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過去の礼拝説教

「偽りのない愛に生きる」

2014年03月30日 聖書:ローマの信徒への手紙 12:9~15

先週は「愛の賛歌」として知られている、コリントの信徒への手紙一の13章から、ご一緒に御言葉に聴きました。

そして、「愛の賛歌」に続いて語られている、14章1節の御言葉、「愛を追い求めなさい」。

この御言葉を、2014年度の主題聖句とすることが、教会総会において承認されました。

これからの一年間、この御言葉をいつも心に蓄えながら、「愛を追い求める」日々を過ごしてまいりたいと願います。

「愛」という場合、私たちに対する神様の愛と、私たち人間相互の愛があります。

今日これからお話させていただくのは、人間相互の愛、特に私たち教会員相互の愛です。

実は、コリントの信徒への手紙一の13章の「愛の賛歌」に対して、「愛の十戒」と呼ばれている箇所があります。一体どこに、「愛の十戒」が記されているのでしょうか。

それは、先ほど読んでいただきました、ローマの信徒への手紙12章の10節から13節までの箇所なのです。ここに、愛についての10の教えがあると言われています。

日本語の翻訳では分かりづらいのですが、原文のギリシア語で読みますと、10節から13節は前後の文体とは違って、詩的で、リズム感に富んだ、歌のような文章になっています。

では、ここに挙げられた「愛の十戒」を、一つずつ数えてみましょう。

まず、「兄弟愛をもって互いに愛し」、これが第一です。 次に「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」、これが第二。 第三は「怠らず励み」。 第四が「霊に燃えて」、

第五は「主に仕えなさい」です。 そして、第六が「希望をもって喜び」、 第七が「苦難を耐え忍び」、 第八が「たゆまず祈りなさい」。 更に、九番目が「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」です。 そして、最後が「旅人をもてなすよう努めなさい」。

これで十です。原文では、これらが一つの文体に統一されて、繰り返されています。

兄弟愛において互いに愛し合い、尊敬において互いを優れた者とし合い、熱心さにおいて倦むことなく、霊において燃え、主に仕え、希望において喜び、艱難において耐え、祈りにおいて専念し、聖徒たちの必要を共に負い合い、旅人の接待に熱心に努めなさい。

このように何々においてこうでありなさい、という言葉が繰り返されています。

これらの十の教えについて、一つずつ詳しく語りますと、時間がいくらあっても足りなくなりますので、それぞれについて示されたことを短く話させていただきます。

初めに「兄弟愛をもって互いに愛し」なさい、と勧められています。

この御言葉は、原文では、「互いに兄弟として愛し合う時に、心から優しくしなさい」、という意味を含んでいます。

教会では、お互いを兄弟姉妹と呼び合っている。だから、兄弟として愛し合うのは当然だ。

そのような建前で終わるのではなく、心からの愛を注ぎ、優しくしなさい、というのです。

私たちも、そのことはよく分かっています。そうありたいと切に願っています。

しかし、私たちは、愛することにおいて不器用です。あるいは照れもあって、なかなか自然体で優しさを注ぐことができません。

この御言葉は、そのような時に、ちょっと背中を押してくれます。

「ほら今ですよ。ここで優しくしたらいいのですよ」、と一歩踏み出させてくれる御言葉です。

この御言葉を教会員全員で実践している教会があります。

9年前に開拓伝道によって立てられた兵庫県にある教会です。

39歳の若い牧師が全くのゼロから開拓を始めた教会が、9年後の今、礼拝出席者が200名を超えるまでに育てられているというのです。

このような素晴らしい成長をなしたのにはいくつかの理由がありますが、その中の一つに、教会の合言葉があるそうです。

その教会は、ある言葉を合言葉のようにしてお互いに掛け合っているというのです。

その言葉とは、「あなたのために、私に何か出来ることがありますか」、という問い掛けです。この言葉を、特に相手の人が困っている時だけでなく、日常の教会の交わりの中でお互いに掛け合うというのです。「あなたのために、私に何か出来ることがありますか」。

