「天国に生きるとは」
2014年02月23日 聖書:マタイによる福音書 20章1節~16節
「天国と宇宙、どっちが遠いのですか」。
もし、小さな子どもからそういう質問を受けたら、あなたはどう答えるでしょうか。
ラジオの「何でも子ども相談室」という番組で、実際にそういう質問が取り上げられました。
その番組の回答者の出した答は、「天国」。その理由は、「宇宙から帰ってきた人はいるけど、天国から帰ってきた人はいないから」でした。
しかし、回答者は自信がなかったのでしょう。更に付け加えました。
「でも、誰でも死んだら天国に行けるけど、宇宙はそうでないから、宇宙の方が遠い、という回答も正しいかも知れませんね」。
では、この質問の回答を聖書に求めるとどうなるでしょうか。
天国は罪人である人間にとっては、一番遠い場所です。
そうすると、やはり天国の方が遠いということになるのでしょうか。
けれども、実は、そうではないのだ、と聖書は言っています。
なぜなら、主イエスが、その最も遠い所を、すぐ近くにまで引き寄せてくださったからです。
主イエスは、いわば「天国行きの無料切符」を配布してくださったのです。
しかし、そのために、御自身の命という、とてつもなく高価な代価を払ってくださったのです。
主イエスは、御自身の命という代価を支払うまでに、私たちを愛し、「一人として滅びることなく」永遠の命を得るようにと願っておられます。
そのような熱い思いを持って、私たちすべての者を天国に招いておられます。
そのことを、今日の御言葉からご一緒に聴いてまいりたいと思います。
初めに一つ確認しておきたいことがあります。聖書が言う「天の国」とは、先ほどのラジオの回答者が言っていた「誰でもが死んでから行く」ところではありません。
聖書が言う天国は、死者の国ではありません。
マタイによる福音書が言う「天の国」は、他の福音書では「神の国」と呼ばれています。
「天の国」と「神の国」とは同じ意味です。
「天の国」、或いは「神の国」というのは、どこかにある特定の「場所」のことではなくて、神様の御心によって支配されている「状態」のことを言います。
死んだ後の話しではなくて、今、生きている私たちが、神様に捕らえられ、神様のご支配の中に置かれ、神様の眼差しの中で生きる。それが天の国に生きるということなのです。
主イエスは、「天の国は近づいた」と言われました。この「近づいた」という言葉は、近づいて、もう既に来ている、という意味の言葉です。
私が来たことによって、天の国がもう来ている。神の支配が、もう始まっている。だから、あなた方は、その中に入りなさい。これが主イエスのメッセージの中心です。
ですから、天の国というのは、遠いどこかにあるのではありません。ましてや、死んでから行くところではなく、まさに、あなた方の只中にあるのだ、と主イエスは仰ったのです。
この地上において、二人、または三人が、主イエスの名によって集まり、主イエスのご支配の中に置かれ、主イエスの御心がなされているなら、既にそこに、不完全ではあっても、天の国が実現しているのだ、と主イエスは仰ったのです。
その意味では、教会は、この世における天の国の先触れである、ということができます。
さて、今日の御言葉は、「ぶどう園の労働者」の譬えという小見出しがついているように、主イエスが語られた譬え話です。
この譬え話の直前の、19章30節には、「先の者が後になり、後の者が先になる」と書かれています。そして、今日の箇所の最後の20章16節では、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と語られています。順序が逆になっていますが、言っていることは同じです。この譬え話は、同じ御言葉によって、囲い込まれているのです。
天の国に入ろうとする時、「先の者が後になり、後の者が先になる」というのです。
それは、一体どういうことなのでしょうか。そのことを説明するために、主イエスは、この譬えを語られました。
この譬え話に出てくる主人とは神様で、労働者は私たち人間のことを表わしていることは明らかです。物語そのものは、大変分かり易い話です。
