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過去の礼拝説教

「魂を生き返らせる恵み」

2017年09月10日 聖書:ルツ記1:19~22、4:13~17

日本の代表的な、キリスト者の一人である、内村鑑三は、その若き日に、「後世への最大遺物」、という講演をしています。

その中で、天文学者ハーシェルの言葉を、引用しています。「わが愛する友よ、我々が死ぬときには、我々が生まれたときより、世の中を少しなりとも、よくして往こうではないか」。

これが、若き日の、内村の志でした。内村は、この言葉の通りに、生きようとしたのです。

では、世の中を、少しなりとも、よくするための、「後世への遺物」とは、何なのでしょうか。

その講演の中で、内村は、「お金」、「事業」、「思想」を、挙げた後に、更に続けて、こう言っています。

「お金」、「事業」、「思想」。確かに、これらのものは、価値あるものである。しかし、誰でもが、残せるものではない。では、誰でもが残せて、しかも、後世への最大の遺物とは何か。

それは、「勇ましい高尚なる生涯」である。内村は、このように言っています。

では、その「勇ましい高尚なる生涯」とは、どのような生き方なのでしょうか。内村自身の、言葉をもって、紹介します。

「高尚なる勇ましい生涯とは、何であるかというと、この世の中は、決して、悪魔が支配する、世の中にあらずして、神が支配する、世の中であるということを、信ずることである。

失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを、信ずることである。

この世の中は、悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中である、という考えを、我々の生涯に実行して、その生涯を、世の中への贈物として、この世を去る、ということであります。」

この言葉は、一世紀以上の時を経た、今でも、決して、色あせていません。

私たちの、誰もが残せて、しかも、最大の後世への遺物。それは、「勇ましい高尚なる生涯」である、と内村は言っています。しかし、この「勇ましい高尚なる生涯」とは、決して、人々が賞賛するような、英雄的な生き方の、ことではありません。

この世は、悪魔ではなく、神様が支配する、世の中である。だから、希望の世の中であり、喜びの世の中である。このことを、自分の生き方を通して、示していくことなのです。

皆さん、今朝、私たちは、高齢祝福の祈りを献げる、礼拝を守っています。

80歳以上の、信仰の先輩方の、これまでの歩みに注がれた、神様の祝福を覚えて、感謝する時を、共にしています。

ご本人たちを、前にして、失礼かもしれませんが、今朝、私たちが、祝福させていただいている先輩方は、内村が言う、勇ましい高尚なる生涯を、送って来られた方々だと思います。

恐らく、ご本人たちは、「いえ、私など、とても、そんな者ではありません」、と言われると思います。しかし、ご高齢になられても、礼拝を大切にされ、礼拝において、神様に出会うことを、喜びとされておられる。その喜びに満ちたお姿。輝いたお姿。

それこそが、勇ましい高尚なる生涯である、と思うのです。私たち、後に続く者たちは、そのお姿によって、どれほど励まされ、どれほど力づけられて、いるでしょうか。

そのお姿を、拝見することを通して、私たちは、この世は、神様が支配する、世の中であって、希望の世の中であり、喜びの世の中である、ということを、信じることができるのです。

「勇ましい高尚なる生涯」を、今、ここに、見ることができるのです。

ある教会での話です。ご高齢のご婦人の信徒が、重い病で入院されました。

重態なので、面会できない、と言われて、その教会の牧師は、お見舞いにも行けずに、ただ心配して、祈っていました。

ところが、そのご婦人が、入院から四週間目の、主日礼拝に、出席されたのです。

会衆席に座っている、そのご婦人を見て、牧師は、びっくりしました。そして、礼拝後に、真っ先に、そのご婦人のところに、駆け寄って、声をかけました。

「どうして出てきたんですか。お医者さんも止めたでしょう、家族も止めたでしょう」。

「はい。皆が止めようとしました。しかし、病院から来ました。」

そのご婦人は、そう言いながら、牧師の顔を、じっと見て、こう言いました。

「先生まで、私をお叱りになるの。私がどんな思いで、ここに来たか、分かっていただいていますか」。牧師は、その厳しい口調に、思わず、口をつぐんで、しまったそうです。

「分かりました。もう言いません。あなたと、神様との問題なんですよね」。

これは、牧師の介入することではない、と思わされたそうです。

そのご婦人は、命を賭けて、礼拝に来られたのです。礼拝の席に、一時でも座っていたかったのです。信仰の仲間たちと、神の家で、共に祈りを、合わせたかったのです。

詩編27編4節に、こういう御言葉があります。

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。」

神殿で一夜を明かす。歌を歌い続け、祈り続けながら、朝が来るのを待つ。

こんなに嬉しいことはない。ただそれだけを、願い求める、と詠っているのです。

そのご婦人も、そして、今朝、ここにおられる、信仰の先輩方も、同じような、お気持ちなのだと思います。このような生き方こそ、勇ましい高尚なる生涯である、と思います。

新約聖書にも、このような、「勇ましい高尚なる生涯」を、送った人々が、多く登場します。

その中の一人に、シメオンという人がいます。ルカによる福音書2章22節以下に、登場する人です。

主イエスが、ベツレヘムで誕生されてから、40日後に、ヨセフとマリアは、幼な子イエス様を抱いて、エルサレム神殿に詣でました。律法に定められた、初子を主に献げる儀式を、行なうためです。その時、このシメオンと出会いました。

