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過去の礼拝説教

「そのままの君がすき」

2013年07月28日 聖書:申命記7章6~15節

アメリカの人気作家で、牧師でもある、マックス・ルケードという人が書いた『そのままのきみがすき』という、すてきな絵本があります。ストーリーはとても簡単です。

5人のみなし子の兄弟が、助け合って暮していることを知った王様が、5人を自分の養子に迎えようとします。それを聞いて大喜びしたみなし子たちは、王様に気に入られる子供になろうと、それぞれに与えられた才能を駆使して王様への贈り物を準備します。

一番上のお兄さんは木彫りの彫刻を、上のお姉さんは美しい絵を、下のお姉さんはマンドリンと歌を、下のお兄さんは物知りなところを披露しようと一生懸命に勉強しました。

ところが、一番下の女の子は何も特技が無いために、贈り物を用意できません。

お兄さんやお姉さん達がわき目も触れずに贈り物を用意している中で、一番下の女の子は一人だけさびしい思いをして日を過ごします。

そんなある日、村に一人の旅人がやってきます。疲れた旅人に、その女の子は水を飲ませ、話し相手になります。その旅人は、人を捜しに来たのですが、捜していた人たちは、皆、彫刻や、絵や、歌や、勉強に忙しくて旅人の話を聞こうともしなかった、とがっかりしています。

女の子はこの旅人がお忍びで来られた王様であることに気が付きます。そして、尋ねます。

「私、王様に何も差し上げるものが無いの。でも、私、王様の子供になりたいの」。

王様はにっこり笑って答えます、「お前は私の子だ。私は、そのままのお前が大好きだよ」。

こうして、この女の子は王様の養子になれたというお話です。

なぜこの絵本を紹介したかと言いますと、この物語の中の王様を主なる神様、女の子をイスラエルの民に置き換えると、この小さな物語は、今日の御言葉と重なるからです。

この女の子のように、何の取り柄も無い小さな民であるイスラエルを、神様はただ一方的な愛をもって選び、ご自分の宝の民とされた、と御言葉は語っています。

今日の御言葉は、旧約聖書が「神様の愛と選び」を語った代表的な箇所です。

先ず6節で御言葉は、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」、と力強く語っています。この御言葉は、その直前の1節~5節と深く関わっています。

1節~5節では、イスラエルが、カナンの土着宗教や異教的風習と一切関わってはならない、という大変厳しい命令が語られています。そのような土着宗教を信じる民とは、一切縁組をしてはならないし、憐みを施してもならない、と厳しく命じられています。

それを受けて、6節では、主が、なぜそのような厳しい命令を下されたのか、その理由が述べられています。新共同訳聖書では訳されていませんが、聖書の原文では6節の冒頭に「なぜなら」という言葉があります。

なぜなら、あなたは「主の聖なる民である」から。このことが、その理由だと言うのです。

「聖なる」という言葉は、「分離する」ことを意味する言葉です。

神様に属するものと、そうでないものとの区別を表す言葉です。

あなた方は聖なる民、即ち、神様に属する者なのだ。だから、ほかの神々との関わりを一切断って、主なる神様のものになり切りなさい。御言葉はそのように語っているのです。

よく、信仰とは「あれもこれも」ではなく、「あれかこれか」の決断であると言われます。

信仰に中途半端は有り得ません。究極的には神様を愛するか、拒否するか、のどちらかなのです。神様に全く属して、神様のものになり切るか、或いは他のものに属するか。

そのどちらかなのです。

もし、私たちが神様以外に信じるものを心の片隅に少しでも残しているなら、それは、次第に私たちの心の中で膨らみ、やがて心の全体を支配してしまう危険があります。

それはちょうど、練られた小麦粉の中に入れられた一粒の酵母、イースト菌のようなものです。たった一粒でも、小麦粉全体を大きく膨らませてしまいます。

神様はそのことを良くご存知でした。ですから、主なる神様以外のものを神とする危険から全く切り離されていなさい、とここで厳しく戒めておられるのです。

この事に関しては、神様はとても厳格です。

しかし、それに続く6節後半からの御言葉は、一転して、慰めと喜びに満ちています。

神様は、すべての民の中からイスラエルを選び、ご自身の宝の民とされた、というのです。

あなた方は神様のものとなり切りなさい。なぜなら、先ず神様があなた方を選び、ご自分の宝として下さったのだから、と言っているのです。

神様の恵みが、人間の決断に先行しているのです。

神様の恵みが、私たちの思いに先立って働き、私たちを宝の民として選んで下さった。

この神様の恵みの大きさ。それが本当に分かったなら、他のものを神とすることなど、とてもできない筈ではないか、と言っておられるのです。

ここで「宝」と訳された言葉は、金や銀のように「非常に高価な財産」を意味する言葉です。

神様は、イスラエルの民を非常に高価な財産として選んでくださったのです。

イザヤ書43章にあるように「私の目にあなたは高価で貴い」と言って下さっているのです。

私たちが自分をどう見ようと、そんなことは問題ではないのです。神様がこの私を選んで、高価で貴い宝だと断言されているのです。

私たちは、自分自身の価値についてさえ分かっていないことが多いのではないでしょうか。

特に日本人は、自分の価値を認めることが、一般的に下手だと思います。

これは、昔から努力を尊ぶ儒教的な思想の中で育てられてきたからかもしれません。

「もっと頑張らなければ駄目じゃないか」、「これくらい我慢しなさい」、「そんなことでどうする」。私たちは、こういう否定的な言葉で、ずっと育てられてきたような気がします。

