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過去の礼拝説教

「限りない愛」

2014年09月28日 聖書:ヨハネによる福音書 3:16~21

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

この御言葉は、聖書の中で、最もよく知られた、御言葉の一つだと思います。

宗教改革者のマルティン・ルターは、この御言葉を、「小福音」と名付けました。

聖書全体が、語っていること。それを一言で言い表すと、この御言葉になる。

この御言葉に、聖書全体のメッセージが凝縮されている。そのような御言葉だというのです。神様の愛は、その独り子を、私たちに与えてくださる程、深く、大きなものであった。

これは、良く分かります。

人間のことを考えても、自分のたった一人の子の命を、自分に敵対する人のために、犠牲にする。そんなことは、考えられません。ですから、これは、本当に大きな愛です。

しかし、ある人が、この御言葉について、こういうことを言いました。

私たちは、この御言葉を、よく知っている。よく知ってはいるが、本当によく理解しているとは、言えないのではないか。

なぜなら、もし、この御言葉を、本当によく理解して、自分のものとしているならば、私たちは、人生の節々で、こんなに文句を言うことはない筈だ。

病気になったり、困難に出会ったりすると、「神様は、私を愛してくださっているのか」、と言ってつぶやく。

或いは、悲しい目にあうと、「神様は一体どこにおられるのか」と言って、神様の愛を見失う。

そのような私たちではないか。

本当に、この御言葉の意味を理解し、自分のものとしていないから、そのように思うのではないか。その人は、こう言っているのです。厳しいですが、身を正されるような指摘です。

この御言葉を、真実な意味で、自分のものと出来ない。

その理由の一つは、「世を愛された」という言葉に、あるのかもしれません。

「世」と聞きますと、とても広い感じを、持ってしまいます。そして、自分は、そのごく一部でしかない。そのような思いを、持ってしまいがちです。

そうであるならば、この御言葉を味わう時に、この「世」という言葉を、自分の名前に置き換えて、読んでみるといいと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、この私、柏明史を愛された。柏明史が滅びないで、永遠の命を得るためである」。

このように、これは、私に対して、私のために語られた御言葉だ、として聴いていくのです。

その時、この御言葉が、もっと活き活きと、自分に迫ってくるのではないかと思います。

この御言葉を、「小福音」だと言った、マルティン・ルターは、このように言っています。

キリスト者たる者、誰もがしなければならないこと。それは、まずこの御言葉を、暗誦できるようになることである。

そして、その次に、毎日、自分の心に向かって、これを語り聞かせることである。

そのようにして、私たちが、あたかも呼吸するかのように、この御言葉に馴れ親しみ、その深い意味を、日々新たに学び直すことが大切である。

ルターは、この御言葉は、生涯を通して、毎日心の中に呼び起こして、自分に向かって、語りかけなければいけない御言葉なのだ、と言っているのです。

この御言葉を、日々、心に読み聞かせながらも、尚もつぶやき、尚も悲しみが支配するようであるなら、まだ、この御言葉の暗誦が足りないのだ、と言っているのです。

ルターは、また、こうも言っています。

ここに、一人の物乞いの男がいる。人から施しを与えられないと、飢え死にしてしまうほどに窮乏している。

そこに、一人の紳士がやって来て、「毎年、あなたに、これこれの収入を与えよう」と言って、彼を一人前の男として待遇しようとした。しかも、その男から、何の報いも求めなかった。

ところが、この物乞いは、この申し出を拒否してしまった。そんなうまい話があるなんて、信じられない。そう思って、素直に、その申し出を、受け取ることができなかったのである。