シメオンは、この時、既に、かなりの高齢であった、と思われます。そのシメオンが、神殿で、幼な子イエス様を見て、喜びに満ちて、幼な子を、抱き上げ、歓喜の歌を歌ったのです。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

シメオンは、「わたしはこの目で、あなたの救いを見た」、と言っています。この時の、シメオンの目の輝きは、どれほどのもので、あったでしょうか。

この人の生涯について、聖書は、何も記していません。ただ、シメオンは、生涯を通して、神様を信じ、イスラエルの慰められるのを、ひたすら待っていた、とだけ書かれています。

シメオンは、救い主は、必ず来られると信じて、それまでの長い人生を、生きて来たのです。

どんな時にも、その希望を、決して、失わずに、ひたすらに待ったのです。

恐らく、シメオンの目は、今の現実ではなく、遠くの希望を、見る目であったと、思います。

そのような目を、持っていたからこそ、生まれたばかりの、貧しい幼な子の中に、救いを見い出すことが、できたのだと思います。

これこそが、内村が語る、「勇ましい高尚なる生涯」である、と思います。

旧約聖書にも、ひたすら待った結果、高齢になって、待望の幼な子が与えられ、喜びと希望に、満たされた人の話が、記されています。

ルツ記に出てくる、ナオミという女性です。この人も、主の恵みを、ひたすらに待った人です。神様の支配を信じて、「遠くの希望を見る目」、を持った人です。その意味では、「勇ましい高尚なる生涯」を、生きた人です。

先程、ルツ記から、二ヶ所の御言葉を、読んで頂きました。

ルツ記は、今から三千二百年程前に、パレスチナに生きた、小さな家族の物語を、記しています。夫エリメレクと、妻のナオミ、そして二人の息子。4人の小さな家族の物語です。

この一家が、飢饉を逃れるために、故郷のベツレヘムから、遠く離れた、モアブという地に、移住することを決意します。移住先の、モアブの地で、安定した生活を、送れたのも、つかの間。やがて、一家の大黒柱である、エリメレクが死んでしまいます。

そして、苦労して育てた、二人の息子も、相次いで死んでしまいます。後には、ナオミと、二人の息子の、嫁たちだけが残されます。

ナオミは、自分の一生を振り返って、しみじみ、思ったのではないか、と思います。

生きるために、一家四人で、故郷を離れて、遠くモアブの地に、移り住んだ。しかし、その四人が、今は、一人になってしまった。私は一体、何のために、苦労したのだろう。

ナオミは、そのように感じながら、足取り重く、故郷へ帰ります。

二人の嫁の内、一人は、実家へと、帰っていきました。しかし、もう一人の嫁のルツは、どうしても、ナオミと一緒に行く、と言って、離れようとしません。

ルツは、苦難の中でも、ナオミが、必死になって、神様に、よりすがっている姿を、見てきました。そして、自分も、その神様に、従って行きたいと、願うようになっていたのです。

ルツは言いました。「あなたの神はわたしの神です。私は、あなたから、離れません。」

ナオミは、ルツの決意が、固いのを見て、ルツを伴って、故郷のベツレヘムに、帰ります。

帰って来たナオミを見て、町中が、どよめきました。女たちが、集まってきて、「ナオミさんではありませんか」、と声をかけてきます。皆が、再会を喜びました。

ところが、ナオミは、そういう喜びを、きっぱりと否定するのです。

「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」、とナオミは言います。ナオミという言葉は、「快い」、という意味の、言葉なのです。

ナオミは、「私を、快いなんて、呼ばないでちょうだい。呼ぶのなら、苦いとでも、呼んでちょうだい」、と言ったのです。その言葉に続けて、ナオミは、神様の名前を4回も口にします。

「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」

出て行くときには「満たされていた」。希望があった。しかし、神様はその私を、ひどい目に遭わせ、うつろで帰らせた、とナオミは言うのです。

こんなに激しい、神様への抗議の言葉を、口にしてよいのだろうか、と思わされます。

しかし、聖書の神は、それを許しています。神様に対して、いつも整った、優等生の祈りを、しなければならない、ということはないのです。

ある時は、神様に文句を言い、ある時は、神様につっかかる。そういうことが、あっても良い、と聖書は言っています

神様は、そういう祈りを、広い愛のお心をもって、しっかりと、受け止めてくださいます。

ナオミも、そういう祈りを、しています。「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」。

ドキッとするような、嘆きの言葉を言っています。

しかし、ナオミの、この嘆きは、諦めからくる、嘆きではありません。そうではなくて、嘆きをぶつける相手を、それでも尚も、信頼しているからこそ、出てきた言葉なのです。

ナオミは、誰が、自分を、この痛み、苦しみから、救い出してくれるかを、知っています。

自分には、神様の仕打ちが、今は、分からない。だから、嘆かざるを得ない。

でも、神様は、きっと、この悲しみから、私を救い出してくれる。神様の、慈しみの眼差しは、今も注がれている筈だ。ナオミは、今は見えないけれども、確かに用意されている、神様の救いのご計画を、望み見ているのです。