しかし、この譬え話の中の、ぶどう園に働きに行った時間が何を意味するかについては、解釈が分かれています。
ある人は、この時間を、それぞれの人の人生における、救われた時期であると解釈します。
若い時に信仰を持ち、長い信仰生活を忠実に送った人は、自分の信仰生活に対する報いとして、天の国を求める。そのような過ちを犯す危険がある。
しかし、私たちの信仰生活の長さなどは、全く天の国の報いに値しない。
むしろ、私は夕方の5時に救われたような者だと、自らを低くする者こそ、天の国を恵みとして受け取ることができる。このように解釈するのです。
また、ある人は、ユダヤ人と異邦人との関係の中で、この時間の差を考えています。
約束に基づいて、朝早くからぶどう園で働いた者とはユダヤ人のことで、主人の自由な招きによって、後からぶどう園に行った者とは、異邦人のことを指すと解釈するのです。
ユダヤ人は、約束に基づいて労働を供給し、その報酬として1デナリオンを得る。
そこでの報酬というのは、契約に基づいた当然の権利なのだから、感謝も喜びもない。
しかし、契約を結ばなかった者たちにとっては、報酬を受け取ることは大きな感謝であり、恵みであった。このように捉えるのです。
また、ある人は、早朝から働いたのは、ファリサ派や律法学者のような指導者で、後から来たのは、徴税人や遊女のような、罪人と見做されていた人を表わしている、と解釈しています。マタイによる福音書の文脈から見れば、この解釈が一番適切であるように思えます。
このように、色々な解釈があります。いずれの解釈を採ったとしても、ここで主イエスが言われていることは、大変深い意味をもっています。
天の国は、立派な行いを誇る人よりも、自分の罪や汚れを悲しんでいる人の近くにある、ということです。ですから、この物語の中には、神様の救いのエッセンスがある、とさえ言っている人もいます。
しかし、一方では、この物語に困惑を覚える、と言っている人も、またいるのです。
なぜなら、この譬えに出てくるぶどう園の主人の行動は、あまりにも世間の常識に反しているからです。そう言われれば、確かに、そうかも知れません。
この主人は、夜明けと、9時、12時、3時、そして5時と5回に亘って、ぶどう園の労働者を雇っています。ところが終ってみると、夜明けから働いた者にも、夕方5時から働いた者にも、同じ1デナリオンが支払われました。
この物語を、この世の常識に従って見るならば、この主人の非常識な点は、先ずその無計画さです。何度も出て行っては、労働者を集めてくるというのは、あまりにも無計画です。
また、常識で考えれば、一日中働いた人が、1時間しか働かなかった人よりも、多くの賃金を貰うのが普通です。
だから、この主人のしていることは、不公平だ、非常識だと、誰でもが考えると思います。
一日中働いても、1時間しか働かなかった人と、同じ賃金しか貰えなかった人には、不平や妬みが生じるのは当然です。私たちも、この人たちの気持ちが良く分かります。
その妬み心を試すかのように、この主人は、わざわざ最後に来た人から、賃金を払いました。これも常識に反しています。
夜明けから働いた人は、始めは1デナリオン貰えれば満足だ、と思っていたと思います。
1デナリオンというのは、当時の労働者の一日分の賃金でした。
ですから、1デナリオンで不満はなかった筈です。そもそも、それが当初からの約束でした。
ですから、夜明けから働いた人から順に支払って行けば問題は起こらなかったのです。
ところが、目の前でたった1時間しか働かなかった者までが、1デナリオン貰っているのを見て、当然自分はもっと貰えるだろうと期待しました。
しかし、結果はどうだったでしょうか。自分も同じ1デナリオンでした。そこで、妬み心が起こってきたのです。
妬みというものは、愛を裏切ります。幸運にも、朝早くに主人に雇われ、一日分の賃金を約束されたとき、雇われた人は主人の愛に感謝していたと思います。
そして、約束通り1デナリオンが渡されました。この人と主人との関係だけを見れば、そこには何の問題もない筈です。何の不当な扱いもないのです。
