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柏牧師:過去の礼拝説教

「永遠の命の水」

2015年02月22日 聖書:ヨハネによる福音書 4:1~15

先週で、フィリピの信徒への手紙を、読み終わりまいたので、再び、ヨハネによる福音書に戻って、今朝は、4章1節~15節までの御言葉から、聴いてまいりたいと思います。

今朝の箇所が伝えているのは、主イエスが、一人のサマリア人の女性に出会われたという出来事です。

イスラエルの国というのは、四国よりも少し大きいくらいの広さで、縦に長い国です。

その南の方のユダヤ地方が、政治的にも、文化的にも中心でした。エルサレムも、このユダヤ地方にあります。

そこからずっと北の方の、ガリラヤ湖の西側一帯が、ガリラヤと呼ばれる地域です。

この、ユダヤ地方と、ガリラヤ地方の間に、ちょうど二つの土地を、南北に分断するような形で、もう一つの土地がありました。それがサマリアと呼ばれる土地です。

そして、そこに住んでいる人たちは、サマリア人と呼ばれていました。

このサマリア人と、ユダヤ人との関係は、複雑な歴史的経緯があって、決して平和なものではありませんでした。

平和どころか、今のイスラエルと、パレスチナの関係のような、敵対関係にあったのです。

ユダヤ人は、サマリア人のことを、血統も信仰も純粋ではないと、軽蔑していたのです。

今朝の箇所は、このユダヤ人とサマリア人とが、敵対関係にあったことを、背景として書かれています。

さて、主イエスが、宣教活動を始められると、多くの人々が、主イエスのもとに集まってきました。そのことを妬んだ、ファリサイ派の人たちは、主イエスに敵意を抱きました。

それで、無用の対立を避けるために、主イエスは、ユダヤ地方を去って、再び北のガリラヤへ行かれようとされました。

その時に、「サマリアを通らねばならなかった」、と聖書は言っています。

当時、ユダヤ地方からガリラヤに行くのに、二つの行き方があったと言われています。

一つは、ユダヤ地方から、一旦東に進み、そしてヨルダン川沿いに、ずっと北に北上し、ガリラヤ湖の辺りで西に折れて、ガリラヤ地方に入る、という行き方です。

これは、サマリアを避けて、大きく迂回して行く行き方です。

もう一つは、そのような迂回をせずに、ユダヤ地方から、そのまま真っ直ぐに北上して、サマリアを通り抜けて、ガリラヤに行く行き方です。

殆どのユダヤ人は、遠回りであっても、敵対しているサマリアを通らないように、東に迂回して行く道を、通ったと言われています。

しかし、この時、主イエスは、真っ直ぐに、サマリアを通り抜ける道を、お選びになりました。

それは、ここを通らなければならなかったからだ、と聖書は言っています。

主イエスは、この時、敢えて、サマリアを通らなければならない、と思われたのです。

何故、サマリアを通らなければならない、と思われたのか。

それは、そこに、自分との出会いを、待っている人がいる、と思われたからです。

当の本人は、そんなこと、夢にも思っていません。

しかし、自分との出会いを待っている人がいる。是非、その人に会って、話がしたい。

だから、自分はサマリアを通らなければならない。主イエスは、そう思われたのです。

ルカによる福音書19章に、主イエスが、エリコの町で、徴税人の頭のザアカイと、出会われた出来事が記されています。

この時、主イエスは、木の上から、秘かに主イエスを見ていた、ザアカイに目を留められ、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、と言われました。

皆から嫌われ、除け者にされ、孤独なザアカイよ。私は、あなたに会うために、このエリコの町に来たのだ。今日は、是非あなたの家に泊まって、あなたと話がしたい。

そして、あなたを救いたい。主イエスは、そう呼び掛けられたのです。

この時、主イエスが言われた、「泊まりたい」という言葉は、「泊まらなければならない」、とも訳せる言葉です。

先程の、「サマリアを通らなければならなかった」、という言葉と同じ言葉です。

「そうしなければならない」。「是非、そうしたい」。どちらにも訳せる言葉です。

主イエスは、サマリアを、通らなければならなかったのです。いえ、是非、サマリアを通りたかったのです。何故か。

自分との出会いを、待っている人がいたからです。その人に会って、話したかったからです。そして、その人を、救いたかったからです。

私たちは、様々な仕方で、この教会と出会いました。

誰かに誘われてきた人もいますし、チラシや、看板を見てきた人もいます。

或いは、インターネットで検索をして、来た人もいます。その経緯は、様々です。

でも、いずれにしても、自分で行こうと思って、自分で探して、ここに来た。そう思っています。でも、果たして、それは、本当なのでしょうか。

確かなことは、私たちが、色々な経緯で、この教会に来る前に、既に、ここに、この教会があった、ということです。

私たちが、まだこの教会を知る前から、この教会は、ここにあったのです。

どうしてこの教会が、ここにあったのでしょうか。

それは、ここに教会がなければならないと、思われたお方がいらしたからです。

どうしてそう思われたのか。それは、ここに来る人がいるからです。

ここで、主イエスとの出会いを、体験する人がいるからです。

その人たちのために、ここに教会が必要だと、思われたお方がおられた。

そのお方のご意志によって、ここに教会がたてられたのです。

そのお方が、私たちが、いつかこの教会に来るのを、ずっと待っておられたのです。

カトリック作家でノーベル文学賞を受賞した、フランソワ・モーリアックという人が、その著書「イエスの生涯」の中で、次のような言葉を記しています。

「弟子たちと過ごした数週間後に、イエスが弟子たちの群れから離れ、天に上り、光の中にその姿が溶けてしまったときも、それは二度と帰らぬ旅立ちと言うべきものではなかった。

