「主と主の仕事」
2014年05月25日 聖書:ルカによる福音書 10:38~42
今朝の御言葉には、「マルタとマリア」という小見出しが付いています。しかし、この話を注意して読みますと、これはマルタとマリアの話ではなくて、主イエスとマルタの話であることに気がつきます。
私たちの内なるマルタに対して、主イエスが呼び掛けられている話です。
物語は、主イエス一行が、旅の途中に、ある村に入られたことから、始まります。
聖書には、この村の名前は書かれていません。ただ、マルタとマリアは、ベタニヤの人でしたから、この村は、ベタニヤであったと推測するのが自然です。
しかし、聖書は、村の名前については、興味を示していません。
ただ、どうしても書きたかったのは、主イエスの一行が、旅をしていたということです。
主イエスは、ここで、旅人としての、もてなしを受けたのです。
主イエスの時代に、人々が旅をするということは、今の私たちが想像するよりも、遥かに困難なことでした。今ように、どこの町にも、ホテルや宿屋がある訳ではありません。
また、24時間営業のコンビニやファミレスがある訳でもありません。
そのような時代に、埃にまみれ、お腹を空かせ、疲れ果てている旅人に、一夜の宿を与え、暖かな食事を用意してあげる。
お風呂とまではいかなくても、せめて体を拭き、足を洗うための水と桶を用意し、汚れた着物を洗濯してあげる。そのような、思いやりは、本当に大切な愛の業でした。
この時、主イエスの一行が、何人であったかは、聖書に書かれていません。
ですから、正確には分かりません。しかし、最低でも、主イエスと十二弟子の合計、13人はいたであろうと思われます。
専門の宿屋ではなく、普通の家で、それだけの旅人たちのお世話をすることが、どれほど大変なことであるか。
これは、容易に想像がつきます。恐らく、戦場のような忙しさとなった、と思われます。
マルタは、空腹で、疲れ果てて、埃にまみれた主イエスの一行を、喜んで自分の家に迎え入れました。このマルタという名前は、「女主人」という意味だそうです。
彼女は、主イエスを客として迎え、まさに「女主人」として、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」いました。
このマルタに、マリアという姉妹がいました。恐らく妹だったでしょう。
姉のマルタが、せわしく働いていた一方で、妹のマリアは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」、と御言葉は伝えています。
マルタは、妹のマリアが、いつ手伝いに来るかと、期待しながら待っていました。しかし、マリアは一向にその気配を見せません。
マルタは、そんな妹に対して次第に不満を募らせていきます。
そして遂に、主イエスに向かって、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」、と言ってしまったのです。
主イエスは、それに答えて、言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。
「必要なことはただ一つだけである」、と主イエスは言われました。
それは、どういう意味でしょうか。マルタは、「いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いて」いました。それがいけなかったのでしょうか。
「もてなし」を止めて、マリアのように、「主の足もとに座って、その話に聞き入いる」べきだったのでしょうか。
そうだとしますと、その時には、誰かが代わって、マルタの役を引き受けなければならなくなります。
教会でも、誰かが、特にご婦人の方々が、時として、どうしても、マルタにならなければならないことがあります。
家庭でも、主婦の方は、そういう役を引き受ける場面が多いと思います。
そうした役を引き受けることが、いけないのでしょうか。
主イエスは、ここで、そういうことを言われておられるのでしょうか。
40節に、2回出てくる「もてなし」という言葉は、聖書の他の箇所では「奉仕」と訳されている言葉です。では、主イエスは、ここで、奉仕の働きを否定されたのでしょうか。
どうもそうではないと、思われます。
というのは、この出来事の直前には、「善いサマリア人」の譬えが、語られているからです。「善いサマリア人」の譬えでは、強盗に教われて、傷ついた旅人を、善いサマリア人が、手厚く介抱し、親身になって世話をした物語が、語られています。
そして、その最後で、主イエスは、「善いサマリア人」がしたように、「あなたも同じようにしなさい」、と言っておられます。
このお言葉に直後に、マルタとマリアの出来事が、記されているのです。
ですから、主イエスが、ここで、奉仕を否定されているとは、考えられません。
もし、主イエスの御心が、一時的にせよ、奉仕を否定されることであったのなら、主イエスは、マルタに、きっとこう言われたでしょう。
「奉仕は、後でよいから、あなたも、私のところに来て、マリアと一緒に私の言葉を聴きなさい」。きっと、そのように、具体的に忠告されたと思います。
しかし、主イエスは、そうは仰いませんでした。
昔から、このマルタとマリアの記事について、一つの読み方があります。
それは、ここから、異なった2種類の、人間のタイプを、読み取っていくという読み方です。
