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過去の礼拝説教

「赦すから赦されるのか?」

2013年10月27日 聖書:マタイによる福音書 6:12

最近ある方から手紙をいただきました。その中で、「赦すことの出来ない自分の心のかたくなさを悔い改めました」、とその方は書いておられました。

「赦そうと思っても、これだけはどうしても赦すことができない」。

このような思いを心の奥底に抱え、そのことで悩んでいる方は少なくないと思います。

明治・大正期の日本の教会の指導者で、名説教者でもあった植村正久という人がいます。

その先生が、晩年の説教の中で、「私はこの歳になっても、まだ赦すことの出来ない人がいる」と言って、絶句してしまい、説教を続けることが出来なくなってしまった、という有名な話があります。

植村先生ほどの信仰者であっても、しかもその晩年の円熟した信仰の境地に至っても、なお赦すことのできない人がいた。

このことは、心から人を赦すことが、いかに難しいことであるかを私たちに教えてくれます。

そして、このような頑な心を持つ私たちは、果たして救いに相応しいのだろうか、という不安に襲われます。

先ほど読んで頂きました、マタイによる福音書6章12節はこう語っています。

「私たちの負い目を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。

これは、私たちが繰り返して献げている「主の祈り」の中の第五の願いです。

しかし、主の祈りでは、順序が逆になっています。

「我らに罪を犯すものを、我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」。

「私たちが赦す」という言葉が先で、その後で自分の罪の赦しを願っています。

以前の口語訳聖書も同じ順序で、「私たちに負債のある者を赦しましたように、私たちの負債をもお赦しください」、となっています。

この順序ですと、私たちが他人の罪を赦すことが、神様の赦しに先行しています。

少なくともそのように読めてしまいます。

そして、私たちが先ず赦すことが、神様から赦されることの条件、あるいは根拠であるかのように捉えざるを得なくなります。

もしそのように理解するなら、この御言葉は、私たちに対する厳しい裁きの言葉となります。そして、しばしば私たちを、絶望の崖っ縁に追い込みます。

小説『宝島』の作者、ロバート・スティーブンソンは、サモア島に住んでいたころ、毎朝家庭礼拝を行っていました。そして、その最後に、いつも主の祈りを唱えていました。

ある朝、スティーブンソンは、いつものようにひざまずいて主の祈りを祈っていました。ところが、この第五の願いまで来ると、急に立ち上がって部屋から出て行ってしまったそうです。

彼は日頃から病気がちであったので、夫人は、彼が気分が悪くなったのだと思って、「具合でも悪いのですか」と尋ねました。すると彼は、「いやそんなことは無い。ただ、今朝の私には、この祈りを献げる資格が無いのだ」、と答えたそうです。

ある私の信仰の友は、証しの中で、「私は、主の祈りを唱える時、いつものこの箇所になると急に声が小さくなってしまいます」、と告白していました。

恐らくこの二人に共通していることは、「他人を赦す時に、初めて私たちも赦される」。

「他人を赦すことが、私たちが赦されることの前提条件である」。

そのように、この御言葉を理解しているという事です。

「主の祈り」のこの第五の願いを、そのように解釈している方が意外に多いのではないでしょうか。実は、私も永い間、そのようにこの御言葉を理解していました。

ですから、この祈りを献げる度に、「私はこの祈りを献げるのに相応しくない」、という思いをずっと抱き続けていました。

「主の祈り」のこの言葉は、私にとって永い間、辛く、重苦しい言葉でした。

私には未だ、心から赦せない人がいる。だから私は、神様から赦されることはないのだ。

そのような悲しみを、心の内に覚えつつ祈っていました。

著名な聖書学者のウィリアム・バークレーという人も、「聖書全体の中で、この言葉ほど恐ろしいものはない」、とさえ言っています。

でも主イエスは、そのような、いわば絶望的な暗い思いで、私たちがこの祈りを献げることをお命じになったのでしょうか。

もしそうであるなら、「私たちは十字架の贖いによって、無条件に救われたのだ」、という喜びに満ちた信仰生活を、活き活きと生きることが出来るのでしょうか。

私たちは皆、罪の中にいます。ですから、罪の中にいる私たちは、赦されなければならないのです。そして、主イエスの十字架の贖いは、無償で私たちの罪を赦して下さり、義として下さる。それが、御言葉が語っている福音です。

