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過去の礼拝説教

「一人の救いの重さ」

2013年08月25日 聖書:マルコによる福音書 5:1~20

短歌の形を取った歌で、世の中を風刺したり、ユーモアをテーマにしたものを狂歌(狂った歌)と言いますが、その狂歌の中にこういう歌があります。

「世の中は/澄むと濁るの違いにて/墓は静かで/バカはうるさい」

濁点が在るか、無いかが、大きな違いで、墓は静かで、バカはうるさい、というのです。

同じように、濁点の在る無しを、もじった人がいます。ホーリネス教会を創立した中田重治という人は、献金の奨励をした時によくこう言ったそうです。

「現金の/濁りが取れて/献金となる」

さすがは中田重治、うまいことを言ったものだと思います。

先ほどの狂歌では、墓は静かだと歌っていました。しかし、今日の御言葉に出てくる墓は、静かではありませんでした。騒々しい場所でした。

なぜなら、そこには汚れた霊に取りつかれた人がいたからです。

この人は、墓場を住まいとし、夜昼構わず、大声で叫び、石で自分の体を打ち叩いて、暴れまわっていたのです。その人が、墓場から出てきて、主イエスに会いに来ました。

この話の舞台となっているのは、ゲラサ人の地であった、と聖書は記しています。

主イエスは、このゲラサ人の地に、嵐のガリラヤ湖を渡って来られました。弟子たちが、死ぬかと思うほどの激しい風の中を、暗い夜の湖を渡って来られたのです。

おびただしい数の群衆に見送られて、ガリラヤの地から船出した主イエスでしたが、ゲラサ人が住むこの異邦人の地では、主イエスを迎えに出た人はたった一人だけでした。

そのたった一人の人が、騒々しい存在の、汚れた霊に取り付かれた人であったのです。

今朝の御言葉では、二つの大きな出来事が記されています。

その汚れた霊に取り付かれた人が、主イエスによって癒されたこと。そして、二千頭もの大量の豚が死んだことです。

これら二つの出来事のうち、この土地の人々はどちらに注目したでしょうか。

明らかに、豚が死んだことです。なぜなら、こんなことを度々起こされたらたまらない、と思ったからです。

ですから、「人々は主イエスに、その地方から出て行ってもらいたい」と言いました。

汚れた霊に取り付かれた人が癒されたという、もう一つの大きな出来事には、あまり関心がなかったのです。どうしてでしょうか。

この男のことは、自分には関係ないことだと思っていたからです。

もしその人に起こったことが、自分にも必要なこと、或いは自分にも深く関わっていることだと思ったなら、出て行ってくれとは言わなかった筈です。

例えば、もし普通の病気の癒 しだったら、違っていたかもしれません。なぜなら、自分も病気になるかもしれませんし、或いは、身内に病気の人がいるかもしれないからです。

もしそうであれば、「イエス様、もう暫くここに留まってください。そして私と、私の家族の病を癒してください」、と頼んだと思うのです。

実際に、聖書の他の箇所では、人々が大勢の病人を主イエスのもとに連れて来て、主イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった、と記されています。

しかし、ここでは違います。ここでは、誰も自分が墓に住むことになる、などとは考えていません。昼も夜も墓場で叫んでいるようになるとは、夢にも思っていません。

ですから、墓に住んでいる人に起こったことは、自分や自分の身内とは関係ない出来事であると思っているのです。あの男は異常な人間であって、我々は正常だ。だから、この出来事は、正常な我々には関係ないことなのだ。そのように捉えていたのです。

ゲラサ人だけではありません。私たちも、この箇所を読む時、この男は異常だ。だから正気に戻ったのだ。でも自分はもともと正気だ、と思って読んでいます。

ですから、無意識のうちに、自分とは直接関わりのない出来事として読んでいます。

しかし、この人に起こったことは、本当に私たちには関係ない出来事なのでしょうか。

聖書はそう捉えていません。この人に起こった出来事は、私たちとは関係のない、特殊なケースだとは捉えていないのです。

あなた方は、この墓場に住む人に、自分自身の姿を見る筈だ。

「これは私の姿だ」という思いに導かれる筈だ。聖書は、私たちにそう語りかけています。

それは一体、どういうことなのでしょうか。どうしてこの男の出来事が、私たちに関係のある出来事なのでしょうか。

この男の人は、主イエスを遠くから見て、走り寄って来ました。

走り寄っては来ましたが、「主よ、どうか助けてください」、とは言いませんでした。

逆に、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」、と言ったのです。

この「かまわないでくれ」という言葉は、以前の口語訳聖書では「あなたはわたしとなんの係わりがあるのです」、と訳されていました。 この方が原文に近い翻訳です。

原文のギリシア語はとても強い表現で、「あなたはあなた。私は私。何の関係があるか」という意味の言葉です。お互いに関係ないのだから、かまわないでくれ。そう言ったのです。

