「涙の子は滅びない」
2014年05月11日 聖書:サムエル記 1:9~20
漢字を、その形や、組み合わせ方から、面白く意味づけする、ということがよく行われます。
日本全体が、バブル景気に沸いていた頃、ある人が、こんなことを言いました。
「幸」と言う漢字は、土のという字の下に、アルファベットのYに横に二本線を引いた、円(¥)マークが、くっついてできている。日本人の幸せは、土地とお金からなっているからだ。
なるほどなぁ、と思いました。こじつけですが、なかなか面白い意味づけだと思います。
また、「男」という字は、田という字の下に、力と書きます。この字は、田んぼで力仕事をする人のことを意味している、という説があります。この説は、かなり信憑性が高いと思います。
では、女という字はどうでしょうか。ある作家が、女という字は、人が子どもを抱いて祈っている姿から来ている、と言っています。
その女という字に良いと書いて、娘になります。女性が良いのは、娘さんの内だけだという意味でしょうか。 女に家と書いて嫁。これは分かり易いです。
女が古くなると姑。 もっと年を取って、顔に波のような皺が押し寄せてくると、お婆さん。
これ以上、悪乗りして続けますと、叱られそうですので、この辺で止めておきます。
しかし、人が子どもを抱いて祈っている姿から、女という字ができた。
この説には、心惹かれます。昔から、男性に比べて女性はよく祈ったのでしょう。
女性はよく祈る。では一体、何を祈るのでしょうか。誰もが、真っ先に思い浮べるのは、子どものために祈っている母親の姿です。
母の日の今日、子どものために祈る母親の姿を想い起しつつ、ご一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。
子どものために熱心に祈る母親についての物語は、世界中、至る所にあります。
聖書の中にもたくさんあります。その代表的なものの一つが、先ほど読んで頂いたサムエル記上の1章に出てくる、預言者サムエルの母ハンナの物語です。
ハンナは夫のエルカナに愛されていましたが、残念なことに、なかなか子どもが与えられませんでした。その当時、妻の最大の役目は跡継ぎを産むことでした。
これは、現代とは比較にならないほど重要な役目とされていました。
それどころか、子どもを授かることは、神様から祝福されていることの証しである、と考えられていました。
ですから、ハンナは、大切な役目を果たせない妻であるばかりでなく、神様の祝福からも漏れた女である、と見られていたのです。そのためにハンナは、苦しみ悩みました。
エルカナには、ペニナというもう一人の妻がいました。このペニナには、何人かの子供が与えられていました。
ペニナは、ライバルのハンナに子どもができないのを見て、ハンナを見下し、ハンナに対して辛く当たるようになりました。
それによって、ハンナの苦しみは更に増し加えられました。とうとうハンナは、食事もできないほどに悲しみ、嘆くようになりました。
そんなある日、ハンナは、夫エルカナと共に神殿に上り、そこで、子どもを授かることを願って熱心に祈りました。
10節には、「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」、と書かれています。
涙を流しつつ、熱心に祈り続けたのです。
ハンナは、心の中で悲痛な叫び声をあげて祈りました。しかし、その祈りは、声になって外には聞こえなかったようです。深い悲しみの祈りは、声にならないことが多いのです。
そんなハンナを、祭司のエリが、神殿の柱の傍らに座って、じっと見ていました。
この当時、イスラエルの人の祈りは、神殿に向かって大きな声で神の助けを求めて叫ぶ、というのが一般的でした。黙祷、という習慣はなかったようです。
ハンナの祈りは、声にならない心の中の叫びでした。唇だけが、かすかに動いていただけでした。しかも、その祈りがあまりにも長く続いたので、祭司エリは、彼女が酒に酔っているのではないかと誤解してしまいます。
現代では、教会で長く祈っている人を見て、牧師が「この人は酒に酔っているのではないか」、と誤解することはまずないと思います。
しかし、この当時は、9節にも記されているように、神殿に犠牲を献げた後、親族が揃って食事をするのが一般的でした。そして、そこで葡萄酒がふるまわれたのです。
ですから、エリが誤解したのも十分に頷けます。
祭司のエリが言いました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい」。
それに対して、ハンナが必死になって答えます。15節です。
「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを、注ぎ出しておりました」。
酔っているなどとんでもありません、私は、心を注ぎ出して祈っていたのです、とハンナは必死になって言っています。
ここで使われている、「心」という言葉は、もともとは「熱い息」という意味の言葉です。
それは、生きている人間の命を指しています。ハンナは、その命を、神様の御前に注ぎ出して祈っていたのです。命がけの祈りだったのです。
そして、「注ぎ出す」という言葉。この言葉は、「すっからかんになるまで、全てを与え尽くす」、という意味の言葉です。