私たちは皆、この無償の救いの恵みによって、生かされているキリスト者です。

もし、主の祈りが、「私たちに罪を犯した人を、私たちが心から赦さないならば、私たちの罪も赦されない」、と語っているとしたら、それは、この救いの福音とは異なるのではないか。

そのような素朴な疑問が湧いてきます。

それでは、私達はどの様な思いをもってこの祈りを献げるべきなのでしょうか。

この箇所のギリシア語の原文を直訳してみますと、「そして、私たちの負債を私たちに対して赦して下さい」という句と、「私たちも私たちの負債者を赦しました」という句が、一つの短い接続詞によって繋げられています。大切なのは、この順序です。

原文では、まず「私たちの罪を赦してください」、という祈りが先にあるのです。

「私たちの罪を赦してください」、というこの祈りの中で、私たちは、自分の罪が赦されたことを確信するのです。「汝の罪、赦されたり」、という主の御声を聞くのです。

その確信に立って、その恵みに立って、私たちは第二の祈りをするのです。

「私たちが赦されたように、私たちも、私たちに対して罪を犯した人たちを赦します。今、この祈りの中で赦します。赦す決意をします。どうか、弱い私に赦す力を与えてください」。

これが、私たちが献げている主の祈りの意味です。

私たちが人を赦すことが、私たちが神様から赦されることの条件、あるいは前提であるかのように、この祈りを捉えているなら、それは誤解です。

私たちが先ず赦されているのです。その事実が先なのです。私たちを赦してくださる、神様の愛が先行しているのです。

その赦しの恵みの中で、主よ、私たちも、赦します。今、この祈りの中で赦す決意をいたします。どうか赦せるように助けてください、と祈るのです。

この祈りの解説として良く用いられる御言葉に、マタイによる福音書18章21節以下の譬え話があります。

王様から、1万タラントン、今のお金で約6千億円、という個人では絶対に返済不可能な借金をした家来が、その借金をすべて帳消しにしてもらったという話です。

その家来は、そのような莫大な借金を赦してもらった直後に、今度は自分が百デナリオン、今のお金で約百万円、を貸している友人に出会い、借金の返済を迫ります。

友人は、「必ず返すから少し待ってくれ」と頼むのですが、その家来は承知せず、友人を牢屋に入れてしまうのです。王様はこれを聞いて、この家来の態度に心を痛め、この家来を牢に入れてしまった、という話しです。

この話でも、先ず、王様によるとてつもなく大きな赦しが先にあります。

「こんなに大きな罪を赦された者が、他人の犯した些細な罪を赦せない筈はないではないか。自分に与えられた赦しの大きさを思い出してみなさい。その時、他人を赦さないではいられなくなる筈だ。

もし、赦せないというなら、それは自分の罪の大きさ、自分が頂いた赦しの大きさを分かっていないのだ。私の十字架がどれほど大きな痛みであったか分っていないのだ」。

この譬えを通して、主イエスは、このように私たちに語っておられます。

このことを、実際に体験した人がいます。岩谷香さんという方です。

もう60年以上も前のことです。岩谷香さんはミス青森に選ばれました。

ところが、職場の友人がそれを妬んで、岩谷さんの美しい顔に硫酸をぶっかけたのです。

加害者は即座に逮捕され、刑務所に入れられました。

一方、岩谷さんは東京の警察病院へ入院し、そこで1年半以上に亘って治療を受けました。

この警察病院に奈良本さんという親切な看護婦さんがいました。

彼女は真心をこめて、至れり尽くせりの看病をしてくれました。あまりにも親切なので、ある日、岩谷さんは「あなたはどうして、そんなに親切なのですか」と質問しました。

そう聞かれて、奈良本さんは、「私は職務上、あたりまえの事をしているのですが、親切と受け取られたことを嬉しく思います。強いて言いますなら、私は隣の富士見町教会に日曜日ごとに通っています」、と答えました。

