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過去の礼拝説教

「飼い葉桶いっぱいの愛」

2014年12月28日 聖書:-

2014年12月24日 クリスマスイブ賛美礼拝メッセージ

皆さん、クリスマスおめでとうございます。皆さんとご一緒に、主イエスのご降誕を、お祝いできることを、心から感謝いたします。私たちのような罪深い者を、神の子としてくださるために、神の子が、私たちと同じ人間になられた出来事、それがクリスマスです。今朝、私たちは、その測り知ることのできない恵みを、共に喜び、心からの賛美を、主にささげたいと思います。

ところで、皆さんの中には、ペットを飼っている方が、おられると思います。中には、生まれて間もない、子犬や、子猫、或いはハムスターのような、小さな動物を飼っている人もいるかもしれません。

ある動物園の園長さんが、子どもたちに、こんなことを言っていました。

「子犬や、子猫や、ハムスターのような、小さなペットを抱く時は、座って抱きなさい。小さな動物を、立ったまま抱くと、ちょうどみんなが、高いビルの上に立っているのと同じように、とても怖がります。だから、できるだけ、動物と同じ高さに、なってあげようね」。本当にそうだなぁ、と思いました。

相手の高さに合わせる。相手と同じ所に立つ。それが、愛するということの、第一歩だと思います。

愛という漢字を思い出してください。愛という漢字は、「受ける」という字の真ん中に、「心」が入っています。愛するということは、相手を、心から受け入れる、ということです。相手を受け入れて、同じ立場に立つことです。主イエスは、私たち人間を、心から愛してくださっています。ですから、私たちを、心から受け入れてくださり、私たちと同じ立場に立ってくださいました。天から下って来て、私たち人間と、同じ姿を取ってくださったのです。クリスマスは、主イエスが、神様であるのに、この世に、人間となって来てくださったことを、お祝いする日です。

先ほど読んでいただきました、フィリピの信徒への手紙 2:5~11には、そのことが書かれています。主イエスの、どういう思いによって、クリスマスの出来事が起こったのか。そのことが書かれています。

台湾に伝わっている昔話に、このような物語があります。その昔、台湾では、人柱という恐ろしい習慣がありました。海や河が荒れた時、海の神様や、川の神様を宥めるために、結婚前の若い女性を縛って、箱に詰めて沈めるのです。若い女性を献げることによって、海や河の神様が怒りを鎮めて、災いが収まると、人々は信じていました。

名君として知られたある王は、この人柱という悪い習慣を、何とか止めさせたいと願いました。心やさしい王様は、必死になって、民衆を説得しようと努力しました。しかし、民衆は、そんなことをしたら、神様が怒って、もっと大きな災いを下すから、この人柱の犠牲は絶対に必要だ、止める訳にはいかない。そう言って聞き入れません。王様は、大変悲しみました。

そんな時、また嵐がやってきました。人々はいつものように、人柱を用意して、王様の許可を求めました。

王様は、仕方なく許可しましたが、その後で王宮に閉じ篭ってしまい、人柱を沈める儀式には出席しませんでした。やがて嵐が収まり、人々は沈めた人柱を引き上げ、箱の蓋を開けて、びっくりしました。

何と、箱の中には、王様の死体があったのです。王様は、この悪習を止めさせるために、自らが犠牲になったのです。人々は、この王様の、命懸けの思いを、深く心に留めて、その後は、人柱を沈めるという、悪い習慣を廃止したそうです。一人の若い女性の、命を救うために、そして、人々に命の大切さを教えるために、王様が自らの命を献げた。何とも悲しい、しかし、深く考えさせられる物語です。

もし、これが本当にあったことであるなら、この王様は、素晴らしい愛の人だと思います。しかし、どうやらこれは伝説で、史実としては確認出来ないようです。

今日の聖書の箇所に書かれていることは、この話と少し似ています。しかし、よく読んでみますと、とても比較にならないような、大きなことが語られています。

5節に、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」、と書かれています。ここにある「このこと」とは、何のことでしょうか。それは、この箇所の直前に、書かれているように、徹底したへりくだりに生きる、ということです。この手紙の著者のパウロは、そのような徹底したへりくだりは、キリスト・イエスにみられる、と言っています。キリストが、先ずそうされた。キリストが、お手本となってくださった。だから、そのお姿を仰ぎ見て、そのお姿に倣う者となりなさい、と言っているのです。

