MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「近づいてこられる主」

2013年12月01日 聖書:マタイによる福音書 14:22~33

アドベント・クランツの最初のろうそくに火が灯されました。

これから、聖日ごとに一本ずつ火が灯され、クリスマスへの備えをしていきます。

いつごろからか、教会において、この4本の蝋燭は、それぞれ希望、平和、喜び、愛を表している、と言われるようになりました。

この言い伝えに従えば、今朝は先ず、希望の蝋燭に火が灯されたことになります。

そして、これから、順に平和の灯、喜びの灯、そして愛の灯が灯され、クリスマスを迎えることになります。

私たちも、一週毎に私たちの心の中に灯を増し加えていき、御子イエス・キリストのお誕生を、希望と、平和と、喜びと、愛をもってお祝いしたいと思います。

ところで、このアドベントという言葉ですが、この言葉の原語はラテン語のアドヴェントゥスという言葉で、「到来」とか「到着」を意味しています。

もっと平易にいえば、「やってくる」、「近づいてくる」という意味です。

争いや、憎しみや、汚れに満ちたこの世。暗い闇に覆われたようなこの世に、神の独り子が、まことの光として来てくださる。

私たち人間を、神の子供とするために、神の独り子が、人となってやって来られる。

その出来事を待ち望む時がアドベント、待降節です。

先ほど読んでいただきましたマタイによる福音書14:22~33には、暗い嵐の湖を漂っている舟に、主イエスが近づいて来られる出来事。

まさにアドヴェントゥスされる出来事が記されています。

私たち一人一人は、この世にあって、暗い嵐の海に漂う小舟のようなものです。

しかし、そのように私たちが、暗い嵐の中で、どうしていいか分からずにさ迷っている時、主イエスの方から私たちを見い出してくださり、近づいて来てくださるのです。

そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、と言ってくださるのです。

神の子としてのお力を持って、湖の上を歩いて、近づいて来てくださるのです。

そういうお方が、私たち人間の世界に来てくださって、この世界で生きてくださった。

それが、クリスマスの出来事なのです。

今日与えられた御言葉はこう始まります。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」。

今日の箇所の前で、主イエスは、男だけで5千人もの大群衆に対して、五つのパンと二匹の魚を分けて、全員を満腹にするという驚くべき奇蹟をなさいました。

恐らく、そこにいた人たちは皆、この驚くべき奇蹟に酔いしれ、主イエスのお力を褒め称えたと思います。

そして、弟子たちも、群衆が自分たちの先生を褒め称えている、その賞賛の中で、得意の絶頂にありました。

しかし、そのような歓喜と賞賛と興奮の渦巻く中で、主イエスがなさったことは、私たちにとって予想外のことでした。

主イエスは、強いて、弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先に行かせました。

群衆にもてはやされていたその場所。そういう居心地の良い場所を離れ、向こう岸に船出するように命じられたのです。

それから主イエスは、興奮している群衆を解散させられました。

そして、ご自分は一人山に登られました。この時、主イエスは、山に退かれて、休息しておられたのではないのです。主イエスは、ひたすらに祈っておられたのです。

神の国の到来を告げる主イエスのお言葉よりも、パンが食べられるということの方を喜んだ群衆の無知のために。

群衆にもてはやされて有頂天になっている、弟子たちの弱さのために、祈っておられたのです。主イエスは、今も、夜通し祈っておられます。

主イエスが、夜通し祈っておられるのは、御自分のためではありません。

私たち人間を救うためです。私たちの弱さのために、私たちの罪のために、祈っておられるのです。私たちは、その主イエスの徹夜の祈りによって、支えられているのです。

ガリラヤ湖は、周りを山でぐるりと囲まれています。そういう地形の影響で、とても複雑な風の吹き方をすることがあるそうです。

静かだった湖が、突然大荒れになることもしばしばあるそうです。

弟子たちが、舟を湖に漕ぎ出した時も、恐らくそうだったのだと思います。

「舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」と書かれています。

ヨハネによる福音書を見ますと「25ないし30スタディオン漕ぎ出した」とありますから、大体5キロから6キロくらいの距離です。

夕方から夜明けまで舟を漕ぎ続けても、5、6キロしか進んでいないのです。

弟子たちが、どんなに苦労していたか分かります。

一生懸命舟を漕いでも、激しい波と風の力で押し戻されてしまう。前進できない。

そういう状態の中で、何とか向こう岸につこうと、必死になって舟を漕いでいたのです。

周りは荒れ狂う波と風。この嵐を突き抜けて、自分たちの所に来てくれる人など誰もいない。たとえ主イエスであっても、この嵐を突き抜けて、私たちの所に来てくれるなどとは考えられない。だから、何としても、自分たちだけでやらなければいけない。

