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過去の礼拝説教

「あなたはわたしの夢」

2014年06月29日 聖書:イザヤ書 43:1~7

だいぶ前のことですか、テレビのコマーシャルで、こんな言葉が流されていました。

「『命は大切だ。命を大切に』。何千回、何万回、そう言われようと、誰かに『あなたが大切だ』と言われたら、それだけで生きていける」。 とてもよい言葉だと思います。

「命は大切だ。命を大切に」。こういう言葉は、とてもきれいなスローガンですが、頭の上をスーと通り過ぎていってしまいます。

誰か、他の人に対する言葉のようで、自分に対するメッセージとして、心に届きません。

私たちが、本当に求めているのは、「あなたが大切だ」と言って、抱きしめてくれる、温かい、血の通った愛情です。

日本において自殺者が多いのも、「あなたが大切だ」というメッセージを、感じ取ることができないでいることも、一因ではないかと思います。

「ヤンキー母校に生きる」、という本を書いた、義家弘介(よしいえひろゆき)という人がいます。

この人は、今は、国会議員をしていて、昔とはかなり変ってしまったように思えますが、以前は、北海道の北星余市高校の教師をしていました。

そして、その前は、その高校の生徒でした。北星余市高校は、高校中退者や不登校生を、積極的に受け入れている、キリスト教主義のユニークな学校です。

義家さんは札付きの不良少年で、16歳で家庭からも、学校からも、地域からも見放され、すべてを失って、この高校に入ってきました。

このどうしようもない、ツッパリのヤンキーを、担任の安藤俊子先生が、涙を流しつつ、自分の子供のように、愛してくれました。

この先生によって、義家さんは変えられ、立ち直って、明治学院大学の法学部に進み、弁護士を目指して勉強しました。

ところが、オートバイの事故で、瀕死の重症を負い、横浜の病院に運び込まれました。

体中に、点滴や、輸血や、色々な管をはめ込まれ、苦しくて、痛くて、「もうどうでもいい、こんなに苦しいなら、早く殺してくれ」、と心の中で叫んだそうです。

朦朧とする意識の中で、「今夜が、山だな」という、医者たちの声が聞こえました。

その時、その声に混じって、あの懐かしい声が、義家さんの耳に、かすかに聞こえました。

それは、忘れもしない、恩師の安東俊子先生の声でした。

義家さんの事故を知って、安藤先生は、取る物も取り敢えず、北海道から駆けつけてくれたのです。

そして、義家さんのベッドの傍らで、涙を流して、「あなたはわたしの夢だから死なないで」、と祈り続けました。 「あなたはわたしの夢だから死なないで」。

この言葉が、義家さんを、再び立ち上がらせ、強く生きる力を与えました。

「あなたはわたしの夢」。このような言葉は、人を立ち上がらせ、生きる力を与えます。

愛する人がいると、そこに、愛される人が生まれます。そして、愛された人は、それまで自分でも気付かなかった、自分の価値に気付き、生きる力を与えられます。

そして、今度は、他の人を、愛することが出来るようになります。

そうやって、愛の波紋が広がっていきます。

でも、そのためには、誰かが、一番初めに、たとえ愛されなくても、愛することを、しなければなりません。そうしなければ、愛の波紋の、第一波は起こりません。

愛されなくても愛する。これは損な役割のように思えます。一体誰が、そのような、損な役割を、引き受けてくれるのでしょうか。

一体誰が、一番初めに、愛されなくても、愛してくれるのでしょうか。

それは、神様です。神様が、愛されなくても、人間を愛してくださった。

ご自身に背き続けている私たちを、愛してくださった。

しかも、十字架の愛をもって、命懸けで愛してくださった。

聖書は、この神様の愛を、私たちに語っています。

16世紀に、日本にキリスト教を伝えた、キリシタンの宣教師たちは、この神様の愛を、どのような日本語に、翻訳しようかと迷いました。

彼らは、色々と考えた末に、「神様のご大切」、と訳しました。

「あなたがた一人ひとりは、神様の目に、大切なのですよ」。

「神様のご大切」。これが、宣教師たちが、何としてでも、日本人に伝えたかった福音です。

先程読んで頂きましたイザヤ書43章4節は、この「神様のご大切」を、語っています。

4節の御言葉は、こう言っています。「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」。

これが、私たちに与えられている福音、善き知らせです。

これは全世界を造られて、支配しておられる、神様のお言葉です。

その神様が、私たち一人一人に対して「わたしの目には、あなたは高価で貴い、私はあなたを愛している」、と言って下さっているのです。

注意して読みますと、ここには、「あなたは価高く、貴い。だから、私はあなたを愛している」、とは書かれていません。

あなたが高価で貴いから、私はあなたを愛している、とは書かれていないのです。

「高価で貴い」と、「愛している」とは、並んでいます。

むしろ、神様に愛されているから、高価で、貴いものとされている、とも読めます。

私たち人間の愛は、必ず、愛する理由があります。愛する理由がある、だから愛するのです。若者たちから広く慕われている、塩谷直也牧師の手記に、こんなことが書かれていました。

彼は、九州の高校から、国際基督教大学(ICU)に入学するために、東京に出てきました。

九州では、秀才の誉れが高かったのに、東京では、周りの誰もが、自分より優秀に見える。自分がいなくても、誰も気にしない。そんな孤独感と焦燥感に、悩む日々が続きました。

