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柏牧師:過去の礼拝説教

「子どもの方が偉いとは」

2014年11月16日 聖書:マタイによる福音書 18章1節~6節

皆さん、心の中で、こんな場面を思い描いてください。

皆さんが、天国にいるとします。そして、天国で、憧れの主イエスに会っています。

主イエスの前に立っている時、皆さんは、どんなことを、主イエスに話されるでしょうか。

皆さんの中に、「イエス様、一体この天国では、誰が一番偉いのですか」、と尋ねる方は、おられるでしょうか。恐らく、一人もおられないと思います。

天国では、そんなことが問題になる筈はない、と思っておられるからです。

しかし、今朝の御言葉では、主イエスによって選ばれた、弟子たちが、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」、と主イエスに質問しています。

何故、弟子たちは、こんな質問をしたのでしょうか。

恐らく、この時の弟子たちは、今の私たちよりも、もっと人間的な思いをもって、主イエスに接していたのだと思います。

そして、もっと身近に、もっと現実的に、天の国を捉えていたのだと思います。

そうであるなら、こういうことを聞きたくなる気持は、私たちにも理解できます。

人間社会の話であれば、誰が一番偉いか、という質問は、よく聞きます。

どんな社会でも、人間の社会である限り、序列というものがあります。その序列の中で、自分が一体どの辺りにいるか。そのことを、私たちは、殆ど本能的に気にします。

でも、教会の中では、全くない訳ではありませんが、あまりそういうことを意識することはないと思います。

教会総会で、信徒の序列が問題になった、などということは、聞いたことがありません。

それは、そういう人間的な思いを、教会の中に持ち込むことは、主イエスの御心ではない、ということを、皆が分かっているからです。

そうであるならば、ここで、「天の国では誰がいちばん偉いのでしょうか」、と聞いた弟子たちは、神様の思いではなくて、人間の思いに、動かされていた、ということになります。

恐らく弟子たちは、この時のことを、後々までも、恥ずかしい思いをもって、想い起したと思います。できれば、こんな話は伝えたくない。こんな話は伏せておきたい。

そう思ったに違いありません。しかし、彼らは、この話を語り伝えました。何故でしょうか。

確かに、彼らの問いは、人間の思いから出たものでした。

でも、それに対する答えは、神様からのお答えだったからです。

主イエスは、弟子たちの、まことに人間的な問いを用いて、救いの真理を、教えてくださいました。そしてそれは、素晴らしい真理だったのです。

ですから弟子たちは、主イエスのお答えを、語り伝えなければならない、と思ったのです。

「一体誰が、天の国ではいちばん偉いのでしょうか」。そう尋ねた弟子たちに、主イエスが、お答えになりました。

でもそれは、弟子たちが、考えもしなかったような、お答えでした。

主イエスは、傍にいた一人の子どもを呼んで、真ん中に立たせて、こう言われたのです。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて、子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。

「誰が一番偉いのですか」、という問いに対して、ここで主イエスは、直ぐには、お答えになっておられません。

誰が一番偉いか、という前に、そもそも天の国に入れるかどうか、ということを、問題にされています。一番身近にいる、弟子たちに向かって、主イエスは、「心を入れ替えて、子供のようにならなければ、決して天の国に、入ることはできない」、と言われたのです。

恐らく、弟子たちは、びっくりしたと思います。

弟子たちは、自分たちが、天の国に入るのは、当然だと思っていたのです。

入るのは当然で、ただ天の国での、序列だけが問題だ、と思っていたのです。

しかし、主イエスは、そういう弟子たちに対して、「あなた方も心を入れ替えて、子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」、と仰ったのです。

そして、その上で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で、いちばん偉いのだ」、と仰いました。

この主イエスのお言葉は、まことに衝撃的でした。背伸びして、一番になろうとしていた、弟子たちに対して、背の低い、子供のようになれ、と言われたからです。

恐らく弟子たちは、この時、主イエスのお言葉の意味が、分からなかっただろうと思います。

ここでの主イエスのお答えは、弟子たちよりも、むしろ今の時代に生きる、私たちの方が、たとえそれが、自己流の勝手解釈であったとしても、それなりに分かるのではないでしょうか。

私たちの時代は、この当時よりも、子どもに対する関心が、ずっと深くなっています。

子供は、無邪気で、素直で、純粋だ。この気持ちを、忘れてはならない。

でも、大人になると、次第に、それらを失ってしまう。だから、もう一度、子供のような気持ちに、帰ろうではないか。様々な機会に、そのように語られます。

子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いということも、そういう意味であるなら、すんなりと理解できます。

しかし、この主イエスの御言葉を、そのように受け止めてしまうならば、それは少し違います。当時の人々は、子どもに対して、そういう評価を、してはいませんでした。

当時は、子どもというのは、役に立たない、問題外の存在であると、されていたのです。

幼い子どもは、特にそうでした。少し大きくなれば、家の手伝いも出来ますし、色々と役に立つようになります。でも、幼い子どもには、それが出来ません。ただ手が掛かるだけです。