普段の教会の交わりの中で、どのようにこの言葉を掛け合っているのか、その状況を具体的にイメージすることは難しいですが、もし自然に、この言葉を掛け合うことが出来るなら、教会は素晴らしい愛の共同体となるのではないかと思います。

また、ある牧師はこんなことを言っています。「私は集会において隣の方にこのように言うように心掛けています。『私は今、この部屋の中で一番良い席に座っています。なぜなら、あなたの隣だからです』」。

こんな言葉はわざとらしくて、キザだ。とても口に出しては言えない。そう思う人が多いと思います。確かに、言葉に出して言うのは、ちょっと難しいかもしれません。

でも、言葉には出さなくても、心の中でそう思っているなら、それは必ず小さな行いになって表れ、隣の人に伝わると思います。

教会に集う一人ひとりが、今日隣に座った人は神様がそのように計画され、備えてくださった方だという思いをもって、「あぁ、私は今、一番良い席に座っている」と心から思うなら、教会は素晴らしい愛と慰めの共同体となるに違いありません。

二番目の教えは「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」です。この言葉の原文は、もう少し強い意味を含んでいます。

もともとは、「尊敬することにおいて相手に先んぜよ」、という意味なのです。

私たちは、小さいときから競争社会の中に置かれています。そこでは、常に相手に先んじなければいけない、と教えられます。

先んじなければ損をする、それが世の中だ。そのように言われ続けてきました。

ここでも、御言葉は先んじることを教えています。しかし、それは、相手を尊ぶことにおいて先手を打て、と言っているのです。

言い換えればそれは、相手の値打ちを、相手よりも先に、こっちが重んじてしまう、ということです。世間がどんなに値打ちがないと思っている人でも、教会においてはそうであってはいけない。

たとえ、本人が、「自分なんて何の値打ちもない、生きていてもしょうがない人間だ」、と思っていたとしても、「いえ、そうではありません。あなたはすばらしく高価で尊い人なのです」、と力強く言い切るのが教会なのです。

「あなたのために、主イエスは十字架にかかられたのですよ。あなたのために主イエスは命を献げられたのですよ。あなたは、主イエスがその命を献げるのに値するほどに尊い存在なのです。そのあなたを、どうして、尊敬しないでいられるでしょうか。どうして愛さずにいられるでしょうか」。

そのように、相手の人に先んじて、尊敬を表していくことが、ここで勧められているのです。

相手に先手を打つということは、熱心でなければできません。ですから、次に「怠らず励み」と勧められています。この言葉は、以前の口語訳聖書では、「熱心で、うむことなく」と訳されていました。口語訳のほうが、原文のニュアンスに近いと思います。

しかし、残念ながら私たちの熱心さは長続きしません。初めは熱心であっても、そのうちに倦み疲れてしまうことが多いのです。どうしたら、熱心さが長続きするのでしょうか。

御言葉は、そのためには「霊に燃え」たら良いのだ、と言っています。神様の霊によって、燃やされれば良いのだ、といっているのです。

燃える、というのはとても強い言葉です。私たちは、しばしば怒りに燃えることがあります。

しかし、御言葉は、怒りではなくて、主の霊に燃えなさい、と言っています。

自己中心というサタンの霊が働く時、私たちの中には怒りの炎が燃え上がります。

しかし、十字架の主イエスの霊が働かれる時、私たちの心の中には、愛の炎が燃え上がります。この霊に燃やされ続けていなさい、と御言葉は言っているのです。

その霊に燃やされて、私たちは何をするのでしょうか。御言葉は、霊に燃えて、主に仕えなさい、と言っています。主に仕えるとは、具体的には主の御体である教会に仕えることです。

