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過去の礼拝説教

「ひたすら前へ」

2015年01月18日 聖書:フィリピの信徒への手紙 3:12~16

星野富弘さんという方がいらっしゃいます。体育の実技指導の際、誤って転落して、首から下の機能を失ってしまいましたが、口に筆をくわえて、美しい絵や、心温まる詩を、創っておられます。その星野富弘さんが、「たんぽぽ」という題の詩を詠まれています。

『いつだったか/きみたちが空をとんで行くのを見たよ/

風に吹かれて/ただ一つのものを持って/旅する姿が/うれしくてならなかったよ/

人間だって どうしても必要なものは/ただ一つ/

私も 余分なものを捨てれば/空がとべるような気がしたよ』

星野富弘さんは、事故で体の自由を失いました。そのため、今まで大切にしてきた、殆どのものを、捨てざるを得ませんでした。

しかし、そのことを通して、ただ一つの必要なものである、イエス・キリストと出会うことができた。そのことを、たんぽぽになぞらえているのです。

先週の箇所で、パウロは、ただ一つの必要なもの、イエス・キリストを得るために、自分は、この世の人たちが、大切だと思っているものを、すべて捨てた。

しかし、キリストを得た恵みの大きさに比べれば、捨て去ったものは、塵あくたのようなものだ、と言っていました。

聖書には、「ただ一つ」、という言葉が、度々出てきます。

たとえば、ヨハネによる福音書9章25節、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

生まれつきの視覚障害者が、主イエスによって、見えるようにして頂いた。

しかし、ユダヤ教の指導者たちは、その癒しが、安息日に行われたのは、律法違反であると言って、主イエスは罪人であると、非難しました。

それに対して、その人が言った言葉です。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

私は、難しい事は分からない。しかし、ただ一つ知っていること、「Only one thing I know」。それは、自分が、あのお方によって、闇から光に移されたということ。その一つのことを、私は確かに知っている。そう言っているのです。

ルカによる福音書にもあります。10章42節です。

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。有名な、マルタとマリアの話です。

必要なことは、ただ一つ、「Only one thing I need」。それは、いつも、主を第一とすること。

それ以外は、すべて主が、与えてくださるのです。
更に、今朝の御言葉、フィリピの信徒への手紙3章13節にもありました。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・」。

なすべき、ただ一つのこと、「Only one thing I do」。

それは、ひたすらに、前へ向かって走ること。ただそれだけだ、というのです。

今、紹介させていただいた、三つの言葉は、英語で言えば、最後の動詞が変わるだけです。ただ一つのことを知っている、Only one thing I know。

ただ一つのことを必要としている、Only one thing I need。

ただ一つのことをする、Only one thing I do。

これら三つの内、今朝は、なすべきただ一つのことについて、フィリピの信徒への手紙3章12節~16節の御言葉から、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

ここで、パウロは、信仰生活を、「目標を目指してひたすら走る」、長距離競争になぞらえています。私は学生時代、マラソンはかなり得意でした。

マラソンでは、一歩一歩が、ゴールに向かっての、前進であることが、励みになります。

マラソンも頑張りましたが、私が最も力を入れたスポーツは、ラグビーです。

ラグビーも同じように、ひたすらに、ゴールに向かって、前進していくスポーツです。

しかし、敵の圧力が強いと、パスをただ横に回すだけで、ちっとも前に進まないことがあります。これは、あまり良い攻撃ではありません。そんなことをしている間に、敵は力を蓄え、態勢を整えて、襲いかかってくるからです。

かつて明治大学ラグビー部に、北島忠治さんという、名物監督がいました。

この北島忠治さんは、とにかく「前へ」、を言い続けた人でした。

人から、色紙に何か一筆、と頼まれると、必ず、「前へ」と書いたそうです。

ですから、当時の明治大学のラグビーは、愚直とも思われるほどに、ただ「前へ」進むことに徹していました。監督に教えられた通り、選手が一丸となって、ただ「前へ」進むラグビーを実践したのです。信仰生活も、これと似ていると思います。信仰生活には、前進か、後退か、のいずれしかありません。ですから、「前へ」が、大切なのです。

パウロは言っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る」ことである。

御言葉は、はっきりと、「なすべきことはただ一つ」、「前へ」、と言っているのです。

それなのに、私たちは、すぐに立ち止まったり、振り返ったり、逆戻りしようとします。

或いは、逃げ出そうとします。しかし、聖書が語っていることは、「前へ」なのです。

しかし、なぜ「前へ」なのでしょう?

