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過去の礼拝説教

「星のように輝いて生きる」

2014年12月31日 聖書:フィリピの信徒への手紙 2:12~18

先ほど、在川姉妹に読んで頂きました、フィリピの信徒への手紙 2:12~18には、私たちの信仰生活の目標が、語られています。パウロは、愛するフィリピの教会の人たちに、語りかけています。あなた方の、信仰生活の目標は何ですか。あなた方は、何を目指して、信仰生活を、送っているのですか。

このパウロの問いは、私たちに対する問いでもあります。愛する茅ケ崎恵泉教会の兄弟姉妹。皆さんの、信仰生活の目標は何でしょうか。皆さんは、何を目指して、信仰生活を、送っておられるのでしょうか。

この問いに対する答えを、パウロは12節で記しています。あなた方の信仰生活の目標。

それは、自分の救いを、達成することではないか。自らの救いを、全うすることではないか。

だから、恐れおののいて、その目標のために、努めなさいと、パウロは言っているのです。

私たちの、信仰生活の目標は、ただ一つです。それは、自分の救いを達成する、ということです。自らの救いを、全うすることです。それに尽きると思います。

勿論、私たちの救いは、十字架における、主イエスの贖いによって、成し遂げられています。しかし、私たちのために用意された、この尊い救いを、私たちは、本当に、自分のものに、しているでしょうか。

この救いの恵みに、生かされて、心からの感謝と、喜びの日々を、送っているでしょうか。

ここで、そのことが、問われています。

パウロは、2章の初めで、教会の一致について、語っていました。

フィリピの教会は、パウロが誇りとしていた教会でした。福音信仰にしっかりと立ち、愛と慰めに満ちた教会でした。しかし、そのような教会であっても、教会の一致が、危うくなるような、問題があったのです。

ですから、パウロは、2章の前半で、教会の一致を、熱い思いをもって、呼び掛けています。

フィリピの教会の人たちよ、どうか、へりくだって、お互いに敬い合いなさい。キリスト・イエスの心を、自分の心としなさい。キリストは、どこまでも、父なる神様に従順でした。死に至るまで、しかも、十字架の死に至るまで、従順でした。だから、父なる神様は、キリストを、最も高い所に、引き上げられたのです。

あなた方も、そのキリストに倣って、いつも、神様に従順でいなさい。そうすれば、神様は、あなた方を、救いの高嶺へと、引き上げてくださる。あなた方は救いを、全うすることができる。

そして、もし誰もが、自分の救いの達成を、本当に真剣に願い求めていくなら、教会に、問題など起こらない筈だ。だから、いつも従順で、自分の救いの達成に、ひたすらに努めなさい。パウロは、そう言っているのです。このパウロの言葉は、真実だと思います。

教会の中の色々な問題。教会員同士の、交わりのほころび。更には教会分裂の恐れ。なぜ、それらの問題が、起こるのでしょうか。もう私は、自分の救いという課題は、クリアーした。自分自身の救いは達成した。そのような傲慢な思いから、発生する場合が、多いのではないかと思います。

皆さん、教会に来始めた当初を、想い起してください。その頃は、自分の救いの問題で、心がいっぱいだったと思います。何とかして救われたい。そういう、切なる思いを持って、教会に来たと思います。

ですから、他の人が、どんな信仰生活を、送っているか。あの人とこの人と、どっちが信仰深いか。そんな事には、関心はなかったと思います。

パウロは、その時の初心に帰りなさい。もっともっと、自分自身の、救いの問題に、目を向けなさい。そうしたら、人を批判する、などという事は、なくなる筈だ。そう言っているのです。

教会の中の、色々な問題は、教会員一人一人が、初心に帰って、自分自身の救いの達成に、もっと真剣に、目を向けていくなら、恐らくその殆どは、解決してしまうと思います。ですから、私たちは、自らの救いを全うすることを、もっともっと真剣に、願い求めなければならないと思います。

しかし、問題は、私たちが、そのような願いを持ったとしても、なかなかその願いを、実行できない、ということです。徹底した従順に生きて、ただひたすらに、自らの救いを全うすることだけを、願ったとしても、私たちには、その願いを、実行していく力がないのです。けれども、御言葉は、神様は、それを行なう力をも、与えてくださる、と言っています。確かに、あなた方の中には、それを行う力はないだろう。だから、私が、その力をも与えよう。神様は、そう言ってくださっているのです。なぜ、神様は、そこまでしてくださるのでしょうか。それは、私たちが、自らの救いを、全うすること。それが、まさしく、神様の御心だからです。

そのことが13節で語られています。「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

この御言葉は、以前の口語訳聖書では、このように訳されていました。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。

御言葉は、神様が、私たちの内に働かれて、その願いを起こさせてくださり、更にそれを実行する力さえも、与えてくださる、と言っています。自分の力に頼るのではなく、どこまでも、神様に信頼し、神様に願いなさい。あなた方の内に働いて、願いを起こさせてくださるのは、神様なのだ。そして、その願いを実現されるのも、神様なのだ。パウロは、そう言っているのです。