ルツ記のテーマは、一人の年老いた女性に、現された、「人間の救い」です。

人間を救うのは、経済でも政治でも、ありません。神様が、顧みてくださることなのです。

生きる力も、生きる希望も、そこから湧いて来るのです。

冒頭の内村の言葉を借りれば、この世の中は、決して、悪魔が支配する、世の中ではない。神様が支配する、世の中である。そのことを、信じて生きることなのです。

そこから、生きる希望が、湧いてくるのです。ナオミは、悲嘆の中にあっても、尚も、そのことを、信じているのです。

しかし、1章では、「救い」は、まだ隠されたままです。神様の用意された、救いの御業は、4章になって、明らかになります。

ナオミの亡き夫、エリメレクの、遠縁にあたる、ボアズという、その土地の有力者が、嫁のルツと、再婚したのです。

4章13節で、「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」、と聖書は語っています。

神様のご計画は、人の思いを越えて、進められていくことが、ここに書かれています。

ルツが生んだ、男の子を見て、ベツレヘムの女たちは、ナオミに言います。

4章14節、15節です。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を、今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう」。

女たちは、ナオミに、「魂を生き返らせる、老後の支え」が、与えられた、と言っています。

ルツ記は、現代の大きな課題である、高齢者問題についても、貴重な示唆を、与えてくれています。

「魂を生き返らせる」とは、言い換えれば、生きる意味を、見出すことです。

ルツに、子供が生まれたことによって、ナオミの魂は、生き返らされたのです。

生まれた子が、ナオミに、生きる意味を与えたのです。ナオミの生きがいと、なったのです。

高齢者問題は、ただ施設を整え、介護を充実すれば、済む訳ではありません。

高齢者が、心豊かに暮らすことが出来なければ、まことの問題解決には、ならないのです。

東京の青梅市に、「にじのいえ信愛荘」という、引退牧師と、その連れ合いのための、施設があります。

私は、神学生のとき、度々、そこを訪れ、入居されておられる、引退牧師の先生方と、お話させていただきました。訪問のたびに、驚かされるのは、先生方の心の豊かさです。

90を過ぎた先生方が、夢を語って、くださるのです。次は、こんな学びがしたい。出来れば、こんな本を書きたい。そのような、将来の計画を、熱っぽく語ってくださいます。

そこにおられる、先生方は、生きる意味を、見出しておられます。生きがいを、持っておられます。魂が、死んでいないのです。魂が、生き返らされているのです。

内村が言う、後世への遺物となる、「勇ましい高尚な生涯」が、そこにあります。

高齢者問題に、本当に、必要なことは、どうやって、魂を生き返らせるか、ということです。

それは、主の慈しみの中に、希望を見出すことによって、与えられるのではないでしょうか。

ルツ記は、既に3千年以上前に、そのことに気づき、私たちに問い掛けているのです。

魂を生き返らせるとは、主の慈しみに生かされて、希望の中を、生きることです。

神様の慈しみは、全てを失った、と思っていた、老婦人ナオミの魂を、生き返らせました。

老後の支えと、生き甲斐とを与え、失われた喜びを、回復させてくださいました。

信仰者の人生は、決して、「うつろ」に終わるものでは、ありません。

生まれた子はオベドと言い、その子は、ダビデの祖父になった、と書かれています。

そして、ダビデから、28代目の家系に、イエス・キリストが、生まれたのです。

何と、ナオミは、神様の、偉大な救いのご計画にも、用いられることに、なったのです。

しかし、この時、ナオミは、そのようなことを、夢にも思ってもいません。

ナオミは、ダビデすらも、見ていません。ナオミからダビデまで、家系図で言えば、四代先です。およそ、100年先です。

しかし、ベツレヘムの女たちは、年老いたナオミを、祝福して言いました。

「どうか、イスラエルで、その子の名が、あげられますように。」

ナオミは、女たちの、この祝福の祈りを、素直に受け入れ、遠くの希望を、望み見て、喜んでいるのです。聖書は、100年先を望んで、喜ぶという、信仰を示しています。

シメオンもそうでした。今の現実ではなく、遠くの希望を、見る目を持って、生きていました。

ですから、生まれたばかりの、主イエスに、既に、神様の救いを、見ることができたのです。

ナオミも、シメオンも、この世の中は、悪魔が支配するのではなく、神様が支配されている、ということを、見ていました。

この世は、希望の世の中であり、喜びの世の中である、という信仰に、生きていたのです。

これが、後世に残すべき、「勇ましい高尚なる生涯」です。

今朝、ここにおられる、信仰の先輩方も、そのような人生を、生きてこられました。苦しみをも、喜びに変えてくださる、主の慈しみを信じて、歩んでこられました。

後に続く私たちも、それに倣って、主の慈しみを信じ、遠くの希望を見る目をもって、歩んで行きたいと思います。

後世に残す、「勇ましい高尚なる生涯」を目指して、共に、歩んでまいりたいと思います。