世間は、これを知って、この男を非難した。何ということをするのか。

世間の目から見れば、この男は非常識である。厳しい非難を受けるのは当然である。

しかし、同じように、私たちの父なる神様は、その独り子を、私たちに与えようとしていてくださるのだ。

しかも、神様は、この世の常識を遙かに超えた、とてつもなく高価な贈物を、ただで、私たちに差し出して、「どうか、これを受け取って欲しい」、と言っておられる。

「ただ受け取るだけでいいのだよ」、と言っておられる。

それなのに、この神様の申し出に、背を向けて、それを断る人々がいる。

それは、他ならぬ私たちだと言うのです。

それほど私たちは、愚かで、かたくななのだ。

だから、そのかたくなな心を突き破るために、私たちは、この御言葉を、日々、自分自身に言い聞かせるべきなのだ。ルターは、そう言っているのです。

そのように大切な御言葉であるなら、改めて、その深い意味を、問い直さなければならないと思います。

その一つの手懸かりとなるのが、「独り子を信じる者が一人も滅びないで」という言葉です。

ここで「滅びる」と訳されている言葉は、他の箇所では、「失う」とも訳されている言葉です。

「失う」と訳されている箇所で、代表的なものは、ルカによる福音書の15章です。

そこには、主イエスが語られた、三つの譬え話が記されています。

百匹の羊のうちの一匹が、勝手に迷い出てしまって、羊飼がそれを見つけて大喜びする話。十枚の銀貨のうちの一枚が無くなったために、一生懸命探して、それを見つけて喜ぶ女性の話。そして、放蕩息子が、父親のもとに帰って来た話です。

主イエスは、この三つの譬え話をお語りになりながら、この三つの話に共通のものがあると言われました。

それは、いずれも「失われた存在」になったということです。

羊飼のもとから、いなくなった。持ち主のもとから、いなくなった。そして、父親のもとから、いなくなったのです。

「いなくなる」ということが、滅びた者の姿として、示されています。

滅びるということは、「失われた存在」になった、ということなのです。

「神様の前から失われる」こと。御言葉は、それが「滅びる」ということなのだ、というのです。

神様の方から、私たちを、手放した訳ではありません。

私たちの方が、神様のもとから、勝手に離れて行ってしまったのです。

私たちが、自分勝手に、神様の懐から、飛び出していってしまって、失われた存在に、なってしまったのです。

私たちの方から、神様の救いを拒否したのです。神様の愛を拒否したのです。

そして、神様の敵になってしまったのです。

しかし、そんな私たちのために、神様は、独り子を与えられるのです。一人も失われないようにと、神様の独り子が、この世に、いえ、この私に、与えられたのです。

神様から断ち切られたまま、滅びに向かっている、私たちのために、独り子を与えて下さり、私たちを呼び戻そうとしてくださったのです。

神様は、そのことに、まさに、ご自身の命を賭けてくださったのです。

神様は、ひたすらに、まさに悲しいまでに、私たちのことを、愛してくださっているのです。

「永遠のいのち」とは、その父なる神様の懐に戻って、その懐に抱かれて生きることです。

迷い出た羊が、羊飼いの懐に抱かれるように、無くなった銀貨が、婦人の手にしっかりと握り締められるように、放蕩息子が、父親に抱き締められるように、神様の愛から離れた者が、再び神様の懐に抱かれて、生きるようになることです。

私たちが、神様の前から、失われた者になっているとき、私たちは、滅びに向っています。

しかし、神様は、そんな私たちの、一人をも失いたくない、と願っておられるのです。

一人として、滅びることを、望んでおられないのです。

御子を信じる者のすべてを、懐に抱きたい、と願っておられるのです。

そのために、神様は、その独り子を、与えなければならなかったのです。

神様は、本当は、私たちを見捨ててもよかったのです。

自分たちの方から、勝手に離れて行ってしまったのですから、神様に見捨てられても、人間は、文句を言えなかった筈なのです。しかし、神様は、私たちを、見捨てられませんでした。

見捨てずに、これを生かすために、御子を献げてくださった。

私たちの背きの罪を赦し、私たちを滅びから救い出すために、独り子を献げてくださったのです。私たちは、自分で、自分の罪を償うことはできません。神様は、その償いを、ご自身

