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過去の礼拝説教

「行きなさい。私の愛の内を」

2013年06月30日 聖書:ヨハネによる福音書 8章 1 – 11 節

今朝は、先程読んで頂きましたヨハネによる福音書の8章1節から11節までのテキストから、ご一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。

ここには、主イエスが姦淫の現場で捕えられた女性を赦す物語が記されています。一度読んだら、忘れることができなくなるような印象的な物語です。

ウィリアム・バークレーという神学者は、この物語を「福音書の中で最も美しく、最も大切な物語の一つである」と言っています。

また、内村鑑三は、ここに「全福音書の縮図がある」とまで言っています。

今朝、私たちは、そのような御言葉の恵みの中に全身を沈めて、浸り切りたいと思います。

さて、聖書を読む時、その情景を目に浮かべ、心に描きつつ読むと、御言葉の恵みがより一層豊かに与えられると思います。

今日の御言葉も、出来るだけその場の状況を想い描きながら、あたかも自分がその場にいるような想いで、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

先ず始めに、この出来事がどのような状況の中で起こったのかを、簡単に眺めてみたいと思います。

聖書によれば、この出来事は、仮庵の祭りの最終日か、その直後に起こったとされています。仮庵の祭りは、秋分の日の後に来る最初の満月から一週間にわたって祝われました。

従って季節は10月の初め頃となります。時間は朝、それも早朝です。

場所はエルサレム神殿の境内と記されています。そこで主イエスは、民衆に説教をしておられました。この時、主イエスは座って話されていたと書かれていますから、きっと石段か何か、ちょっと高い所に腰掛けられて、人々に話されていたと思われます。

爽やかな秋の日の早朝、エルサレム神殿の境内で主イエスの説教を、静かに聞いている人たちがいる。きっとそこには、平和と恵みの空気が穏やかに流れていたと思います。

ところが、その真只中に律法学者とファリサイ派の人たちが、無遠慮に、そして騒々しく、割り込んできました。

彼らは、姦淫の現場で捕らえて来た女性を、民衆の真中に引っ張り出して立たせた、と聖書は伝えています。

そして、彼らは主イエスに問います。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

姦淫は十戒の中の第7番目の戒めとして、厳しく禁じられています。

結婚は、神が定めた聖なる秩序であるから、人はこれを壊してはならないという教えです。

そして、これを破った場合には、石打による死刑と定められていました。

ところで、ここで不思議に思うのは、姦淫の相手の男性のことです。

現行犯であるなら、男性も一緒に捕らえられた筈ですが、連れてこられたのは、何故か男より立場の弱い女性の方だけでした。

しかし、律法学者やファリサイ人にとっては、そんな事はどうでも良かったのです。

彼らの目的は、主イエスに律法の正しい解釈を尋ねて、裁きを仰ぐ事ではなくて、主イエスを陥れて告発するためでした。女性はそのための罠として使われたに過ぎなかったのです。

これは実に卑劣な、しかし巧妙に仕組まれた陰謀でした。

なぜなら、もし主イエスが、「石打の刑にせよ」と言えば、今まで主イエスが説いてきた愛と赦しの教えに矛盾します。民衆は、主イエスに失望し、主イエスから離れていくでしょう。

また、もし、「この女を赦しなさい」と言えば、主イエスが、律法違反を指示したとして訴えることが出来ます。

神の言葉である律法に対する冒瀆だとして、主イエスご自身が、石をもって打たれる可能性が生じてきます。

どちらの答えでも、主イエスを失脚させることが出来るように仕組まれていました。

彼らは、主イエスを完璧な袋小路に追い詰めたと確信しました。

これであの目障りなイエスを失脚させることが出来ると、彼らはほくそえみ、勝ち誇ったように主イエスに返答を迫りました。 「さあ、どうされますか?どうなんですか?答えてください」。

ところが、主イエスはここで不思議な行動を取られます。

「かがみこんで指で地面に何かを書き続けられた」と聖書は伝えています。

主イエスは、一体何を書かれていたのでしょうか。

もしかしたら、「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」という、あの山上の説教の一節を書かれていたのかもしれません。

或いはまた、集った群衆の中で、罪を犯して、神様から離れている人の名前を、一人ずつ書いておられたのかもしれません。

この時主イエスが何を書かれていたのか。大変興味深い問いですが、誰もその答えを持っていません。

この不思議な行動については、色々な説明がなされていますが、一つ考えられることは、女性に対する主イエスの思い遣りです。

姦淫の現場で捕らえられたというこの女性に対して、人々は軽蔑と、好奇心と、更には下される裁きへの期待が入り混じった、冷たい、残酷な視線を、容赦なく浴びせかけていました。

