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過去の礼拝説教

「信仰によって生きる」

2013年11月24日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3:1~11

今朝は「信仰」について、ガラテヤの信徒への手紙3章1節から11節の御言葉から、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

ガラテヤの信徒への手紙は、使徒パウロが、ガラテヤ地方にある諸教会に宛てた手紙です。パウロ自らが立て上げた教会の、愛する信徒たちに宛てた手紙です。

彼らは、パウロが命がけで語った福音によって、主イエスの十字架による救いを信じた人たちでした。ところが、パウロが去った後に、ガラテヤの教会の人たちは、再びユダヤ教的な律法主義に引き戻されてしまったのです。

主イエスの十字架の贖いを信じるだけでは十分ではない。

やはり、律法や、様々な言い伝えを守る、という「行い」がなければ救われない。

そういった誤った教えに、引き戻されて行ったのです。

パウロは、そんな彼らにたいして、「あなた方は、主イエスの十字架を無駄にしてしまっている」、と火のような情熱をもって警告し、福音に立ち帰るように熱心に語りました。

今日の御言葉の冒頭で、パウロは、ガラテヤの教会の人々のことを、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」、と言っています。

「物分りの悪い」と訳された言葉は、「愚かな」とか、「無知な」というような言葉にも訳せる言葉です。平たく言えば、「馬鹿だ」という事です。

パウロは、ガラテヤの人たちよ、あなたがたは、愚かだ、馬鹿だ、と言っているのです。

これはすごい言葉です。たとえ、どんなに立派な牧師であっても、仕えている教会の教会員に対して、「あなたがたは愚かだ、馬鹿だ」と言ったら、どうなるでしょうか。

ただ単に、気まずいことになるだけでなく、ひょっとすると、臨時総会が開かれることになるかも知れません。

しかし、パウロは、自分が命がけで立て上げた、ガラテヤの教会の人たちに、そう言わざるを得なかったのです。あなたたちは何と、物分りが悪いのか。何と愚かなのか。

これは、ガラテヤの人たちの理解力が乏しい、と言っているのではありません。

そうではなくて、豊かな知識を持っているにも拘らず、あなた方は、見るべき本来のものを、見ることが出来なくなっている、と言っているのです。

一体、何が見えなくなってしまった、というのでしょうか。

「十字架につけられたイエス・キリストのお姿」が見えなくなってしまったのです。

目の前に、十字架につけられたイエス・キリストが、はっきりと示された筈であるのに、それを見失ってしまったのです。

「はっきり示された」と書かれていますが、以前の口語訳聖書では「描き出された」と訳されていました。そのほうが、原語の意味に近いと思います。

大阪の道頓堀に、ランナーが手を上げて走っている有名な「グリコの看板」があります。

巨大な看板なので、道頓堀に行けば否応なしに目に入ります。見逃しようがありません。

そのように、見逃しようがないほど、ありありと十字架のイエス・キリストが描き出された筈ではなかったか。私は、ただそれだけを語ってきたではないか。

私が命がけで語ってきた、そのキリストが、その十字架のキリストが、あなた方には見えなくなってしまっている。パウロは、ここで悲痛な叫びを上げています。

2節で、パウロは、ガラテヤの人たちに対して、一つだけ確かめたい、と言っています。

「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからか。それとも、福音を聞いて信じたからか」。この一つのことを是非とも、確かめたいと言っているのです。

福音とはいったい何でしょうか。

福音とは、「私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、無条件で救われる」、という喜びの知らせです。

その福音を聞いて信じるなら、私たちは救われる。それ以外には救いはない、とパウロはひたすらに宣ベ伝えたのです。

ところが、ユダヤ主義者と呼ばれるクリスチャンたちは、そうは言わなかったのです。

彼らはこう言いました。「私たちは主イエスの十字架の贖いによって救いへと招かれる」。

ここまでは良いのです。ここで終っていれば良いのです。でも、彼らは、この先に余計なものを付け加えていったのです。彼らは、更に、こう付け加えました。

「十字架によって救われた者も、ユダヤ人と同じように割礼を受け、律法や言い伝えを守らなければ、正式に神の子供とはされない。十字架への信仰は入り口であって、律法を守る生活がなければ、あなたの救いは十分なものとはならない」。

彼らはこう言って、教会の人たちを惑わしたのです。

しかし、私たち人間には、律法を完全に守ることなど、とてもできません。

律法を完全に守ることが出来ない私たちに出来ること。それは、十字架の贖いによって無条件で赦され、救われる、という福音を信じることだけです。

そうであるからこそ、喜びの知らせ、福音であるのです。

3節で、パウロは再び、「あなたがたは、それほど物分かりが悪いのか」と、繰り返して述べています。ガラテヤの人たちの後戻りに、それほど歯がゆい思いをしていたのでしょう。

それと同時に、福音の恵みの、圧倒的な力に迫られていたパウロは、後戻りしてしまうような彼らのことが、とても理解できなかったのだと思います。

こんな素晴らしい恵みを頂いていながら、どうしてそんなことになってしまうのか、私には分からない、と言っているのです。

「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と、パウロは語っています。これを見ますと、ガラテヤの人たちも、信仰を持った当初は、「救いは福音を聞いて信じることによる」、ということが分かっていたのです。