で果たしてくださったのです。そして、そのために、御子の命が、献げられたのです。

「与える」と書かれていますが、これは、ただ与えるのではありません。

そうではなく、「十字架に与える」のです。十字架に独り子を与える愛。

それが、勝手に、神様から離れていった、私たちに対する、「神様の愛」なのです。

永遠の命を信じるとは、この神様の愛を信じるということです。

この神様の愛を受け取り、神様の懐に抱かれて生きる。それが、永遠の命です。

この神様の愛を、受け取ることを拒否するなら、永遠の命に生きることはできません。

御言葉は、そのこと自体が、既に、裁きになっている、と語っています。

しかし、この神様の愛、主イエスの十字架の愛に、真実に出会った者は、その愛に迫られ、自分自身の生き方が変えられます。

この3章16節の御言葉は、3章1節からの話に含まれています。

ここで、主イエスとニコデモは、「新しく生まれる」ということについて言葉を交わしています。

ニコデモは、ファリサイ派に属する、ユダヤ人の指導者でした。

高い地位と、名誉と、人々の尊敬を、得ていた人です。

このニコデモが、主イエスに、是非会いたいと思ったのです。しかし、彼の地位や立場を考えると、ナザレのイエスという田舎教師の許に、頭を下げて、教えを請いに行くのに、抵抗がありました。少なくとも、人目にふれるのはよくないと思ったのでしょう。

彼は夜、暗い中を、主イエスに会いに行きました。

ニコデモは、このように、人眼を避けて、主イエスに会いに行くような人でした。

しかし、彼は、この夜の、主イエスとの出会いによって、大きく変えられたのです。

ヨハネによる福音書7章によれば、ユダヤ人の指導者たちが、主イエスを捕えようとした時、彼は、「本人から意見を聞いてからにした方がよい」と、勇気ある発言をしています。

そして何よりも大きな出来事は、主イエスが、十字架につけられた時のことです。

主イエスが十字架に死なれ、その御体が十字架から引き降ろされた時のことです。

彼は、もはや、人の目を気にすることもなく、大胆に進み出て、主イエスの御体に塗るための、没薬と沈香を、献げたのです。

ニコデモは、主イエスと出会い、そしてそのご生涯に触れ、主イエスの十字架を体験することによって、新しく生きる者とされたのです。

ニコデモだけではありません。私たちは皆、十字架の主イエスと出会い、そこまでして、私たちを救いたいと願われる、神様の愛にふれた時、新しい生き方へと、変えられていきます。

神様の愛の迫りが、私たちを変えずにはおかないのです。

ここに、一冊の小さな本があります。「胸赤コマドリ」という題の本です。

この本の作者は、スウェーデンの作家で、女性として、初のノーベル文学賞を受賞した、ラーゲルレーヴという人です。こういうストーリーです。

神様が、天地を創造されたとき、神様は小鳥たちを造り、絵筆に絵具をつけて、小鳥たちの羽を、色とりどりにお塗りになりました。

色鮮やかな羽の小鳥たちが造られた後に、神様は、一羽の灰色の小鳥を、造られました。

そして、お前の名前は、「胸赤コマドリ」だと言って、飛び立たせました。

胸赤コマドリは、自分がどんなに美しい姿かと思い、楽しみにしながら、池の水に自分の姿を映してみます。ところが、それはただの灰色でした。

胸赤コマドリは、このことが不満でたまりません。神様に文句を言います。

「にわとりのとさかは赤いし、オウムだってきれいなえりまきをしています。なのになぜ、胸赤コマドリという名前をいただいた私だけが、こんなくすんだ色なんでしょうか?」

神様は答えられます。「お前は、自分で、赤い胸毛を、手に入れるのだよ。」

胸赤コマドリは、情熱的な愛で、胸の毛を、赤く染めることができる、と思いました。でもそうはなりませんでした。

情熱的な歌で、胸の毛を、赤くすることができる、と思いましたが、失敗しました。

勇敢に戦うことで、胸の毛を、赤く染めることができるに違いない、と思いました。でも、それも失敗でした。胸赤コマドリは、どんなにがっかりしたことでしょうか。

ところがある時、都のほうから大勢の人たちがやって来るのが見えます。悪いことをした男たちが、はりつけになるというのです。三人のうちのひとりは、茨の冠をかぶっています。

