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柏牧師:過去の礼拝説教

「恵みの駅伝走者」

2014年01月26日 聖書:ヘブライ人への手紙 12:1~4

今朝は、ご一緒に、ヘブライ人への手紙から、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

このヘブライ人への手紙は、ロ-マ帝国やユダヤ人たちの迫害に耐えて、必死に信仰を守っていた信徒たちを、慰め、励ますために書かれたものです。

今朝は、12章1節~4節を読んで頂きました。

先ず1節で、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」、と勧められています。

この1節の御言葉は、信仰生活をひたすら走る陸上競技になぞらえています。

ただ、ここでの競走は短距離競走ではなく、長距離競走です。しかも、一人で全区間を走るマラソンではなくて、駅伝のようなリレーです。

毎年、正月に箱根駅伝が行われます。私は、この箱根駅伝を見るのが好きです。

時間の許す限り、海岸沿いの134号線の沿道で、ランナーを応援することにしています。

何とか母校の「たすき」を次のランナーにつなごうと、必死になって走る選手の姿にいつも感動を覚えます。そしていつしか、この選手たちの姿に、福音という「たすき」を、何とか次の世代に手渡したいと願う、キリスト者の姿を重ね合わせて見てしまいます。

キリスト者は、駅伝のランナーのようなものだと思います。

前のランナーから引き継いだ福音という「たすき」を、次のランナーに確かに手渡すこと。

それが、私たちキリスト者に与えられた務めです。

代々の信仰者たちは、自分たちの走るべき区間を走り抜き、福音の「たすき」を、現代に生きる私たちに託しました。

もし、私たちが、その「たすき」を引き継ぐことに失敗したら、そこで宣教というリレーは途絶えてしまいます。福音の恵みは、その先には伝わりません。

ですから、私たちは、この「たすき」を引き継ぐという務めを、決して諦めてはいけないと思うのです。

しかし、走る私たちは決して一人ではありません。それは駅伝のランナーが一人で走っているのではないということと同じです。

ランナーのすぐ後ろには、伴走車に乗った監督やコーチがいて、いつも彼を見守っています。そして、彼を励まし、必要な言葉を与えてくれるのです。

また、沿道には多くの仲間がいて、力強い応援をしてくれます。

私たちの信仰の歩みも同じです。監督である主イエスが、必要な御言葉を与えてくださり、励まし導いてくれます。教会の仲間が応援してくれます。

更に、信仰の先達たちも、天にあって応援してくれています。

まさに、1節の御言葉が語っている通り、「おびただしい証人の群れに囲まれて」、私たちは走っているのです。

そして、私たちもまた、やがて後に続く人たちの走りを、父なる神様の御許で見ることになります。私たちは、そのような幸いなリレーを、走らせていただいているのです。

確かに、信仰生活には、「走り続ける」という要素があります。「走り続ける」というのが辛く聞こえるのであれば、「歩み続ける」と言い換えても良いと思います。

歩み続けることを止めてしまうなら、私たちの信仰生活は後戻りしてしまいます。

なぜなら信仰生活には、前に向かって進むか、後退するかの、どちらかしかないからです。

前にも進まず、後ろにも後退せず、今の状態に留まり続ける、ということはありません。

私たちの信仰は、毎日新たな恵みをいただいて、新たな一歩を踏み出していくか、何もせずにいて、信仰が色あせていくか、のいずれかなのです。

それは、帆を張って、荒海を航海する船のようなものです。私たちが信仰生活をしていく時、それを阻止しようとする様々な力が働きます。

前に進もうとしている船に向かってくる逆風が、いつも吹き荒れています。

しかし、どんなに逆風が吹いていても、そこに恵みの追い風もまた必ず吹いているのです。

聖霊の風が必ず吹いているのです。

私たちは、その恵みの追い風を捕えて、それに向かって帆を張ればよいのです。

帆の向きが正しく保たれているなら、恵みの追い風は、必ず私たちを前に進めてくれます。

問題は、自分の力ではありません、帆が正しい方向を向いているかどうかです。

そうでないと、船は、逆風に押されて戻っていってしまいます。

荒海を乗り越えるのに必要なこと。それは、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て」ることです。

重荷とか罪と書かれているものは、信仰の歩みを止めさせようとする様々な力です。

「絡みつく罪」と書かれているように、走ろうとすると、裾が足もとに絡みついてくる。それで巧く走れなくなる。そのような重荷や罪。それは、先ほどの船の例でいえば、逆風です。

サタンは逆風を送っておいて、「こんな中を走ることないよ。もういい加減でお止めなさい。一日や二日休んだって、どうってことないよ」と囁くのです。

しかし、私たちは、その囁きを振り捨てて、尚も走るのです。そのような重荷や罪をかなぐり捨てて走るのです。いえ、かなぐり捨てなければ、走れません。

その時に、大切なことは、何を目指して走っているのか、ということです。

走って行く先の目標をしっかりと捉えているか、ということです。

目標を目指して走っていなければ、走ることは無駄になってしまいます。マラソンの場合には、走るコースが予め決まっていて、そこから逸れることは、殆どありません。

しかし、私たちが、走っている人生というレースは、走るコ-スが予め決まっている訳ではありません。ですから、ややもするとコースを間違えることがあります。

そういうことが無いように、目標をしっかりと捉えて走らなければなりません。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と書かれているように、主イエスという目標を、しっかりと捉えて走るのです。