この言葉は、旧約聖書全体を通して、色々なところで使われています。その中でも、特に、私たちの心に迫る言葉としては、イザヤ書53章12節に出てきます。
「それゆえ、わたしは多くの人を、彼の取り分とし/彼は戦利品として、おびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに、数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために、執り成しをしたのは/この人であった。」
イザヤ書53章には、「苦難の僕の歌」が記されています。その苦難の僕とは、主イエスのことを指していると私たちは信じています。
12節には、その苦難の僕、つまり主イエスは、「自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられた」と書かれています。
ここに、「自らをなげうち」とあります。この「なげうち」と訳された言葉。この言葉が、先ほどの「注ぎ出す」と訳された言葉と同じ言葉なのです。
ですから、ここで御言葉は、主イエスが、私たちの罪を執り成すために、ご自分の命を「すっからかんになるまで与え尽くされた」、と言っているのです。
私たちは、他でもない、この主の御前に、心を注ぎ出しして祈るのです。
私にために、すっからかんになるまで、すべてを与え尽くしてくださったお方の前だからこそ、自分の苦しみや、悲しみを注ぎ出すことができるのです。
私たちは、そう簡単に、自分の悩みや苦しみを、全て注ぎ出すことはしません。
自分の最も辛いこと、苦しいこと、嫌なこと、恥ずかしいこと。それらをすべて注ぎ出すことは、簡単ではありません。神様に対してでさえ、なかなかできません。
自分のすべてを、自分以上にご存知の神様に対してさえ、自分の最も恥ずかしい部分、最も醜い部分、最も汚れた部分。それらを、なかなか打ち明けようとはしません。
神様の御前に立ったときですら、尚も、自分の汚れ、醜さ、弱さを覆い隠し、自分を取り繕おうとしてしまいます。良い恰好をしようとしてしまいます。愚かなことです。
インドの孤児院に、一人の男の子が収容されました。この子は、何故か、左手をいつも握り締めています。何をする時も、寝ている時でさえその手を開きません。
不思議に思った職員が、その子がぐっすり眠っている時に、強引にその手をこじ開けました。すると、その手には、干からびた小さな肉の塊が握られていました。
その子は、飢えに対する恐怖心から、最後の食べ物として、この小さな肉片をずっと握り締めていたのです。これだけはどんなことがあっても手放さない。これだけは明け渡さない。そう決意したのでしょう。
その孤児院には、食べ物が沢山あって、もう食べる心配は何もないのです。それなのに、その肉片を握り締めた手を、開こうとしなかったのです。愚かなことです。
私たちも、この子のように、神様に対して、これだけは知られたくない。これだけは明け渡すことができない、というものを握り締めている、ということはないでしょうか。
全てをご存知の神様に対して、そんなことをしても愚かなことです。
しかし、なかなか、完全に心を注ぎ出すことができないのが私たちです。
そのような時、私たちは想い起したいと思います。
私たちが、心を注ぎ出して祈る相手は、十字架の主イエスです。
私のために、ご自分の命を、すっからかんになるまで与え尽くしてくださったお方です。
そのようにして、私のすべてを受け入れてくださり、分かってくださるお方なのです。
そのようなお方に対してなら、私たちは、悩みや苦しみを、注ぎ出せる筈です。
人間は、生まれてくるとき、手をしっかりと握り締めて生まれてきます。赤ちゃんは皆そうです。しかし、死ぬときには、皆、手を開いて死んでいきます。
そのように、私たちも、握り締めている手を、主イエスの御前で全て開いて、心を注ぎ出して、祈るものでありたいと願います。
ハンナは、激しく泣きつつ、心を注ぎ出して長い時間、祈り続けました。
そして祈り終わった後、ハンナの顔は、もはや前のようではなかった、と18節に書かれています。
私たちのために、すっからかんになるまで、すべてを与え尽くしてくださった主に、心を注ぎ出して祈った。
その祈りを通して、ハンナは、すべてを主に委ねる信仰へと、導かれたのだと思います。
祈ったから、その問題がなくなったわけではありません。
この時、ハンナには、まだ子供は与えられていません。相変わらず、問題は残ったままです。しかし、その問題を、ハンナなりに、受け入れることができるようになったのです。
初めの内は、自分の願いを、ただ主にぶつけて、ひたすらに祈り願っていたハンナでした。
しかし、長い涙の祈りを通して、ハンナは、自分の願いではなく、神様のご計画を受け入れる思いへと導かれたのです。
「子どもがいれば」、「子どもさえいれば」、という思いで一杯になっていたハンナでした。
その思いに捕らわれて、そこから一歩も踏み出せずにいたハンナでした。
しかし、今、ハンナは、「子どもさえいれば」から、「子どもがいなくても」という信仰に導かれています。
私にために、すっからかんになるまで、与え尽くしてくださる、主のご計画に委ねよう。
もしそれが、子どもが与えられない、というご計画なら、子どもが与えられなくても、主は私に、最善の道を備えてくださるに違いない。その主のご計画を、受け入れていこう。
