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柏牧師:過去の礼拝説教

「一つとされるために」

2014年12月21日 聖書:フィリピの信徒への手紙 2:1~5

アドベントクランツの、希望のロウソク、平和のロウソクに続いて、今朝は喜びのロウソクに、火が灯されました。そして、いよいよ来週は、愛のロウソクに火を灯し、クリスマスをご一緒に祝います。

この恵みに満ちた時、私たちは、何時にも増して、教会が本当に一つとなって、主のご降誕をお祝いしたいと、願います。勿論、私たちは、いつも、教会が一つとなって、歩めることを願っています。

しかし、主のご降誕を待ち望む、このアドベントの時は、とりわけ、その思いを強く持ちます。

でも、教会が一つとなるということは、実は、それほど簡単なことでは、ありません。そもそも、教会が一つとなるとは、どういうことなのでしょうか。そして、それを実現するために、私たちには、何が求められているのでしょうか。今朝は、そのことを、フィリピの信徒への手紙2:1~5の御言葉から、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが、フィリピの教会に宛てた手紙です。パウロは、フィリピの教会を、我が子のよう愛し、誇りにさえ思っていました。それは、フィリピの教会が、パウロの教えを、しっかりと守って、確かな福音信仰に、生きていたからです。

しかし、そのような教会であっても、全く問題がなかった訳ではありません。4章2節を見ますと、この教会で、指導的な立場にある、二人の女性の間に、争いがあったことが書かれています。そのために、教会が一つとなることが、出来ずにいたのです。だからこそ、パウロは、ここで、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と、切に願っているのです。

「心を合わせて、同じ思いで」、と繰り返して、言っています。それは、そのように生きることが、教会の中においてでさえ、難しいからです。同じ思いになりたい、と思っても、それができないのです。

教会も人間の集まりです。人間の集まりである以上、そこには必ず問題があります。なぜなら、それは、人間が罪を持っているからです。教会といえども、罪人の集まりなのです。

心を合わせて、同じ思いになりたい、と願っても、罪によって、それができないのです。

パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中で、自分が望んでいる、善を行うことができず、望んでいない、悪を行ってしまう現実を見て、悲痛な叫びを上げています。私は、何という惨めな人間なのだろうかと、嘆き、悲しんでいます。しかし、本当に感謝なことに、このどうしようもない罪を、キリストが、十字架において、償ってくださったのです。そして、私たちが、罪に打ち勝つ道を、開いてくださったのです。

ですから、心を合わせて、同じ思いになる、ということは、この罪を担ってくださった、キリスト抜きにしては、出来ないことなのです。同じ思いとなる、ということは、キリストによって罪を償われ、キリストによって救われたことの、喜びと感謝を、私たちすべてが、共有するということなのです。

1節の御言葉は、こう言っています。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」。

この御言葉は、原文では、「もし~があるなら」という言葉が、4回続いて語られています。「もし、キリストによる励ましがあるなら。もし、愛の慰めがあるなら。もし、御霊の交わりがあるなら。もし、慈しみと憐れみがあるなら」と、畳みかけるように、語っているのです。

更に注意深く見てみますと、原文では、「あるなら」、とは書かれていません。ですから、この1節の御言葉は、「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、慈しみと憐れみ」を、あなた方が、「受けているなら」、と読むこともできると思います。あなた方の内に、「あるなら」、というよりは、「もし、受け取っているなら」、と読んでも良いと思います。元々、それらのものは、あなた方の内にはない。でも、あなた方が、もし、それらを、受け取っているなら。そして、もし、それらが、少しでも、あなた方の中に、残っているなら。ここで、パウロは、そう言っているのだと思います。

私たちは、はっきり分かっていることでも、仮定形で言うことがあります。「男ならやってみろ」という時、「お前は男じゃないか」、と強調しているのです。ここでも、「もし、幾らかでもあるならば」という言葉によって、「あなた方は、もう既に受け取っているのだから」、と強調しているのです。