しかし、主イエスが地面に屈みこんだ事により、人々の視線は、恐怖と恥ずかしさで震えている女性から、主イエスの方へと向けられました。

主イエスは彼女の恥と恐怖を、代わってその背中に負われたのでした。

この主イエスの予想外の行動に、問い詰めていた人たちは当惑しました。

彼らの予想では、主イエスは追い詰められて、オロオロしながら、どちらかの答えをする筈でした。

そして、その答えがどちらであっても、彼らは主イエスを陥れることが出来る筈でした。

しかし、主イエスは無言のまま、地面に何かを書いておられました。そのお姿に、彼らは当惑し、不安を覚えながらも、なおも主イエスに回答をしつこく迫っていきました。

やがて主イエスは立ち上がり口を開かれました。

ここで主イエスが語られた三つのお言葉に注目していきたいと思います。

聖書の中で、主イエスが直接話法で語られている時、そのお言葉は Key Word である場合が多いからです。

先ず、主イエスは、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。

確かに、この女のしたことは悪い。彼女には罪がある。だから律法によって裁かれるなら、それは正しいことである。

しかし、あなた方はどうなのか?罪があるのは彼女だけなのか?

主イエスのこのお言葉は、偽善と悪意に満ちた彼らの心を、鋭く刺し通しました。

この主イエスの一言によって、状況は一変しました。今まで「さぁ、どうなんですか」と回答を迫っていた人たちが、逆に問い詰められる事になりました。

主イエスを裁こうとしていた人たちが、逆に裁かれる立場に置かれる事になったのです。

「自分には全く罪がないと言える人が、最初に石を投げなさい」。この主イエスのお言葉を聞いて、そこにいた人たちは、夫々自分の歩んできた人生を振り返ったことでしょう。

そして、自分は罪を犯したことがないと、自信を持って言うことなど、とても出来ないということに気付かされました。

ただ、もし、このことを言われた方が、主イエスでなかったなら、或いは石を投げた者がいたかも知れません。

そして、もし、一人が投げれば、後はもう堰を切ったように、全員が競って石を投げることになったことでしょう。

しかし彼等は、今、主イエスの前に立っているのです。

主イエスは、実際に行為を行なわなくても、姦淫を犯す思いをもって女を見る者は、すでに姦淫の罪を犯しているのだ、とまで言われました。

その、お方の前に立っているのです。

そのような、全き聖さである主イエスの前に立った時、人はその汚れを、否応無しに意識させられます。光の少ない所では汚れは見えません。

しかし、全き光の中では、普段見えなかった汚れもくっきりと浮かび上がるように、主イエスの前では、人は自分が、全く罪を犯したことが無いなどとは言えなくなります。

主イエスは、たった一言言われると、また身をかがめて地面に何かを書き続けられました。

重苦しい沈黙が訪れ、人々の中に何か気まずいような緊張感と、聖なる畏れが漂い出します。

やがて、いたたまれなくなったかのように、年長者から一人去り、二人去り、遂に全部の者が去って行き、主イエスと女性だけが残りました。

聖なる静寂の後に、主イエスは身を起こして女性に言われました。

「婦人よ。あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

彼女は答えます。「主よ、だれも」、「誰もいません。主よ、あなただけです」。

主イエスのお言葉、「あなたを罪に定める者はなかったのか」、に注目したいと思います。

ここで主イエスは、全ての人は罪の中にある、だから人間は誰も、他人を罪に定めることも、罪を裁くこともできないのだ、と言われているのです。

と言うことは、同時に、誰も罪を赦すことも出来ない、ということを言われているのです。

この女性は、石打の刑から免れました。まさに九死に一生を得たと安堵したことでしょう。

しかし彼女にとって、この時点は未だ物語の最後、ハッピーエンドではありませんでした。

皆は去っていきましたが、後にただ一人、主イエスが残っておられます。

この主イエスが、人間は誰も他人を罪に定めることは出来ない、と言って下さった。この言葉によって、彼女は命を救われました。

しかし同時に主イエスは、人間は誰も他人を赦すことも出来ないのだ、と言われているのです。これは、「だからあなたの罪はまだ残っていますよ」という、まことに厳格なお言葉でもあるのです。このままならば、この女性は、これから先、一生自分の罪を負って、苦しんでいかなければなりません。そのことを、主イエスのお言葉は暗示しています。

赦す者がいないのであれば、目に見える石は、もはや飛んでこないかもしれませんが、彼女にまことの救いもないのです。

そして、その時、彼女は気づくのです。

このイエスというお方は、全く聖なお方であるが故に、他人を罪に定めることも出来るし、また他人を赦す事も出来る、ただ一人のお方なのだ。

自分が真実に恐れなくてはならない方は、彼女を死刑にしようとした律法学者やファリサイ人ではなく、このお方なのだ。自分は今、そのお方の前に立っている。

彼女は、そのことを知らされたのです。

マタイによる福音書10章28節で、主イエスは、「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました。

この主イエスのお言葉の通り、彼女は、まことに恐れなくてはならない唯一のお方の前に立っている自分を、この時、発見したのです。

大勢の群集は、自分に何も出来ずに去っていった。しかし、このお方は、私を罪に定めることも、私を赦すこともお出来になる、唯一のお方であることを彼女は知ったのです。

彼女は固唾を呑む思いで、主イエスの次のお言葉を待ちました。

主イエスが第3のお言葉を語られます。

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」

「私もあなたを罪に定めない」。主イエスがこの言葉を言われる時、それは「私はあなたを赦す」と言う意味をも含んでいます。

この第3のお言葉によって、婦人は初めて救いに入れられたのです。

主イエスは、彼女の罪を赦すと言われました。

では、どういう仕方で罪を赦すと言われたのでしょうか。

罪を見て見ぬ振りをする、ということなのでしょうか?