ですから、子どもというのは、当時の社会においては、まだ人間として、一個の人格として、認めてもらえなかったのです。

ですから、主イエスが、ここで子どもを呼ばれたのは、子どもの純真さを見なさいとか、子どもの素直さに学びなさいとか、そういうことを、言おうとされたのではありません。

役に立たない、問題外の存在である、と見られていた子どもを、主イエスは呼ばれたのです。そして、この子どものように、自分は役に立たない、問題外の存在なのだ、と知る者になりなさい。そうでなければ、天の国には入れません、と仰ったのです。

自分は、何の役にも立たない、問題外の存在である。だから、神様に、依りすがる他ない。

そのように捉えている者。そういう者が、天の国で一番偉いのだ、と仰ったのです。

そのことは、5節の御言葉を見ても、分かります。「わたしの名のために、このような一人の子供を、受け入れる者は」、と主イエスは言われました。

「わたしの名のために」と言われたのです。他の理由ではありません。

役に立たない、ただ手が掛るだけの者を、受け入れる。それは、容易いことではありません。主イエスの名のために、受け入れるのでなければ、出来ないことです。

このことから分かることは、この小さな、役に立たない存在が、主イエスによって、本当に大切にされている、ということです。

世間から見れば、役に立たない、ただ手が掛るだけのように見える存在が、主イエスにとっては、本当に大切な者なのだ、ということです。

ここで、「偉い」、と訳された言葉は、もともとは、「大きい」という意味です。

メガストアーとか、メガバイトとか、メガトンなど、大きいことを言い表す時に使われる、「メガ」という言葉です。

大きい存在と聞いて、私たちが、一般的に思い浮かべるのは、有力な人です。

力があって、無視できない存在。そういう人が、普通は、大きい存在と言われます。

でも主イエスが、天の国で大きい存在、と仰る時、それとは少し違います。

それは、天の国で、大切にされている人のことです。

言い換えれば、それは、主イエスによって、大切にされている人のことです。

なぜなら、天の国とは、主イエスの、ご支配の中にある場所、だからです。

ですから、天の国で、誰が一番偉いですかという問いは、天の国で一番大切にされているのは誰ですか、という問いなのです。主イエスによって、一番大切にされているのは誰か。