その主のご計画に委ね、まだ見ていない恵みを信じて、望みをもって、生きていこう。
ハンナは、涙の祈りを通して、そのような信仰に導かれたのです。
この後、ハンナの祈りは叶えられて、ハンナに待望の男の子、サムエルが与えられました。しかし、この物語は、祈りによってハンナに男の子が与えられたという、信仰の「めでたし、めでたし物語」、ではありません。
そうではなくて、たとえ子どもが与えられなくても、全てを与え尽くしてくださる主は、私に、最善の道を備えてくださるに違いない。
そのことを信じたハンナが、もはや以前の顔ではなくなったこと。
これこそが、この物語を通して、御言葉が私たちに語っていることなのです。
初めのうち、ハンナの祈りは、「こうしてください」、「こうしてくださらなければ困ります」という祈りでした。いわば、主に、請求書を突きつけるような祈り、「請求書の祈り」でした。
しかし、祈り続けているうちに、「たとえ願いが叶わなくとも、主よ、あなたは私に最善をなしてくださいます。私は、そのことを信じ、感謝します」、という祈り。
いわば「領収証の祈り」に変えられていったのです。
私たちの祈りは、「請求書の祈り」であることが、多いのです。それは、決して、間違ってはいません。私たちには、そのように祈ることが、許されています。
しかし、私たちが、そのような「請求書の祈り」を、ひたすらに祈り続けている内に、私たちはいつしか「領収証の祈り」へと、祈りの中で導かれていきます。
涙の祈りの結果、そのような領収証の祈りへと、導かれた、一人の母がいます。
スザンナ・ウェスレーという人です。スザンナ・ウェスレーは、メソジスト教会の創立者、ジョン・ウェスレーの母です。彼女も度々、涙の祈りをささげました。
彼女の祈りは、実に激しいものでした。彼女の祈りの一部をご紹介します。
『私はあなたのために、静かに、幾度か祈り、幾度か泣いたことであろう。
この広い世界に、霊なる神を除いて、あなたに対する、私の心持を知る者はいない。
私の、この涙を見た者はない。
あなたが、神から棄てられることなど、あり得ることではない。そのようなことは、断じて起こらない。
もし、あなたの救いが、確実でなかったならば、母はむしろ、呪われて死ぬことを望みます。
これほど多くの祈りがささげられている、我がいとし子が、前途を誤ったり、滅びたりするとは、到底考えられない。常に恵みに富み給う、神の御手に、あなたを委ねます。』
スザンナは、「これほど多くの祈りがささげられている、我が子が、神様に見捨てられたり、前途を誤ったりすることは、あり得ない。そのようなことは断じて起こらない」、と言い切っています。何という確信でしょうか。
心を注ぎ出しての祈りとは、これほどの確信を、もたらすものなのでしょう。
スザンナは、善にして、善をなされる主が、この母の涙の祈りに、応えてくださらない筈がない、という思いに導かれています。最善以下をなさらない主に、愛するわが子を委ね、わが子の救いを確信しています。これが、領収証の祈りです。
涙の祈りで思い起される、もう一人の母は、聖アウグスティヌスの母モニカです。
モニカは、息子のアウグスティヌスが、マニ教という宗教に熱中し、まことの神様から離れ、乱れた生活をしていることを深く悲しみ、アンブロシウスという司教に、涙ながらに相談します。するとアンブロシウス司教は、優しく言いました。
「大丈夫ですよ。このような涙の子が滅びるはずはありません」。
そう言って、モニカを励まして、帰しました。
その言葉の通り、アウグスティヌスは、母の涙の祈りによって、不道徳から立ち返り、古代教会で最も大きな働きを為した、教父となったのです。
「涙の子は滅びない」。この言葉は、その後、多くの母親を慰さめ、励まして来ました。
しかし、これは、子どもだけに限ったことではありません。
私たちは、愛する者の救いを、祈り願っています。
時には、涙を流して、祈ることもあるでしょう。その時、私たちは、自分がこれほどまでに祈っている人が、救いから漏れることなど考えられない。
そのようなことは、断じてあり得ない。そう確信するほどに、祈っているでしょうか。
領収証の祈りに、導かれているでしょうか。
愛する茅ケ崎恵泉教会の兄弟姉妹、「涙の子は滅びません」。
私たちは、このことを信じようではありませんか。
もし、あなたが、ご主人の救いのために、祈り続けておられるなら、「涙の夫は滅びない」。
そのことを信じましょう。
もし、あなたが、奥様の救いのために、祈り続けておられるなら、「涙の妻は滅びない」。
そのことを信じましょう。
もし、あなたの祈りの対象が、お父様であるなら、「涙の父は滅びません」。
お母様であるなら、「涙の母は滅びません」。
なぜなら、私たちが祈りを献げているお方は、すっからかんになるまでに、全てを与え尽くしてくださるお方だからです。
他でもない、そのお方に、私たちは、心を注ぎ出して祈るのです。
祈って、直ぐに、問題が解決するわけではありません。
しかし、たとえ問題は、そのまま残っていても、このお方に、心を注ぎ出して祈ることによって、私たちの顔つきが変えられていくなら、その時、既に、私たちは、善にして、善をなされる、主のご計画の恵みをいただいているのです。
「涙の子は滅びない」。このことを信じて、共に歩んでまいりましょう。