「あなたがたが与えなさい」
2013年10月06日 聖書:マタイによる福音書 14:13~21
先ほど、マタイによる福音書の14章13節~21節を読んでいただきました。
この箇所には、主イエスが、5つのパンと2匹の魚で、5千人の人を養ったという有名な奇蹟物語が記されています。
福音書には、多くの奇蹟物語が記されていますが、四つの福音書のすべてに記されている奇蹟はこれだけです。それを見ても、教会がこの奇蹟物語を、どれほど大切なものとして語り伝えてきたかが分かります。
福音書というのは、主イエスの御業や、主イエスのお言葉を書き記したものです。
しかしそれは、二千年も前の昔の出来事を、ただ記録しているだけの書物ではありません。
福音書は、そこに書かれている主イエスの御業やお言葉が、今の私たちにとって意味あることである、大切なことである、として伝えている書物なのです。
遠い昔の出来事や言葉を、「これは、今のあなた方のために起こった出来事ですよ、今の皆さんのために語られた言葉ですよ」、と言って伝えている。それが福音書なのです。
福音書を書いた人たちは、主イエスの御業を見て、或いは主イエスのお言葉を聞いて、その記憶がまだ生き生きと残っているうちに、素早く記録したのではありません。
出来事が起こってから何十年も後で、これを書いているのです。
では、どうして書くことができたのかと言いますと、語り伝えられていたからです。
主イエスのなされた御業や、語られたお言葉は、教会の中で語り伝えられていったのです。
なぜ語り伝えられていったのか。それが本当に嬉しい出来事、本当に慰められる出来事だったからです。
ですから、福音書を読む時、私たちは、どうしてこの出来事が喜びだったのか。なぜこの言葉が慰めだったのか。そういうことを、尋ね求めつつ読むことが大切なのです。
そのようにして読んでいく時に、私たちは、これらの出来事を、今の私たちに対する出来事として、受け取っていくことができるのです。
今朝の「パンの奇蹟」も、そういう出来事として、語り伝えられ、そして記されました。
この奇蹟物語は、説明を必要としないほど、明らかで、分かり易い出来事です。
主イエスが、五つのパンと、二匹の魚で、五千人の人を養ったという奇蹟です。
聖書には、様々な奇蹟物語が記されています。しかし、この奇蹟物語というのは、しばしば私たちにとって壁になります。聖書を読み始めた頃、奇蹟物語に出会うと分からなくなる。
主イエスが語られた素晴らしい教えや、慰めに満ちたお言葉を読んでいる時には、聖書とは本当に良い書物だと思う。しかし、奇蹟物語になると理解できなくなってしまう。
そういうことを経験された方は少なくないと思います。
その時に私たちが良くすることは、分かり易い説明を求めることです。
しかし、本来、奇蹟というものは、理屈に合わないものなのです。理屈に合っているなら,それは起こるべくして起こった事柄であって、奇蹟ではありません。
けれども、私たちは、奇蹟を受け入れることができない時に、奇蹟物語を、何とか合理的に解釈しようとしてしまいます。自分が納得するような理屈に合わせようとするのです。
この「パンの奇蹟」で、昔から最も良く知られている合理的な説明とは、こういう考え方です。
実は、群集の殆どは、弁当を持って来ていた。しかし、もし、ここで弁当を広げたら、持って来なかった人に、分けない訳にはいかない。それは、ちょっと困る。
人にあげるに十分な程の量ではない。だから、自分だけ食べて満腹したい。
そう思っていたら、主イエスと弟子たちが、僅かな食べ物を喜んで人々に分け始めた。
それを見て、自分の身勝手さを恥ずかしく思った人たちが、あちらでも、こちらでも、持参した弁当を広げて、分け合うようになっていった。
その結果、五千人もの人々が、皆食べることが出来た。こういう説明です。
これはとても分かり易い話です。これなら、誰もが納得します。
この説明によれば、この物語は、奇蹟物語ではなく、人道的な美談となります。
しかし、そういう話として解釈してしまうと、逆に分からなくなってしまうことがあります。
何が分からなくなるかと言いますと、では、どうしてそんな話が、厳しい迫害の中にある教会で、大きな喜びと慰めを与える話として語り伝えられていったのだろうか、ということです。
この説明の通りであるならば、それは確かに心温まる話だけれども、何十年も大事に語り伝え、四つの福音書のすべてに記し、そして二千年後の私たちにまで伝えたいと願うほどの出来事ではないのではないか、ということです。
初代教会の人たちは、地下の穴倉で、毎日、命の危険に晒されながら、必死になって信仰を守っていたのです。その人たちが、この物語を読んで、本当に慰められ、励まされ、力づけられていったのです。
単なる人道的な美談が、命懸けの信仰を守り抜いてきた人たちに、そのような生きる力を与えるでしょうか。とてもそうは思えません。
ですから、この話は、皆がお弁当を分け合ったというような、単なる美談にしてしまう訳にはいかないのです。聖書は、これを奇蹟の話として伝えているのです。
ですから、私たちも、これを奇蹟の話として、聞いていくべきなのです。
