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過去の礼拝説教

「癒し主なるキリスト」

2018年09月16日 聖書:使徒言行録 9:32~43

この礼拝では、ご一緒に、使徒言行録から、御言葉に聴いています。使徒言行録には、大胆で、力強い、使徒たちの働きが、記されています。

ペンテコステの日に、ペトロは、集まってきた群衆に向かって、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」、と確信に満ちて語りました。

更に、ペトロは、ヨハネと共に、最高法院の議員たちの前で、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と、堂々と証言しました。

ステファノは、石打ちの刑に処せられながらも、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、と祈り続けました。

また、フィリポは、初対面のエチオピアの宦官に駆け寄って、「読んでいることがお分かりになりますか」、と語りかけ、宦官に福音を語り、その場で洗礼を授けました。

今、挙げた出来事からも、使徒たちが、聖霊に満たされて、迫害をも恐れずに、福音を宣べ伝えていった姿を、知らされます。でも、これが、すべてではありません。

使徒言行録は、これからも、初代教会の、活き活きとした働きを、語り続けていきます。

今、読んでいます9章は、サウロの劇的な回心と、その後の活動について、語って来ました。しかし、今朝の箇所から、またペトロの働きに、戻ります。

32節に「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」と書かれています。ここにある、「聖なる者たち」とは、教会の信者たちのことです。

ペトロは、エルサレムに留まっていただけではなくて、各地のクリスチャンを訪ねて、彼らを力づけ、励ましていたのです。

また、各地の信徒たちの信仰を導き、彼らの信仰生活を整えることも、訪問の目的でした。

これは、今日の教会用語で言うならば、教会問安ということになると思います。

生まれたばかりの教会には、まだ、定住している牧師がいませんでした。

信徒の群れが出来ても、それを指導する人が、それぞれの群れには、いなかったのです。

そのような教会を導き、信仰の一致を計るために、ペトロを始めとする使徒たちが、各地の群れを巡回して、信仰の指導をしていたのです。

今朝の箇所には、リダとヤッファという二つの町で、ペトロが、癒しの奇跡を、行なったことが、語られています。

ヤッファは、今は、テル・アビブの一部となっている、港町です。そして、リダは、そのヤッファの南東13キロにある町です。

ペトロは、リダにおいて、8年間も、中風で床についていた、アイネアという人を癒しました。

このアイネアのもとを訪ねたペトロは、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」、と言いました。

すると驚くべきことに、8年越しの病が癒されて、アイネアは、すぐ起き上がったのです。

8年間も、同じ症状が続いていたら、もう、治りたいという気力も、無くなってしまっていたかもしれません。

医者にも見放され、自分でも、もうどうせ駄目だ、一生治らない、と思っていた。

そんなアイネアに、「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」、と語られた言葉は、どんなに力強かったでしょうか。