しかし、1時間しか働かなかった人が、自分と同じ賃金を貰うのを見て、この人は妬んだのです。そして、主人の初めの愛を忘れて、不平・不満が起こってきたのです。
別に、約束されていた報酬が減らされた訳ではありません。自分に与えられた恵みが少なくなった訳ではないのです。
しかし、他の人が、自分より少ない努力で、同じ恵みを与えられたのを見て、妬みが生じ、不平・不満が起こって来たのです。これが、私たち人間の現実の姿です。
もしこの主人が、同じことを何日か続けたとしたら、この世において、どういうことが起こるでしょうか。夜明け前に集まる労働者は一人もいなくなります。朝9時になっても誰もいません。12時にも、3時にも誰もいません。そして、5時になると多くの人が集まっている。
恐らく、そういうことが起こります。これは当たり前です。
早朝から働いても、夕方5時から働いても、同じ賃金が貰えるのであれば、皆夕方5時から働こうとするのです。
ですから、この主人のやり方は、この世では通用しません。この世の常識に反しています。
でも、天の国では、このやり方が通用するのです。
天の国では、朝早く行ったら、そこに労働者がちゃんといるのです。
そして、その労働者はこう言うのです。
「ご主人様、私は、あなたが朝早くから働いても、5時から働いても、同じ賃金をお支払いになることを知っています。それでも、私は、朝から働きます。何故なら、あなたが働き人を求めておられるからです。現にあなたは、私を求めてこうして来られました。
あなたが、私を求めてくださるなら、私はあなたのために、朝から働きます。他の人がどういう扱いを受けようと、私は私の務めを果たします」。
天の国とは、そういう労働者が集まる場所なのです。
他の人を見て、自分の生き方を決めるのではなくて、ただ神様を見つめて生きるところです。他の人との関係ではなく、神様との関係を大切にして生きる所。
それが天の国だと、主イエスは仰っているのです。
今、私たちが集っている教会とは、この世にあって、そのような天の国の前味を味わうところです。天の国の前味を味わうために、呼び集められた者の群れです。
まだまだ不完全で、欠けだらけではありますけれども、天の国のイメージを、ぼんやりとでも、映し出す務めを担わされているところです。
そのような、天の国の先触れとしての教会を、支えている生き方がある。
それは何か。それは、先に入った者も、或いは遅れて入った者も、皆が、一番後ろに立つこと願う、ということです。誰もが、後ろに立とうとするのです。
何故でしょうか。なぜなら、そこに主イエスがおられるからです。
主イエスこそ、本来は、一番先におられるお方です。神の独り子なのですから。しかし、神の独り子として、本来一番先におられるべきお方が、一番後ろに立たれているのです。
王宮で生れても良いお方が、家畜小屋の飼い葉桶に生まれ、王として生きられるべきお方が、ゴルゴダの十字架の上で、地上のご生涯を終えられたのです。
神の独り子が、家畜小屋でお生まれになるなどということを、誰が想像したでしょうか。
神の独り子が、私たちの身代わりになって、十字架の上で死なれる、などということを、誰が想像できたでしょうか。
しかし、一番先であるべき主イエスが、そのように一番後になってくださった。
だから、私たちは救われたのです。そう考えますと、この譬え話に表立っては登場されてはいませんが、主イエスこそ、一番早くから働いておられた方ではないでしょうか。
主イエスは、誰よりも早く、夜の明ける前から、たったお一人で働いておられたのです。
そのお方が、一番後に立たれているのです。
一方、五時から働いた人たちとは、誰にも雇って貰えない人たちでした。
恐らく、歳を取っていたとか、体が弱そうであったとか、体力がなさそうであったとか、そういう雇われるに相応しくない、何かを持っていた人たちであったと思われます。
それでも、この人たちは、雇ってくれる主人を求めて、一日中立っていたのです。
雇ってもらえなければ、家族を養うことができないからです。
ですから、それらの人たちを、ぶどう園に送るのは、主人の愛から出た行為でした。