こういう言葉を聞き続けていますと、いつしか自分の価値を必要以上に低く見るようになってしまうのではないかと思います。

でも、神様の目から見れば、そんな思いを持つことは、とんでもないことなのです。

神様は、そんな否定的な言葉を私たちにかけられてはいません。

「あなたはそのままですばらしいですよ」、「今のままのあなたが大好きだよ」、「今だって十分に頑張っているよね」。

神様はそのまま、今のままの私たちを受け入れ、大切にしてくださっています。

私たち一人ひとりを、とてつもなく高価な宝物だ、と言ってくださっているのです。

だからこそ、大切な独り子イエス様を、私たちのために十字架に架けて下さったのです。

独り子の命を犠牲にするほどまでに、高価で貴い存在。それが私たち一人ひとりなのだ、と言ってくださっているのです。

教会は、お互いを、そのような神様の宝として、認め合い、敬い合い、愛し合う場なのです。

もし教会で、お互いが非難し合い、傷つけ合っているならば、それは神様の大切な宝を傷つけ合っていることになるのです。

そして、そのことを最も悲しまれるのは、神様ご自身なのです。

私たちがお互いに傷つけ合っているのを神様がご覧になられたなら、なぜあなた方は、私の宝を傷つけるのか、と言って神様は悲しまれます。

ナイジェリアとバングラディッシュのジャングルで永年に亘って医療奉仕をされた宮崎亮・安子先生ご夫妻は、よく「私たち一人ひとりは、神様が描こうとされている絵のジグゾーパズルの一齣です」と言われていました。

いくら、「私一人くらい居なくても良いんじゃないか」と勝手に思っても、その一齣が欠けているために神様の絵が完成しない。あの人が居ない方がうまくいく、などと思っても、その一齣が、実は絵の大切な部分なのです。

たった一人が欠けても、神様が書こうとされている茅ケ崎恵泉教会という絵は完成しないのです。そのように、私たち一人ひとりは、欠け替えの無い神様の宝なのです。

そのことを、いつも覚えていたいと思います。

さて、神様によって高価な宝として選ばれたという信仰は、ともすると誤った、傲慢な選民思想に陥る危険性があります。

そこで、7節、8節では、そのような高価な宝として選ばれた理由が述べられています。

神様が、イスラエルの民を選ばれた理由は、ただ「心引かれたから」からであって、イスラエルの民が正しいからでも、数が多くて強いからでもない。むしろイスラエルの民は、他のどの民よりも数が少なくて、貧弱だった。

ただ神様がイスラエルを愛し、その先祖たちに誓われた約束に誠実であったので、神様はイスラエルをご自分の宝の民として選んで、エジプトから救い出されたのだ、というのです。

どう見ても、宝の民とは言えないような貧弱な民であるイスラエルを、主が一方的に愛し、大きな犠牲を払って贖い出して、高価な財産としたのだと言っているのです。

以前、骨董品のオークションの場面をテレビで見たことがあります。何の変哲も無い、古くて汚れた日用品が、歴史上のある偉大な人物の愛用品だったという理由だけで、とても高い値段で落札されていました。宝の民であるとはこういうことなのです。

私たち自身の価値ではなく、選んでくださったお方に価値の根拠があるのです。

天地を創造された神様が、選んでくださり、愛してくださるが故に、私たちは宝なのです。

そして、驚くべきことに、この神様の選びは、ただ神様が「心引かれた」ことだけが理由とされているのです。理由はただそれだけなのです。

ここで「心引かれ」と訳されている言葉は、本来は恋人同士が恋い慕うときに用いられる、極めて俗っぽい言葉です。

好きで好きでたまらないという、恋い焦がれるさまを表現する言葉なのです。

なぜ、こんな人間的な、あられもない言葉がここで使われているのでしょうか。それは、まさにこの言葉の中に、神様のイスラエルに対する激しい熱情が表れているからです。

明治・大正期を通して日本のキリスト教界を指導した植村正久牧師は、ある時一人の神学生に、『君はウーイングという英語を知っているか』と尋ねました。

その学生が『知りません』と答えると、植村は『それは、口説くとか求愛するという意味だ。ところで、君は女を口説いたことや、女から口説かれたことがあるかね』と尋ねました。

彼は、侮辱されたような気がして、むっとして『ありません』と答えました。

すると、植村は真面目な顔になって、『君、キリストにおいて現された神の愛は英語でウーイングな愛だよ。罪人である我々を、口説き落として、ご自分のものにしなければやまないという、ひたむきな、しつこい、粘り強い愛なのだよ』と諭したそうです。