実は、この13節の御言葉は、私が献身の志を与えられて、神学校に入学しようと、決心した時、恩師の島隆三先生から、贈られた言葉です。私は、献身を決心したことを、島先生に、電話で伝えました。

ビッグ・リアクションをもって、喜んでくださるかな、と秘かに期待していました。でもその時はただ、「そうですか。遂に決心されましたか」、と静かに言われただけでした。しかし、数日後に、葉書が届きました。そして、その葉書に、口語訳の2章13節が、書かれていたのです。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。そして、その下に、「この御言葉を信じ、御手に貴兄を委ねます」、と書いてありました。それ以来、この御言葉は、私の支えとなっています。

このような、欠けだらけの、貧しい器であるにも拘わらず、主が願いを起こさせ、かつ実現に至らしめてくださった。だから、主は、必ず、それに必要な力を与えてくださり、最善を為してくださるに違いない。

行き詰まりを感じた時にも、この信頼と希望が、いつも私の支えとなっています。

14節では、神様に対する従順が、具体的に、教えられています。その第一は、「何事も、不平や理屈を言わずに、行なう」ことです。以前の口語訳聖書では、「つぶやかず、疑わないでしなさい」、と訳されていました。「不平を言う」とか、「つぶやく」と、訳されていますが、この言葉の、原語のギリシア語は、大変面白い言葉です。「ゴングスモス」という言葉です。これは、日本語の、「ぶつぶつ言う」という言葉に、似ています。音から取られた言葉です。ギリシアの人たちは、「ぶつぶつ」言うのではなくて、「ゴングスモス、ゴングスモス」、と言ったようです。そして、その音が、そのまま言葉になったのです。

私たちは、直ぐに、不平や不満を言います。直ぐに、「ゴングスモス」と言います。何が不平で、何が不満なのでしょうか。自分の思い通りに、いかないからです。もっとはっきり言えば、神様が与えてくださっているものに、満足していないからです。神様が与えてくださる、恵みに対してすら、不満だからです。

イスラエルの民が、モーセに率いられて、エジプトを脱出して、荒野を旅した時も、不平の連続でした。ある時は、食べ物がなくなり、飢え死にしそうになりました。モーセが神様に祈ると、神様は、天から、マナというパンを降らせて、イスラエルの民を、飢え死にから、救ってくださいました。

人々は、そのマナによって養われて、40年に亘る荒野の旅を、続けることができたのです。

マナが与えられた時、イスラエルの人々は、この素晴らしい恵みに、心から感謝して、主の御名を讃えました。ところが、暫くすると、毎日毎日、マナしかないことに、不平を言い出します。

「どこを見回してもマナばかりで、何もない」。そう言い出したのです。

マナは、天から与えられた、恵みそのものでした。しかし、その恵みに慣れてしまうと、恵みにさえ、不平を言い出したのです。「どこを見回しても、マナばかりで、何もない」。これは、言い換えれば、「どこを見回しても、恵みばかりで、何もない」と、不平を言っているようなものです。

これは、私たちの姿でもあります。私たちも、神様の恵みに、慣れ過ぎてしまって、感謝することが少なくなっています。そして、足らないことばかりに目を向けて、不平・不満を言います。本当に呟きの民、「ゴングスモス」の民です。

「不平や理屈を言わず」とありますが、これは、神様に、一切問い掛けてはいけない、という意味ではありません。問い掛けることもせずに、ただ盲目的に従え、と言っているのではありません。

私たちは、理解できない不幸や、苦難に出会った時は、「主よ、何故ですか」と、問い掛けてよいのです。祈りを通しての問い掛けは、つぶやきとは違います。祈りを通しての問い掛けは、信仰の歩みにおける、真剣な戦いです。神様に信頼しているからこそ、祈りをもって、問い掛けて、答えを求めるのです。

あの時、イスラエルの民も、呟くのではなく、祈ればよかったのです。心の中にある願いを、はっきりと、祈ればよかったのです。「主よ、何故なのですか。主よ、助けてください」と、祈ればよかったのです。神様は、必ず応えてくださいます。

神様は、私たちを、愛の対象として造られました。ですから、無意味に、私たちを苦しめることは、なされない筈です。今は、苦しみの意味が、分からなくても、いつか必ず、分からせてくださいます。

そして、このように、私たちが、神様の愛を信じ、神様に委ねて、祈っていくなら、私たちは、よこしまな曲がった世にあって、星のように輝くのだ、と御言葉は語っています。

ここで、大切なことは、「輝くことが出来る、或いは、輝きなさい」と言っているのではなくて、すでに「輝いている」、と言われていることです。あなたは今、既に、星のように輝いているのだ、と御言葉は言っているのです。それは、その人が、偉いからではありません。立派だからでもありません。

この星は、自分自身に、光の源があるのではありません。そうではなく、その人の中に納められた、命の言葉の光が、外側に輝き出ているのです。欠けた土の器の破れ目から、中に納められた、命の言葉の光が、洩れて輝いているのです。

御言葉は、そのように生きるなら、とがめられるところのない、清い者となり、非の打ちどころのない、神の子となる、と言っています。このような言葉は、私たちを、当惑させます。一体、これは、どういう意味なのでしょうか。私たちが、完全な者、完璧な者に、なるということでしょうか。そうではないと思います。