パウロは、続いて、そのお手本となる、キリストのお姿を、6節以下で、美しい言葉で、言い表しています。

この6節から11節は、初代教会でよく歌われていた、讃美歌であったと言われています。パウロは、教会の人たちに、自分の言いたいことを、よく分かって欲しい、という思いから、ここで讃美歌を引用したのだと思います。あなた方が、いつも歌っている、あの讃美歌を、想い起して欲しい。あの讃美歌に、主イエスのお姿が、主イエスのご生涯が、語り尽されているではないか。そういう思いで、教会の人たちが、慣れ親しんでいる讃美歌を、ここで、引用したのだろうと思います。

前半の6節から8節では、上から下へと降られた、キリストが賛美されています。御子なる神が、天の高みから、この世の只中に、降って来られた。神の独り子である、主イエスが、貧しい大工の子として、飼い葉桶に産まれてくださり、弱い者と共に歩まれ、十字架に死なれた。そのご生涯は、まさに徹底した、へりくだりのお姿であった。そのことが、歌われています。

それに対して9節から11節では、下から上へのキリストが賛美されています。復活された主イエスは、天に帰られ、父なる神の右に座られた。そして、あらゆる名に優る名を与えられ、造られたすべてものによって、礼拝されている。ここでは、栄光に満ちた、主イエスのお姿が、歌われています。

6節に、キリストは、「神の身分でありながら」、と書いてあります。御言葉は、そのことを、「神と等しい者である」、と言い換えて、繰り返して語っています。等しいとは、イコールです。キリストは、神とイコールのお方であったが、それに固執しようとは思わなかった、と書かれています。

固執する、という言葉は、「獲物」とか「略奪品」、という意味から来ている言葉です。獲物を得た動物が、他の動物が近付くと、どんなことがあっても離さないぞ、とばかりに、牙をむいて、獲物を守ろうとする。そんな姿を、言い表す言葉です。キリストは、神とイコールの立場を、どんなことがあっても離さない、などと思われずに、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」、というのです。

一方、私たちはどうでしょうか。私たちは、大した価値も無い、世間体やプライドに固執しています。学歴とか、名誉とか、社会的な地位などに、固執しています。それらに捕らわれ、それらの奴隷となって、自由を失っています。そして、それらを失いそうになると、牙をむいて、守ろうとします。

しかし、キリストは、自ら神の地位を捨てて、最も貧しい、最も惨めな者となられた、というのです。神と等しい立場にも固執されず、自由であられたのです。

これは、私たちが、安っぽい地位や、名誉を捨てるのとは、訳が違います。創造主が、その立場を捨てて、被造物の立場に、立たれたのです。まさに、天と地が、ひっくり返るようなことを、されたのです。

私たちが、取るに足らない、地位や名誉を、捨てることとは、全く違って、桁外れに大きなことをされたのです。レベルが、全く違うことなのです。このように、すべてのものから、完全に自由であるお方は、主イエスただお一人です。

主イエスは、僕の身分になる、ということにおいても、自由であられたのです。第二コリントの8:9の御言葉は、「主は、豊かであられたのに、あなたのために貧しくなられた」、と語っています。主イエスは、貧しくなる自由さえも、持っておられたのです。貧しくなる自由さえも、持っている、ということは、私たち人間には、考えが及ばないことだと思います。そのことを示す、素敵な物語があります。