聖書は、主イエスというお方は、奇蹟を起こす力をお持ちなのだ、と言っているのです。
聖書は、パンが増えたことを喜んでいるのではありません。
パンを増やす力を持つお方がおられる。そのことを喜んでいるのです。
そのようなお方が、群衆の中に来てくださった。そういう力のあるお方が、私たちのために、私たちの只中に来てくださった。聖書はそのことを喜んでいるのです。
そして、このことは、今のあなたにとっても本当に大きな意味があるのですよ。
これはあなたのために起こった出来事なのですよ、と言っているのです。
今日の箇所について、ある人が、こういうことを言っています。
こういう奇蹟の出来事を、私たちは理解できないとか、あり得ないと言って退けようとする。
しかし、主イエスがなさったこの奇蹟は、田んぼや畑では毎年のように起こっていることなのだ。田んぼや畑では、種が蒔かれる。その蒔かれた一粒の種から芽が出て、何十倍、何百倍にもなる。私たちは、その収穫の恵みを毎年受け取って食べている。
そういうものによって、私たちの命が支えられている。
でもこれは、毎年、毎年起こるので、誰も不思議なこと、奇蹟とは思わない。当たり前のことだと思っている。でもこれは、良く考えれば不思議なこと、奇蹟なのである。
そう言われてみれば、その通りだと思います。一粒の種が成長して、多くの実を結ぶ。
確かに、種を蒔き、水を与えるのは人間です。でも、成長させてくださるのは神様です。
水と二酸化酸素と太陽の光によって、でんぷん質が造られる。そうやって造られるでんぷん質によって、私たちの命は支えられている。考えてみれば不思議なことです。
でも、普段、私たちはそのことを不思議だとは思いません。奇蹟が起こっているとは思いません。当然のように思っています。
でも、現実に私たちの周りで起こっていることは不思議なことなのです。
そして、これを不思議なことだと示されても、ちっとも不思議だと思わないなら、私たちには神様のことは分かりませんよ、と聖書は言っているのです。
今朝の箇所で主イエスがなさったことは、神様が毎年繰り返して畑でなさっていることを、ご自分の手の中でなさったということです。
神様と同じことを、一瞬にして、その手の中でなさったのです。
主イエスとは、そういうお方なのだ。そういうお方が、私たちと同じ人間となられて、私たちの所に来てくださった。聖書はそのことを語っているのです。
信仰とは、パンが増えることを信じるのではなくて、その御業を行う主イエスを信じることです。パンや魚が増えて満腹することではなくて、主イエスを通して与えられる、まことの豊かさこそが重要なことなのです。
主イエスは、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」、と弟子たちに言われました。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。これは、驚くべき言葉です。
この時、弟子たちが持っていたのは、五千人の群集に対して、無きに等しいような僅かなパンと魚でした。弟子たちの目には、こんなもの何の役にも立たないと見えたかも知れません。しかし、主イエスは、そうは見てはおられなかったのです。
「わたしたちが、彼らに食べるものを与えなさいとは、イエス様、あなたは何ということを仰るのですか。私たちには、ここに、パン五つと魚二匹しかありません。これは、五千人の人々に対しては、何も持っていないのに等しいではありませんか」。
恐らく弟子たちは、そのように思ったことでしょう。
しかし、そう言いながらも、弟子たちは、自分の持っている僅かなものを、主イエスの足元に差し出したのです。そして、命じられたままに、群集を草の上に座らせたのです。
群衆もまた、何がなんだか分からないままに、言われた通りに座ったのです。
そして、その時、奇蹟が起こったのです。
五つのパンと二匹の魚。それは、特別なものではありません。むしろ、誰もが持っているような粗末なものです。そんなものなら、この私でも持っている、というようなものです。
それを、「持って来なさい」と言われる主のお言葉のままに、主の足元に置いただけなのです。その時に、奇蹟が起こったのです。
五つのパンと二匹の魚しかない弟子たちの現実。たったこれだけしかない。
人々の必要を満たすことなど到底できない、と思わざるを得ない現実。
今日の日本のキリスト者も、同じ経験をしています。クリスチャンは人口の1%以下です。
私たちは、これだけしかいない。教会のメンバーはこれだけしかいない。しかも、年々減ってきている。若い人が来ない。財政的にも縮小している。
こんな状況では、人々の必要を満たすことなど、到底できない。
二千年前も、今も同じです。もし、私たちが、自分の力だけに頼るならば、同じです。
その時には、絶望しかありません。たったこれだけしかない、という絶望的な現実しかありません。
しかし、目の前の現実が、私たちには絶望としか見えないような状況であっても、主イエスは、そこに神様のご配慮を見ておられます。
その主イエスに、僅かなパンを差し出していく時に、それが、主イエスの手の中で、限りない豊かさへと変えられていくのです。