聖霊の導きによって、主イエスを救い主と信じたのです。それなのに、いつの間にか、「行いによって救われる」という肉の言葉に惑わされて、律法主義に戻ってしまったのです。

これは、私たちも犯し易い過ちだと思います。

なぜ、私たち人間は、律法主義の過ちに繰り返して陥るのでしょうか。

それは、律法主義に生きた方が、確かだと思ってしまうからです。

私は、こうすることによって、自分の信仰を守っていける。これらのことを、守っていけば、信仰が確かだとの確信が持てる。その方が安心だ、と思ってしまうからです。

十字架の主イエスの福音を、聞いて信じるだけでは、何か心もとない。何か足らないような気がする。そう思う時は、十字架の出来事が、小さなことのように思えている時です。

確かに、歴史的な出来事として見れば、二千年も前に、ユダヤの片田舎に住んでいた一人の男が、十字架につけられて、犯罪者として処刑された。ただそれだけの話です。

世界の歴史の片隅にも記録されないような、ささやかなことです。

しかし、十字架に死なれたのは一人の男どころではありません。全世界を創造され、支配されておられる神ご自身です。

神が、この私の罪のために、私に代わって、十字架に架かって死んでくださった。

本来、私が架からなければいけない十字架に、神ご自身が付いてくださった。

到底ありえないこと。およそ考えられないようなことが起こった。この私を救うために。

私たちの思いを遥かに超えた、この偉大な出来事に、一体、私たちが何か付け加える必要があるでしょうか。私たちが、何か付け加えることが出来るとでも言うのでしょうか。

まだ、足りないから、私たちが何かをして補わなければいけない、とでも言うのでしょうか。

そんなことはできません。また、そんな必要もありません。

私たちは、この恵みを、ただ感謝して頂くほか、何も出来ないのです。

何かできると思う方が、愚かなのです。私たちの目の前に描き出された十字架のキリスト。

そこに、そこだけに、自分の救いがある、と信じていくのです。それを惑わずに信じていくのが信仰です。そこに、私たちの力を集中していくのです。

若き日の内村鑑三は、自分の心の奥底にある罪の問題に苦しんでいました。

彼は、ある日、留学先のアマスト大学のシーリー総長に、そのことについて相談しました。

シーリーは、内村にこう言いました。「あなたは自分の内側ばかりを見ているからいけないのです。内側ばかりを見ることを止めて、十字架の上であなたの罪を贖われた主イエスを、なぜ仰ぎ見ないのですか。あなたがしていることは、子供が木を植木鉢に植えて、その成長を確かめようとして、毎日その根を引き抜いて見るのと同じです。なぜ、これを神様と日光に委ねて、安心してあなたの成長を待たないのですか。」

内村は、この時初めて十字架の救いを、素直に、全身全霊をもって受け止めたのです。

彼は、この日のことを、「キリストの罪の赦しの力が、今日ほどはっきり示されたことはなかった」、と日記に記しています。

シーリーが、内村に教えたことも、目の前に描き出された十字架のキリストをしっかりと見つめること。そのことに全力を集中していくことでした。

私たちは、救われた時に、律法の行いを脇へどけた筈です。その時私たちは、自分の誇りも、行いも、全部放棄して、イエス・キリストの十字架にすがった筈です。

ところが、いつの間にか、自分の出来映えを気にするようになってしまう。人の評価を気にするようになってしまう。出来ている自分に慢心してしまう。

そして、足らない他人を見て批判してしまうのです。或いは、逆に、足りない自分を見つめて「あぁ自分は何年経っても駄目な信仰者だ」、と自分を責めてしまうのです。

放棄したはずの「行い主義」が、しばらくすると裏口からスーっと入って来るのです。

真面目なクリスチャンほど、そうなのです。

皆さんは、カッコウという鳥をご存じだと思いますが、このカッコウという鳥は、とんでもない鳥なんです。カッコウは、よその鳥の巣に入り込んで、親鳥がいない隙に、そこに自分の卵を産み付けてしまうのです。

親鳥が帰って来て、それがカッコウの卵とは知らずに一生懸命温めて、そして孵ってしまう。

当然、親鳥はビックリしますよね。自分と全然違う雛鳥が孵っているのですから。

それを自覚しているからでしょうか、カッコウの雛は割と早く孵ります。そしてその時、残っている他の卵は全部蹴落としてしまうのだそうです。本当に、ひどい鳥ですね。

このことを引用してある人が言っています。「悪魔は、敬虔という巣の中に、自分のカッコウの卵を置く」。

悪魔は、敬虔という、信心深い人の信仰生活の巣の中に、カッコウのように「行い主義」の卵を産み付ける。敬虔なクリスチャンほど、そうとは知らずに、サタンが産み付けた卵を、一生懸命に育てて孵していく。

