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過去の礼拝説教

「生きるとはキリスト」

2014年11月30日 聖書:フィリピの信徒への手紙 1:12~26

今朝の箇所で、パウロは、自分がこの世に、生かされている目的、について語っています。

12節で、パウロは、「福音の前進」、と言っています。更に25節では、「信仰を深めて」、と言っています。この「信仰を深めて」という言葉は、直訳すれば、「信仰の前進」という言葉です。12節と同じ言葉です

そうしますと、今日の箇所は、「前進」という言葉で始まり、「前進」という言葉で終わっている。つまり、「前進」という言葉で、囲まれている、ということになります。

パウロにとっては、この福音の前進、ということが、生きる目的であったのです。

これまでパウロは、福音の前進のために、命懸けで働いてきました。

しかし、この手紙を書いている時、彼は、獄に繋がれていました。

福音の前進のために、自由に活動することができない、状態にあったのです。

パウロは、そのことを、どんなに残念に思っていたことでしょうか。

また、それを聞いた、フィリピの教会の信徒たちも、落胆し、心配したと思います。

パウロ先生は、一体どうなってしまうのだろうか。私たちの教会は、この先、どうやって行けば、良いのだろうか。フィリピの教会の信徒たちは、不安と心配の中にいました。

ところが、思いがけないことが、起こったのです。

予想に反して、事態は意外な方向に、展開していったのです。

パウロは12節で、是非そのことを、「知ってほしい」と言っています。

「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った」のです。皆さん、どうか、この意外な事実を知ってほしい。パウロは、喜びを爆発させるようにして、語りかけています。

原文では、いきなり「知ってほしい」、という言葉が、最初に出てきています。

まさに、「ハレルヤ!」という叫びが、聞こえるような語り口です。

そして、更に、13節では、「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡った」、とさえ言っています。

パウロは捕らえられました。しかし、そのことによって、かえって福音は、前進したのです。

パウロは、法廷に召喚され、証言することを、求められました。しかし、その法廷は、キリストを証しする絶好の場となったのです。

法廷さえも、伝道の場としてしまうのですから、パウロという人は、本当に凄いと思います。

優れた大衆伝道者であった、本田弘慈先生は、行く先々の、どこででも伝道したそうです。

ある時、温泉に浸かっていましたが、隣の客が、「アー、いい気持ちだ。まるで天国だ」、と言ったのを聞いて、その人にスーと近寄って、「あなた、本当の天国を知っていますか」、と言って伝道を始めたそうです。

法廷でも伝道するパウロ。お湯に浸かりながらも伝道する本田先生。福音は、このような器によって、伝えられてきたのです。私たちは、今、その恵みに与っているのです。

また、パウロは、牢獄で、彼を監視している、兵士たちにも、福音を伝えました。

当時は、囚人と、監視している兵士は、短い鎖で繋がれていたことが多かったそうです。

兵士の交代は、大体8時間位であったようです。その間、監視している兵士は、ずっと囚人と一緒に、いなければなりませんでした。

もしパウロも、そのように兵士と、繋がれていたとしたら、間違いなくその兵士に、福音を語ったと思います。8時間もあるのですから、十分に語ることができます。パウロから、直接、8時間も、御言葉の説き明かしを受けるなんて、ちょっと羨ましい気がします。

そして、兵士の中には、パウロの話に感動して、「あの囚人のパウロから、私は素晴らしい話を聞いた」と、他の兵士に、伝える者も出たと思います。

中には、パウロの監視役の当番が、次に回って来る日を、心待ちにする兵士も、いたかも知れません。そのようにして、兵士たちの間に、福音がどんどん広まっていったのです。

実は、同じようなことを、パウロは、既に経験していました。

それは、他ならぬ、この手紙の宛先である、フィリピの町においてです。

そこで、パウロとシラスは、あらぬ疑いを掛けられ、捕らえられ、鞭打たれ、牢獄に入れられてしまいました。

しかし彼らは、牢獄の中で、傷の痛みに耐えながらも、大きな声で讃美歌を歌い、神様に祈りを献げたのです。

牢獄の囚人たちは、皆、耳を澄まして、パウロたちの賛美と祈りに、聞き入っていたと、御言葉は記しています。

この二人の男は、何か不思議な、聖なる力によって、支配されている。そのことを、囚人たちは、感じ取っていたに、違いありません。

その時、突然、地震が起こって、牢獄の壁が崩れるという、出来事が起こりました。

その牢屋の看守は、囚人たちが皆、逃げてしまったと思い、責任を取って、自決しようとしました。しかし、パウロがそれを、押し留めました。見ると、パウロたちの賛美と祈りによって、聖なる方の存在に触れた囚人たちは、一人も逃げずに、そこにいたのです。