私たちは、これまで何度も、奇跡物語を読んできました。ですから、この箇所を読んでも、特別に驚くことは、ないかもしれません。

しかし、一人の人間に過ぎないペトロが、主イエスと同じように、ただ言葉だけで、8年間も寝たきりであった人を癒したのです。これは、驚くべきことではないでしょうか。

ただ、ペトロは、「イエス・キリストがいやしてくださる」と告げました。ですから、この癒しをなさったのは、主イエスである、と言ったのです。

ペトロは、主イエスから遣わされて、アイネアの前に立ちました。

そして、自分を遣わした、主イエスの御力が、自分を通して、働いたのだ、と告げたのです。

教会において、すばらしい救いの御業が行なわれるのは、誰か個人の力によることではありません。教会の頭である、主イエスご自身の御業なのです。

ですから、御言葉が、ここで語っているのは、ペトロ個人の、驚くべき力ではありません。

教会を通して、また使徒たちを通して、働かれる主イエスの御力を、語っているのです。

教会が、御言葉に導かれて、正しい信仰に立ち、聖霊によって整えられていくときに、このような素晴らしい出来事が起るのです。

私たちは、今、神様から示されて、会堂建築の御業に、取り組んでいます。私は、この御業も、一つの奇跡である、と捉えています。

5年前に、私が、この教会に赴任した時、会堂建築積立会計の残高は、33百万円でした。

小橋先生の時代から積み立てたとしたなら、約20年位掛かっています。

会堂を建てるのに、1億3千5百万円かかるとすれば、あと1億円が必要となります。

20年掛かって積み立てた金額の、約3倍の金額が、今後、更に必要となるのです。

それには、どれ位の期間を要するのか。見当もつかないような状態でした。

私の次の、或いはその次の、牧師の時に、実現するのかな、などと漠然と思っていました。

しかし、私たちの中で、善い業を始められたお方が、おられたのです。

そのお方が、今、その業を成し遂げてくださろうと、しておられるのです。勿論、そのお方とは、主イエスです。

主イエスが、ためらっている私たちに、「茅ヶ崎恵泉教会よ、教会の頭である、この私が成し遂げるのだ。だから、立ち上がりなさい」、と言われたのです。

そして、誰が強く言い出すともなく、不思議な力によって、いつの間にか、会堂建築へと押し出されて行ったのです。

ですから、これは、主の御業です。私たちの力では、なし得ないことなのです。

教会が、御言葉に導かれて、正しい信仰に立ち、聖霊によって整えられていくなら、必ず素晴らしい出来事が起きます。

リダの町で起こったような出来事、そして、ヤッファの町で起こった出来事。

その様な、素晴らしい出来事が、この茅ケ崎恵泉教会でも、必ず起こります。私たちは、そのことを信じて、先立って歩まれる、主イエスの後に、従っていきたいと思います。

36節以下には、ヤッファの町で起きた、もう一つの、奇跡の出来事が、記されています。

ここに登場するのは、タビタという女性です。この人は、たくさんの善い行いや、施しをしていた人でした。しかし、残念なことに、病気になって死んでしまいました。

普通ならば、香油を塗って、墓に葬るところですが、ヤッファのクリスチャンたちは、すぐには葬らないで、階上の部屋に、遺体を安置しました。

使徒ペトロが、近くの町、リダにいる、という情報を、得ていたからです。

彼らは、ペトロが、リダの町で、中風の人を癒した、という話も、既に聞いていたと思います。

ヤッファのクリスチャンたちは、二人の使いを、ペトロの許に送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」、と頼みました。

依頼に応えて、ペトロは、ヤッファに向かい、到着すると直ぐに、タビタの遺体が安置されている、階上の部屋に入りました。

すると、そこには、タビタに世話をしてもらっていた、やもめたちが集まっていて、タビタの死を、心から悲しんでいました。

タビタは、金持ちだったので、貧しいやもめたちを、助けていたのではありません。

39節に、彼女の世話になったやもめたちが、泣きながら、彼女が作ってくれた、下着や上着を見せたとあります。

タビタの奉仕は、ささやかな針仕事によって、やもめたちの下着や上着を作る、ということだったのです。決して、見栄えのよい、華やかな奉仕ではありません。

人目にふれない、地味で、小さな働きです。

しかし、実際の教会は、このような、地味で、小さな働きによって、支えられているのです。

この教会の、会堂建築の業もそうです。ミニバザーや、マドレーヌ焼きや、食事作りといった、小さな業の積み重ねによって、尊い事業が支えられ、進められているのです。

タビタのように、それらの、小さな業を、地道に担ってくださる方々こそが、教会にとって、なくてはならない存在なのです。

ペトロは、やもめたちの悲しみに、激しく心を動かされました。

しかし、ペトロは、ただ悲しんでいただけでは、ありませんでした。悲しみの中で、主イエスを見上げて、主イエスの助けを、求めたのです。ペトロは、ひざまずいて祈りました。

そして、祈った後、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と、力強く宣言しました。

すると何と、彼女は目を開き、起き上がりました。死者の復活という、奇跡が起ったのです。

しかし、このことも、ペトロ個人の、力によることではありません。

アイネアの場合と同じように、このことをなさったのは、教会の頭なる主イエスご自身です。

ペトロは遺体を前にして、ひざまずいて祈りました。

そして、その祈りに応えて、主イエスが、死の力を打ち破ってくださったのです。

このタビタの復活の出来事は、マルコによる福音書5章35節以下にある、主イエスによる、会堂長ヤイロの娘の、復活の奇跡と重なります。

その時、主イエスは、「タリタ、クム」、と言って、少女を生き返らせました。

それは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味の、アラム語の言葉です。

この時、ペトロも、タビタに、恐らくアラム語で、語りかけたと思われます。

そうであれば、それは、「タビタ、クム」となります。つまりペトロは、主イエスご自身がなさった、復活の奇跡と、同じことを、ここで行なったのです。

「皆を外に出し」、とあるのも、主イエスのなさったことと、同じです。手を貸して、立たせたことも、彼女が、生き返ったことを、見せたところも、見事に重なっています。

更に、あのアイネアの癒しも、主イエスによる、癒しの奇跡と、重なっています。

マルコによる福音書2章に記されている、中風の人の癒しの奇跡と、重なっているのです。

そこで主イエスは、中風で寝たきりの人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われて、彼を癒されました。

ペトロが、アイネアに語った言葉、「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」。この言葉も、主イエスの言葉と、ぴたりと重なります。

ですから、ペトロが行なった二つの奇跡は、主イエスご自身の御業と、重なっているのです。しかし、それは、ペトロが、主イエスの真似をした、ということではありません。

根本的に、違っていることがあります。主イエスは、ご自身の御力で、中風の人を癒し、ヤイロの娘を、生き返らせました。

一方のペトロは、ひざまずいて祈り、主に願ってから、癒しの業を、行なったのです。

ですから、使徒言行録が、ここで語ろうとしているのは、ペトロが行った癒しの業は、実は、主イエスご自身の御業である、ということです。

ペトロは、主イエスが行われる、救いの御業のための、器として用いられたのです。

自分自身は、空の器になって、それを通して、主イエスの救いの御業を、顕わしたのです。

ですから、「このことは、ヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」、と書かれているのです。多くの人が、ペトロを信じたのではないのです。主を信じたのです。