私たちは、その希望に生きることが許されています。
私たちに必要なことは、目の前の現実の貧しさに嘆くことではありません。
貧しい自分を主イエスに差し出していくことです。その時、主は、驚くべき御業をもって、私たちを用いてくださいます。
昭和の初期のころの話です。ある教会の会堂が老朽化し、建て替えの時が来たので、牧師が新会堂の建設を呼びかけました。
しかし、教会員の反応は鈍く、計画は一向に進みませんでした。
その教会の日曜学校に、一人の女の子が来ていました。その子は、日曜学校が大好きで、いつも一番早くに来て、熱心に先生の話を聞いていました。
ところが、その子が、重い病気にかかって、日曜学校に来られなくなってしまいました。
先生方は、その子が日曜学校を、本当に愛していたのを知っていましたので、その子の家で、その子が寝ている布団を囲んで日曜学校をすることにしました。
そうやって、その子を中心にして、日曜学校を続けていたのですが、その子は、やがて神様のもとに召されて行ってしまったのです。
その子が召された後、寝ていた布団をしまおうとしたら、布団の中から封筒が出てきました。その封筒には、「新会堂のために」と書かれていて、その中には30銭が入っていました。
その子は、買いたいものを我慢して、お小遣いを貯めて、新会堂に献げようとしていたのです。この一人の女の子の小さな行為が、教会を全く変えました。
それまでは全く目処も立っていなかったのに、この後、瞬く間に会堂は完成したのです。
そして完成した会堂のことを、人々はいつしか「30銭の会堂」と呼ぶようになったそうです。
主は、私たちの小さな行為も用いてくださいます。ですから私たちは、どんなに貧しくても、どんなに小さくても、真心を込めて、持てるものを、主に献げていきたいと思います。
ところで、私は、このパンの奇蹟について、長い間、誤解をしていました。
それは、教会学校などで見てきた絵の影響もあると思いますが、この五千人の食事は、ピクニックのようなお昼ご飯であると、ずっと思っていたのです。
しかし、聖書を読みますと、この食事は、お昼ご飯ではなく、夕暮れ迫る野外における夕食なのです。
実は、この食事は、あの最後の晩餐といわれる「主の晩餐」の先触れとなっているのです。
19節の「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」という御言葉は、この後26章に出てくる主の晩餐の制定の言葉と同じ順序になっています。
この時、主イエスが群衆に与えられたのは、物質的なパンだけではなかったのです。
私たちの罪のために裂かれる、ご自身の御体としてのパン、聖餐において私たちが与るパンの先触れであったのです。
主イエスは、空腹を満たすパンだけではなく、霊的に飢え、乾いている人を満たす、命のパンを与えようとされていたのです。そして群衆は、皆はそれを頂いて満腹したのです。
そして、食べ終わった後、残ったパンを集めると、それは十二の籠にいっぱいになったと書かれています。
パン屑と書いてありますが、地面にポロポロと落としたものではないと思います。
食べ切れずに残したものだと思います。それが十二の籠にいっぱいになったというのです。十二の籠ということは、弟子一人について一籠ずつ、ということです。
弟子たち一人ひとりが、皆、籠を抱えているのです。そして、それぞれの籠いっぱいに食べ切れなかったパンが残っているのです。
この時与えられた神様の恵みが、どれほど大きかったかが、そこに示されています
弟子たちは、籠いっぱいのパンを抱えて、神様の恵みの重さ、大きさをずっしりと感じたに違いありません。
神様の恵みは、そういう重みを持っているのです。そういう手ごたえのある恵みなのです。
私は命の糧を、あなた方に分け与えるのだ。それは、溢れ溢れて、十二の籠に満ちるほどなのだ。主イエスは、そう言われているのです。
この十二の籠に満ちているパン。それは、その日、その場にいなかった人たちのためのパンを象徴しています。
今日の教会に置き換えて言えば、それは、未だ洗礼を受けていないので、聖餐の恵みに与れない人たちのために、主が備えていてくださるパンである、と言うことができます。
主イエスは、すべての人が救われて、主の食卓に着くことを心から願っておられます。
一人の人も失いたくない。一人の人も滅んで欲しくないのです。
ですから、今は未だ食卓につけない人たちのために、十二の籠いっぱいに満ち溢れるパンを用意して、待っていてくださるのです。
今朝は、世界聖餐日の礼拝を守っています。この後、ご一緒に聖餐の恵みに与ります。
その時、私たちは、この主の思いを、私たち自身の思いとして、聖餐に与りたいと思います。すべての人が一緒に食卓に着くことが出来るように、祈り求めつつ聖餐に与りましょう。
そして、そのために、自分の持てるものを主の御用にために差し出していきましょう。
主は、それがどんなに貧しいものでも、喜んで手にしてくださり、感謝の祈りを献げて、それを何十倍にも用いてくださいます。
私たちは、そのような希望に生きることを許されているのです。