そういう孤独な戦いを、弟子たちは必死で続けていたのです。

ところが、その時、弟子たちが考えもしなかったことを、主イエスがなさったのです。

「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。

山で一人祈っておられた主イエスが、祈りを終えられて、山を降りられた。

そして、弟子たちの所に行こうとなさったのです。

弟子たちは、湖の上です。他にもう舟はありません。主イエスは、黙って湖の上に足を出されました。そして、水の上を歩いて、弟子たちの所に行かれたのです。

人間が水の上を歩く。あり得ないことです。これは奇蹟です。

嵐の中で、苦しみ悩んでいる、ご自分の弟子たちの所に行くために、主イエスは奇蹟を起こされました。奇蹟を起こしてでも、弟子たちの所に行こうとなさったのです。

この物語を通して、聖書が私たちに伝えていることは、主イエスはこのような奇蹟を起こす力を持っておられるお方だ、ということではありません。

そうではなくて、私たちの主であるイエス・キリストというお方は、私たちを救うために奇蹟さえ起こされるお方だ、ということです。

クリスマスも同じ出来事です。神が、人となって、この世に来てくださる。

これは、考えられない奇蹟です。あり得ないことです。

しかも、何のために来てくださるかというと、暗闇の中にいる私たちを救うために、来てくださるのです。十字架の上で死んでくださるために来てくださる、というのです。

十字架の上で死ぬために来てくださった主イエス。

その主イエスが生まれた場所は、暗くて、寒くて、汚い家畜小屋でした。

家畜小屋とは、人のためにすべてを献げる家畜の住むところです。

家畜は、乳を献げ、労力を献げ、最後には自分自身の肉をも人間が生きるために献げます。そんな家畜の住む場所で、主イエスはお生まれになったのです。

しかし、このことは、決して偶然ではありません。

十字架において、私たちのために、血を流され、肉を裂かれ、すべてを献げられた主イエスが、お生まれになられる場所は、家畜小屋をおいて他になかったのです。

そのように家畜小屋で生まれ、十字架の上で肉を裂き、血を流すために、私たちの所に来てくださった。

これは、嵐の海を歩いてでも、弟子たちを救いに来てくださる、ということと同じです。

何としても、あの人たちの所に行かなければならない。

十字架の上で肉を裂いてでも、血を流してでも、あの人たちの所に行かなくてはならない。

そのようにして、主イエスは、来てくださいました。

湖の上を歩かれた主イエスは、同時にまた、十字架の上で血を流された主イエスです。

そこまでして、主イエスは、私たちの所に来てくださいました。

嵐であろうが、何であろうが、この主イエスを妨げることはできませんでした。

どんなものも、私たちを、この主イエスの愛から引き離すことはできないのです。

しかし、湖の上を歩いて来られる主イエスのお姿は、弟子たちに恐怖を呼び起こしました。

幽霊が出たと思ったのです。恐怖のあまり叫び声を上げました。

それを聞いて、主イエスは直ぐに声を掛けられました。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

「安心しなさい。わたしだ」。この「わたしだ」という言葉は、別の訳し方をすると、「私はいる」とも訳せる言葉です。主イエスは、「私はいる」と仰ったのです。

こんな嵐の海の中で、自分たちの他に誰もいない。誰も、自分たちの所に来ることなど出来ない。そう思っていた弟子たちに対して、主イエスが仰ったのです。「わたしがいる」と。

しかも、この「わたしはいる」という言葉は、聖書の中で、神様がご自分を言い表される言葉なのです。

旧約聖書において、神様は「わたしはいる」という名前だ、と仰いました。

主イエスはこの時、その言葉を語られたのです。「わたしはいる」。

「わたしはいる。ここに、いる。神として。あなた方の主として、あなた方を救う者として、私はここにいる。だから安心しなさい。恐れることはない」。

このお言葉を聞いて、ペトロが興奮のあまり叫びました。

「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。

この「あなたでしたら」という言葉は、直訳すると「もし、あなたがおられるなら」となります。

「もし、あなたがおられるなら、私は水の上を歩くことが出来ます」。

ペトロはそう言ったのです。主イエスが、この私と共におられるなら。そのことが本当に分かったなら、私たちは水の上を歩くことが出来ます。

今まで決して出来ないと思っていた、水の上を歩くような、新しい人生を歩くことが出来るのです。

ペトロはこの時、こう言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。「私に命令してください」、と言ったのです。