それは、マラソンにも、ラグビーにも、そして信仰生活にも、ゴールがあるからです。

そのゴールを目指して進むことが、「前へ」なのです。

そもそも、ゴールがなければ、どちらが前なのかも、分かりません。

ゴールがあるので、ゴールを目指した生き方が、求められてくるのです。

信仰生活にも、全身を向けるべき、目標・ゴールがあります。

そこに向かって、迷わず、ひたすら走って行くべき、ゴールがあります。

そして、それが、はっきりと見えてくることによって、私たちの、「今の生き方」が、決まってくる。そのようなゴールがあります。

更に、御言葉は、ゴールを目指した生き方とは、賞を得ることを目標とした、生き方であると、と語っています。賞を得るために、ひたすら走るのだ、というのです。

それでは、ゴールに飛び込んだ者に、与えられる賞とは、どのようなものなのでしょうか。

世の中の、殆どの人は、この世で成功することや、豊かな暮らしを送ることが、ゴールでの賞であると、考えています。

そして、それを求めて進むことが、「前へ」進むことである、と思っています。

しかし、御言葉は、信仰者にとってのゴールとは、「神がキリスト・イエスによって、上へ召して」くださることである、と言っています。

「上へ」とあります。「上」とは、神がおられるところです。

もっと詳しく言えば、キリストが、神の右に座しておられるところです。

そこが、ゴールだというのです。目指すのは、キリストなのです。そのゴールには、キリストがおられる。

ですから、キリストを目指して走ることが、ゴールを目指して走ることなのです。

キリストを見つめることが、ゴールを見つめることなのです。

そして、そのキリストが、上へと、私たちを召してくださる。ご自分の御許へと、私たちを召してくださる。それが、賞だというのです。

それでは、上へ召してくださると、実際に、どのようなことが、起こるのでしょうか。

その賞の中味とは、何なのでしょうか。

今日の御言葉の、直前の3章10節、11節に、その答えがあります。

それは、キリストと一つとされる、ということです。

キリストにすっぽりと覆い包まれ、キリストの愛に浸り切り、キリストの愛に、溶け込んでしまう。そのように、キリストと一つとされることを、パウロは、切に願っています。

しかし、12節では、その賞を既に得た、とは言っていません。未だ、完全な者とはなっていない、と言っています。未だ、キリストと、完全に、一つとはされていないのです。

しかし、パウロは、それを切に求めています。捕らえようとして、ひたすらに努めています。

「キリストと一つとなる」という賞を得るために、前のものに全身を向けて、ひたすらに走っているのです。

12節でパウロは、私はまだ、その目標を完全に捕えていない。「キリストと一つとなる」という賞を、まだ完全に、自分のものとはしていない、と言っています。

それにも拘らず、15節には、「完全な者はだれでも」、という言葉が出てきます。

ここで、私たちは、戸惑います。15節の「完全な者」とは、どういう人のことなのだろうか。

あの偉大なパウロ先生よりも、もっと優れた信仰者の事を、指すのだろうか、と当惑します。

そんな人がいるとは、思えません。それでは、ここで、パウロが言っている、「完全な者」とは、どのような人のことなのでしょうか。

もし、完全無欠な信仰者であるとか、完璧な人格を備えた人、という意味であるなら、そんな人はいません。

この15節で言う「完全な者」とは、パウロのように、「ひたすら求めることにおいて完全な者」、という意味です。「求める姿勢において完全な者」、という意味です。

そのような意味での、完全な者として、走り続けるなら、ゴールにおいて、その求めているものが、賞として与えられる。

キリストと一つとされるという賞を、得ることができる、というのです。

ですから、目指すのは、やはりキリストなのです。キリストが、ゴールであり、目標であり、賞なのです。

キリストの許で、私たちの競技は、終るのです。安心して、競技を終えることができるのです。私たちにとって、大切なのは、この終わり、ゴールなのです。

そして、どのようなゴール、どのような目標を、目指すかによって、今の私たちの生き方が、決定されます。

今だけではありません。そのことは、私たちの過去にも、決定的な影響を与えます。

カウンセリングで、よく言われる言葉に、「人は変えられないが、自分は変えられる。過去は変えられないが、未来は変えられる」、という言葉があります。

確かに、過ぎ去った過去の事実は、変わりません。変えようがありません。

しかし、ゴールが変ると、過去の意味が変ります。

「キリストによって、上に召される」という、ゴールを得た時に、今まで、「失敗だ、挫折だ、不幸だ」と思っていた、過去の意味が変ってきます。

失敗や、挫折や、苦しみに満ちた、過去の生活が、ただマイナスであるのではなく、今の自分にとって、必要な事であったのだ、と思えるように、変えられていきます。

そして、その時、私たちは、初めて、後ろのもの、過去から解放され、ただ前を見つめる者へと、変えられていくのです。

しかし、実際には、私たちは、後ろのものを、なかなか忘れられません。

忘れられないどころか、後ろのものに、いつも捕われてしまっています。

変えることなどできない、過去の失敗や挫折に縛られて、そこから抜け出すことが出来ずにいるのです。

或いは逆に、麗しい過去や、楽しかった思い出に、いつまでもしがみついて、そこに帰ることばかり、考えてしまうのです。

帰っていく事など、決して出来ない過去に、しがみついたり、捕われて、そこから抜け出せないのです。そのため、私たちは、なかなか前向きになれないのです。

