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柏牧師:過去の礼拝説教

「振り向いたマリア」

2013年03月31日 聖書:ヨハネによる福音書 20章11節~18節

イースターおめでとうございます。祈りつつ、待ち望みつつ、備えてまいりましたイースター礼拝を、皆様と共にささげられる恵みを、心から感謝いたします。

ここに一冊の小さな本があります。カウンセラーをしている荻野ゆう子さんという方が書いた、「心の新芽が出たよ」という本です。この本に、こんな言葉が書かれています。

「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ。」

荻野さんはカウンセラーとして、不登校やひきこもりの子どもたち、そしてその親たちの相談相手になってきました。

不登校やひきこもりの子どもたちに対して、多くの人は、頑張って、勇気を出して、学校に行きなさい、と励まします。でも、荻野さんは、そうではないというのです。

「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけない訳がある」のだ、と彼女は言っています。 ほかのページからも、いくつかの言葉を紹介します。

「涙をいっぱいためると、気持ちが動かなくなっちゃうから、今日は泣かせてほしい。」

「自分が涙を流す場所を持っていれば、誰かの涙の受け皿になれるよね。」

「人それぞれ、けっこう無理してそこにいることもある。でも、そんな自分に気づいてくれる人がいれば、そこが私の居場所。」

私は最初、これらは、荻野ゆう子さん自身の言葉であると思いました。

ところがそうではありませんでした。

本の後書きを読んで分かりましたが、本に書かれた言葉は、不登校やひきこもりに苦しんでいる、若者たち自身の言葉だったのです。

本当に人を慰めたり、励ましたりするのは、苦しみや悩みの外にいる人の言葉ではなく、その只中にいる人の言葉なのだ、と改めて思わされました。

さて、只今ご一緒に読みました聖書の箇所に、マグダラのマリアが出てきます。

11節には、「マリアは墓の外に立って泣いていた」と書かれています。

この時、マリアもまた、深い悲しみのために、立ち止まらざるを得なかったのです。

彼女は週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに墓に行きました。

ところが墓に行ってみると、墓から石が取りのけてあります。

彼女は驚いて、弟子たちのところへ飛んで帰ります。

そして再び、シモン・ペトロともう一人の弟子と共に、墓にやって来ます。

ここで興味深いのは、シモン・ペトロともう一人の弟子は、墓が空であることを見ていながら、さっさと家に帰ってしまったということです。

もしかしたら、この辺りに、主イエスを十字架につけた人たちがいるかも知れない。

もしそうなら、ここにいるのは、危険だ。早く引き上げた方が良い。弟子たちは、そう思って急いで家に帰って行ったのです。

彼らは、十字架の主イエスを見捨てて、独りにしてしまっただけではなく、復活の主イエスをも、見捨てて家に帰って行ってしまったのです。

しかしマリアは、深い悲しみをもって、そこに立ち尽くしていました。

主イエスが、十字架で死なれただけでも、胸が張り裂けるように悲しいのに、その上、お体さえもどこかに運び去られてしまった。

言い尽くせない悲しみに、マリアは、ただ立ち止まって、涙する他なかったのです。

「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ。」

「涙をいっぱいためると、気持ちが動かなくなっちゃうから、今日は泣かせてほしい。」

そんなマリアの姿がそこにあります。

そのマリアに、神様が働き掛けてくださいました。まず天使がマリアに声をかけます。

『婦人よ、なぜ泣いているのか』。マリアが答えます。

『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません』。

こう答えながら、誰かがいる気配を感じたのでしょう、マリアは、後ろを振り返ります。

するとそこに、主イエスがおられたのです。

しかし、彼女はまだ、その方が主イエスであるとは気づいていません。

そこで主イエスは言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

このように尋ねられても、マリアはまだ気がつきません。

恐らく、いつもの主イエスの口調ではなかったのでしょう。

主イエスが、マリアのことを、「婦人よ」などと、他人のように呼ばれることは、なかったのだろうと思います。ですからマリアは、この人を園丁だと思ったのです。

園丁と聞きますと、綺麗な花畑か、立派な庭園の庭師という印象を持ちます。

でも、ここでの園丁という言葉は、そうではないようです。正確には、墓守であったようです。マリアは、主イエスを墓守だと思ったのです。

当時、死体は不浄と見做されていました。ですから墓守は汚れた職業と考えられていました。復活の主イエスは、このように貧しく低い者のお姿で、ご自分を現されたのです。

私たちも汚れた者です。でも、その汚れた私たちが、遠慮なくお傍に近づくことが出来るように、復活の主は、貧しく低い者のお姿をとって、現れてくださったのです。

天使の方に向きを変えながらマリアは尋ねます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

この勇気ある言葉は、マリアの主イエスを思う想いがどれほど深かったかを表しています。

そして、そのようなマリアに、主イエスは彼女の名前をもって呼び掛けられるのです。

「マリア」。 彼女はここで再び振り向いて、「ラボニ」と言います。

ここに劇的な出会いが起こります。墓守だと思っていたこの人が、主イエスであると気づいて、「ラボニ、先生」と呼びかけたのです。

「マリア」と訳された言葉は原語では、「マリアム」と記されています。これは、アラム語の「マリア」の発音です。主イエスのマリアに対する、いつもの呼び掛けの言葉でした。