そんな時、あるデパートの食品売り場で、アルバイトをしました。

すると、意外にも、自分は、客を呼び込むのが上手い、ということに気付きます。

「あなたの顔が見たかったのよ」と言って、来てくれる客も現れました。そして、それを見た上司が、朝礼の時に誉めてくれました。

皆から可愛がられ、ここでは、自分は必要とされていると感じ、充実した思いで、日々を送っていました。

ところが、年末大売出しの大切な時、扁桃腺が腫れて、高熱が出ました。

我慢できず、早退を申し出ましたが、「君がどうしても必要なんだ。君しかいないんだ」、と言われて何とか頑張りました。しかし、体の節々が堪らなく痛い。

「もう、これ以上無理です」 と上司に伝えました。すると、上司は、目を逸らしボソッと一言、「使えねえなぁ」、と吐き捨てるように言ったのです。

彼は、血の気が引く思いに捕らわれました。「俺はあんたにとって道具か」と思うと、無性に悔しかったのです。

結局、誰も、自分を、本当には必要としていないんだ。何か利益を運んでくる時だけ、自分は必要とされているんだ。必要とされるために、自分は、あの人たちの幸せに、奉仕し続けなければならないんだ。その時、彼は、そのことを知らされたのです。

自分が、相手に何かしらの価値を与える時にだけ、自分は必要とされる。その時だけ愛される。それが、人間の愛です。

しかし、神様の愛は違います。私たちが、神様に、何かしかの価値を与えるから、神様は私たちを愛されるのではありません。むしろ、逆なのです。

「あなたは、価値があるから、愛されているのではない。神様が命を捨てて愛されたからこそ、あなたは、価値があるのだ」。

これが、聖書が、私たちに伝えている、中心的なメッセージです。

今朝の御言葉、イザヤ書43章1節から7節は、イスラエルの民に対する、神様の慰めを語っています。この時、イスラエルの民は、バビロン捕囚の真っ只中にいました。

自らの不信仰の裁きとして、バビロン捕囚という、苦難を味わっていたのです。

しかし、そのような試練の中にいながらも、イスラエルの民は、悔い改めることをせず、彼らの不信仰は、なおも続いていたのです。

今朝の御言葉の直前の、42章の最後、25節には、イスラエルの民の不信仰に対する、神様の怒りが語られています。

「主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」

バビロン捕囚という、試練の炎に囲まれても、尚、そのことに気付く者も、悟る者もなかった、と語られています。

しかし、43章に入ると、メッセージは、ガラッと変わります。神様の裁きや怒りは姿を消し、代わって神様の慰め、神様による民族の回復が、語られています。

イスラエルの民の不信仰に、怒りを覚えつつも、なおも民を愛し、民を贖い出そうとする、神様のお姿がそこにあります。

実は、この43章1節から7節は、大変面白い構成になっています。

1節から3節までの前半と、5節から7節までの後半が、それぞれ響き合うように対応していて、その真ん中に、中心聖句として、4節が置かれているのです。

1節に、「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は」と語られています。御言葉は、ここで、主の創造の御業を、想い起こさせています。

主が、イスラエルの民を、愛の対象として、創造されたことが、語られています。

そして、7節にも、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者」とあります。

ここにも、「創造」と、「形作る」という、1節と同じ言葉が、繰り返されています。

但し、ここでは、神様は、イスラエルの民を、ご自身の栄光のために創造された、と語られています。

今日の箇所の最初と最後に、創造の御業が、こだまのように響きあって、語られているのです。最初は、愛の対象としての、創造の御業が語られています。

しかし、愛の対象として創造された、イスラエルの民は、その神様の愛から離れて、不信仰に陥ってしまった。

そんな民を、神様は見捨てることが出来ず、その民を、尚も愛し続け、贖い出してくださる。

そして、最後の7節では、贖い出され、回復された民が、主の栄光のために、新しく創造される、と語られています。主の救いによる、再創造の恵みが、語られているのです。

また、1節、2節には、「恐れるな」、「わたしはあなたと共にいる」という言葉があります。

そして、5節にも、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と語られています。

主が共にいて、守ってくださる。だから、恐れるな、と繰り返して語られています。

このように、前半と、後半は、お互いに響きあうようにして、神様が、イスラエルの民を創造し、イスラエルの民と共にいて、これを守り、イスラエルの民を、民族として回復させることを、語っています。不信の民に対する、神様の配慮が、こだまのように響き合っています。

そして、この二つの部分に、挟まれるようにして、真ん中に、4節が置かれています。

4節は、ちょうど、この部分の両側から、盛り上がった、山の頂点にあるのです。

今日の箇所全体を通して、最も言いたいこと。それが、この4節なのです。

神様が、イスラエルの民を守り、回復させるのは、なぜか。

その理由は、4節にあるように、ただ、イスラエルを愛し、イスラエルを価高く、貴いものと見做しているからだ。ただ、それだけの理由なのだ、と言っているのです。

裁きの炎に囲まれても、自分たちの不信仰に気付かないような、イスラエルの民。

そんな民であるにも拘らず、神様は、尚もイスラエルの民を愛し、大切な宝と見做している、というのです。

「わたしの目に、あなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」。

私たちは、神様から、あなたがどのような者であっても、私の目には、あなたは高価で貴い、私はあなたを愛している、と言っていただいています。

そうであるなら、私たちもお互いを、そのまま、ありのままで、生きているだけで、価値がある存在として、愛し合っていきたいと思います。

ご一緒に、愛を追い求めていきましょう。

一人ひとりが、「神様のご大切」とされていることを、尊び、それを喜び、それを感謝して、共に歩んでまいりましょう。