この奇蹟を見て、看守はパウロに尋ねました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。

パウロが答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。

このパウロの言葉によって、この看守の家族は、全員で洗礼を受け、ヨーロッパで最初のクリスチャンホームが誕生したのです。

パウロは、その時のことを、想い起しながら、ここでも兵士たちに、福音を語ったに違いありません。あのフィリピの牢獄で、看守が救われたように、この兵士たちも、救いに与って欲しい。そのような思いで、伝道したと思います。

そして、ここでも、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」、と力強く語ったと思います。

パウロが、この手紙を書いている牢獄では、地震によって、壁が崩れることは、ありませんでした。しかし、福音の力は、牢獄の厚い壁を突き通して、更に前進していったのです。

この出来事は、パウロと、教会にとって、大きな喜びでした。

教会員の中には、パウロを慰めるために、牢を訪れた人も、あったと思います。

きっとパウロは、落ち込んでいるだろうと思って、訪問すると、意外にもパウロは元気で、慰めに行った人たちが、逆に励まされて帰って来る、ということが起こったのです。

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、結核治療のため、長い年月を、病院で過ごしました。

多くの人が、三浦さんを慰めるために、病室を訪れました。しかし、それらの人たちは、逆に、病人の三浦さんに、慰められ、励まされて、帰ることが多かったそうです。

同じことが、パウロの牢獄でも、起こっていたのです。

パウロを訪問した教会員は、その信仰に、新たな油を注がれ、信仰の炎を、更に燃え上がらせ、一層熱心に、伝道するようになっていったのです。

それを見て、今まで伝道などしていなかった教会員までが、勇敢に福音を伝えるようになっていきました。

自分が監禁されたことによって、かえって福音が、この地で力強く前進している。

まさに、神様は、人知を超えて、ご計画を進められるお方。すべてのことを益としてくださるお方なのだ。パウロは、そのような喜びに溢れて、この手紙を書いています。

こうして主にある兄弟たちの多くが、「確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになっていった」のです。

しかし、残念ながら、中には、不純な動機から、伝道の業に励んだ人たちもいました。

どのような人たちかと言いますと、パウロの伝道の成功を、妬んだ人たちです。

そのような人たちは、パウロが投獄されたと聞いて、今こそ、自分たちが、教会の中で勢力を伸ばすチャンスだと、熱心に伝道を始めたのです。

一方では、パウロ先生が、投獄されたのだから、自分たちが、先生に代わって、伝道しなければと、純粋な、愛の動機から、伝道する人々がいました。

しかし、もう一方には、妬みと争いの念から、獄にいるパウロを、更に窮地に追いやろうとして、伝道に精を出した人たちもいたのです。

しかし、これに対して、18節で、パウロは、こう言っています。

「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」。

これは、驚くべき言葉です。

パウロは、自分が悪く言われようが、苦しめられようが、結果として福音が前進し、主イエスの御名が崇められるなら、自分はそれを喜んでいる、というのです。

自分に対する、妬みや、敵対心からの伝道であっても、結局は、キリストが宣べ伝えられるのであれば、それを喜んでいるし、これからも喜ぶというのです。

この言葉を読む度に、パウロという人は、本当にすごい人だな、と思います。

自分を悪しざまに言い、自分が獄中にいることを、これ幸いと思っている人たち。そういう人たちの、伝道の成果を聞いて、それを喜ぶ。

果たして私に、そんなことが出来るだろうか。恐らく、いくら努力しても、そのようなことは、出来ないのではないか、と思います。

パウロという人は、人一倍強い人であったから、そのような心境になれたのでしょうか。

私は、違うと思います。強かったからではなくて、自分の弱さを知っていたから、そのように喜ぶことが、出来たのだと思います。

パウロは、自分の伝道の成功は、自分の力ではない。自分はそんなに、立派な者ではない。伝道の成果は、神様の業である。心から、そう思っていたのです。

もし、少しでも、伝道の成功が、自分の功績である、と思っていたとしたら、パウロは、自分のことを、踏みつけるような人たちを、許せなかったと思います。

しかし、「自分は、弱い、土の器に過ぎない」、と言い切るパウロは、伝道の成功は、自分の力ではなく、神様の業であることを、知っていたのです。

ですから、神様が、自分に対する、妬みや、敵対心さえも用いられて、福音を前進させてくださったことを、喜ぶことが出来たのだと思います。

日本に、最初に伝道に来た、プロテスタント宣教師の一人に、ムーア・ウィリアムスという人がいます。彼は、日本聖公会の最初の主教となった人で、立教大学を建てるなど、多くの功績を残した人でした。

しかし、アメリカにある彼のお墓の墓標には、日本語と英語で、このように書かれています。

「在日50年。道を伝えて、己を伝えず」。「道を伝えて、己を伝えず」なのです。

ムーア・ウィリアムスも、パウロと同じように、日本宣教における、自分の功績が記されることなど、少しも望みませんでした。

願ったのは、唯一つ、福音が前進し、キリストの御名が、崇められることであったのです。

20節、21節は、パウロの生き様の要約であり、またこの手紙の頂点の一つであるともいえる御言葉です。

「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

パウロが、切に望み、願うこと。それは、パウロの身によって、キリストが崇められること。

ただそれだけなのだ、と言っています。

生きている時も、そして死ぬ時も、キリストが崇められる。キリストが崇められるように生き、キリストが崇められるように死ぬ。私は、そのことだけを望み、そのことだけを願っている。