ある国の王子が、貧しいお百姓さんの娘を、愛しました。王子は、その娘と何とかして結婚したいと思いました。そして、どうしたらその娘と結婚できるか、色々と考えました。兵隊を送って、娘をお城に連れて来ようかと考えました。でも、そうすると、娘を、強引に家族から引き離すことになります。そんな可哀そうなことはできません。では、兵隊ではなく、王子が、自分から出かけて行って、王子の力を見せつけて、娘に結婚を、承諾させようと考えました。でも、それも良くないと思いました。次に、王子は、変装して、百姓の振りをして、娘と親しくなって、結婚の約束をした後で、実は、自分は王子なのだ、と打ち明けて、お城に迎えようと考えました。でも、それも、娘をだますようで、良くないと思いました。

そこで、王子は、王子の身分を、すべて捨てて、本当の百姓になって、百姓の苦労や、辛い仕事を、全部引き受けることにしました。そうすることが、娘への本当の愛だと、気付いたからです。そうやって、王子は、地位も、名誉も、力も、全部投げ捨てて、娘への愛を貫きました。

この物語の王子のように、主イエスは、神としての、身分も力も、すべてを捨てて、私たちと同じ人間となって、私たちへの愛を貫いてくださったのです。

この王子の話は、キリストの愛を表現するために、キルケゴールという人が書いた譬え話です。ですから、本当にあったことではありません。しかし、神様とイコールのお方が、ご自分の自由意志をもって、貧しい人間となられ、最も貧しいお姿で、お産まれになったこと。このことは、事実です。世界で、最も大きな、そして最も大切な、出来事です。

一番高いところから、一番低いところまで、キリストは降られました。主イエスが、家畜小屋の飼い葉桶で、お産まれになったことは、そのことを表しています。飼い葉桶とは、牛やロバの、餌を入れるものです。

ですから、牛やロバの、よだれなんかも、付いていたと思います。そのように、主イエスは、貧しい、小さな赤ちゃんとして、生まれてくださいました。ですから、誰もが、恐れずに、恥ずかしがらずに、主イエスに、近づくことができるのです。もし、主イエスが、立派な宮殿に生まれたら、貧しい羊飼いたちは、主イエスに会いに行くことはできなかったでしょう。

でも主イエスは、一番弱く、一番小さく、一番貧しい者に、なってくださいました。私たちすべての者の心に、住むことができるほどに、小さく、小さくなってくださいました。私たちの心を、受け入れてくださるためです。私たちを愛してくださるためです。私たちを愛してくださって、そのまま、ありのままの私たちを、受け入れてくださるために、私たちと、全く同じ人間となってくださいました。ですから、主イエスは、私たち人間の苦しみや、悲しみや、悩みのすべてを、分かってくださるのです。

「人間と同じ者になられました」、と書かれていますが、この「人間」という言葉は、原語では、複数形です。「人間たちと同じようになられた」、と言っているのです。人間にも、色々な人がいます。色々な立場の人、色々な考えの人がいます。それらすべての人と、同じようになられたのです。あなたとも、あなたとも、そしてあなたとも、同じようになられたのです。すべての人を救うために、すべての人を贖うために、すべての人と、同じになられたのです。

そのように、すべての人と同じようになるためには、一番低いところに立つしかないのです。自分は高いところに立っていて、低い所にいる人と、同じようにはなれません。ですから、一番低いところ、家畜小屋の飼い葉桶に、お生まれになったのです。

そして、主イエスは、死に至るまで、その生き方を、貫き通されたのです。8節の御言葉は語ります。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

キリストが死なれた十字架刑は、最悪の罪を犯した、死刑囚に対するものです。多くの場合は、ローマに反逆した奴隷を、死刑にする時の方法でした。十字架刑は、ローマの市民権を、持っている者には、課されませんでした、あまりに残酷で、むごたらしい0刑だったからです。そのように、人間扱いされないような、人に対する、死刑の方法であったのです。

飼い葉桶で産まれ、十字架で死なれた、ということは、主イエスが、徹底的に、最も低い所まで降りられた、ということを示しています。主イエスは、人として最も低いところに立たれ、人としてのあらゆる苦しみ、悲しみをご自身で味わわれました。だからこそ、私たちは、どんなに大きな苦しみの中でも、どんなに大きな悲しみの中でも、主イエスが、共に居てくださることを、信じることが出来るのです。また、自分が、どんなに最低な人間であっても、それでも救われる、ということを信じることができるのです。