教会の兄弟姉妹を愛し、教会の兄弟姉妹に仕えることです。

しかし、いくら熱心に仕えても、相手が必ず応えてくれるとは限りません。感謝の応答が帰ってくるとは限りません。愛が伝わらないことがあります。

一生懸命に教会に仕えても、目に見える成果が挙がらないこともあります。

そんな時、私たちは辛く、苦しい思いをします。ですから、御言葉は続けて言うのです。

「希望をもって喜び」なさい。

相手に思いが伝わらず辛い時、或いはいくら仕えても、目に見える成果が与えられず、疲れを覚える時、尚、そこで、私たちが喜びを持つことができるとすれば、それは望みを持ち続けているからです。

目の前の現実ではなく、主が約束してくださっている、将来と希望のご計画を信じるからです。誰も理解してくれなくても、主は知っていてくださる。そして主が必ず最善へと導いてくださると信じ、望むのです。主の愛の勝利を信じて、望むのです。

その時に、私たちは、苦難にも耐え忍ぶことができます。御言葉は、苦難を耐え忍びなさい、と勧めた後で、「たゆまず祈りなさい」と続けて語っています。

常に祈る、ということは聖書の他の箇所でも、勧められていますので、私たちは良く知っています。しかし、実際に、この言葉はどういう意味を持っているのでしょうか。私たちは、この言葉をどのように聞けばいいのでしょうか。

現実の生活において、すべての時間を、祈りに割り当てて過ごすことは、実際には不可能です。私たちは、生きるために、祈り以外にも、いろいろな業をしなければなりません。

そういう中で、常に祈るとは、何を意味するのでしょうか。

今、病院の診察で、CTという検査があります。私たちの体を輪切りにするように、断面図の写真を撮って病気の原因を探る検査です。

同じように、私たちの心の断面図を撮ってみたとします。霊的なCT検査です。

その時、心の最も奥深いところに、いつも神様に向かって開かれている部分がある。

自分でも気が付かないけれども、心の奥底に、いつも神様に向かって、開かれている部分がある。

その部分がいつも神様の言葉を聴こうとしている。いつも神様に応答しようとしている。

だから、何かあった時には、自然に「神様、どうしたらよいでしょうか」、「神様、どうか助けてください」、或いは「神様ありがとうございます」という短い祈りが出てくる。

そのような祈りを、英語では「flash prayer」と言います。カメラのフラッシュの光のような、一瞬の祈りだからです。

三浦綾子さんは、この祈りのことを「射祷」と名付けました。弓矢の矢を射る時のように、心から瞬間的に発せられる祈りだからです。

「常に祈る」ということは、そのような「flash prayer」、或いは「射祷」が、何かの折に自然に出てくる、ということだと思います。私たちの心の一番奥深いところを、いつも神様に向かって、開け放しているからこそ、そういう祈りが出てくるのです。

そのように神様に向かって、心を開いている者は、身近な教会員の貧しさを、自分のものとして、彼らを助ける生き方に導かれます。

「聖なる者たちの貧しさを自分のものとする」ということは、身近な教会員の困難を共有する、ということです。ここにある聖なる者とは、教会員のことです。

これは、単に、物質的な困難だけではありません。精神的な悩みや苦しみをも、自分のものとして共有するということです。

そして、そのような困難の中にある信仰の友を助ける具体的な例が、旅人をもてなすということなのだ、と御言葉は言っています。

助けを求めて自分の元を訪れて来る人を、好き嫌いせずに迎え入れること。これは、教会員にとって大切な愛の行為です。

東京オリンピックに先駆けて、教会においてこそ、真実の「お・も・て・な・し」が、なされなければならない、と言っているのです。

さて、大急ぎで、愛の十戒について語らせていただきました。

その一つひとつは、どれも実行するのが難しいものでした。しかし、パウロの愛の勧めは、更に、この後にも続いています。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。

ここまで来ますと、ますます私たちは困惑します。一体、迫害する者のために、祝福を祈ることなど、私に出来るだろうか。本心から、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く。

