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過去の礼拝説教

「主が用意されたぶどう酒」

2014年08月31日 聖書:ヨハネによる福音書 2:1~12

ヨハネによる福音書から、ご一緒に御言葉に聴いていますが、今日から2章に入ります。

今朝の箇所には、主イエスが、水をぶどう酒に変えられたという、奇蹟物語が記されています。この話は、昔から多くの人々によって愛されてきました。

この話に関する、ジョークも沢山あります。例えば、こんなジョークがあります。

外国から帰って来る時、無税で持ち込めるお酒の量は、3本までと制限されています。

しかし、この規則をかいくぐって、何とかこっそりとお酒を持ち込もうとする人が、後を絶ちません。

ある人が、大きなスーツケースの底に、規定数を上回るお酒を、こっそり隠して通関しようとしました。ところが、ベテランの税関吏が、それを見破ってお酒を発見しました。

税関吏は、厳しい顔で尋ねます。「これは何ですか」。

その人は、と呆けた顔で答えます。「これは、ヨルダン川で汲んだ聖なる水です」。

「何を言っているんですか。これは、お酒ではありませんか」。その男は、さも驚いたような顔で叫びました。「オー、奇蹟が起こった。水がお酒に変わった。ハレルヤ!」

もう一つあります。水がぶどう酒に変わったのではなくて、ぶどう酒が水に変わった話です。

ある村で、お祭りがありました。その祭りのために、村人たちが、それぞれ、家で作った最高のぶどう酒を持ち寄って、それを大きなかめに集めて、祭りの日はそのかめから、自由に飲めるようにしよう、ということになりました。

村人たちは、それぞれ、家で作ったぶどう酒の中から、最高のものを持って来て、かめに入れました。

さて、祭りの当日、最高のぶどう酒ばかりが、集められたのですから、どんなに素晴らしいぶどう酒になっただろうと、わくわくしながら、かめから汲んで飲んだところ、それはただの水であった、というのです。

何百人もの人が、最高のぶどう酒を入れるのだから、一人くらい水を入れても分からないだろう。何と、皆が、そう思って水を入れたのです。

その結果、最高のぶどう酒が入っている筈のかめには、ただの水しか入っていなかった、というお話です。自己中心的な人間の思いが、ぶどう酒を水に変えてしまったのです。

これらの話はジョークですが、聖書に書かれているのは、本当に起こった奇跡です。

ただの水が、主イエスの御力によって、最高のぶどう酒に変わった奇蹟です。

このような奇蹟物語を読む時に、いつも聞かされるのは、「一体こんなことが、実際に起こったのだろうか」、という呟きです。

そして、こういう奇蹟を、何とか合理的に解釈しようとする人が、必ず現れます。

或いは、こんな話が無ければ、もっと聖書は読み易いのに、という人も現れます。

しかし、古代教会の指導者であった、アウグスティヌスという人は、この箇所の説教の中で、こう言っています。

「水がぶどう酒に変わるなど、あり得ない話だ」、と皆さんは言われる。しかし、考えて見てください。これは、ブドウ畑の中で、毎年、無数に起こっていることなのです。

ぶどうの木が、根から水を吸い上げて、そして、葉が太陽の光を受けて、甘いぶどうの実が、なるではありませんか。それは、不思議ではないのですか。

水が、ぶどう酒になるのは不思議で、ぶどうの木が、水を吸い上げて、甘いぶどうの実をならせることは、不思議ではないというのですか。アウグスティヌスは、全能なる神様の、創造の御業に目を注ぎつつ、こう言っているのです。