それが、飼い葉桶に生まれ、十字架に死なれた、主イエスのご生涯の、意味なのです。

そのように、人間の底の底まで、へりくだられた主イエスを、神様は、ご自分と同じ位置にまで、高く引き上げられ、宇宙の中で、最高の名を与えられた、と御言葉は語っています。全世界、全宇宙の主、という名を与えられたのです。

「イエス・キリストは主である」。これは、初代教会の合言葉でした。教会の人々は、これを挨拶替わりに、口にしていたのです。イエス・キリストが主であるとは、主イエスが、私の主人であるということです。

二千年前、ユダヤにイエスという偉大な人がいた。そのイエスの教えは、人生を導く指針として素晴らしい。もし、私たちが、主イエスを、そのように捉えているならば、私たちは、キリスト者とは言えません。

その、イエス・キリストは、私の罪を贖うために、十字架に死んでくださり、復活してくださり、今も生きておられる神である。そのイエス・キリストを、私の主人とする。主人とするからには、その主人に、自分の生きるも死ぬも、委ね切って生きていきます。そのように告白するのが、キリスト者です。

「better は best の敵」という言葉があります。どんなに大切な仕事であっても、どんなに素晴らしい地位や、名誉であっても、どんなに優れた思想や、主義・主張であっても、それが、キリストよりも大切になってしまっては、それはキリストの敵となってしまいます。キリストが、Bestではなく、Betterとなっているなら、それは「イエスは主です」、という信仰から逸れています。「イエスは主です」、と告白するということは、どんな時にも、主イエスをBest としていく、ということなのです。イエス・キリストは主である、という言葉は、そのような重みをもった、言葉なのです。

そして、私たちは、「イエスは主である」と告白することによって、「父である神をたたえる」のです。「神をたたえる」ことができるのは、私たちに与えられた大きな特権であり、また喜びです。もし、神様が、如何に偉大なお方でも、ただ私たちを責め、裁くだけのお方であったなら、私たちは、神様を恐れることはあっても、褒め称えることは、出来ないと思います。しかし、私たちの神様は、背き続ける私たちのために、最愛の独り子の命さえ、献げてくださったお方なのです。

使徒ヨハネは、「神は愛です」、と言いました。これは、ヨハネが、その長い信仰の歩みの末に、辿り着いた信仰告白です。ヨハネは若い頃は、「雷の子」と呼ばれた、激しい気性の持ち主でした。しかし、晩年は「愛の人」となりました。何故そんなに、変えられたのでしょうか。それは、ヨハネ自身が、繰り返して、主の愛によって、取り扱われたからです。背いても、背いても、尚も、愛をもって応えてくださる、主の愛によって、生かされてきたからです。その主の愛の尊さ、その主の愛の大きさを、身をもって、知らされたからです。

ですから、ヨハネは、晩年には、「神は愛です」と、口癖のように言うようになったのです。それしか、言わなくなったのです。私たちは、このヨハネの告白を、感謝したいと思います。

もし、ヨハネが長い信仰の歩みの末に、「神は裁き主です」、などという告白に達したなら、私たちには希望は無かったでしょう。しかし、ヨハネは心から、「神は愛です」と言っています。それしか言わないほどに、その思いに満たされています。これは何と感謝なことだろうかと思います。

そうなのです。神は愛なのです。私たちの神は、愛なのです。私たちの主は、愛なのです。

天の高みから、最も低い所にまで、降ってきてくださり、飼い葉桶に産まれてくださったお方なのです。

汚れに満ちた、背き続ける、私たちのために、十字架に、命を献げてくださった、お方なのです。そこまでして、私たちの心を受け入れ、愛し続けてくださるお方なのです。

私たちは、その主を、心から褒め称えたいと思います。私のために、飼い葉桶に産まれてくださったお方に、心からの賛美を献げたいと思います。

この後、ご一緒に歌う、ハレルヤコーラスのように、「あなたこそ、王の王、主の主、です。King of Kings、Lord of Lords、です」と、心から歌いたいと思います。