「信仰の創始者」と訳されている言葉は、元々は「最初の人」という意味です。

最初の人とは、道を切り開く人です。人生という未知の道を切り開いてくださるのは、主イエスです。私たちではありません。

高村光太郎が作った「道程」という有名な詩があります。

「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」という言葉で始まる詩です。

とても良い詩です。しかし、これは、私たちキリスト者には当てはまりません。

私たちは、こう詠うことが出来ます。「僕の前に道はある。主イエスが歩かれた道が」。

主イエスはいつも私たちの先に立って、歩んでくださっています。ですから、私たちが道を切り開く必要はないのです。

私たちが為すべきことは、主イエスの後を間違いなく走っているかどうかを、絶えず問い続けていくことなのです。

主イエスだと思って着いて行ったのに、気が付くと全く違う、とんでもないものの後を着いて行っていた、ということになりかねません。

或いは、主イエスのお姿が、全く見えなくなってしまう、ということが起こるかもしれません。

ですから、私たちの目が主イエスから離れることがないように、いつもしっかりと、主イエスを見つめ続けていなければならないのです。

あの湖の上を歩いたペトロのように、主イエスから目を逸らして、足元の風や荒波を見たりしてしまうことがないように、気を付けなければならないのです。

「イエスを見つめながら」とありますが、この「見つめながら」という言葉は、非常に強い言葉です。ある英語の聖書は、この言葉を、「our eyes fixed on Jesus」 と訳しています。