……すでに、主は、エルサレムからダマスコへ行く道の、曲がり角で待ち伏せをし、サウロを、つまり彼の最愛の迫害者を狙っていた。このとき以後、全ての人間の運命の中に、この待ち伏せをする神がい給うであろう」。

気が狂ったように、教会を迫害していたサウロさえも、主イエスは愛しておられ、是非出会って、話をしたいと、ずっと待っておられた、というのです。

そして、ダマスコの教会を迫害しに行くサウロを、曲がり角で待ち伏せして、彼を捕え、彼を救いへと導き入れられた。

同じように、主イエスは、すべての人の、それぞれの人生の曲がり角で、是非その人と出会って、話がしたい。その人を救いたい。

そういう切なる思いを持って、待ち伏せしておられる、というのです。

その同じお方が、やはり出会いを求めて、シカルの町に、旅立って行かれました。

主イエスのご一行が、シカルに着かれたのは、ちょうどお昼頃でした。

日差しの一番きつい頃です。主イエスは、旅に疲れて、井戸のそばに座り込んでしまわれました。恐らく、汗びっしょりだったと思います。

その井戸は、ヤコブの井戸と呼ばれる、古い井戸でした。

主イエスは、のどが渇いて、水が飲みたいと思われました。

しかし、この井戸は非常に深くて、汲むものがなければ、水を得ることができませんでした。

主イエスは、渇きを覚えつつも、そのまま井戸端に座っておられました。

そこに、一人のサマリアの女性が、水を汲みにやって来ます。

当然、そこにおられる主イエスに、気が付きました。しかし、全く無視して、自分の水を汲み始めます。その様子を、じっと見ていた主イエスが、彼女に声を掛けました。

「水を飲ませてください」。

私たちが、この出来事を読んで、心を打たれるのは、ここで主イエスが、渇きを覚える人に、なってくださっている、ということです。

そして、これは、この後の対話の中で、明らかになっていくことですが、この女性もまた、渇きを覚えていた人でした。心の一番深いところで、癒されない渇きを覚えている。

渇きを抱え込んだまま生きている。そういう女性でした。

その女性の前に、主イエスご自身もまた、渇きを覚える人として、座ってくださいました。

渇く者には、ご自身も、同じように渇く者として、座ってくださる。

私たちの渇き、私たちの悩み、私たちの苦しみを、共に担ってくださるお方。

それが、私たちの救い主、イエス様です。

渇く者には、渇く者として、愛を求める者には、ご自身も愛を求める人として、主イエスは、この女性の傍らにいてくださいました。

「水を飲ませてください」。これは、愛を求める者の言葉です。

主イエスは、この時、この女性の愛を、お求めになられました。でも、愛を求めるというのは、いつでも危険を伴う行為です。拒否される、という危険が伴うのです。

愛を求められた主イエスは、案の定、冷たい拒否の言葉を、返されました。

「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。女性は、そう応えました。

それは、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからだ」、と御言葉は補足説明しています。

「交際しない」と訳されていますが、この言葉は、元々は「同じ器を用いない」という意味です。サマリア人は汚れている。だから、彼らが使っている、器も汚れている。

だから、彼らが使った器は、決して用いない。ユダヤ人は、そう言っていたのです。

しかし、主イエスは、そのサマリア人の女性が用いている、その器で、それで、私に水を飲ませて欲しいと、言われたのです。

汚れている、と言われていた人々が、使っていたその器で、神の御子が、水を飲ませて欲しい、と言われたのです。

しかし、その主イエスのお心は、その女性には通じませんでした。

「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」、とその女性は言いました。

恐らく、この女性の拒否の言葉の中には、長年ユダヤ人から受けてきた、侮辱や差別に対する、怒りが込められていたと思います。

しかし、同時に、この主イエスに対する怒りは、普段この女性が、同じサマリア人たちから受けていた、侮辱や差別の裏返しでもあったのです。

この女性は、サマリア人の間では、身を隠すようにして、生きていたのです。

イスラエルでは、水汲みは、女性の仕事でした。

しかし、日差しの強い正午ごろに、水汲みをすることは、普通はありませんでした。

たいていは、夕方か朝早くか、そういう涼しい時に、水汲みをしたのです。しかし、この女性は、一番暑い正午ごろに、水を汲みにきました。

それは、人に会いたくなかったからです。町の女たちが、自分を見る、その厳しい視線に耐えられなかったからです。それには、理由がありました。

これは、来週学ぶ箇所に書いてあることですが、この人は、今までに5人の男性と、結婚と離婚を繰り返して来たのです。

そして、今は、6人目の男性と、一緒に暮らしながら、正式な結婚はしていないのです。

現代でさえ、5回も結婚と離婚を繰り返すというのは、普通ではありません。

それなのに、今よりも、ずっと世間の目が厳しかった時代に、この女性は、そういうことをしたのです。しかし、決して、自分で望んで、そうした訳ではないと思います。