「今、私が行きますから、待ってて下さい」と言ったのではないのです。

イエス様、どうぞ、私に「来い」と仰ってください。「私の所に来なさい」と仰ってください。

そうしたら、私は、あなたの所に行けます。私は水の上を歩けます。

もしこの時、ペトロが、「イエス様、今からあなたの所に行きますから、待ってて下さい」と言って、足を踏み出したら、直ぐに沈んだに違いありません。

でも、「私の所に来なさい」と主イエスが言われたなら、私たちは水の上を歩くのです。

今まで、全く考えもしなかったような、新しい人生を歩くことが出来るのです。

私たちが、どうして信仰生活を続けることが出来るのかと言えば、「私の所に来なさい」という主イエスの言葉を聞くからです。

この主イエスの言葉を聞かないで、信仰生活はできません。

これは私たちが洗礼を受ける時に聞く言葉です。

「私の所に来なさい」。そう言われて、私たちは一歩踏み出すのです。

主イエスは、すべての人に「私の所に来なさい」と呼び掛けておられます。

すべての人を、ご自身の許へと招いておられます。

「あぁ、イエス様が私を呼んでおられる。私の許に来なさい、と言っておられる。新しい人生に踏み出しなさいと言っておられる」。

もし、このように、主イエスのお言葉を、私自身に語られた言葉だと信じて、一歩踏み出すなら、私たちは新しい人生を歩むことが出来ます。

洗礼を受ける時だけではありません。既に、信仰を持っている者でもそうです。

信仰を持って、何年経とうが、何十年経とうが、私たちは、この主イエスのお言葉を聞き続けるのです。礼拝のたびごとに聞き続けるのです。

「私の所に来なさい。他の所に行くことはない。私から目を離さずに、付いて来なさい」。

このお言葉を、聖日礼拝の度に繰り返して聞くから、私たちは、次の新しい週に向かって、一歩を踏み出せるのです。力を与えられ、勇気を与えられて、踏み出すのです。

ペトロは、主イエスの言葉に従いました。そして、水の上に足を踏み出しました。

すると、本当に不思議なことが起こりました。ペトロも、水の上を歩いたのです。

あれほど自分たちを悩ませていた、不安、恐れ、心配。そういうものが、今や、全部足の下にあるのです。

「私の所に来なさい」。この主イエスの言葉をきいて、信じて一歩踏み出した時に、あれほど自分を悩ませていた恐れも、不安も乗り越えることが出来たのです。

これは、ペトロの素晴らしい体験です。でも、私たちだって、そのような体験をすることが許されています。小さい形であっても、体験できるのです。

残念ながら、ペトロのこの歩みは長続きしませんでした。主イエスのお言葉だけを聞いていれば良かったのに、思わず風を見てしまいました。嵐に目を向けてしまいました。

そうしたらとたんに、足が沈み始めた。

これも、私たちが良く経験することです。主イエスの言葉に従って、足を踏み出した筈なのに、周りの困難に目を向けて、恐れおののいてしまう。そして、沈んでいってしまう。

溺れそうになったペトロは、叫びました。「主よ、助けてください」。

そうしたら、主はすぐに手を伸ばして、助けてくださいました。

そして、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。

一体、私たちは、何回この主イエスのお言葉を聞いたでしょうか。「信仰の薄い者よ」、「信仰の薄い者よ」と何度言われたことでしょうか。

でも、主イエスは、何度でも助けてくださいました。

主イエスのお言葉だけ聞いていれば良かったのに、他のものに目を向けて、そして、溺れそうになる。そんな自分勝手な、弱い私たちです。

でも、その度に、「信仰の薄い者よ。しょうがない奴だな」と言って、主イエスは助けてくださるのです。

私たちは、本当に信仰が薄い者だと思わされます。この「信仰が薄い」という言葉は、元々は「信仰が小さい」という意味の言葉です。私たちの信仰は小さいのです。

でも、主イエスは、「信仰が小さい者よ」、と言われましたが、「信仰が無い」とは言われませんでした。

「お前の信仰は小さいね」と仰いながらも、でも小さくても信仰はあると仰ってくださいました。零だとは仰らなかったのです。

それは、ペトロが、主イエスに叫んだからだと思います。

「主よ、助けてください」と叫んだ。だから、信仰が零ではないのです。

私たちも同じように、何度も沈みます。でもその都度、「主よ、助けてください」と叫ぶしかないのです。これを言わなかったら、そのままずっと沈んでいってしまいます。

でも、これを言ったから、「信仰が小さいね」と言いながらも、主イエスは、差し伸べた手を掴まえて引き上げてくださるのです。

ここに、ただ一つ、確実なことがあります。私たちは、嵐の海に沈むことがあります。

しかし、主イエスは決して沈むことはない、ということです。

主イエスは、どんな嵐の海の中でも、しっかりと立っていてくださいます。

なぜなら、この方は、神ご自身だからです。

神ご自身が、私たちの所に来てくださった。嵐の海を突き抜けて、来てくださった。

十字架の上で肉を裂き、血を流し、命を与えるために、この世に来て下ったのです。

そして、今も、私たちが、人生の嵐に苦しみ、悩み、一歩も進めないと思うような時に、この方は私たちを救うために、近づいて来てくださるのです。

そして、「私はいる。私はここにいる。私の所に来なさい」と仰って、手を差し伸べてくださるのです。

私たちは、このお言葉に従って、一歩踏み出すのです。

しかし、それには、決断が要ります。

でも、私たちが決断するよりずっと前に、既に、主イエスご自身が、計り知れないほど大きな決断をしてくださっていることを忘れてはなりません。

それは、十字架にかかるために、この世に人となってお生まれになられる、という決断です。主イエスが、この決断をなしてくださり、あの家畜小屋に生まれてくださった。

私たちを愛し、私たちを救うために、飼い葉桶に生まれてくださった。

それこそが、暗闇に輝く「まことの光」です。すべての人を照らす「まことの光」です。

その光の中に、私たちの希望があります。私たちの平安があります。私たちの喜びがあります。

私たちは、その喜びの出来事を、3週間後に、共に祝いたいと思います。