「神の子イエスよ、私はあなたなしにやって行くから、かまわないでくれ」。

この男の人は、そう言ったのです。

これは、救われる前の私たちの姿そのものではないでしょうか。

かつて私たちも、神様なしでやっていける。神様がいなくても、自分一人で生きていける。

そう思っていました。

「神様、かまわないでください。あなたと私は関係ないのですから。私はあなたなしでやって行きますから」。私たちは、そう言っていたのではないでしょうか。

しかし、その時、私たちは、自分自身の本来の姿を見失っていました。自分が何であるかが、分からずにいました。

「汚れた霊」とまでは言わなくとも、自分の心の奥底にある様々な欲望に支配されて、自分本来の生き方、自分が本当に望んでいる生き方が、出来ずにいました。

それは、ローマの信徒への手紙7章19節以下に記されている、パウロ自身の姿と重なっています。そこでパウロはこう言っています。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」。

このパウロの嘆き。このパウロの悲しみ。心の底から絞り出されるような叫び。

そのような悲惨な現実の中に、この男の人も、そしてまた、私たちも置かれていたのではないでしょうか。

しかし、今朝の御言葉は、そこで終ってはいません。

この男の人は、見捨てられていなかったのです。イエス様が、嵐に荒れ狂う湖を越えて、この男の人のところまで来てくださったのです。

「向こう岸に渡ろう」と言われて、ゲラサ人の地まで来てくださったのです。

これは、私たちの物語でもあります。主イエスは、私たちのところに来てくださいました。

私たちが、自分を見失って、歎き、悲しんでいるところに、主イエスは来てくださいました。

かつて神なき人生を送っていた私たちの只中に、主イエスは来てくださったのです。

ですから、私たちは今、こうして教会にいるのです。

教会は、こちら側に渡ってきてくださった主イエス様に、私たちが駆け寄る場所です。

主イエスが、こちら側に渡って来てくださった。だから私たちには希望があります。

私たちは、もう一人でもがき、苦しむ必要はないのです。どうにもならない自分と戦い、自分を傷つけながら生きる必要はないのです。

15節に、主イエスによって癒された男が、「正気になって座っている」、と記されています。

この「正気になって」という言葉を、ある英語の聖書は「to be self‐controlled」 と訳しています。自分で自分をコントロールできている状態。自分が何をしているか知っている状態。

それが「正気になっている」ということだと言っているのです。

かつて私たちは、自分が何をしているか、知りませんでした。ですから、私たちのために来てくださった救い主を、十字架にかけて殺してしまうようなことをしたのです。

しかし、主イエスは、その十字架の上で、父なる神様に祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。

正気でない私たちを、正気に戻すために。何をしているか知らない私たちが、自分自身を取り戻すために、主イエスは十字架で、ご自身の命を献げてくださったのです。

十字架の上から、主イエスは言われています。「あなたは失われるために、この世に生まれたのではない。あなたは滅び行くために、この世に生まれたのではない。あなたは新しい人生を生き直すのだ。私が、この十字架において、その道を開いたのだから」。

この主イエスのもとにこそ、私たちの救いがあります。まことの希望があります。

さて、今朝の御言葉の中で、私たちの心を捕える異常なものがもう一つあります。

それは二千頭もの豚の存在です。

正気になったこの男の人は、二千頭の豚が死んだのを見て、びっくりしたと思います。

自分に取り付いていた悪霊が移り住むために、二千頭もの豚が必要であった。

それほど大きな力が、自分を捕えていたのだということを、この時初めて知ったのです。

悪霊の力の大きさだけではありません。その滅びの恐ろしさも、この時初めて知りました。

ドストエフスキーの長編小説「悪霊(あくりょう)」。悪霊と書いて「あくりょう」と読みますが、この小説は今朝の御言葉を土台として書かれています。

この小説の中で、ある登場人物がこう言っています。

「ぼくらは、気が狂い、悪霊に憑かれて、岸から海へ飛びこみ、みんな溺れ死んでしまうのです。それがぼくらの行くべき道なんですよ」。

ドストエフスキーも、今朝の御言葉の中に滅びの恐ろしさを読み取っています。

主イエスによって癒されたこの男の人は、崖から雪崩を打って湖に落ちていった豚の群れを見て、もし救われなかったなら、自分があのようになったのだ、と示されました。

滅びの中にいる人は、滅びの恐ろしさに気付きません。滅びから救い出されて初めて、その恐ろしさを知るのです。

同じように、私たちの罪の大きさ、私たちの罪の恐ろしさは、それが償われたときに初めて分かります。

私たちの罪を償うために、どんなに大きな対価が支払われたかを知ったとき、初めて罪の大きさ、罪の恐ろしさを知ることができます。

私たちの罪は、神の独り子の命をもって償わなければならないほど、大きなものであることが、救われた後に初めて分かるのです。

主イエスは、この男の人を癒すことによって、この人が自分でも知らずに突き進んでいた滅びの恐ろしさを教えられました。そして、それを通して、救いの尊さをも教えられました。

これが、主イエスが、私たちを救ってくださるやり方なのです。

主イエスは、この男を救われて直ぐ、また湖を渡ってガリラヤに戻られました。この土地の人々から、「出て行ってもらいたい、と言われたからです。

ですから、この土地にいたのは、僅か半日程度であったと思われます。

嵐の中を、大変な苦労をして、この土地に渡ってきたのです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。僅かな時間しか滞在できず、たった一人しか救えませんでした。