それは、ペトロが、どこまでも、主イエスに用いられる、器に徹していったからです。

そういう意味では、その器は、ペトロでなくてもよいのです。私たちの中の、誰であってもよいのです。その人が、特別に立派な、力のある人である、必要はありません。

肝心なことは、自分の全てを明け渡して、空の器となることに、徹しているかどうかです。

もし、そうなることができるなら、私たちも、ペトロのように、主イエスの御業を顕わすことができます。私たちが、主イエスの器に、徹していくならば、主イエスの御業が、私たちを通して、顕れるのです。

会堂建築とは、まさにそのような、業である筈です。主イエスの御業が、この教会に顕れる。それが、会堂建築の御業である筈です。

35節には、「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」とあります。

42節には、「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」とあります。

人々が、主に立ち帰ったのです。主を信じたのです。それが、この出来事によって起ったことでした。アイネアとタビタを見て、多くの人が、主の救いに、入れられたのです。

41節に、ペトロは、生き返ったタビタを、教会の人々や、やもめたちに見せた、と書かれています。この箇所を、新改訳聖書は、「生きている彼女を見せた」、と訳しています。

なぜ、ペトロは、わざわざ生きているタビタを、人々に見せたのでしょうか。

それは、主によって、生かされている人を、見せることこそが、伝道の最も有力な手段であるからです。伝道とは、主によって生かされている自分を、証ししていくことなのです。

その様な、証し人として用いられた、一人の婦人がいました。

ある牧師の本に書いてあった話です。その牧師の教会に、70歳代の、ご婦人がいました。

彼女は、人間的には、皆から好かれる、というタイプでは、ありませんでした。

言ってみれば、「この人のお嫁さんは、大変だろうなあ」と、誰もが思うような人でした。

つまり、一言も二言も多い、うるさ型だったのです。

そしてそれは、教会でも同じでした。牧師にも遠慮なく、注文を付ける。教会員の批判も平気でする。そのために、何人もの人が傷つきました。プライドの高い人でした。

そんな彼女が、ある時、片方の目が、見えなくなってきました。牧師が、お見舞いに行くと、布団に寝ておられました。

すると彼女は、自分の不安な気持ちを、正直に述べられました。手術に対する不安、そして、視力を失うことになるかもしれない、という不安が、彼女の心を大きく覆っていたのです。

その時彼女は、手を伸ばして、牧師の手を握りました。

そして、「先生、祈ってください」と、すがるように言ったのです。その牧師は、祈りました。

心から祈りました。結局手術は、上手くいきませんでした。視力は回復しなかったのです。

しかし、実は、もう一つの手術を、神様はなさっていたのです。

それは、彼女の心の手術でした。彼女が変わったのは、それからでした。

あれほどうるさ型でならし、不平や小言を絶やさなかった人が、大きく変えられたのです。

そのような不平や小言を、彼女の口から聞くことは、次第になくなりました。

それに変わって、「感謝です」という言葉を、いつも聞くようになったのです。

その牧師は、目を見張る思いでした。そして、彼女は、悪くなった目を凝らして、前よりもよく聖書を読むようになったのです。

大きな聖書に、大きな拡大鏡を当てて、一生懸命読むのです。

彼女の変わり様は、誰もが驚くほどでした。そして祈りの時は、自分がいかに傲慢であったかということさえも、告白するようになったのです。

そのへりくだった、幼子のような祈りは、共に祈る者の、胸を打ちました。

おぼろにしか見えない目で、自分にできる奉仕を、一生懸命するようになりました。

以前は、誰もが、早くこの人の前から去りたい、と思うような人でした。

その彼女が、いつの間にか、誰もが、「いつまでもこの人と共にいたい」、と思うような人に変えられていったのです。奇跡でした。主イエスの御業でした。

目が見えるようになる以上の奇跡を見た、とその牧師は書いています。

年令は関係ありません。彼女に起こった奇跡は、あの幼子のように、牧師の手を握りしめ、「祈ってください」と頼んだ、あの時から始まったのです。

プライドの高かったこの人が、それをかなぐり捨てる時が来た。そして、へりくだって、必死に祈ったのです。そして主は、その祈りに、確かに応えてくださいました。

主によって生かされている、彼女の姿は、主の恵みを証し、多くの人の心を動かしました。

彼女は、アイネアとなり、タビタとなったのです。

そして、それは、私たち、一人一人も、アイネアとなり、タビタとなることが、できるということを、示しています。

私たちは、お互いに欠けた、貧しい器です。しかし、その器を、空っぽにして、主イエスの御業が、そこに顕れることを、祈り求めていきましょう。

そして、「タビタ、起きなさい」、という主の御声に応えて、立ち上がらせて頂きましょう。

主によって、生かされている自分を、示していきましょう。