植村が学生に語ったウーイングな愛。それが7節の「心ひかれ」と訳されている愛なのです。愛するに値しない者を、恋い焦がれるように愛する神様の熱情。その愛はイエス・キリストの十字架において最高の形で表されています。

主イエスは神としてのあらゆる権能をお持ちでした。ですから、十字架から降りようと思えば簡単に降りられた筈です。でも、主イエスは決して降りようとはされませんでした。

主イエスを十字架の上に留めたもの、それは、その手足に打ち込まれた太い釘ではなく、私たちを救わずにはおかないという熱情、まさにウーイングな愛であったのです。

愛される価値の無い自分が、神様の恋い焦がれる愛の故に選ばれ、神様の宝として教会に連なる者とされている。

この救いの事実こそが、キリスト者としての私たちの出発点であり、また生涯を通しての信仰の到達点なのです。

さて、6節から8節までの御言葉で、もう一つ大切なテーマが語られています。

それは、「神様の選び」という問題です。「神様の選び」をどう捉えるかということは大変難しい問題で、昔から様々な議論がなされてきました。

しかし私は、「選ばれた」と感じるのは、我々人間の側の受け取り方なのであって、神様の側では選んだのではなくて、ただひたすら愛して下さっただけなのではないか、と思っています。

ある人が、「選びとは、恵みの体験の純粋な表現形式である」と言っています。

難し言い方ですが、分かりやすく説明しますと、こういうことです。

私の側には救われるべき何の根拠もないのに、こんな私が救われた。

自分より立派な人がいくらでもいるのに、自分のような者が救われた。これは神様が特別の恵みをもって、自分を選び出して下さったからに違いない。そうとしか考えることができない。そのような信仰に導かれるということです。

ちょっと次元の低い譬えで恐縮ですが、とても素晴しい男性がいたとします。

ハンサムで、優しくて、頭が良く、社会的にも成功していて、人柄も抜群。

すべての女性が、あの人と結婚したいと憧れるような男性からプロポーズされたとします。

何の取り柄も無いこの私を「愛している」といって結婚の申し込みを受けたとします。

その時、男性の方では選んだと言う気持ちはなく、ただ愛しただけであっても、女性の方は多くの人の中からこんな私を選んでいただいた、という思いを持つのではないでしょうか。

自分の価値や力に関係なく、とてつもなく大きな恵みが与えられ、それが自分を捕らえ、駆り立てている時、人は「自分は選ばれたのだ」、と自然に感じるのだと思います。

神様の選びとはそのようなことではないでしょうか。

それでは、このような神様の一方的な恵みを受けて、イスラエルはどのようにして、その恵みに応えていくべきなのでしょうか。9節から11節では、そのことが述べられています。

恵みへの応答の第一は、主こそ神であり、信頼すべき神であることを知ることである、と語られています。

ここで用いられている、「知る」という言葉は、単に「認識する」という意味ではなくて、「全人格をもって交わる」ことを意味しています。

言い換えれば、「神様と一つとなって、神様の御心に従うこと」です。神様をこのような仕方で知ることは、恵みの中に置かれた者にとって、最も重要な務めです。

逆に、神様を知ろうとしないことは、神様との交わりを拒否することですから、それは単なる誤りに止まらず、罪なのです。

しかし、神様を知り、神様の戒めを守る者には、神様は千代にわって契約を守り、慈しみを注がれると約束されています。

そのような約束に基づく、具体的な祝福が12節から15節に述べられています。

13節ではイスラエルに対するあらゆる物質的な繁栄が、14節では子孫の繁栄が、15節では、病からの解放の祝福が具体的に語られています。

特に、13節に注目したいと思います。新共同訳聖書では訳されていませんが、原文ではこの13節だけで、「あなた」という語が12回も出てくるのです。

「あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し」という風に、「あなた、あなた、あなた」と、まるで波が押し寄せるように繰り返し語られているのです。

私はあなたを愛している。だからあなたを祝福したいのだ。私の祝福を受けて欲しい。

そのような神様の熱い思いが、大波のように迫ってきています。

私たちが、「神様よ、もう十分です」と言っても、神様は「いや、私のあなたに対する愛はこんなものではない。私はもっともっとあなたを祝福したいのだ」、と言われているのです。

現代では、私たちへの祝福は、13節に書かれているような物質的な祝福であるとは限りません。信仰を持ったからと言っても、物質的には恵まれないこともあると思います。

しかし、主イエスの十字架と復活の恵みは、やがていつか無くなってしまうような物質的な恵みではありません。

そうではなくて、どのような状況にあっても、希望と喜びに生きることを可能にしてくれる恵みです。私たちが、どのような者であっても、「わたしの目にあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」と言って下さる愛の恵みです。

主は、今この時も、十字架の上から、「わたしはそのままの君が大好きだよ」と言って下さっています。

この主の愛によって、今、ここに生かされていることを心から感謝しつつ、その恵みに精一杯応えていくお互いでありたいと願います。