この出来事が起こったのは、ガリラヤのカナという村です。

そのカナで、婚礼がありました。当時、婚礼に招待されるのは、男性だけで、女性は祝宴に出席することは、無かったそうです。

でも、この時、婚礼の席に、主イエスの母、マリアが来ていました。

これは、恐らく、客としてではなく、手伝いに来ていたのだと、思われます。

ということは、恐らく、この家は、主イエスの親戚の家であったと、思われます。

主イエスご自身も招かれて、弟子たちと共に、婚礼に出席していました。

その祝宴の途中で、大切なぶどう酒が、足らなくなってしまったのです。

これは、招いた家にとっては、大問題です。

そこで、マリアは、主イエスに、「ぶどう酒がなくなりました」、と言いました。

マリアは、主イエスなら、何とかしてくれる、と思っていたに、違いありません。

それに対して、主イエスは、思いがけないような答えをされています。

「婦人よ、わたしと、どんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

これは、大変冷たい言葉であるように、聞こえます。

採り様によっては、親子の関係を否定しているように聞こえる言葉です。

しかし、ここで、主イエスは、私たちにとって、大変大切なことを言っておられるのです。

主イエスは、ご自分が行動されるのは、ただ父なる神様の御心だけによるのだ。父なる神様だけが、それを決められるのだ。そのことを、ここで、はっきりと示されたのです。

ですからマリアに向かって、私の行動は、あなたではなく、父なる神様が決められるのですよ、と言われたのです。これは、私たちにとっても、非常に大切なことです。

私たちも、主イエスに、色々とお願いします。

どんなことでも、お願して良い、と言われていますから、色々とお願いします。

主イエスは、それら、すべてを聞いてくださいます。

しかし、それらを、すべて聞いてくださって上で、主イエスが、いつ、何をなさるのか、ということは、主イエスご自身が、お決めになることなのです。

私たちが、決めることではありません。主イエスが、神として、ご自身のご判断で、お決めになるのです。私たちは、そのことを信じて待つのです。

もし、主イエスが、私たちの言いなりになられて、私たちの僕になってしまわれたら、神様の救いのご計画は進展しません。

主イエスが、神としてのご判断で決めてくださる。これが私たちの救いです。

主イエスは、ここで、ご自分は、ただ父なる神様の御心によってのみ、行動されるということを、はっきりとお示しになったのです。

マリアは、冷たいと思われるような、主イエスのお言葉の中に、この主イエスの思いを聞き取っていったに違いありません。

ですから、マリアは、ぶどう酒がなくなったという事実だけを伝え、そして、「この人が何か言いつけたらそのとおりにしてください」、と言って立ち去ったのです。

この奇蹟物語を、こよなく愛したドストエフスキーは、「この時、母と子の間に、微笑が交わされた」、と想像しています。実に心温まる想像です。

冷たく突き放すように聞こえる、主イエスのお言葉に対して、微笑をもって応え、召し使いたちに、この人が何か言ったら、すぐ応えられるように準備をしておきなさい、と言うマリア。

そこには、主イエスに対する、深い信頼の姿があります。

そして、そのマリアの願っていた通りに、主イエスは大きな御業を示されました。

喜ばしい婚礼のさなかに、肝心のぶどう酒が底をついてしまう。

これは、私たちの人生において、たびたび起こる、挫折や試練を象徴しています。

外から見て、どんなに、幸福そうに見える人の人生にも、ある日突然、その幸福が、断ち切られるということが起こります。

「喜びのぶどう酒が尽きる」、ということが起こるのです。主イエスは、喜びのぶどう酒が尽きて、焦りと絶望の中にいる人々に、深い憐みを覚えられました。

「私の時は、まだ来ていません」、と言われた主イエスでした。私が、救い主としての業を示す時は、まだ来ていない。それは、まだ先のことである。そう言われたのです。

しかし、主イエスは、助けを求める人々をご覧になって、深く憐れまれました。

そして、ご計画を変更してくださったのです。

この主イエスの憐れみが、水をぶどう酒に変える、大きな力を呼び起こしました。

この主イエスの愛が、人間の危機を恵みに変える力となったのです。

私たちの救い主は、このように、私たちを憐れんでくださり、ご自身のご計画を変更されてまで、愛の御業をなしてくださるお方なのです。

祝宴には、多くの人びとが集まりました。その人たちは皆、律法の定めに従って、水で身体を清めなければ、なりませんでした。

そのために、六つもの大きな水がめが用意されていました。

主イエスは、召使たちに、六つの水がめの全てに水を満たすように、お命じになられました。この水がめは、二ないし三メトレテス入りのものであった、と書かれています。

一メトレテスは、約40リットルだと言われていますから、100リットル位入る大きな水がめが六つもあったのです。全部で600リットルです。大変な量です。

しかも、清めのために用いられて、もうだいぶ水が減っていたと思われます。水道などない時代のことですから、これを、また満たすというのは、かなりの作業であったと思います。

