。私の愛する子として、あなたの名前を、ここに刻み込むためには、この十字架の傷が、必要だったのだよ。

主は、そう言いつつ、私たちの名前を、見詰めてくださっているのです。

そうなのです。主の両方の手のひらには、十字架の釘跡が、刻まれています。そして、その傍らに、私たちの名前が、彫り込まれているのです。

そして、その釘の跡も、そして、私たちの名前も、永遠に消えることはないのです。

大切なことは、この神様の憐れみに、心を留めることなのです。

最後に16節の後半、これも尊い言葉です。「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」

お母さんというのは、子どもの事になると特別です。最近、私の次女に、赤ちゃんが授けられました。次女は、元々は、それ程物音に、敏感な方ではなかったと思います。

それが、隣の部屋で寝ている赤ちゃんが、一寸でも声を出すと、必ず聞き取るのです。

私たち夫婦には聞こえませんが、娘には、聞こえるのです。

まして、赤ちゃんの具合でも悪くなったら、夜も寝ていられないほど、心配すると思います。

子どもに対する心配事。それは、母親の目の前に立ち塞がる、大きな城壁です。そしてその城壁のために、母親はいつも心配し、いつも祈っているのです。

その城壁は、いつも母親の前にあって、母親の心を、塞いでいる。

でも、神様は、こう言われているのです。「あなたの城壁は、あなたの前だけではなく、私の前にもあるのだ。いつも、私の前にあるのだ」。

あなたが、今抱えている、大きな問題。それは、城壁のように、あなたの前に、立ち塞がっているかもしれない。しかし、それは、あなただけの、城壁だけではない。

それは、私にとっての城壁でもあるのだ。そして、それは、いつも私の前にある。

あなたは、一人で、その城壁を、越えようとしなくて良い。いや、一人で越えようとしては、いけない。私が共にいる。私が一緒に、その城壁を越える。

なぜなら、愛するあなたの城壁は、同時に、私の城壁でもあるからだ。

私たちを、ご自身の両手のひらに、刻み付けてくださっているお方が、そう言ってくださっているのです。

このお方は、私たちのことを、決して見捨てません。私たちのことを、決して忘れません。

このお方を信じ、このお方に委ねて、共に歩んでまいりたいと思います。