そう言っているのです。

「崇められる」、という言葉は、「大きくされる」という意味です。パウロの身によって、キリストが大きくされる。それは、パウロが、限りなく、小さくされていく、ということです。

自分が、限りなく小さくされることを通して、キリストが、限りなく大きくされる。

パウロは、そのことだけを願っているのです。

ですから、どんなことにも、恥をかくことはない、というのです。

なぜなら、恥をかく、という気持ちは、自分を大きくしたい、と思っている時に起こるからです。大きくしたい自分が、小さくされる時に、恥をかくのです。

ですから、キリストが大きくされることだけを願っている者は、恥をかくということが、なくなる筈だというのです。

そのようなパウロは、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのだ」と言い切ります。

これも、すごい言葉です。まともに、この言葉を聞く時、私たちは一瞬、たじろぎます。

「生きるとはキリスト」。これは、不思議な言葉です。一体、どういう意味でしょうか。

マルティン・ルターは、「聖書は、キリストが横たわる飼い葉桶である」、と言いました。

聖書のどこを見ても、キリストが寝ている、というのです。

この言葉を、パウロ流に言い換えてみますと、「私は、キリストが横たわる飼い葉桶である」、ということになると思います。

私自身は、飼い葉桶のように、汚れて、卑しい者だが、私の生活のどこを取っても、キリストの力が働いている。私の生活の、どこを切っても、キリストが顔を出す。

このような生き方が、「生きるとはキリスト」、ということだと思います。

「この身によって」、と言っているように、自分の体のどこを切っても、血が噴き出してくるように、キリストが噴き出してくる。そういう生き方です。

自分のどこを切っても、キリストが出てくる。これは凄い生き方です。

南湖院で治療した詩人、八木重吉さんの詩の中に、「ねがい」という題の詩があります。たった一行の短い詩です。 「どこを 断ち切っても / うつくしくあればいいなあ」。

この短い詩のように、どこを断ち切っても、キリストが出てくる。それが、「生きるとはキリスト」という意味だと思います。

「どこを 断ち切っても / キリストが出てくればいいなあ」。

私たちも、このような願いを、胸に抱きつつ、歩んで行きたいと思います。

では、「死ぬことは利益なのです」。この言葉はどういう意味でしょうか。

パウロは、「生きることはキリスト」というくらいに、キリストを愛していました。

キリストといつも共にいたい。一時も離れたくない、と願っていました。しかし、そう願っていても、パウロは、尚も、この世にありました。肉において、生きている存在でした。

私たちは、どんなに聖く生きようと努めても、この世にあって、肉において生きている限り、自分の弱さや、罪のため、キリストの聖さに、与ることはできません。

また、この世にある限り、色々なことに、心を配らなければなりません。

キリストのことだけを考えて、生きていく訳には、いかないのです。

そんな時、パウロは、自分にとって「死ぬことは利益」なのだ、という思いに導かれる、と言っています。天に召していただき、主のもとに、いつもいることができる。

そのことこそ、自分にとって、幸いであり、利益なのだ、というのです。

パウロは、ここで、強がりを言っているのではありません。

「この世を去って、キリストと共にいたい」、という言葉は、キリストと一緒にいることの喜びを、本当に良く知っているから言えるのです。

自分のために、死んでくださったキリストの愛に、身も心も、すっぽりと覆い包まれている。

そのキリストの愛が、あまりにも強く迫って来て、もう一時も、キリストから離れていたくない。一時も早く、キリストのもとに行きたい。心からそう思っているのだと思います。

そのような思いに生きる時、私たちは、自分の生き方全体を通して、キリストを大きくしていくことが出来ます。

そして、どんな所にあっても、福音が前進していくことを、見ることができるのです。

私たち一人一人の生き方は、取るに足らない、貧しいものであるかもしれません。

しかし、もし、私たちの生き方を通して、神様が、少しでも褒め称えられるようになるなら、こんなに幸いなことはありません。

神様は、貧しい、土の器でも、用いてくださいます。

ある人が、私たちの体は、キリストの栄光が顕わされる舞台である、と言いました。

キリストという、世界で最高の役者が演じるのであれば、どんなに粗末な舞台でも、それは問題ではありません。

皆さん、私たちの体を、キリストの栄光が顕れる舞台として、用いていただこうではありませんか。

どんなに粗末で、貧しい舞台であっても、用いてくださるお方の、栄光で満たされるなら、それは、最高の舞台とされることを、信じてまいりましょう。