しかも、この主人は、その人たちを探すために、何回も出掛けていったのです。
そして、その人たちを探し当てて、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ったのです。
この言葉を聞いて、恐らく彼らは、我と我が耳を疑ったことだろうと思います。
夕方の五時に雇ってくれる人がいるなどとは、とても信じられなかったからです。
今朝の週報の【牧師室より】のコラムにも、これとチョット似たエピソードを書かせていただきましたが、この世の常識ではあり得ないようなことを言われても、人はなかなか信じられないものです。
そんな非常識なことがあるのだろうか。彼らは半信半疑で、ついて行っただろうと思います。
そして、一時間後に支払われたのは、思いもかけなかった、一日分の賃金だったのです。
あなたは、自分は何の役にも立たないと、絶望して立っているのか。
そんなことはない。私のぶどう園でならば、誰でも一人前に扱われる。
一時間でもよい、ぶどう一房でもよい、私にために働いてご覧なさい。
何もできなければ、一言祈るだけでもよい。そうすれば、誰でも同じ報酬が与えられる。
天の国とは、このような所です。福音とは、まさに、このようなことを言うのです。
「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」、と主人は言いました。これが天の国を動かしている神様の御心です。
このようなことは、人間の思いも付かないことです。それは、神様にしかできないことです。
天の国は、この神様の御心が支配するところです。
誰にも雇ってもらえない人を、ぶどう園に招き入れるために、主イエスは家畜小屋に生まれてくださり、そして、十字架に死んでくださいました。
そのようにして、一番先の者が、一番後になってくださったのです。ですから、私たちのような者が、天の国に生きる者とされたのです。
最後の者であるのに、最初の人と同じものをいただける恵みに与ることができるようになったのです。ですから、私たちは、進んで、一番後に立つことが出来るのです。
他の人たちが、どんなに得をしようと、そんなことは関係ありません、と言うことができるのです。
何故か。そこに主イエスがいてくださるからです。
一番後だと思って後ろを振り向くと、更にその後ろに主イエスがいてくださるのです。
「イエス様、あなたがいてくださるなら、喜んで後ろの者になります」。
この言葉を言える時、私たちは初めて、後ろに立つことが出来るのです。
それが、私たちが、天の国を生きる生き方だと、主イエスは仰っておられます。
世の人たちは、そんな生き方は賢くない。愚かだというでしょう。
しかし、主イエスが共にいてくださるということは、私たちにとって最高の宝です。
私たちにとって、最も良いこと。それは主イエスと共に生きることです。
たとえ、最後を歩いているとしても、主イエスが共に歩いていてくださる。
それが私たちの喜びであり、幸いです。それ以上の喜びはありません。
私が、一番後ろで身を小さくしている時、私の隣で主イエスも身を小さくしておられる。
私が最後に立っている時、主イエスも一緒に最後に立っていてくださる。
そして、「あぁ、あなたも私と一緒に、最後の者になってくれたね」、と語りかけてくださる。
私たちは、この主イエスというお方の傍にいるということを、一番の喜びとし、そのことを感謝して生きるのです。天の国は、この喜びの上に成り立っているのです。
この喜びの上に立つ時、私たちは、妬みや、不平・不満から解放されます。
夕方になってやって来た人が、「やっと私も働きを得ました」と言って働いているのを、夜明けから働いた人が、自分のことのように喜ぶ者とされます。
その人が、自分と同じ賃金を貰ったのを見て、「君、よかったね」と言って、手を差し伸べることが出来る者とされます。
そして、「ここの主人は、本当に善い人だね」と言って、一緒に喜ぶことができるのです。
愛する兄弟姉妹。この茅ヶ崎恵泉教会を、そのような場所。
この世における天の国にするために、共に祈りを合わせていこうではありませんか。