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「祈りの神秘」

2020年07月05日 聖書:マタイによる福音書 6:5~8

フォーサイスという神学者が書いた、『祈りの精神』という、古典的な名著があります。
その本の冒頭に、「最大の罪は祈らないことである」、という有名な言葉が書かれています。
「最大の罪は祈らないことである」。これは、「祈らないこと」それ自体が、最大の罪である、ということではなくて、あらゆる罪の根源に、祈らないということがある。
だから祈らないことが、結果として、最大の罪を引き起こすのだ、ということだと思います。
しかし、今朝の主イエスの御言葉は、祈らない人の罪を、問うているのではありません。
そうではなくて、よく祈る人の、間違った祈りを、指摘しておられるのです。
主イエスが指摘されている、間違った祈りとは、「偽善的な祈り」と「口先だけの祈り」です。
偽善的な祈りとは、「ワアー、立派な祈りだ」、と人々から褒められるための祈りです。
神様に聞いていただくためではなくて、人々に聞かせようとする祈りです。
そういう祈りは、神様を崇めるのではなくて、自分を高めることが、目的となっています。
口先だけの祈りとは、ただ言葉を重ねて、くどくどと祈る祈りです。
そのような祈りには、しばしば、傲慢な思いが隠されています。
これだけ長く祈ったのだから、もう私は責任を果たしましたよ。後は神様、あなたの責任ですよ。このように、神様に責任を転嫁するような、不遜な思いが心に潜んでいます。
主イエスは、そのような祈りをしてはならない、と教えられました。なぜなら、それは、祈りの形は取っているけれども、真実の祈りではないからです。
では、一体、祈りとは、何なのでしょうか。教会でよく言われるのは、祈りとは、キリスト者にとっての、呼吸である、ということです。人は、呼吸を止めれば死んでしまいます。
そのように、祈らなければ、信仰は活き活きとした力を、失ってしまいます。
しかし、祈りが呼吸であるとは、もう一つ、別の意味を持っています。
呼吸とは、「吸って吐く」、という行為です。吐くばかりで、吸わなければ、息が続きません。
ですから、吸うことと、吐くことの両方が、必要なのです。
祈りとは、神様との対話です。対話である以上、話すことと、聞くこと。その両方が必要です。
それは、呼吸が、吸うことと、吐くことの両方によって、成り立っているのと同じです。
話し掛けるだけで、聞くことをしないならば、対話になりません。
私たちは、祈りとは、私たちの願いを、神様に訴えることだと思っています。確かに、願うことは、祈りの大切な要素です。
しかし、実は、祈りの本質とは、聞くことにあるのです。
祈りを通して、神様の御声を聞く。それが、祈りの本質なのです。
聞くと言っても、神様の御声が、どこからか、耳に聞こえてくる訳ではありません。
ひたすらに祈っている時、突然のように、ある思いが、心に強く迫って来る。
祈りつつ聖書を読んでいる時、ある御言葉が、急に光に照らされて、目に飛び込んでくる。
祈り心をもって、説教を聞いていた時、ある説教の言葉が、胸に突き刺さるように、響いてくる。
そのようなことを通して、神様の御声を聞いていく。それが、祈りの本来の目的なのです。
主イエスは、そのような、祈りの本来の目的を果たすために、「偽善的な祈り」や「口先だけの祈り」を避けなさい、と言っておられるのです。
「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」、とあります。
当時、ユダヤの人たちは、日に三回、朝9時と正午と午後3時に祈りました。
すると、ある人たちは、その時間に、人の集まる場所に、わざわざ出かけて行って、両手を天に挙げ、頭を垂れて、大きな声で、とうとうと祈ったのです。
「神様の栄光が顕わされますように」、という言葉とは裏腹に、自分が称賛されたい、という思いが、その祈りには込められています。
ということは、人々から、「何と立派な祈りだろう」、と褒められれば、その祈りは、かなえられたことになります。
ですから主イエスは、「彼らは既に報いを受けている」、と言われたのです。報いを受け取って、勘定が済んでしまっているので、もはや、神様に期待することは、残っていないのです。
では、私たちは、どのように祈ったらよいのでしょうか。
主イエスは言われています。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