ある人が、この女性は、自分の気持ちに正直に生きた人であって、決して、ふしだらな人ではなかっただろう、と言っています。

この人は、本当の愛を求めたのだ。本当に自分を愛してくれる人を、求めたのだ、というのです。そうかもしれません。

この男性なら、心から自分を愛してくれるに違いないと思って、その人と結婚する。

でも、裏切られる。

そして、また、別の人に出会って、今度こそ、この人は、自分を心から愛してくれるに違いない。そう思って結婚する。でも、また裏切られる。しかし、諦めない。

この自分を、本当に心から愛してくれる人。この自分を、丸ごと受け入れてくれる人が、どこかにいる筈だ。そう思って、相手を求め続けたのです。

本当に、悲しいほど切実な思いをもって、一生懸命に本当の愛を求めたのです。そして破れ続けたのです。適当なところで、見切りを付ければ、良かったのかも知れません。

人間の愛なんてこんなもんだ、とわきまえて、それ以上、高望みをしなければ、良かったのかもしれません。本当の愛なんて、人間の中には、どこにもありはしない。

そう見切りを付けて、現実の生活を整えることに、専念すれば良かったのです。

でも、この人には、それができなかった。

どこかに、本当の愛がある筈だ。そう思い続けて、真実の愛を、求め続けたのです。

そのような、誰も理解してくれなかった、この女性の、心の奥深くにある求めを、主イエスは知っていてくださいました。この女性の心の渇きを、知っていてくださいました。

そのために、主イエスは、井戸のそばに、座っていてくださったのです。

この人のために、主イエスは、サマリアを通らなければならない、と思われたのです。

主イエスは、言われました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

神様が、あなたに、これから与えようとしているものが、どういうものであるかを、あなたが知っていたら。それが、どんなに素晴らしいものであるかを、あなたが知っていたら。

そして、あなたにそれを与えるために、私はここに座っている。

そのことを、あなたが知っていたら、あなたは喜んで、感謝して、「神様、私が本当に欲しいものを、私にください」、と言ったに違いない。主イエスは、そう仰ったのです。

そして、続けてこう言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」。

もう、この人、次の人、また次の人と、真実の愛を求めて、さ迷う必要はない。

私が与える、この水を飲むなら、あなたは、もう二度と、渇きを覚えることはない。

色々な人にそれを求めて、失望と、落胆を、繰り返す必要はない。

私が与える水を、手に入れたなら、それによって、あなたは生きることができる。

そのために、私はここにいるのだ。主イエスは、そう仰いました。

では、主イエスが、与える水とは、どういう水なのでしょうか。一体、何のことなのでしょうか。その問いに対する答えは、あの有名な3章16節の御言葉にあります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

主イエスが来てくださり、私たちに与えようとしておられるのは、「永遠の命」です。

主イエスは、この「永遠の命」を与えるために、この世に来てくださったのです。

サマリアのシカルの井戸にまで来て、この女性にも、この「永遠の命」を与えたいと、願っておられるのです。

ですから、こう言われています。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

あなたが、次々にパートナーを換えた。それは、何のためだったか。

あなたの心の奥底にある、永遠なるものに対する、渇きを癒したいためではなかったか。

どんなことがあっても、揺らぐことのない平安。どんなことがあっても、変わることのない愛。

あなたの心の中には、そのような、永遠なるものに対する、切なる渇きがあった。

それを求めて、次々にパートナーを、換えていった。しかし、その渇きは癒されなかった。

むしろ、ますます状況は、悪くなっていったではないか。

その渇きを癒すのは、この私なのだ。この私の命の言葉なのだ。

私の言葉こそが、永遠の命の泉なのだ。

永遠の命の泉である、私の言葉によって、あなたの渇きを癒しなさい。

これこそが、あなたが求めていたものなのだ。これ以外に、あなたの渇きをいやすものはないのだ。そして、あなたに、これを与えるために、私はここにいるのだ。

そのために、あなたに会うために、私は、サマリアを通らなければならなかったのだ。

主イエスは、そう言われたのです。

そして、その同じ主が、ここに、この教会をたててくださり、ここで、私たちを待っていてくださるのです。私は、あなたに会うために、わざわざ、ここに来たのだ。

さぁ、この私の言葉から湧き出ている、永遠に命に至る水を飲みなさい、と今も言ってくださっているのです。

私たちの、心の奥底にある渇きを、すべて知っていてくださる主が、その渇きを本当に癒すことができる、命の水を与えようと、ここに座っていてくださるのです。

主イエスは、今日も、井戸端に座って、私たちが、渇きを癒しに来るのを、待っていてくださいます。

その主に感謝しつつ、喜んで、活ける命の水を、いただこうではありませんか。