自分のほうから、一生懸命に働きかける 「活動的な生き方」 と、その反対に、全く受身に、ただ語り掛けられる言葉を聞く 「受動的な生き方」。
この二通りの生き方が、ここで示されている、と読むのです。
ある人が、この2つのタイプを、違った角度から捉えて、こう言い表しています。
マリアは、言わば芸術家肌の女性で、家事はあまり得意ではない。直ぐに何かに熱中し、夢中になる。夢見るタイプである。
一方のマルタは、世話女房型で、いつも誰か他の人のことに、心を配っている。
こういう2つの女性のタイプがある、というのです。
キリスト者にも、そのような二つの生き方、或いは、二つのタイプがある、とよく言われます。
つまり、「マルタ型クリスチャン」と、「マリア型クリスチャン」です。ここには、そのような2つのキリスト者のタイプが示されている。そのように捉える、読み方があります。
そのような時、必ずと言ってよいほど、ある共通の姿勢が、生まれてきます。
それは、マルタ弁護派と、マリア弁護派に分かれる、という事です。
マルタのような人は必要だ。教会に、マルタのような人がいなくては困る。
いや、マリアこそ、本来のキリスト者の生き方だ。
そのように、どちらかの生き方、どちらかのタイプを、支持しようとするのです。
しかし、ここで、はっきりしていることは、主イエスは、そのようなことは少しも語っておられない、ということです。
主イエスは、ここで、二つのタイプを、比べようとしてはおられません。
主イエスは、どちらが正しいとも、どちらが善い生き方だとも、言われていません。
では、一体何が問題とされていたのでしょうか。
主イエスが、マルタの中に見た問題。
それは、奉仕すること。その行為自体の、問題ではありませんでした。
そうではなくて、その時、マルタが、「多くのことに思い悩み、心を乱していた」、ということなのです。そのようなマルタの姿の中に、主イエスは、問題を見ておられたのです。
それは、「善いサマリア人」の奉仕の中には、見られなかった姿です。「善いサマリア人」は、献身的な奉仕をしましたが、思い悩んだり、心を乱したりはしていません。
奉仕そのものが問題なのではなくて、マルタの場合、それが「思い悩み」を生み、「心を乱す」結果になっていたということ。そのことが、問題であったのです。
主イエスは、マルタに対して、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」、と言われました。マルタは、「心を乱していた」のです。
この、「心を乱している」、と訳された言葉は、ある聖書では、「あなたの心は空っぽだ」、と訳されています。
あれもしなくては、これもしなくては、とあくせくしている時、私たちは、心が空っぽだ、などとは思っていません。むしろ、心は、様々な思いでいっぱいになっています。
しかし、主イエスは、そんなマルタの心を覗き込むようにして、言われるのです。
「マルタよ、あなたの心は、空っぽだ。一番大切な物が、そこにないから、空っぽだ。満ちているのは、思い煩いでしかない」。
ではなぜ、マルタの奉仕は、「思い悩み」、「心を乱す」奉仕に、なってしまったのでしょうか。
マルタは、初めから、文句を言っていた訳では、なかったのです。
彼女は、主イエスへの純粋な愛から、主イエス一行をもてなすという奉仕を、進んで引き受けたのです。そして、かいがいしく、もてなしの準備をしていたのです。
初めのうち、彼女は、仕事のために、主イエスから離れていても、その心は、主イエスの傍にあったのです。
自分のもてなしの本来の使命は、主イエスに喜んでいただくことである。このことを、きちんと見据えていたのです。
しかし、忙しくしているうちに、その思いは、誤った方向に向き始めました。
あれもしなくてはいけない、これもしなくてはいけない。準備が思うようにはかどらない。
それなのに、マリアは、何もしないで、主イエスの足もとに座り込んで、話を聞いている。
大切な奉仕をしている自分だけが、こんなに忙しいのは不当だ。
そのような、苛立ち、不満が募ってきて、主イエスへの愛から働いているという、初めの思いは、もうどこかに行ってしまったのです。本質を見失ってしまったのです。
そして、今や、マルタの心の中にあるのは、マリアへの不満でした。そしてその不満は、更に、それを許している主イエスへの不満へと、高じていきました。
主イエスに、喜んでいただくことだけを、願って始めたのに、自分だけがこんなに忙しいのは不当だ、という不満に捕らわれていったのです。
遂に、マルタは、激しい口調で、主イエスを非難してしまいます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」。
マルタは、まだ、ここでも主イエスのことを「主」と呼んでいます。
しかし、その「主」という言葉は、もはや、本来の意味を失っています。
あなたは主でしょう。その主に、私は、奉仕をしたいと思って、夢中になって働いているのです。しかし、なぜ、それを、私一人にさせるのですか。
あの「善いサマリア人」の話をされ、奉仕の大切さを教えられたあなたが、今、まさにここで、奉仕を受けておられる。
それなのに、妹のマリアが、あなたの足もとに座って、ただ話を聞いている。
それを、あなたは許されるのですか。そんなことがあって良いのですか。
マルタは、そう言って、主イエスを非難しているのです。