僕たちが、水をようやく満たしたとき、主イエスは、それを、祝宴の世話をしている人のところへ運びなさいと言われました。

そして、世話役が味見をしてみたら、今まで出していたものよりも、遥かにおいしいぶどう酒に変わっていたというのです。

このように、主イエスは、母の願いを聞き入れ、この家の人たちの、苦境を救い、祝宴全体を守ってくださったのです。

さて、多くの人が、この箇所の、「水をくんだ召し使いたちは知っていた」、という言葉に、心を留めています。なぜ、この言葉が、ここに挿入されているのでしょうか。この言葉は、何を示しているのでしょうか。

チイロバ牧師として親しまれていた、榎本保郎先生は、この箇所のメッセージの中で、このように語っておられます。

『主イエスは、僕たちに、「かめに水を、いっぱい入れなさい」と言われた。

ぶどう酒を必要としている時に、水をかめにいっぱい入れるということは、どう考えても滑稽である。しかも、大変な作業を要する仕事である。

それでも、僕たちは、主のお言葉に従って、かめの口のところまで、いっぱい水を入れた。

すると、主は続いて、「それを汲んで、料理頭のところに、持って行きなさい」と言われた。

これもまた、人を馬鹿にした言葉のように思える。一体、こんなことに、何の意味があるのだろうか。一体誰が、こんな言葉に従うことが、出来るだろうか。

僕であったからこそ、出来たのではないだろうか。これは、一家の主人たる者の、決して出来ることではない。私は、ここで改めて、僕の道について考えさせられた。私の伝道は、僕のそれであったであろうか。私の牧会は。私の生活は。

次々と考えていって、私はそこで、自分がいつも僕ではなく、主人であったことに気付いた。主人なるが故に、私は、「水を汲め」という、主のお言葉に従うことが出来なかった。

そして、自分で計画を立て、自分の発想と努力で、何とかやって行こうと、躍起になっていた。それが最善であると信じていた。

聖書は、「水を汲んだ僕たちは知っていた」と記している。私たちにとって、今、一番大切なことは、このことではないだろうか。僕として、主の御業を、はっきりと見て、知ることである。』

榎本先生が言われたように、私たちは、つい主人になりたがってしまいます。

しかし、主のお言葉に、どこまでも、僕として、従っていく者でありたいと願わされます。

どこまでも、僕として従っていく時に、私たちは主の御業を見ることができるのです。

主の素晴らしさを知ることができるのです。

どこまでも、僕として従っていく時に、私たちは、主の御業を見ることができ、主の素晴らしさを、知ることができるのです。

ここで、私たちは、更にもう一つのことに、気付かされます。

それは、11節に、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」、と書かれていることです。

ここには、信じたのは、弟子たちであった、と書かれています。

水を汲んだ召使でもなく、ぶどう酒を味見した世話役でもなく、或いは、急場を救ってもらった、家の人たちでもなかったのです。

これらの人々は、この奇蹟を、身近に体験して、驚いた人たちです。

しかし、これらの人々が、主イエスを信じた、とは書かれていません。

信じたのは、この奇蹟に直接関わっていなかった、弟子たちであったというのです。

これは、何を意味するのでしょうか。

「信じた」と言われる人々。それは、急場を救ってもらった、新郎新婦でも、奇蹟に気づいた召し使いたちでも、世話役でもなく、「弟子たち」だったのです。

このことから分かることは、主イエスを、信じる人とは、必ずしも、その御業を行ってもらった人とは、限らないということです。

ですから、その出来事から2千年後の今、こうして聖書を読んでいる私たちにも、「主イエスへの信仰」、という恵みがもたらされているのです。

主イエスは、ここで、栄光を現してくださいました。そして、弟子たちは、その栄光を信じることができました。このように主イエスを信じる者は、皆、主イエスの弟子になるのです。