あなた方は、もう既に、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心を、受け取っているではないか。そして、ほんの少しかも知れないけれども、それが残っているではないか。そして、それが、あなた方の信仰生活の、支えとなっているではないか。だから、「心を一つに」することができる筈だ。御言葉は、私たち一人一人に、このように呼び掛けているのです。

ここで、パウロは、私たちが受けている、恵みの第一に、「キリストによる励まし」、を挙げています。

「励まし」と聞きますと、弱っているのに、尚も、「しっかりしなさい、頑張りなさい」と、尻を叩かれているようで、しんどい気になります。しかし、この「励まし」という言葉は、聖書の他の箇所では「慰め」とも訳されている言葉です。むしろ「慰め」と訳される方が、多い言葉です。元々は、弁護する、という意味の言葉です。最後まで、私たちの見方となって、傍らに立って、弁護してくれる人。主イエスとは、そういうお方だというのです。たとえ、他のすべての人が、あなたを見捨てても、最後の最後まで、決して見捨てることなく、あなたの味方になって、弁護してくれるお方。主イエスは、そういう助け主、慰め主なのです。

しかも、このお方は、私たちと一緒に苦しんでくださり、一緒に泣いてくださる弁護士なのです。そして、どのように弁護しても、私たちが死刑を免れない、と知ったとき、何と、私たちの代わりに、死刑になってくださった弁護士なのです。ですから、この主イエスという弁護士による、励ましと慰め。それは、どこから来るかと言いますと、あの十字架から来るのです。私たちの罪を、代わって担ってくださるために、十字架において、極限の苦しみを、負ってくださった主イエス。その十字架の苦しみから、溢れ出る慰め。

その慰めを頂いた者が、今度は、その慰めをもって、互いに慰め合う。それが、教会の本来の姿です。教会は、主イエスから受けた慰めを、お互いに分かち合う群れなのです。

そのような慰めを、主イエスから、ほんの少しでもいただいているなら、あなた方は、心を一つにすることができる筈ですよ、と御言葉は言っているのです。

次に、「愛の慰め」です。ここで言う愛は、父なる神様が、私たちを愛してくださる、アガペーという愛のことです。この神様の愛を、神様ご自身が、預言者エレミヤを通して、こう語っておられます。

エレミヤ書31章3節です。「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」。 この御言葉は、以前の口語訳聖書では、こう訳されていました。

「わたしは限りなき愛をもって、あなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに、真実をつくしてきた」。 とこしえの愛、限りない愛、真実の愛。それが、私たちに対する神様の愛です。

教会において、長く信仰生活を続けていますと、こういう言葉を聞いても、当たり前のことのように思ってしまうことがあります。しかし、今朝、改めて自らに問い掛けたいと思います。果たして私たちは、神様の愛が限りない愛であることを、どこまで本気で信じているでしょうか。どれだけ分かっているでしょうか。

もしあなたが、誰か他の人から、「私は、とこしえの愛、限りない愛、真実の愛をもって、あなたを愛します」、と言われたら、それを信じ切ることができるでしょうか。例えば、妻が夫に対して、そう言ったとします。しかし、夫が、その妻を裏切って、他の女性を愛し、その女性と一緒に暮らしてしまい、家に全く帰って来なくなった。そうなったとしても、その妻が、とこしえの愛、限りない愛、真実の愛をもって、尚も夫を愛し続けることができるでしょうか。恐らく出来ないでしょう。それが、私たち人間の愛です。

でも神様の愛は、そうではない。限りない愛なのだ。そう聞いても、私たちは、当然のように、聞き流しています。神様なんだから、当然だろう。その程度に思っています。

ある英国の牧師が、「あなたの神は小さすぎる」、という本を書いています。その本の中で、その人は、あなたの信じる、神様の愛は小さすぎる。あなたは、神様の愛を、本当に限りないものと信じていない、と言っています。あなたは、神様の愛を、自分の愛と、同じ程度にしか信じていない。だから、いつも不平を言うのだ、と言っているのです。