或いは、「まあ、今回は見逃してやるよ」と言って、罪を不問にふすということによってでしょうか?そうではありません。

それは、ご自身が十字架で、身代わりになって罰を受けるという仕方で、彼女の罪を赦すということであったのです。

主イエスは、ここで、姦淫の女を赦すと言われました。

この時、主イエスは、十字架での痛みを、既に味わっておられたのです。

主イエスの十字架は、主イエスの地上でのご生涯の最後だけに起こった出来事ではないのです。その全生涯を通して、常にその背後に存在し続けたのです。

この主の十字架の愛によって、私たちは始めて赦されます。私たちの罪がどこかにフッと消え去ってしまうのではないのです。

そうではなくて、主イエスが罪を代わって負って下さっているのです。このことを忘れないようにしたいと思います。

さて、主イエスは、姦淫の女を赦すと言われた後に、「行きなさい。」と言われました。

しかし、ここでちょっと考えてみて下さい。

主イエスはこの女に、一体どこに行けと言われているのでしょうか。姦淫の大罪を犯して捕らえられた女です。そんな彼女に、一体何処へ行けと言われるのでしょうか。

もし、この女が結婚していたとしても、夫の元に帰ることなどとても出来ないでしょう。

家族も、大罪を犯した彼女を、快く迎えてくれることはないでしょう。

社会からも、つまはじきにされてしまうでしょう。

彼女の行くところなど、何処にもないように思われます。それでも、主イエスは「行きなさい」といわれます。 一体、どこへ行けばよいのでしょうか?

主イエスはここで、「父なる神の所に行きなさい」と言われているのです。

「あなたは先ず父なる神に立ち返りなさい」と言われているのです。

そして、それはまた、あなたが赦された原点である、「私の十字架の愛のうちを行きなさい」、ということでもあります。

「どこにも行くところがない」、「誰にも受け入れてもらえない」。

あなたが、そのような絶望と孤独の中にいる時も、私はあなたと共にいる。

誰からも愛されていないと思うような時にも、私はあなたを愛している。

そのために私は、十字架で肉を裂き、血を流したのだ、と主は言ってくださっているのです。

なんという慰めに満ちたお言葉でしょうか。

教会は姦淫の女のように、本来は死刑にされる所を、主イエスの十字架によって赦された者の群れです。

私たちも人生の旅路の中で、どこにもいく所がないと思うような、困難に会うことがあります。

そのような時は、主イエスの豊かな愛に戻りましょう。

主イエスは今日も言われています。「行きなさい。私の愛のうちを」。

主イエスの十字架の愛は、一方的に無償で与えられる無限の愛です。

しかしこの愛には、一つの切なる願いが込められている事を、忘れてはならないと思います。

それは、主イエスの最後のお言葉、「これからはもう罪を犯してはならない」という願いです。

この姦淫の女は、絶体絶命の危機の中で、最も惨めな、どん底の状態で、主イエスと出会いました。そして、こんなに罪深い自分をも、命を懸けて愛して下さる主イエスの愛を知りました。

彼女はこの主イエスの愛によって砕かれ、新しい人に変えられたのです。

今までは、この世の快楽をひたすらに追い求めていました。好きならば、他人の夫を愛しても良いではないか、という自己中心的な欲望に捕らわれていました。

しかし今や、彼女の心は、主イエスの愛と赦しの恵みに満たされています。

その恵みに押し出されて歩もうとする時、どうして再び罪の中に戻ろうと思うでしょうか。

「罪を犯さない」ということは、完全無欠の人になりなさい、という意味ではありません。

そんな人は、どこにもいません。

そうではなくて、神様を拒むことのないように、主イエスを拒むことのないように生きなさい、ということなのです。

この世の快楽や富、名誉を喜ぶのではなく、主イエスの愛を喜ぶ生き方をしなさい、ということです。

このような自分にも注がれている、主イエスの愛の大きさに圧倒され、主イエスを心から愛するものとされる生き方。

今や、この姦淫の女には、このよう生き方しか残されていません。

いえ、このような生き方しか考えられません。

主イエスの愛にすがるほかに、生きる術を持っていません。

その女に主イエスは言われました、「行きなさい、わたしの愛のうちを。これからはもう罪を犯してはならない。」

今朝、私たちは、この御言葉を、主イエスが私たち一人一人に下さった御言葉として、頂いてまいりたいと思います。