この聞き慣れた、懐かしい言葉を聞いたとき、きっとマリアの全身は、雷が走ったような衝撃に襲われたと思います。

「アッ、先生だ!先生のお声だ!間違いなく、私の先生のお声だ!」。

マリアは、声をかけられた方が、主イエスであることを確信しました。

言葉に表せない激しい感動と、溢れ出る喜びを込めて、マリアは答えました。

「ラボニ」。これもアラム語です。

マリアが、いつも主イエスに対して、呼びかけていた言葉そのものです。

「ラボニ」とは「先生」という意味であると説明されています。

でも、より正確に言うと、「わたしの先生」という意味です。

ギリシア語で書かれている新約聖書の中で、なぜこの言葉は、わざわざアラム語のままで記されているのでしょうか。

新約聖書の中にはごく例外的に、ヘブライ語やアラム語のままで、記されている言葉があります。たとえば、「アーメン」とか「ハレルヤ」という言葉がそうです。

また、主イエスが、十字架の上で叫ばれたお言葉、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉もアラム語です。ですから、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、という訳がわざわざ付け加えられているのです。

これらの言葉は、その言葉に含まれている思いが、あまりにも深いために、相応しい訳が見出せなかったのだと思います。

マリアが語った「ラボニ」という言葉もそうでした。ギリシア語に訳してしまうとマリアの気持ちを正しく伝えられない。だから、マリアの言った通りの言葉を伝えた方が良い。

福音書記者ヨハネは、マリアが思わず叫んだこの一言に、深い重みを感じたのだと思います。ですから、翻訳せずにそのままの言葉を記したのです。

ちょっと次元が異なりますが、こんな状況を思い浮かべてください。

戦争で長い間行方不明になった夫の行方を、案じつつも、殆ど諦めていた妻の前に、ある日突然、夫が帰ってきた。その夫を見て、妻が思わず「あなた!」と叫んだ。

この言葉を、たとえば英語に翻訳するとしたら、どう訳すでしょうか。

きっと、どのような言葉でも、この「あなた!」という言葉の深みを十分に伝えられない。

だから、そのまま日本語で、「あなた!」と記したい。翻訳者はそういう思いに駆られると思います。マリアの語った「ラボニ」という言葉も、そのような深みを持っていました。

そして、マリアが口にしたこの言葉は、また同時に、私たち一人ひとりの言葉でもある。

そのような思いが、この「ラボニ」という一言に含まれているのだと思います。

復活の主イエスが、マリアの名をまず呼んでくださった。

そのように、主は、私たちをも呼んでくださっている。私たちも呼ばれている。

そして、私たちもまた、「ラボニ、私の先生」と、答えするのだ。

ヨハネはそういう思いをもって、この言葉をここに記したのだと思います。

ある有名な聖書学者が、この箇所について、こう言っています。

「新約聖書には、主イエスと、多くの人々との出会いの物語が、記されている。

しかしその中で、最もやさしさに満ちている物語が、これである。

こんなに優しさに満ちた出会いの出来事は、他のどこにも記されていない。

しかし、それは、マリアだけのものではない。ただ一度だけ起こったものではない。

今、ここでも、私たちの間で起こっている。だから、今、私たちは、主の復活を祝うのだ」。

愛する兄弟姉妹。私たちも、このマリアのように、心からの喜びと、感動をもって、私たちの名前を呼んでくださる主に、お答えしていこうではありませんか。

さて、ここで、彼女の体の動きに、少し注目して頂きたいと思います。

この箇所をよく読んでみますと、ちょっと不自然なのです。

13節、14節は、こう語っています。

「天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」

ここで、マリアは、天使たちと話をしながら、人の気配を感じて、一度振り返っています。

ところが、その人が主イエスだとは分からなかったのです。

墓守だと思って、この人をチラッとだけ見て、天使の方に向き直しています。

ところが、16節で「マリア」と呼ばれて、再び振り返っているのです。

そして、この人を復活の主イエスであると認めています。

「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」体を二度も回してしています。

どうしてこんなふうに、二度も振り返ったのでしょうか。

ここで考えさせられることは、「振り返る」という言葉の持っている意味です。

ここで使われている「振り返る」という言葉は、体の向きを変えるというだけではなく、もっと深い意味を持っています。

例えば、マタイによる福音書18章で、主イエスは、「はっきり言っておく、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と仰っています。