ですから、御言葉は、ここで、「あなたも弟子になれますよ」、と私たちに語りかけているのです。私たちも、また、信じた弟子たちの群れに、加わるようにと招かれているのです。

水を汲んだ者が、必ずしも、主イエスを知るのではないのです。

そこに立ち会った者が、必ずしも、主イエスを知るのではないのです。

この物語を聞いて、心を開いて、そこに主イエスの栄光を見ることができた者。

その人こそが、主イエスの弟子になることができるのです。

私たちは、そのように、この物語に招かれているのです。

さて、このカナの物語について、昔から問われている、二つの疑問があります。

一つ目の疑問は、こういうものです。

この時、主イエスは、六つのかめの水を、すべてぶどう酒に、変えてしまわれた。

では、その後に、祝宴に来た人は、どうしたのか。

水で、身を清めることが、出来なくなってしまったではないか。こういう疑問です。

この問いに対して、主イエスは、このように、答えておられるのではないでしょうか。

あなた方は、もう手なんか、洗わなくて良いのだ。もう身を清めなくても、良いのだ。

私は、手洗い用の水を、全部ぶどう酒に、変えてしまった。

それは、もう手を洗わなくても良い、ということなのだ。

あなた方は、律法に従って、手を洗うことを、何よりも大切なこととしている。手を洗わなければ、神様の前に出られない、と思っている。

そういう思いに、がんじがらめにされている。しかし、もう、手を洗わなくても良いのだ。

なぜか。それは、私が、もうここにいるからだ。私によって、あなた方は、もう聖められているからだ。

だから、あなた方は、私と一緒にいることを、心から楽しんだら良い。ぶどう酒を思う存分楽しんだら良い。主イエスは、そのことを、ここで、はっきりと示してくださったのだと思います。

もう、自分の力で聖くなろうと、あくせくしなくても良い。元々、そんなことは、出来ないのだ。

自分の力で、正しく生きて、救いを得ようと、頑張らなくても良い。私が、ここにいるではないか。あなた方の罪、あなた方の汚れを、全部代わって担うために、私がここにいるではないか。あなた方の中に、今、こうしているではないか。

そのことを、素直に喜んでもらいたい。私の用意したぶどう酒を楽しんで欲しい。

この恵みを明らかにするために、主イエスは、水がめの水を、全部ぶどう酒に変えてしまわれたのだと思います。

もう一つの疑問。それはこういうものです。

この時、主イエスは、600リットルもの、大量のぶどう酒を用意された。

もう皆、だいぶ飲んだ後です。果たして、そんなに必要だったのだろうか。

一体、こんなにたくさんのぶどう酒を造って、その後どうしたのであろうか。

この席にいた人たちが、それを全部飲み切ったとは、到底考えることはできません。

たくさんのぶどう酒が余ってしまった筈です。

これについては、古代教会のある指導者が、こう答えています。

「人々は、とても飲み切れなかった。たくさんのぶどう酒が余ったのだ。

だから、我々が、今も、そこから飲んでいるのだ」。

そうなのです。この時、主イエスは、私たちの分まで、ぶどう酒を作ってくださったのです。

ですから、今の時代に生きる私たちも、主イエスが造ってくださった、そのぶどう酒を飲む喜びに、与ることができるのです。私たちもまた、その祝宴に招かれているのです。

主イエスは、この出来事を通して、そのことをも、私たちに明らかにしてくださいました。

何という喜び。何という慰めでしょうか。

そのように主イエスから、お招きをいただいていることを、心から喜びたいと思います。

もう手を洗わなくても良い。そのままの姿で良い。あなた方は、もう聖いのだ。

そのままで、私のもとに来て、私と一緒に、私が用意したぶどう酒を楽しみなさい。

あなたの分まで、作ってありますよ。

そのように言ってくださる、主イエスの招きに、喜んで、従っていきたいと思います。