この御言葉の、原文を見ますと、全部訳されてはいませんが、たった1節の中に、「あなた」という言葉が6回も出てきています。
「あなたは、あなたの部屋に入って、あなたの戸を閉じて、あなたの父に祈りなさい。あなたの父は隠れた所で、あなたに報いてくださる。」
このように、「あなた」、「あなた」と、繰り返して語られています。それは、あなたと、父なる神様との、二人だけの交わりを、大切にしなさい、ということを強調するためです。
他の人を相手にしないで、神様だけとの交わりを作りなさい。そのために、一人で祈れる場所を作りなさいと、勧めているのです。つまり、密室の祈りをしなさい、と言っているのです。
私の家は狭いので、そんな部屋を用意することは無理です、と呟く必要はありません。
密室の祈りの場は、どこでも良いのです。私たちの心と思いを、神様だけに集中すれば、そこが、私たちと神様の、密室の祈りの場となるのです。
あのミレーの「晩鐘」の絵のように、野良仕事をする畑であっても、台所の片隅であっても、或いは電車の中であっても、どこにでも、神様と自分だけの場所は作れます。
私たちの神様は、神殿に行かなければ、お会いできない、というような方ではありません。
どこででも、お会いできるお方なのです。どこにいても、神様と二人だけの密室は作れます。そして、そこで、祈ることが出来るのです。これは、キリスト教の素晴らしい特色です。
勿論、人ごみの中で祈る時は、長い祈りはできません。一瞬の祈りであることもあります。
私は、サラリーマン時代、難しい取引先を訪問する時は、入り口のドアーを少し開けて、「主よ、どうぞ先にお入りください」と言って、主に先に入って頂き、私はその後に続きました。
そして、商談が難しくなった時は、心の中で、一瞬、「主よ、助けてください」、と祈りました。
このような祈りを、フラッシュ・プレアーというそうです。カメラのフラッシュのように、一瞬の祈りだからです。三浦綾子さんは、それを「射祷」と名付けています。
私は、この「射祷」に、ずいぶんと助けられました。なさってみると分かりますが、この射祷は、とても有効です。是非お勧めします。
たとえ一瞬であっても、神様と二人だけの祈りであれば、それは密室の祈りとなります。
祈りは、神様と二人きりの対話です。そこには、どんなに親しい者も、入り込む余地はないのです。主イエスも、そのような時を必要とされ、大切にされました。
朝早く起きられて、一人寂しい所に退かれて、父なる神様に祈られました。
私たちの主は、決して無責任なお方ではありません。ご自身がなさっておられることを、私たちにも、勧められておられるのです。
そして、神様は、どんな時も、私たちの祈りを、聴いてくださいます。あなたの話を聞きたいと、いつも待っていてくださるお方なのです。
神様は、私たちが望むなら、何時までも対話を続けてくださいます。神様の方から、「忙しいので、今日はこれ位で」と言われて、席を立たれることは、決してありません。
名医と言われるお医者様の診断を受けるのは大変です。かなり前から予約し、予約していても、何時間も待たされ、診察は僅か5分、というようなことも稀ではありません。
しかし、どんな名医にも優る、全能の神様は、私たちのことを、いつも待っていてくださるのです。そして、私たちが望む限り、何時までも、対話を続けてくださるのです。
あなたと話すことが、私の喜びなのだ、と言ってくださるお方なのです。何と感謝なことでしょうか。
さて、主イエスは、祈りについて、もう一つの間違いを、教えられました。
7節です。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」
誤解しないで頂きたいのですが、主イエスは、ここで、繰り返して祈ること、それ自体がいけない、と言われているのではありません。
主イエスご自身も、あのゲツセマネで、同じ祈りを三回繰り返されました。
また、長い祈り、それ自体が、いけないという訳でもありません。主イエスも、度々、徹夜で祈られました。また信仰の偉大な先達たちも、多くの時間を祈りに費やしました。
宗教改革者マルティン・ルターは、「私には、余りにも仕事があり過ぎて、一日に三時間は祈らないと、やっていけないのです」、と言っています。では、一体何が、問題なのでしょうか。
ここで、主イエスが指摘されている間違いは、「これだけたくさん祈ったのだから、神様は聞いて下さる筈だ」、と祈りの量によって、神様を動かそうとすることです。