父なる神様は、子としてくださった、私たちに、何を望まれているでしょうか。

世の親のことを考えてください。親は、幼い自分の子が、完璧となることを、望むでしょうか。

親が望むことは、自分の子が、完全、完璧に、なることではありません。大体、完全、完璧な子などは、もともといません。親が幼な子に望むのは、むしろ、素直に、親の言うことに、従ってくれる子、ではないでしょうか。失敗しても良い、出来なくても良い。素直に、一生懸命に、親の言うことに従おうとする子。

そのような子を、親は望むと思います。

そのように、従っていく姿勢において、とがめられるところがなく、非の打ちどころのない者。御言葉は、私たちに、そのような者となりなさい、と言っているのです。

そういう子として生きていく時、私たちは、星のように輝いて、生きることが、できるのです。星の光は、決して大きくありません。夜道を照らすような、大きな光ではありません。欠けた器の、破れ目から、洩れる光です。ですから、それは、小さな、弱い光です。でも、そんな小さな光でも、遠くにあって輝く、希望の光と、なることができます。暗闇の中にいる人に、希望を、指し示す、小さな光となることが、できます。

もし、私たちが、キリストを証しする、小さな明かりと、なることができたら、どんなに幸いなことでしょうか。パウロは言っています。もし、フィリピの教会の人たちが、このように、輝く星になってくれたなら、自分が今まで苦労してきたことが、空しくなることはない。むしろ、神様の前で、誇りをもって、それを、報告することが出来る。パウロは、これまでの自分の人生を振り返って、激しい戦いと、厳しい労苦の連続であった生涯が、決して無駄ではなった、と言っています。

確かに、パウロの生涯は、激しい戦いの連続でした。厳しい迫害に遭って、命の危険に晒されたことも度々ありました。そして、晩年を迎えた今、この手紙を、牢屋の中で書いています。いつ死刑になるか分からない。そんな状況にあります。労苦したけれども、最後は、輝かしい栄誉を与えられた、というのなら納得するでしょう。しかし、命懸けの労苦を献げた結果、今、牢屋に入れられ、死刑の執行を待っているのです。普通なら、誰しもががっかりしてしまう所です。一体、自分の人生は何だったのだろうか。

すべての努力も、すべての苦労も、無駄だったのではないか。そう思っても当然のような状況です。

しかし、 パウロは、自分の流した、すべての汗も、すべての涙も、神様が、最後の時に、価値あるものとしてくださることを、確信していました。

パウロだけではありません。キリスト者の生涯には、最終的には、敗北はないのです。今はただ、空しく思えるような、労苦であっても、主にあっては、決して無駄になることはないのです。そのことを信じて、歩み続けて行きたいと思います。

そして、パウロは、もし、フィリピの教会の人たちが、そのような信仰生活を送るなら、彼らが献げる礼拝のために、自分の血が注がれることになっても、私は喜ぶ、と言っています。

彼らの信仰生活のためなら、たとえ、自分の命を差し出しても、悔いはない、と言っているのです。

牢獄にあって、いつ死刑が執行されるか、分からない。そんな状況にあっても、パウロは、尚も、喜ぶと言っているのです。自分の労苦が、フィリピの教会の信徒たちの、信仰の実りとなるなら、私は喜ぶと言っているのです。そして、あなた方も、ともに喜びなさい、と言っています。私の喜びに、加わって欲しいと言っているのです。主イエスが、私の救いのために、命を献げてくださった。その主イエスのために、自分が命を献げることが出来るなら、それは、喜びだというのです。

明治・大正期にかけて、日本のホーリネス運動を指導した、笹尾鉄三郎という牧師がいます。

私が卒業した、東京聖書学校の前身である、柏木聖書学院の、初代院長を務めた人です。

この人が、最後に欧米を旅行した時、行く先々で、このような説教をしました。

「日本にキリスト教が根付かないのは、そして日本にリバイバルが起きないのは、日本人の精神の底岩が砕かれないからだ。そして、なぜ底岩が砕かれないかというと、殉教者が出ないからだ。だから、もし、将来、この笹尾が殉教したと聞かれたなら喜んでください」。

この説教をした後、笹尾鉄三郎は日本に帰国し、間もなく健康を害して病に伏せます。そして、「リバイバルを、日本にリバイバルを」と言いつつ、召されていったと、伝えられています。笹尾は、殉教した訳ではありません。しかし、その心においては、パウロと同じ思いを持っていたと思います。

私たちの教会は、そのような信仰の先輩たちの、熱い宣教への思いによって、立てられ、守られ、導かれてきたのです。その先輩たちの切なる願いは、教会が、そして教会に繋がる一人ひとりの信徒が、曲がったこの世にあって、星のように生きることです。

そうであるなら、どんなに小さな、弱い光であっても、キリストを指し示す光として、精一杯輝いていきたいと思います。よこしまで、曲がったこの世にあって、星のように輝いて、生きていきたいと思います。

その願いを抱きつつ、来るべき年も、共に信仰の馳せ場を、歩んでまいりましょう。