優しそうなこの人は、いったい何をしたのでしょうか。

この光景を見ているうちに、胸赤コマドリは、たまらなくなりました。

茨の冠をかぶせられたその人は、額に血がにじみ、苦しそうな息遣いをしています。

胸赤コマドリは、その人のところへ、飛んで行きました。

そして、額に刺さっている、茨のとげを、一本、二本と、くちばしで引き抜きました。

すると、その人の額の血が、胸赤コマドリの柔らかな胸を、赤く染めたのです。

「ありがとう」と、その人はささやきました。「今からお前は本物の胸赤コマドリだ。」

絵本の終りの部分を読みます。

「その日から、胸赤コマドリは、その名前にふさわしい、小鳥になったのです。

輝くような胸毛の色は、いくら水浴びをしても、薄れず、赤いバラの花よりも、もっと赤く、子孫の小鳥たちの胸を、彩っています。

あのエルサレムの外の出来事を、思い起こさせるように、冬枯れの野に、喜びを伝える、春の先触れのように。」

小鳥の羽が、灰色であったのは、まさしく私たちの、心の色ではないでしょうか。

心の中の暗さ、くすんだ心、そんな私たちの心を、表している色です。

小鳥は、いろいろ努力をしたのです。それなのに、色は変わりませんでした。

そして、神様に文句まで言います。「どうして私だけが、こんなくすんだ色なんでしょうか?」

ニコデモの心も、きっと同じであったと思います。

夜、ひそかに出かけて行く彼に、夜の闇が、心の奥深くに、潜んでいたことでしょう。

主イエスが、「新しく生まれる」ことを語られた時も、彼はその意味を、すぐに理解することはできませんでした。

しかし、この時の主イエスとの出会いは、彼の生きる方向を、変えていきました。

そして、主イエスの十字架に出会ったとき、そして、その額ににじむ血潮にふれたとき、彼の灰色の心が、違う色に変えられていったのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。

この御言葉を、ニコデモは、自分に与えられた出来事として、受け止めることができたのです。私たちの心も、直ぐに灰色にくすんでいきます。直ぐに、神様の愛が見えなくなります。

神様の愛が分からなくなります。

でも、そんな時は、十字架の主イエスの、額ににじむ血潮に触れましょう。

主の愛の滴りに触れましょう。

その時、私たちの灰色の心は、主の愛の滴りの色で、赤く染められます。

そして、その時、私たちは、主の御声を聞くのです。

「私は、あなたを失いたくない。私の命を犠牲にしても、あなたを滅びから救いたい。私は、あなたを愛している。どうか、この愛を受け取って欲しい。この愛を受け取って、永遠の命を得て欲しい」。

受け取るだけで良いのです。「神様、ありがとうございます」、と言って、受け取るだけで良いのです。信仰とは、この神様の愛を、「ありがとうございます」と言って、受け取ることです。

神様が、「どうか受け取っておくれ」と言って与えてくださる恵みを、素直に受け取ることです。それが、神様が、私たちに望んでおられることなのです。

聖餐式において配られる、パンとブドウ酒。あのパンとブドウ酒は、独り子を十字架に献げてくださった、神様の愛そのものです。

あの中に、神様の愛が余すところなく満ち溢れています。

神様は、それを、「どうか受け取っておくれ」と言って、与えてくださいます。

私たちは、心からの感謝を持って、「独り子をありがとうございます」、と言ってそれを戴くのです。神様の愛を戴くのです。独り子の命を戴くのです。

その時、私たちは、この御言葉を、本当の意味で理解し、自分のものとすることができるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。