ですから、パウロは、前だけをみて、ひたすらに走ることを、熱心に勧めているのです。

一体パウロは、どうしてこんなに、必死になって、走ることが、できるのでしょうか。

それは、今、自分が、キリスト・イエスに、捕えられているからだ、とパウロは言っています。捕えようとしている自分の方が、実は、先に捕えられている。

その事が、ひたすらに走ることが出来る、根拠だというのです。

復活のキリストが、私たちを、今、しっかりと捕え、支えてくださっている。

進む方向まで決めて、私たちを、掴まえていてくださる。

私たちは、自分の力によってではなく、この掴まえていてくださる、お方の力によって、走ることができるのです。

丁度、パラリンピックで、視覚障害の方たちと、共に走る伴走者のように、方向を示す紐を、しっかりと結んで、キリストが一緒に走っていてくださる。

私たちの信仰の戦いとは、そういうものだ、というのです。

そのことを、別の角度から語っているのが、14節です。

「神が、キリスト・イエスによって、上に召してくださる」、とあります。

「召す」というのは、呼んでくださる、という事です。前に向かって進むのに、一番いいのは、前の方から、呼んでくれることです。

競争においては、走るコースは、予め決まっています。しかし、人生においては、走るコースは、何も決まっていません。少なくとも、私たちには、見えません。

ですから、どれが、まことの幸いに至る道か、私たちには分かりません。

そのような時、もし、ゴールの方から、「おーい、こっちだよ。こっちにいらっしゃい」と、誰かが呼んでくれたなら、どの方角に進めば良いか、すぐに分かります。

私たちの人生のゴールにおられるお方、主イエスは、呼んでくださるお方です。

私たちは、その声を聞きながら、その声に励まされながら、走って行くのです。

それは、頼りがいのある、応援団がいるようなものです。私たちが、走る時、私たちは一人で走るのではありません。応援団に励まされ、応援団に支えられて、走るのです。

しかも、その応援団が、この時には、審判官でもあるのです。

ゴールで、与えられる賞、この賞という言葉は、審判官という言葉と、同じ言葉から出ています。審判官が見て、あなたはよく走った、だから賞をやろう、ということなのです。

ゴールで賞を与えてくれる審判官、それも主イエスです。

その審判官が、ゴールの方向を示してくださり、伴走者として一緒に走ってくださり、励ましてくださり、賞をも与えてくださる。これ以上、力強いことはありません。

このキリストを、このキリストだけを、見つめて、ひたすらに走る。

キリストに捕えられている人生とは、そういうものではないでしょうか。

それこそが、本当の意味で、前向きの人生なのではないでしょうか。

私たちは、今を大切に、生きたいと願います。充実した人生を、送りたいと願います。

しかしそれは、生き甲斐や、人生の意味を尋ねて、右往左往することではありません。

後ろのものを忘れて、安心して、前のものに、全身を向ける、生き方です。

キリスト・イエスにあって、上に召してくださる、神の賞を目指して、それだけを目指して、ひたすらに走る生き方です。

私は、そのように、ひたすらに走った、一人の人を知っています。

エリック・リデルという人です。彼は、1924年にパリで開かれた、オリンピックの英国代表でした。しかも、100メートル競走の金メダル最有力候補でした。

エリック・リデルの父は、中国伝道に一生を捧げた宣教師で、彼も、オリンピックが終ったら、父の後を継いで、中国に亘る決心をしていました。

パリに着いて、予選のスケジュールを見た、エリックは愕然とします。

100メートル競走の予選が、何と日曜日なのです。彼にとって、聖日礼拝を差しおいて、競技に参加することは、考えられないことでした。

彼は、悩み、祈った末、予選出場を辞退することを、オリンピック委員会に通知しました。

英国のオリンピック委員会は、何とかして彼の決意を、変えさせようとして、説得しました。

遂には、皇太子まで担ぎ出して、彼の翻意を促しました。

しかし、彼の決意は変りません。その時、他の競技で、既にメダルを獲得していた人が、400メートルリレーの最終走者を、エリックに譲ると言って来たのです。

そこでエリックは、400メートルリレーに出ることになりました。

エリックが、400メートルリレーの決勝に向おうとしていた時、アメリカの選手で、ジャクソン・シュルツという人が、エリックにそっと、一枚のメモを手渡しました。

そのメモには、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んじる」、と書かれていました。これは、サムエル記上2章30節の御言葉です。

エリックは、この御言葉をしっかり握って、走りました。

バトンを貰った時には、あまり良い順位では、ありませんでしたが、前に向かって、ひたすらに走り、遂に一着でゴールに飛び込みました。

そして、ゴールで待っておられた、主イエスから、金メダルを頂いたのです。

その後、エリック・リデルは、中国に宣教師として渡り、最後は日本軍の収容所で、病気に罹って、殉教しました。

しかし、彼の生き方は、今も多くの人に影響を与え続けています。

彼は、まさに、なすべきただ一つのことに向って、すべてを捨てて、ひたすらに走った人でした。彼の金メダルも、尊いものです。しかし、彼にとっては、キリスト・イエスによって、上に召されたことこそ、かけがえのない賞であったと思います。

愛する兄弟姉妹、私たちも、そのような賞を目指して、ひたすらに走り続けましょう。

ゴールで待っておられる、主イエスを見つめ、主イエスから目を逸らさずに、走り続けましょう。

そして、主イエスが、用意してくださっている、賞に与る喜びを、共に分かち合いましょう。