その問いに対して、主イエスが、お答えになりました。それは、子どものような人です。

役に立たず、ただ手が掛るだけの存在。自分をそのような者だと、知っている人が、天の国で、一番大切にされるのだ、と主イエスは仰いました。

なぜなら、そのような人は、主イエスに対する信頼が、一番大きいからです。

自分は、役に立たない人間だからこそ、主イエスに信頼する。そういう人だからです。

子どもは親を信頼し、親に依存します。

そのように主イエスに信頼し、主イエスに依存する者が、天の国で一番偉いのだ、と主イエスは仰ったのです。

そういう人は、人間の目から見れば、小さい存在であるかも知れません。

ですから、6節で、主イエスはそのような人たちを、「私を信じる、これらの小さな者の一人」と言っておられます。

この「小さい」という言葉は、原語では「ミクロス」という言葉です。「ミクロの世界」、という言葉がありますが、そのミクロです。

そういう小さい者を、躓かせることが、どれ程、主イエスにとって、悲しいことであるか。

「私を信じる、これらの小さな者の一人を、つまずかせる者は、大きな石臼を、首に懸けられて、深い海に沈められる方が、ましである」。主イエスは、そう仰いました。

ミクロと呼ばれるほどに、小さい者を、躓かせる者は、地獄に落ちた方が良い、とさえ仰るのです。これは激しい言葉です。

それ程の激しさをもって、主イエスは、小さい者の信仰を、守ろうとされておられるのです。

この教会と、深いつながりを持つ恵泉幼稚園が、年に数回、「めぐみ」という、保護者向けの雑誌を発行しています。

私は、その巻頭言を書かせていただいていますが、今年の春先に発行された「めぐみ」に、このような文章を、書かせていただきました。

『間もなく恵泉幼稚園の卒園式が行われます。私は、いつも卒園式を脇の方から、そっと見ては、大きな感動を覚えています。

あんなに幼かった、三歳児の子どもたちが、園での生活を通して、見違えるように、しっかりして巣立っていきます。

ここまで育てられた、ご両親や、先生方のご苦労を思うと、目頭が熱くなります。

卒園児を送り出す、先生方の思いは、皆一緒だろうと思います。それは、「この幼稚園で教わったことを、忘れないでね」、という思いです。

子どもたちは、この幼稚園で、神様にお祈りすること、家族を愛し、お友だちを愛することを、学びました。また自然を愛する心を、育てられました。

先生方は、どうかそのことを忘れないでね、と切に願うのです。

何故なら、この先、子どもたちが、歩んで行く世界の厳しさを、十分に知っているからです。

それは、神様なんかいないよ、という世界です。

人を愛することよりも、ずるをしてでも、得をしよう、という世界です。

自然よりも、経済が優先される世界です。お祈りなんかしていると、何やってるの、と馬鹿にされる世界です。そういう厳しい社会に、幼い子どもたちが、出て行くのです。

そして、本当に悲しいことですが、そういう中で、神様を信じることや、人を愛することを忘れてしまう、ということが起こるのです。

大人になるに従って、そんなことでは、この世は生きられない、と思うようになっていく人が多いのです。

でも、そうなるかも知れないと思いつつも、尚も、ここで学んだことを、忘れないで欲しい、と願うのです。これは、幼稚園で働く、すべての方の願いだと思います。』

このように書かせていただきました。

神様を信じること、人を愛することを忘れないで欲しい。躓かないでもらいたい。信じ続けて行ってもらいたい。

卒園式の時に、先生方は、心からそう願われていると思います。

そして、実はこれは、主イエスのお心なのです。

主イエスは、これらの小さい者の一人が、躓かれるのを悲しまれます。

小さい者は躓き易いのです。未熟な信仰しか持たない者は、迷い易いのです。

ちょっとしたことで、信仰から離れそうになってしまう。そういう者を、私の名のために、受け入れなさい、と主イエスは仰っているのです。

さて、先ほど、「子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ」、という主イエスのお答えの意味を、弟子たちは、恐らく分からなかっただろうと、申しました。

でも弟子たちは、最後まで、そのことが、分からなかったのではありません。

それが分かった時が、あったのです。それは、主イエスが、十字架に付けられた時です。

私は、死んでも、あなたについていきます、と豪語したにも拘らず、恐ろしさのあまり、主イエスを見捨てて、逃げてしまった時です。

そして、自分のあまりの情けなさに、男泣きに泣いた時です。

その時に、初めて分かったのです。主イエスの仰った、あの「子どものような者」とは、実は、この自分のことだったのだ。

手が掛るだけで、役に立たない人間。それは、この私のことだったのだ。

そして、そういう自分が、主イエスによって、守られて、育てられて、ここまで来たのだ。

天国で一番大切にされる、小さな者とは、他の誰のことでもない、この自分のことだったのだ。そのことが、本当に分かったのです。

信仰の未熟な弟子たちが、躓かないように、信仰から離れてしまわないようにと、祈ってくださったのは、主イエスです。守り、導いてくださったのは、主イエスです。

そして、天の国では、他でもない、信仰の小さな、あなたこそが、一番大切なのだよ、と言ってくださったのは、主イエスです。

弟子たちは、今朝の箇所で語られた、主イエスの御言葉は、すべてこの自分のための、お言葉だったのだ、ということを、後になって、知ったのです。

彼らは、自分こそが、子どものような、小さな存在であることを、その時初めて知ったのです。自分が躓き易い者であることを、知ったのです。

だからこそ、主イエスの恵みの中で、大切にされ、守られて来たのだ、と知ったのです。

自分は役に立たず、手が掛るだけの存在であると知った者を、主イエスは大切に守り、育ててくださいます。

たとえ人の目には、役に立たず、手が掛るだけの存在と、映ったとしても、私の目にはあなたは高価で尊い、と言ってくださいます。

そのことを教えてくれるエピソードがあります。

医師ルーミスのところに、弱々しい、初産の女性が来ました。分娩のとき出てきた子は、女の子で、片方の足が欠けている子でした。

医師は、とっさにこの弱い母親と、この子の将来を思って、2、3分の間、産道からその子を引き出すのを、遅らせて、胎児の息の根が消え入るのを、待とうと思いました。

その方が、この母と、この子のためになる、と思ったからです。

ところが、そのとき、胎児の、健全な方の小さな足が、ルーミスの手を、ぐっと押したのです。そのはずみに、ルーミスは、自分の考えた通りに出来なくて、その赤ん坊を、憐れな一本足のまま、分娩させてしまいました。

それから17年の歳月が流れ、ルーミスの病院では、例年の如く、クリスマスの祝会が行なわれました。看護師たちは、手に手にローソクの灯を掲げて、「聖しこの夜」を歌いました。

その舞台の端で、一人の娘が、オルガンに合せて、ハープを静かに、奏でていました。

ハープが大好きだったルーミスは、その曲を、涙を流して、聞いていました。

その時、彼の傍に、中年の上品な婦人が近づき、そっとささやいたのです。

「先生、あの子をご覧になっておられましたね。17年前、先生に取り上げていただいた、片足で生まれた女の子です。義足をつけていますが、前向きです。水泳も、ダンスもできます。あの娘は、私の生命です!」

老医師ルーミスは、若いハーピストを抱きしめて、言いました。

「今晩が私にとって、どんな深い意味をもたらしたか、私以外には誰もわかりません。

もう一度 「聖しこの夜」を、私にだけ聞かせて下さい。私の肩には誰も知らない重荷が、かかっていました。それを取り除けてくれるのは、あなただけです」。

実際にあったこの話は、役に立たない、手が掛るだけだと思われた存在が、実は天の国で最も偉い存在であることを、私たちに語っています。

なぜなら、この片足の女の子は、老医師ルーミスに、最も大切なことを教え、ルーミスの長年の重荷を、取り除いてくれたからです。

「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。

今朝、子ども祝福の祈りにおいて、私たちは、この主イエスの御言葉の意味を、改めて味わい、その恵みの中に、生かされていることを、心から感謝したいと思います。