目が、主イエスにフィックスされている。動かないように固定されている、と言うのです。

私たちの先を行かれる主イエスに目を固定して、主イエスをしっかりと見つめながら、ゴールまでひたすら走る。これが、私たちの基本的な姿勢です。

では、私たちが見つめ続ける主イエスとは、どのようなお方なのでしょうか。どのようなお姿で私たちを導いて下さっているのでしょうか。

2節の御言葉は、こう語ります。「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。

私たちが見つめているのは、このようなお姿の主イエスです。

「恥をもいとわない」とありますが、恥をもう少し砕けた表現で言えば、「世間体」と言い換えても良いのではないかと思います。

三浦綾子さんは、「わたしたちの悩みから、世間体を取り除いたら、殆どの悩みは解決する」と書いておられますが、その通りだと思います。

更に、三浦さんは、その世間体を取り除くものは愛である、と言っています。確かに、愛が働く時には、世間体など気にしていられません。愛は、なりふり構わないからです。

私が、中学校の頃、ご近所の幼稚園児がいなくなってしまいました。

その時、その母親は、ほとんど半狂乱のようになって探しました。でも、見つかりません。

その人の家の近くの畑に肥溜めがありました。その頃は、この茅ヶ崎にも、まだ肥溜めが所々にあったのです。

その母親は、東京から引っ越してきた、いわば上流階級のインテリ婦人でしたが、とうとうその肥溜めの中に両手を突っ込んで探しました。

暫くしてその子は、かなり離れたところで、迷子になって泣いていたのが見つかりました。

私はその時、愛とはなりふり構わないものであることを、目の当たりに見させてもらいました。主イエスは、私たちを限りない愛で、愛してくださっています。

ですから、なりふり構わず、呪いの木である十字架にかかられることを恥とされることなく、耐え忍んでくださったのです。

主イエスというお方は、そのようになりふり構わず、私たちを愛してくださっているのです。

私たちは、そのお方を見つめつつ走るのです。

「耐え忍ぶ」、という言葉も面白い言葉です。元々は、「あるものの下に立つ」という意味の言葉です。

主イエスは、私たちの下にいて、私たちを支え続けてくださっています。

主イエスの十字架は、私たちと神様の間に横たわっている、罪という深い、大きな溝に掛けられた橋のようなものです。

この十字架という橋を通らなければ、私たちは、神様の元に決して行くことができません。

私たちは、主イエスの十字架という橋を、渡らせていただいています。

今までに、何億、何十億、いや何百億という人たちが、十字架の主イエスの上を歩いて、神様の元に行きました。

そのすべての人の足の下に、主イエスは居続けていてくださっています。私たちの汚れた足で、踏み付けられるのを、耐え忍んでくださっているのです。

「さぁ、私の上を歩きなさい。私はそのために十字架に架かったのだ」、と言ってくださっているのです。

私たちが見つめていくべき主イエスというお方は、そのように、すべての人の足許にご自身の身を投げ出して、すべての人を担い続けていてくださるお方なのです。

私たちは、そのお方を、見つめつつ走るのです。

4節の御言葉はこのように語っています。

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。

この御言葉は、私が若い時から、何かにつけて想い起してきた御言葉です。

何か、強い誘惑や、罪の力に負けそうになった時、この御言葉を想い起こして、自らを励まして来ました。

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。

この御言葉から想い起すエピソードがあります。

南フランスのブルゴーニュ地方に、エイグ・モルトという小さな、古い町があります。

この町に、中世以来の古い城塞があって、毎年多くの人々がその城塞を見に来るために、この町を訪れるそうです。

城壁の上に14の塔が立っていますが、その中で一番大きな塔が、コンスタンスの塔と呼ばれる塔です。このコンスタンスの塔は、当初は灯台として使われていたそうです。

しかし、後になって、このコンスタンスの塔は、カトリック教会によって迫害された、プロテスタントの信徒を幽閉する監獄となったのです。

ここに収監された女性信者の中に、マリー・デュランという女性がいました。

牧師の娘として生まれた彼女は、15歳で投獄され、フランス革命によって釈放されるまで、実に38年間という膨大な月日をここで過ごしました。

この塔の、下の部屋の縁石の一部が、特別に囲われていて、熱いガラスの板で保護されています。その縁石には、「レジステ」(抵抗せよ)という言葉が刻まれています。

人々は、石の壁に刻まれたこの言葉を見るために、この町を訪れるのだそうです。

信じられないようなことですが、この言葉は、マリー・デュランが、石の壁に自分の爪で刻んだものだと言われています。囚人には、金物などの硬い物は、一切与えられませんでした。

ですから彼女は、自分の指の爪で、毎日毎日、石の壁をなぞるようにして、ひたすら「レジステ」(抵抗せよ)、と書き続けたそうです。爪は、ぼろぼろになり、血が滲んでいただろうと思います。マリー・デュランは、まさに血を流して抵抗したのです。

そのように罪と戦いなさい、と御言葉は私たちに語り掛けているのです。

この4節にある「罪」が、何を指すのか、昔から色々と議論されて来ました。

私は、この罪とは、自分の中にある不信仰な思いや弱さであるとずっと思い続けて来ました。しかし、この箇所の学びを通して、この罪とは厳しい迫害に負けて、信仰を棄ててしまうこと、つまり背教を意味しているということを知りました。

信仰者を脅かす恐ろしい力として襲いかかって来る迫害。そういう迫害が実際に起こるかもしれない。

その時あなた方は、信仰を棄てようとする罪と、命懸けの戦いをしなければならない。

血を流して戦わなければならない。

あなたがたはそういう戦いをしたことがあるか。いや、今は、未だないだろう。

今は未だ、あなた方の信仰の戦いは、それほど深刻ではない。けれども、やがてそのような状況と向き合うことになる。

だからこそ、信仰の創始者であり、完成者である主イエスをひたすら見つめながら、定められた競争を忍耐強く走り抜こう。御言葉は、そのように励ましているのです。

一方、この励ましの言葉を、少し違った角度から捉えている見方もあります。

その見方によれば、この手紙を読んでいる人たちは、もう気力を失いかけている。

疲れ果ててきている。もう走れないと言い始めている。

4節は、その走れなくなっている者を慰め、励ます言葉だというのです。

疲れ果てて座り込もうとする人の手を取って、「ほら、主イエスを見てごらん、そうしたら立てますよ」、と励ましの声をかけている。そのように解釈するのです。

私たちのために、主イエスは血を流して耐えられた。血を流して十字架に死んでくださった。

そして、私たちが、神様の御許に近付くことができる道を開いて下さった。

そして、「さぁ、私の後を着いて来なさい」、と言われている。

私たちは、それに続けば良いのだ。あなた方は、どんなに辛いといっても、主イエスのように、血を流すほどの戦いは、していないではないか。

血を流さないで、済んでいるではないか。あなた方は、もう主イエスのような戦いをしなくて良いのだ。血を流さなくて良いのだ。

なぜなら、主イエスが戦って、既に勝利していてくださるのだから。

そのような慰めと、励ましの言葉を、この4節からを聞いていこうというのです。

自分を責める言葉としてではなく、慰めと、励ましの言葉として、4節の御言葉を捉えているのです。この解釈にも、心惹かれるところがあります。

どちらの解釈を取っても良いと思います。大切なことは、私たちのために血を流してくださった主イエスを見つめ続けることです。

恥をもいとわないで、十字架の死を耐え忍んでくださった主イエスから、目を逸らさないことです。

そして、自分に定められた区間を、ひたすら主イエスを見つめながら走り抜くことです。

今朝の御言葉は、迫害の中にあった、初代教会の人たちを励まして来ました。

その同じ御言葉が、信仰のたすきを渡されて走っている、私たちにも与えられているのです。「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ」、という言葉があります。

私たちは、渡された「たすき」をたくさん貯め込んでしまうのではなくて、託された「たすき」のすべてを、次の世代に手渡して、空手でこの世の旅路を終えたいと思います。

一人でも多くの人に「たすき」を手渡すことができますように、共に走ってくださる主を見上げながら、割り当てられた区間を走り抜きたいと心から願います。