岩谷さんは、「私も心の平安を得たいので、教会に連れていって下さい」、とお願いしました。それから2人の教会通いが始まったのです。

何ヶ月がたって、退院の日が近付いてきました。岩谷さんは、思い切って、受洗の決意を牧師に伝えました。

この教会の牧師であった島村亀鶴先生は、彼女を前に座らせて、こう言いました。

『普通は、神様やイエス様こと、そして聖書や信仰のことを、順を追って聞くのですが、あなたにはもう問わなくていいでしょう。しかし、どうしてもあなたに聞いておきたいことがあります。あなたは今、洗礼を受けて、イエス様の弟子になろうとしています。

そのイエス様はね、十字架の上で磔になって殺されました。その時、イエス様は自分を殺そうとしている人々のために祈られました。「どうぞ父なる神様、彼らの罪を赦して下さい」と。あなたは、この主イエス様に救われて、イエス様の弟子になるんですから、あなたに硫酸をかけたそのお友達を赦しますか、どうですか。他のことはもういい。そのことだけは、どうしても聞いておきたいのです。どうですか、赦しますか』。

この問いに、彼女はしばらく沈黙していて、すぐには答えませんでした。

島村先生は、厳しいことを聞いてしまったたなぁと思い、『イエス様、「どうぞ赦します」と、岩谷さんが言いますように』、と心の中で祈ったそうです。

暫くしてから、岩谷さんは体をねじるようにして、『赦します』と静かに言いました。

続けて、岩谷さんは、『先生、わたしはこんなになって、前途に希望がなくなりました。それで、実は、その友人を殺して、死のうと何度も思いました。しかし、今は赦します』、と涙を流しながら言ったのです。

その後、間もなく岩谷さんは洗礼を受けました。そして青森の自宅に帰っていきました。

しかし、自宅に帰ったものの、彼女の心に真の平安はなかったのです。

それから40年以上も経ってから、岩谷さんは、当時のことを次のように語っておられます。

「洗礼を受けるための準備の日、島村先生は『あなたに硫酸を浴びせた人を赦すことができるか』と、実に優しく聞かれたのでした。

その時、私は、たいしたためらいもなく『ハイ』と答えたように思います。

あの時は、聖霊に満たされた祈りの場に居て、主イエスが共に居られる恵みの中で、それはできることだ素直に思ったのです。

けれども受洗の翌日、退院して郷里に帰り、それまで守られていた教会と病院から離れて、厳しい戦いの日々が始まりました。惨めな屈辱に打ちひしがれ、消えない肉体の不自由さと痛みにさいなまれました。

そして、前途の不安に思い悩む度に、決して赦していない自分を発見しました。

日常生活のことごとに、対人関係のことごとに、自分の心の中にある汚さを見いだしました。

主の祈りの中の、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」。

この祈りも、真実には祈れません。

聖書に赤線をいっぱい引いて、暗唱するほどに一生懸命読んでも、具体的な喜びの力とはならず、本当の平安は与えられませんでした。

この顔の醜さ、惨めさ以上に、もっと破れ果てた心、汚れた魂の現実に、私は打ちのめされ、どうしょうもなかった時に、イザヤ書53章を読みました。それはまさに光でした。

そこからイエス・キリストの十字架の事実が知らされました。

罪なき神の御子イエス様が、この私と同じ弱い肉体を持つ、ただの人間として、あの恐ろしい十字架の刑罰を受けられた。そして、父なる神様にまで捨てられ、陰府の底まで下られた。それはこの私の罪の身代わりであったこと、そのことによって、私は赦されていることが分かりました。それまで学んだ聖書の言が生ける力となりました。