私たちは、神様を裏切ってばかりいます。それでも、そんな私たちに対して、神様が、真実をもって限りない愛を注いでくださる。これこそがまことの慰めです。そのような愛の慰めを、神様からほんの少しでもいただいているなら、あなた方は、心を一つにすることができる筈ですよ、と御言葉は言っているのです。

次に、聖霊による交わりです。「交わり」という言葉の原語は、「コイノーニア」と言って、元々は「共有する」、という意味です。教会員一人一人が、お互いに、他の教会員の、弱さや、苦しみを共有していく。

苦しみを共有する愛。弱さを担い合う愛。そのような愛に支えられた、交わりのことです。

自分のものではない、他人の苦しみや弱さ。私たちには、それを担う力などありません。このような交わりは、聖霊の力によらなければできません。聖霊に満たされ、聖霊によって生かされていく時に、初めて、そのような交わりが可能となるのです。そして、教会が、そのような交わりに生きることが、主イエスの望みであり、願いなのです。そのような霊の交わりが、ほんの少しでも、なされているなら、あなた方は、心を一つにすることが、できる筈ですよ、と御言葉は言っているのです。

そして、それらに加えて、慈しみと憐れみの心です。ここにある「慈しみ」という言葉は、元々は、人間の「はらわた」を、意味する言葉です。はらわたが痛むような、愛のことです。以前の口語訳聖書は、これを「熱愛」と訳しました。火傷するほどの愛だ、というのです。

私たちは、主イエスから、火傷するほどの愛を、受けているのです。キリスト者とは、主イエスの、火傷するほどの愛によって、生かされている者なのです。腹の底から湧き起ってくるような、熱愛によって生かされている者なのです。

ですから、ここで言っている「憐れみ」というのも、強い者が、弱い者を哀れむ、というようなことではありません。あの人は可哀そうだから、何とかしてやろう、等というようなことではないのです。そうではなくて、私たちが、主イエスの恵みと、神様の愛と、聖霊の交わりに迫られた時に、私たちに心の内に、湧き起こってくる憐みです。腹の底から、湧き起ってくるような、愛です。

私たちは、それぞれ、異なった個性や、考え方を持っています。でも、同じように、この主の愛を、受けた者です。火傷するような、主の熱愛を、受けたことにおいては、皆、同じです。そこに、私たちが、立つべき、共通の基盤があります。そのような主の熱愛が、あなた方の内に、ほんの少しでもあるなら、あなた方は、心を一つにすることができる筈ですよ、と御言葉は言っているのです。

パウロは、フィリピの教会が、そのように心を合わせて、一つとなってくれることによって、自分の喜びが満たされる、と言っています。そして、それは、パウロの喜びを超えて、キリストご自身の喜びとなるのです。逆に、教会が一つでないということは、キリストのお心を、最も悲しませ、キリストに、大きな痛みを与えることになります。教会が一つとなれず、教会の中で争いがある時、キリストのお心が痛みます。

そして、誰よりも、争っている当人同士が、一番苦しみ、辛い思いをします。

内村鑑三の高弟に、塚本虎二という、大変優秀な伝道者がいました。内村も、塚本も、大変個性が強い人物であったので、お互いに惹かれ合い、尊敬し合いながらも、意見が合わず、遂に、塚本は、内村の許を去って行きました。内村は、「もう二度と、塚本の顔を見たくない」、と激しく怒りました。

月日が流れて、内村が、心臓病で重篤となった時、塚本は、急いで見舞いに駆けつけました。しかし、周りの人たちが、内村にショックを与えてはいけないと慮って、会わせませんでした。塚本は失望して帰っていきました。しかし、後になって、友人から、内村の最期の時のことを、聞かされました。

内村は、臨終の床で、何度も、「塚本は来ないのか。あんなに愛していた塚本と、こんなにして、死ぬことはできない」、と言っていたことを、聞いたのです。それを聞いて、塚本の心は、爆発しました。堤防が切れたかのように、声をあげて、男泣きに泣きました。「やっぱり、私の先生だった。初めて先生の気持ちが分かった。私は、悪夢より、復活した」、と叫ぶように言ったのです。