しかも、その一人を救うために二千頭もの豚を犠牲にしたのです。

でも、主イエスは、その結果に満足されていたと思います。

大変な苦労をして湖を渡って来て、二千頭もの豚を犠牲にした。そこまでしたにも拘らず、この時の宣教の成果は、たった一人の救いでした。

しかし、主イエスは、たった一人しか救えなかった、とは考えておられなかったと思います。

この人を救うことができた。たった一人でも、この人を救うことができた。

主イエスにとっては、この一人の人の救いは、限りなく尊いものであったのです。

でも、この土地の人々はそうは考えませんでした。人々にとっては、この男の人の救いよりも、二千頭の豚が死んだことの方が、重要であったのです。

私は豚一頭がいくらするのか知りませんでしたので、調べてみました。品種などの様々な条件によって異なるようですが、だいたい一頭3万円から5万円だそうです。

そうしますと、二千頭の豚の値段は6千万円から1億円になります。

話を分かり易くするために、この時の豚の値段を1億円としてみましょう。この土地の人々は、一人の人が救われたことよりも、1億円の損失に怒って、主イエスを追い出したのです。

聖書を読みますと、この土地の人々のうち、誰一人として、この人が癒されたことを喜んでいません。皆が、1億円の損失を悲しみ、それだけに心を奪われています。

しかし、主イエスの思いは、全く違っていました。「私は、この男を救うためなら、1億円も少しも惜しいとは思わない」。主イエスはそう思われたのです。

さて、私たちはどうでしょうか。実際に、一人の人の救いのために1億円を投げ出すことに賛成できるでしょうか。

理屈では分かるが、実際には、一人の人の救いのために、そんな膨大なお金はかけられない。そう思うのがこの世の常識だと思います。

しかし、考えてみてください。私たちが救われるために費やされた費用は、1億円なんていうものではなかった筈です。

実に、神の独り子の命という、とてつもなく高価な対価が支払われたのです。この高価な救いが、ただで、無償で、与えられているのです。

ただで与えられているので、私たちはその価値が分からずに、1億円の方が大きいと思ってしまうのです。

しかし、主イエスは、何もかもご存知の上で、こう言われています。

「私の目にはあなたは高価で尊い。あなたの命の価値は1億円なんてものではない。あなたを救うためなら、1億円も少しも惜しいとは思わない」。

この時もそうです。わざわざ嵐の海を渡ってきたのに、たった一人の男を救ったに過ぎませんでした。でも、主イエスは、それで良い、と思われていたのです。

主イエスにとって、一人の人の救いは、それほど大切なのです。主イエスは、私たち一人ひとりを、そのような者として見ていてくださるのです。

主イエスはこのゲラサ人の地で、たった一人の人しか救いませんでした。

では、他の人のことは見捨てたのでしょうか。そんなことはありません。

ちゃんと、その男の人を残して行かれたのです。そして、あなたの身に起こったことを話し続けるように、主の恵みと憐みを語り続けるように、と言われたのです。

先ず自分の家に帰って、そこから始めて、この地方一帯に語り伝えなさい、と言われたのです。まるで、主イエスが、もう一人のご自分を残して行かれたかのように、この男にメッセージを託して、この土地を去られたのです。

この後、やがてこの土地に、キリストの教会がたてられていった時、この男の人が予め語り伝えていた言葉が、どれほど大きな力となったことでしょうか。

ここにも、私たちが聞くべきメッセージがあります。救われた私たちを、福音宣教の業へと招く呼び掛けがなされています。

スコットランドの田舎の教会の役員会で、その教会の老牧師に対する、批判の言葉が投げ掛けられました。「先生の在任中に、一体何人救われたか、ご存じですよね」。

牧師はすまなそうに言いました。「私の知っている限り一人だけです。それも少年でした」。

辞任を勧告された老牧師は、昔を振り返るため教会の庭を歩いていました。

その時、彼を呼び止める青年がいました。在任中に救いに導いた、たった一人の少年が、立派な青年へと成長していたのです。その青年は言いました、「先生、ぼくは宣教師になりたいのです。そのための準備を導いてください」。

この青年こそ、その後アフリカへ遣わされ、大きな働きをなしたロバート・モファット宣教師でした。彼は、アフリカのクルマンという地に遣わされましたが、瞬く間に、その地方の全部族をキリスト教に改宗させてしまったのです。

また聖書を、その土地の言葉に翻訳するという尊い働きもしました。

更に、彼の娘婿のデビット・リビングストンは、義理の父親のモファットに続いて、アフリカの奥地伝道を志し、アフリカにおける福音宣教の基礎を築いていきました。

このように、老牧師が救いへと導いた、たった一人の人から、神様の偉大な御業が広がっていったのです。

私たちお互いも、先に救われた者として、一人でもよい、一人でもよいから、出会った人を救いに導いていく者でありたいと願います。