限りない神様の愛が注がれた時、「赦すのは私ではない。私こそ赦されねばならぬ者なのだ。加害者は彼女ではない。私こそ加害者である。主よ赦して下さい」と、神様の御前に泣きながら祈りました。

その時に、主はわたしの罪のトゲを抜き取って下さり、醜い魂の傷を癒して下さいました」。

岩谷さんはこの信仰が与えられると、次の様な行為にでました。

和歌山の刑務所にいたその友達に、ひっきりなしに手紙を書いて、「私はイエス様によって救われました。あなたもイエス様を信じて、罪を赦されますように」と勧めたのです。

しかし、何度手紙を出しても返事は一通も来ませんでした。

やがて刑期を終えたその友達が、青森に帰って来ました。

そして、自分の実家に帰るよりも前に、岩谷さんの家にやってきたのです。

玄関の戸を開けて、二人はじーっと見つめ合いました。

何も言いません。いえ、何も言えません。長い沈黙の後で、その友達はこう言いました。

「あなたが手紙を何度もくれたのは、私を誘い出して殺すつもりなんでしょう。

私にはもう前途の希望もありません。殺すなり、何なりとあなたの思う存分に、したいようにしなさい」。

それを聞いた岩谷さんは、「それは違います、わたしは本当にあなたを赦しています」と必死になって言いました。

それを聞いて、その友人に目から大粒の涙があふれ出し、わーっと泣き出し、「どうか赦して下さい」と岩谷さんの胸にすがったのです。

そしてその後、岩谷さんとその友達は、何と一緒に住み、お互いに励まし合いながら、共同生活を始めたのです。

岩谷さんは、自分こそが神様に赦されなければならない人間だと分った時、そして、自分がイエス様の十字架の愛によって赦されたことが本当に分かった時、初めて相手の人を赦すことができたのです。

十字架の下に立つ時、私たちは、自分がどんなに多くの罪を赦されているか、ということが本当に分かります。しかも、無償で、無条件で赦されていることが、分ります。

ある牧師がこんなことを言っています。

「人の罪だけ見ている時は、私たちはその人を裁いています。そして、その人の前に立っています。

自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。そして、自分の前に立っています。

人の罪より自分の罪の方が大きいと思った時、私たちは罪そのものを見ています。そして、神の前に立っています。

神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところです。」

真実に神様の前に立つ時、もっと正確に言えば、真実にキリストの十字架の下にひれ伏す時、私たちは、「自分はこの世の中で一番罪深い者だ」という思いに導かれます。

そして、そのような大きな罪を赦していただいた喜びは、他人の罪を赦そうとする決意へと私たちを向かわせるのです。

『我らに罪を犯すものを、我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え。』

この主の祈りは、決して裁きの言葉ではありません。まして、恐ろしい宣告でもありません。それは、主の赦しの恵みに押し出されて願う、決断の祈りです。

ですから、私たちは、このように祈ることが赦されているのです。

「主よ、私の罪をお赦し下さい。いえ、この世の誰の罪よりも大きい私の罪を、あなたは既に赦して下さいました。主よ、このような者を赦して頂くとは何と言う恵みでしょうか。

そのように私も他人の罪を赦すことを今、決意しました。今、赦しました。

どうか弱い私をお助け下さい。どうかこの思いを、祈りが終わって、この部屋から出た後も変わらずに持ち続ける力を与えたまえ」。

私たちは、このような祈りの中で、決意から実行へと小さな一歩を踏み出すのです。

他人を赦すことは、祈りの中でしか出来ません。

私たちは、主の祈りのこの第五の願いを、辛い、悲しい気持ちで祈るのではなく、感謝と希望をもって祈ることが赦されているのです。