マルタにとって、とてもはっきりしていたことがあります。それは、自分がしていることは良いことだ、と確信していたことです。自分のしていることは、絶対に正しいのです。
問題は、ここにあるのだと思います。
自分は、絶対に正しい、ということは、自分を主としているということです。
自分が主になっているのです。
「必要なことはただ一つだけである」、と主イエスは言われました。
その、必要なただ一つのこととは、どこまでも「主イエスを、主としていくこと」、なのではないでしょうか。
主イエスを主とし、その主をどこまでも愛していく。必要なのは、ただその一つなのです。
自分を主とするか、主イエスを主とするか。二つに一つの選択なのです。
マリアは、その良い方を選んだのです。
主イエスの足もとに座って、主の御言葉に聞き入ること。マリアにとっては、それが、主イエスを主として愛する行為であり、主イエスのために出来る自分の奉仕であったのです。
だから、それを、マリアから取り上げてはならないのです。
もし、マルタが、どこまでも、主イエスを主として愛し、主のために奉仕する喜びに、満たされていたなら、どんなに忙しくても、「思い悩み、心を乱す」ことはなかっただろうと思います。
マルタは、「女主人」でしたが、イエス様を主として迎え入れました。
そのように、主イエスを迎え入れたからには、主イエスが、その家の「主」となる筈です。
マルタの思い悩みは、依然として、自分が「家の主人」であり続けていることから、来ているのだと思います。自分が「主」であり続けているのです。
主に、明け渡していないのです。だから、思い悩み、心が乱れるのです。
おおよそ、私たちの思い悩みは、自分が依然として「主」であり続けていることから、来ているのではないでしょうか。そのために、心が乱れ、不安が生じてくるのです。
大切なことは、私たちの生活の中で、誰が「主」であるか、という事です。
主イエスを、まことの主としているか、という事です。
奉仕についても、自分が「主」となった奉仕ではなく、どこまでも、主イエスを「主」としていく。
そういう奉仕となっているか、ということなのです。
教会の奉仕は勿論のこと、すべての仕事が、それが、家庭にあっても、社会にあっても、何処にあっても、「主イエスを主としていく」という生き方の中での、奉仕であり、仕事となっていること。それが、大切なのではないでしょうか。
どこまでも、「主」ご自身を選び取り、「主」ご自身を愛していくことです。
それは、「主の仕事」を選び、「主の仕事」を愛していくこととは、違います。
「主を選び」、「主を愛する」ことが、第一なのです。
そして、その結果として、自分に相応しい「主の仕事を選び」、「主の仕事を愛する」のです。
どのような形で、主に仕えようとも、この順序が、逆になってはならないのです。
このことを黙想していた時に、心に迫ってきた本がありました。
それは、グェン・ヴァン・トゥァンというカトリックの司教が書いた、『5つのパンと2ひきの魚』という本です。
この人は、中部ベトナムの名家の長男として生まれた方で、叔父さんは、かつてのベトナムの大統領、ゴー・ディン・ジェムでした。
1975年にサイゴンが陥落する直前に、トゥァン司教は、サイゴン大司教区の司教に任命されます。しかし、赴任して僅か3ヵ月後に、ベトナム労働党政権によって、不当に逮捕されてしまいます。
そして、その後、実に13年間も、独房での拘留生活を強いられました。
捕らえられる直前まで、トゥァン司教は、ベトナムのカトリック教会のために、素晴らしい働きをし、大きな貢献をしました。
しかし、捕らえられ、独房に入れられたトゥァン司教は、そこで何もできない自分を嘆いて、呟きます。「今、48歳、健康で働き盛りの壮年に達し、しかも8年間も、司教として経験も積んできたのに、なぜ教区から1700キロも離れた独房にいなければならないのか」。
ある晩、彼の心に声が聞こえてきました。
「どうしてそんなことで混乱し、思い悩んでいるのか。「主」と「主の仕事」とを区別すべきではないのか。あなたがしてきたこと、続けてきたこと・・・それらの働きは皆よい仕事であり、「主の仕事」である。しかし、それは「主」ではない! 主がそれらの仕事を、すべてご自分の手にゆだねるように望まれるならば、すぐにゆだねなさい。
そして、信頼しなさい。・・・ただ「主」のみを選びなさい。「主」のみを選ぶのであって、「主の仕事」を選ぶのではない!」
私はこのとき、常に主のみ旨に沿うことを学びました。・・・私は自問しました。
私は、誰のために働いているのでしょうか。主のために生き、主のために働いているでしょうか。それとも、主は二の次であり、他に私を引きつける、もっと魅力的なものが、あるのでしょうか。」
この本の中で、トゥァン司教は、こう語っています。
「もし、「主の仕事」ではなく、「主」を選ぶならば、たとえそこが独房であろうと、強制収容所であろうと、その場所が、わたしの聖なる礼拝堂なのです」。
マルタも、どこまでも主を第一とし、主を愛し通していたならば、たとえ台所にいても、そこが、彼女にとっての、主イエスの足もと、聖なる礼拝堂となった筈です。
必要なただ一つのことを、そこでなしていた筈です。
私たちも、先ず主を愛し、そして、その結果として、主の仕事を愛していくならば、生活の全領域が、私たちにとっての礼拝堂になるのだと思います。
そのような生き方へと導かれていく、お互いでありたいと願います。