その結果、自分の出来映えに慢心し、他人の足らなさを批判するという、福音とは異質なものが孵ってしまう。そういう傾向があると言うのです。

実は、この傾向の背後には、非常に厳しい現実があります。私たちの住んでいるこの世界は、基本的に「行い主義」で成り立っています。この世界そのものが律法主義なのです。

例えば、小学校1年生の通知票は「よくできました」「できました」、そして「がんばろう」です。

表現こそ柔らかいですが、これは厳然とした評価主義です。

小学校に入った時からそうですから、私たちの心の中には、評価主義というものが刷り込まれていきます。

福音が福音である所以は、どんなに「よくできました」が並んでも、あなたはそれで救われるのではない。逆に、どんなに「がんばろう」が並んでも、それで私たちが神の国から遠いのではない、ということです。

救いは、ただイエス・キリストの十字架を信ずる信仰による、ということです。

評価や出来映えに支配されているこの心を解き放つために、一つのことが大切です。

自分の目の前に、十字架につけられたイエス・キリストをはっきりと描き出すことです。

そのイエス・キリストを真っ直ぐに仰ぎ見る以外に、評価主義の世界から抜け出す方法はありません。

茅ケ崎恵泉教会には、行いを競い合ったり、自分の出来映えを誇ったり、或いは、人の行いを批判したりするような傾向は見られません。人の評価を気にして、びくびくしながら教会生活を送る、というようなことも見られません。これは、本当に幸いなことです。

これを是非とも守り続けていただきたいと、心から願います。

もし、少しでもそのようなことが見られたときには、お一人お一人が目の前に、十字架につけられたイエス・キリストのお姿を描き出してください。

そして、その十字架のもとに、今一度ひれ伏してください。十字架の主イエスの前では、自分の行いがいかに小さくて、意味がないものであるかが、否応なく示される筈ですから。

そこに戻り続けることが出来るなら、使徒パウロから「あぁ、物分かりの悪い茅ケ崎恵泉教会の人たちよ」、と言われる事は無い筈です。

むしろ、パウロが、フィリピの教会に送った、「あなた方のことを思い起こす度に、私の神に感謝しています」、という言葉をいただける筈です。

4節に、「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……」とあります。「あれほどのことを体験した」と書かれています。

しかし、それがどんな経験であったかは、記されていません。

これは、教会が受けた迫害のことを言っているのだ、と推測する人もいます。

そうかもしれません。しかし、私は、この体験とは、教会員一人一人の救いの体験のことだろうと思います。滅びの中にいた者が、一方的な恵みによって救われて、新しい命に生きる者とされた。その驚くべき体験のことだろうと思います。

私は、洗礼を受けた時、説明の付かないような喜びに包まれました。訳もなく、ただ、嬉しくて嬉しくて堪りませんでした。

それは、他のどんな体験にもまさる、大きな喜びの体験でした。

そのような体験を無駄にしてはならない、とパウロは言っているのです。

あなた方が、体験した恵みは、それほど偉大なものなのだよ、と言っているのです。

大切なことは、この喜びの体験を、繰り返して味わっていくことです。

礼拝の度ごとに、特に聖餐の恵みに与る度に、十字架に付けられた主イエスのお姿を、はっきりと心に描き出すことです。

御言葉を読む時に、十字架の主イエスの御声を聞いていくことです。

日々の祈りの中で、十字架の主イエスに語り掛けて行くことです。

それらのことを通して、救いの喜びを、日々新たに体験して行くのです。

今日の御言葉は、私たちの救いは、キリストの十字架を信じる信仰のみにあるということを、繰り返して述べています。

チイロバ牧師として親しまれていた榎本保郎先生は、この信仰のみによる救いを理解してもらうために、こんなことを言っています。

「走り高跳びの選手でも3メートルは超えられません。しかし、少しも跳ぶことのできない赤ん坊でも、飛行機に乗れば、何千メートルの上空に昇ることが出来ます。

それがキリスト教信仰なのです。それが福音の恵みです」。榎本先生の仰る通りです。

誰であれ、飛行機に乗れば体重の差なんか問題なく上空に昇れます。

私のように罪深い者は、とても神の子としていただくことはできない、などと考える必要はないのです。キリストは力強い神の恵みの飛行機です。

私たちを神様の御国へ、神様の祝福のもとへと運んでゆく力を持っています。

信仰とは、この飛行機に乗り込むことです。私の体重は軽い、或いは、私の体重は重いと言って、事ある毎に「私」、「私」と言っているのは滑稽です。

だいたい、どれほど体重が軽いからと言って、空を飛ぶことなどできません。

「私は大丈夫」、「私は駄目だ」、「私は弱い」、「私は強い」、そんなことではありません。

大切なことは、イエス・キリストという飛行機に乗り込むことなのです。

誰であれ、このイエス・キリストにある信仰によって、神の子とされない者はいないのです。

十字架につけられた主イエス以外に、私たちが救われる道はありません。

ですから、パウロは言うのです。ただ、この一つのことを見つめていきなさい。

私たちの眼差しを、十字架から逸らそうとするものに惑わされずに、ひたすらに歩みなさい。

このパウロの言葉に従って、十字架から目を逸らさずに、信仰によって生きるお互いでありたいと思います。