果たして、そんなことが、本当に出来るだろうか。

喜ぶ人の喜びを、自分の喜びとして心から喜び、泣く人の悲しみに徹底して寄り添い、共に涙する。私たちはそういう者でありたいと願っても、なかなかそれができません。

それでは、私たちの愛は、所詮、偽りの愛なのでしょうか。私たちは、皆、偽善者なのでしょうか。どうせクリスチャンなんて、皆、偽善者だ。

そんな呟きが聞こえてくるような気がします。この呟きは私たちの胸を刺し、心を痛めます。

しかし、そういう私たちに、9節の御言葉は語り掛けます。

「愛には偽りがあってはなりません」。

あなたたちの愛は、偽りであってはならない。いや、あなたたちの愛は偽りではない筈だ。あなたたちの愛は、偽善にはならないのだ。御言葉は、そう言って私たちに迫って来ます。

御言葉は、私たちの愛は偽らない。偽善ではない、と言い切るのです。

あなた方は偽りのない愛に生きなければならない。いや、あなた方は偽りのない愛に生きることができるのだ。御言葉は、そう言い切っています。

本当にできるのか。その力が私にあるのか。そんな疑問が湧いてきます。

しかし御言葉は、出来るか、出来ないか考えなさい、とは言っていません。

自分には出来ないと、始めから結論を出して、御言葉を真剣に受け止めなくても良い、などとは言っていません。

御言葉がそう命じているからには、そうする事が私のような者にも許されている。そう信じて、一歩踏み出すしかありません。

あなた方は偽りのない愛に生きることができる。

これは、すばらしい言葉です。すごいことです。なぜそんなことが言えるのでしょうか。

御言葉は、続けて語っています。「悪を憎み、善から離れず」にいなさい。そうすれば、あなた方の愛は、偽りとはならない。

「善から離れず」という言葉は、善に密着しなさい、という意味です。

では善とは何でしょうか。善とは、主イエスそのものではないでしょうか。

主イエスは、善にして、善をなされるお方です。善そのものです。

その主イエスと密着していなさい。そうすれば、あなた方の愛が、偽りになることはない。

御言葉はそう言い切っているのです。主イエスに密着するとは、主イエスとピタッと一つとなることです。主イエスの中に、すっぽりと覆い包まれてしまうことです。

私たち自身の中には、偽りのない愛などありません。ですから、私たちは、主イエスから、偽りのない愛をいただかなければ、偽りのない愛に生きることはできないのです。

しかし、私たちの心は、まるで「ざる」のようです。主イエスの愛が注がれても、注がれても、留まることなしに流れ出ていってしまいます。

「ざる」の底には、主イエスの愛の滴が僅かに残るだけです。どうしたら、「ざる」に主イエスの愛を湛えることができるでしょうか。

「ざる」を丸ごと水の中に沈めてしまえばよいのです。「ざる」ごと水の中に、どっぷりと浸けてしまえばよいのです。

私たちの「ざる」のような心を、主イエスの愛の泉の中に、浸し続けていればいいのです。

そうすれば、あなた方は偽りのない愛に生きることができる。御言葉は、そう言っているのです。

「あなた方は偽りのない愛に生きることができる」。

愛する茅ケ崎恵泉教会の皆さん、今日、この言葉を信じようではありませんか。

この言葉を信じて、一歩踏み出そうではありませんか。

主イエスにピタッと密着し、主イエスの愛の泉に全身をすっぽりと浸して、「ざる」のような心に主イエスの愛を満たしていただこうではありませんか。

そうやって、偽りのない愛に生きる一歩を踏み出そうではありませんか。

私たちのために十字架に架かって下さった、主イエスの愛。

その愛が、私たちの心に満ち溢れるとき、私たちにも、偽りのない愛に生きる道が開かれることを、信じようではありませんか。

この茅ヶ崎恵泉教会が、偽りのない愛に満ちた神の家として、お互いに励まし合い、手を取り合って、歩んでいく群れとなりますように、祈りを合わせてまいりましょう。