教会が、一つでない時、誰よりも、傷つくのは、教会員です。そして、教会は、主イエスの、御体そのものです。ですから、教会が分裂して、教会員が、苦しむのを見て、主イエスご自身が、身を切られるような痛みを、覚えられるのです。

だからこそ、パウロは言うのです。あなた方の心の内に、主の熱愛が、ほんの少しでもあるなら、あなた方は、心を一つにすることができる筈ではないか。いや、あなた方は、もう既に、その熱愛を、受け取っているのだから、一つになれる筈だ。主イエスのお心を、悲しませるようなことは、しない筈だ。

そして、何事も、利己心や虚栄心から、するのではなく、へりくだって、互いに相手を、自分よりも、優れた者と、考えることができる筈だ。自分のことだけでなく、他人のことにも、注意を払うことができる筈だ。

御言葉は、そのように言って、私たちを励ましているのです。

ここに、「へりくだる」、という言葉あります。ギリシア語には、「へりくだる」、という意味の言葉が、いくつかあります。しかし、ここで使われている言葉は、特別な言葉です。教会で、クリスチャンたちが使うまで、あまり使われなかった言葉です。この言葉の意味は、ただ身を低くして、生意気なことを言わずに、相手を傷つけないようにする、ということではありません。そうではなくて、自分の判断や、自分の考えを、一旦脇に置いて、そして、徹底的に相手の立場に立って、相手の状況で物事を見る、相手の基準で考えてみる、ということです。そうすることによって、相手の優れた点や、それまで見えなかったことが、見えてくるのです。それが、本当の意味での、「へりくだり」である、と言うのです。

そして、そういう「へりくだり」ができるのは、キリスト者だけだ、と言うのです。なぜでしょうか。

誰よりも、そのような「へりくだり」の中で、生きてくださったのが、主イエスだからです。

主イエスは、天の高みから、無限の距離を超えて、この世に来てくださり、この世の最も低い所、家畜小屋の飼い葉桶に、産まれてくださいました。これこそ、究極の「へりくだり」です。このような、「へりくだり」は、愛がなければできません。飼い葉桶には、この愛が、この火傷するほどの熱愛が、溢れています。

ですから、御言葉は、言うのです。この主イエスに見倣いなさい。あなた方には、お手本が与えられているではないか。主イエスというお手本が。そのことを、5節の御言葉は、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」、と言っています。御言葉は、「お手本である、主イエスを見なさい。主イエスの中に、これらのすべてが、完全な形で示されています。だから、主イエスから、目を離さずに、いつも主イエスを見上げて、行きなさい」、と言っているのです。

「それはキリスト・イエスにもみられるものです」。この言葉は、文語訳聖書では、「汝ら、キリスト・イエスの心を、心とせよ」、と訳されていました。主イエスの心を、自分自身の心として歩みなさい、と教えているのです。主イエスの思いを、自分の思いとしなさい、と言っているのです。教会の中で、何か問題に出会った時に、いつも、「主イエスなら、どうされるだろうか」、「主イエスなら、何と言われるだろうか」、と尋ねなさい、というのです。

もし、すべての教会員が、そのような思いでいるなら、どんな問題でも、解決される筈です。

皆が、先ず、主イエスの御心を、尋ね求めていくことにおいて、一つとなっているなら、どんな問題でも解決します。いや、問題すらなくなる筈です。その時、私たちは、皆、主イエスの御心という、同じ方向を見つめているからです。教会員のすべてが、一つの心となり、同じ思いとなるとは、こういうことなのです。

主イエスの御心は、教会の人々が、同じ愛に生かされ、同じ思いとなり、心を合わせて、一つとなることです。主イエスは、私たちすべての者の心が、この主イエスの御心に向かって、一つとなることを、願っておられます。

御言葉は、今も私たちに語りかけています。「汝ら、キリスト・イエスの心を、心とせよ」。