マタイ18章で「心を入れ替える」と訳された言葉と、ここの「振り返る」とは原語では同じ言葉なのです。また、同じ言葉が「悔い改める」と訳されているところもあります。

ですから、ここで使われている「振り返る」という言葉は、単に体の向きだけではなくて、泣いていたその「心の向き」を変えた、という意味をも含んでいます。

早稲田教会の上林順一郎牧師が、数年前に本を書かれましたが、先生はその本に、「ふり返れば、そこにイエス」というタイトルを付けられました。

その本のあと書で上林先生は、「牧師として歩んできた自分の人生に、「ふり返れば、そこにイエス」がいつもいてくださった」、と述べておられます。

マリアは、墓のそばに泣きながら立ち尽くしていました。しかし、振り返ると、そこに復活の主イエスがいてくださった。けれどもマリアの目は、悲しみの涙で曇っていて、主イエスを見ることができませんでした。しかし、たとえマリアが気付いていなくても、主イエスは、立ち止まって泣いているマリアをずっと見ていてくださったのです。

そんなマリアに、神様は天使を遣わして、心の向きを変えさせてくださいました。

泣きながら立ち尽くす彼女に、神様は真実の救いの体験を与えてくださったのです。

17節で、主イエスはマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい」、と言われています。

これは、思わず主イエスにすがりつこうとしたマリアに対して語られたお言葉です。

マリアは「ラボニ」と言って、主イエスを摑まえようとしました。

目に見えることができて、摑まえることができる存在として、主イエスが目の前におられる。その主イエスを、自分の手でしっかりと握り締めて、自分のものにしようと思ったのです。

しかし、主イエスは言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。

主イエスはなぜそんなことを言われたのでしょうか。なぜすがってはいけないのでしょうか。それは、主イエスが神であられるからです。

すがりついて、摑まえて、マリアのものとすることができない存在であられたからです。

主イエスは、マリアに命じられました。

「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。

今、私は、未だあなたが摑めば摑むことができる体をもっている。

けれども、やがて、この見える姿においては、あなた方の前からいなくなる。

なぜなら、父のもとに帰るからだ。そのことを、弟子たちに伝えてもらいたい。

今や、あなたがたは、私の父を、あなた方の父と呼ぶことができる。この私が、あのゴルゴダの十字架においてその道を開いたのだ。

だから今や、あなた方は、私の兄弟なのだ。そのことは、これからも絶対に変わらない。

私は、これからも兄弟であるあなた方と共にいて、あなた方を守る。

そのことは、どんな状況であっても、決して変わらない。

マリアよ、あなたはこのことを弟子たちに伝えて欲しい。主イエスはそう言われたのです。

「わたしにすがりつくのはよしなさい」、と主イエスは言われました。冷たい言葉のように思われます。しかし、マリアは嬉しかったと思います。

手を振り払われたことを喜んだと思います。

主イエスは、マリアを退けられたのでないからです。そのことが分かったからです。

主イエスを見ていながら、反対の方向を向いてしまうようなマリアを、主イエスは「マリアよ」と呼んで、もう一度振り向かせ、まことの神としてのお姿を見せてくださった。

そして、ご自身が、神として、これからも必ず共にいてくださることを約束してくださった。

この時初めて、マリアは解き放たれました。

目に見ることができて、手で摑むことのできる主イエスに、しがみついていたいという思いから、解き放たれたのです。

この後マリアは、目に見える形で、主イエスに二度とお目に掛かることはありませんでした。

主イエスに、自分の手でしがみつくことはなかったのです。

しかし、それで良かったのです。あの主イエスというお方は、私がこの手で捕まえて、私の側に置いておけば良い、というようなお方ではない。

そうではなくて、この私が、主イエスによって捕らえられているのだ。

そして、そのことは、絶対に変わらないのだ。

私が摑んでいるのではない。主イエスが、私を摑んでいてくださる。

どんな時にも、どんな状況にあっても、主は私を握り締めていてくださる。

そのことは、決して変わらない。マリアは、この新しい希望、新しい命に生かされたのです。

「マリアよ」と呼ばれ、「ラボニ」と言って振り返ったその時から、マリアは、この新しい命を歩みを始めたのです。

マリアは、泣きながら立ち尽くしていました。今はただ、立ち止まって泣かせてほしい、という思いに覆われていました。

けれども、そのようなマリアに、主イエスは「マリアよ」と、優しく呼び掛けてくださいました。

振り向かせてくださいました。心の向きを変えさせて、新しい命を与えてくださいました。

復活の主イエスに出会った彼女は、今や新しい命に生き始めたのです。

主イエスは、今も、私たち一人一人の名前を読んでくださっています。

そして、私たちが、振り向き、体だけではなく、心の向きを変えることを、願っておられます。

私は、あなたの主だ。あなたは、私のものだ。私は、あなたを、この手で握り締めている。

どんな時にも、あなたを見放すことは絶対にない。

復活の主は、今も、私たち一人一人にそう言ってくださっています。

その主の愛に、感謝しつつ、喜んで、覆われていくお互いでいたいと心から願います。