神様を動かすために、同じ言葉を、無意味に繰り返すことを、主は戒めておられるのです。
主イエスは更に言われています。「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存知なのだ」。
この御言葉は、誤解され易い言葉です。父なる神様は、祈る前から、私たちに必要なものを、知っていてくださる。そうであるならば、祈る必要はないのではないか、という誤解です。
でも、そうではありません。祈りとは、対話です。ですから、それは、交わりなのです。
父なる神様と、その父の一方的な愛によって、子として頂いた私たちとの交わり。
父と子の愛の交わり。それが祈りです。
祈りは、取引ではありません。これだけ祈ったから、かなえられる筈だ、というような取引ではないのです。祈りの本質は、取引ではなく、父と子の愛の交わりです。
祈りは、単に、私たちが願いを訴える、ということに止まりません。祈りが愛の交わりである以上、私たちは、祈りを通して、父なる神様への信頼を深めていくのです。
私たちは、祈りの中で、罪を告白します。願いを伝えます。助けを求めます。そして、祈りの中で、父を賛美するのです。
ですから、神様が全てを知っておられるから、祈る必要はない、ということはないのです。
小さな子が、転んでひざを擦りむきました。その子は、「いたいよー」と言って泣きます。
母親は、どこが痛いのか知っています。でも、その子に聞きます。「どこが痛いの?」
その子が、「ここー」と答えます。母親は、優しくその傷口に触れて、「痛いの、痛いの、飛んでイケー」と言います。この愛の交わりで、その子は、母親の愛を確認します。母親への信頼を深めます。そして、その子の痛みは、薄れるのです。
全部知っていてくださる神様だからこそ、訴えるのです。分かってくださっている神様だからこそ、願うのです。私たちは、分かってもくれない人に、頼むことはありません。
何でもご存知の神様は、私たちに、尚も聞かれるのです。「どこが痛いの。何が欲しいの」。
それに応えて、私たちは、神様に、欲しいものを求めます。して頂きたいことを願います。
しかし主は、私たちの「欲しいもの」ではなくて、私たちに「必要なもの」を与えて下さいます。
実は、私たちは、自分に本当に必要なものを、分かっていません。ですから、まず、欲しいものを求めるのです。
しかし、主は、私たちが、本当に必要とするものを、知っておられます。それでも、私たちが欲いものを、まず聞いてくださるのです。なぜでしょうか。
それは、私たちに、本当に必要なものを、悟らせるためです。そのために、まず、私たちに、欲しいものを、求めさせるのです。
私たちは、自分の欲しいものを、自由に祈ることを、許されています。
しかし、その祈りを続けていくと、やがて主の御声を聞くのです。
「お前は、あれが欲しいと言っている。しかし、お前に本当に必要なものは、これなのだよ。」
私たちは、祈りを通して、この主の御声を聴き、本当に必要なものを、教えられるのです。
以前にもお話ししましたが、私が初めて転職しようとしたとき、100日の祈りをしました。
長く勤めた日本の銀行にも愛着がある。でも、誘いを受けている仕事も魅力的だ。
「どちらで働くのが良いのか、御心を教えてください」。この祈りを100日間祈り続けました。
ちょうど100日くらい経った頃、ある思いが、私の心に激しく迫って来ました。
「お前は、どちらで働くのが良いのかと、私に尋ねている。選択の責任を、私に負わせようとしている。
しかし、どこで働くかとか、どんな仕事をするか、ということは、それ程大切な事なのだろうか。
もっと大切な事は、どこで働こうとも、どんな仕事をしようとも、そこで、お前が、キリスト者としてどう生きるか、ということではないのか。そこで、お前が、自分の救いを全うする、ということではないのか。」
私は、この示しを、神様の御声と、受け取らせて頂きました。
私は、どちらで働くべきかを、祈りの中で尋ねていました。それが、私の欲しい答えでした。
しかし、主は、私の欲しい答えではなく、私に必要な答えを、与えてくださったのです。
私たちの天の父は、私たちのことを、全て知っておられます。その上で、尚も、私たちの自分勝手な願いも、全て聞いてくださいます。
その上で、私たちに、本当に必要なものを、与えてくださるお方なのです。
私たちは、その父の子の、愛の交わりの中で、祈ることが許されています。
この恵みを感謝しつつ、共に主を見上げて、祈りを合わせてまいりたいと思います。