MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「いつも喜ぶ」

2015年02月01日 聖書:フィリピの信徒への手紙 4:2~9

今朝の御言葉は、説教者としての私にとって、生涯忘れられない御言葉です。

2011年3月13日、清水ヶ丘教会の聖日礼拝において、説教した時の聖書箇所。

それが、この御言葉でした。そして、説教題は「主を喜ぶ」でした。

東日本大震災から、僅か二日後の礼拝です。

なぜ、このような悲惨なことが起こるのか。一体神様は、何をお考えなのだろうか。

誰もが、そのような重い問いを、心の奥底に抱えながら、そして、その答えを得られないまま、その朝、礼拝に出席していました。そのような礼拝において語る説教。

与えられた御言葉は、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」、と語っています。礼拝の御言葉として、この箇所が示されたのは、3週間前でした。

そして、前の週の週報で、聖書箇所も、説教題も、既に予告済みでした。

勿論、その時は、あのような大災害が起こるなどとは、夢にも思っていませんでした。

私は全く知らなかった。しかし、すべてをご存知の主は、その時既に、この大震災をご存知でした。その上で、大震災から僅か二日後の聖日礼拝で、「お前は、この箇所から語りなさい」、と私に示されたのです。

しかし、このような時に、この御言葉から、どう語るべきか。途方に暮れ、悩みました。

やはり、御言葉と説教題を、急遽変更すべきではないか。そんな思いが、心をよぎりました。「あなたは、この御言葉から、何を語れと仰るのですか」。

主の御心を尋ねて、必死になって、それこそ心を注ぎ出して、祈りました。

そして、祈りの中で、この箇所こそが、その礼拝で、読まれ、語られるべき御言葉なのだと、神様が言われている。そのような思いに導かれたのです。

ですから、予告通りに、この箇所から、「主を喜ぶ」という題で、説教させていただきました。

今朝の御言葉は、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と、私たちに命じています。

「常に喜べたらいいね」、と希望を語っているのではないのです。

「常に喜べるようにがんばろうね」、と励ましているのでもないのです。

「常に喜びなさい」、と命じているのです。しかも、重ねて命じているのです。

これは本当に凄いことです。私たちは、凄いことを命じられているのです。

そんなことを言われると、重荷に感じられるでしょうか。逃げ出したくなるでしょうか。

「そんなこと、とても出来ない。では、私はクリスチャンとして相応しくないのか」。

そう思って、落ち込んでしまうでしょうか。

でも、そこで、ちょっと立ち止まって、考えてみてください。

「常に喜びなさい」、と命じられていることは、大きな幸いではないでしょうか。

たとえば、もし、「常に悲しんでいなさい」、と命じられたとしたら、どうでしょうか。

もし、「常に嘆いていなさい」、と命じられたら、どうでしょうか。

或いは、「常に怒っていなさい」、と命じられたとしたら、どうでしょうか。

この世は、あの東日本大震災のような、悲惨な出来事に満ちている。だから、「常に悲しんでいなさい」。

もし、そのように命じられたなら、私たちの人生は、暗澹たるものになってしまうでしょう。

もし、自分の罪深さを思い知らされて、「お前はこんなにダメな人間なのだから、常に嘆いていなさい」、と命じられたなら、私たちの人生は、惨めなものになってしまうでしょう。

或いは、この世の悪や不条理を見せつけられて、「世の中はどこか間違っている。だから、常に怒っていなさい」、と命じられたなら、何と殺伐とした人生になってしまうことでしょうか。

でも、私たちは、「常に喜びなさい」、と命じられているのです。これは大きな幸いです。

これは、神様が、私たちに、望んでおられることなのです。

この世の親たちは、わが子に、どんなことを望むでしょうか。

親が、わが子に、第一に望むこと。それは、その子が、幸せになって欲しい、喜びの人生を送って欲しい、ということではないでしょうか。

私たちの天の父である神様が、私たちに望むことも同じです。

神様が望んでおられること。それは、私たちが、喜びに満ちた人生を、生きることです。

神様は、私たちを、愛していてくださいます。愛する者が、嬉しそうに喜ぶ姿を見ることは、その人にとって、最高の喜びです。

神様は、私たちが喜びの人生を送るために、独り子の命さえも、惜しまず、献げて下さったのです。そのように全力を挙げて、私たちが喜べるようにと、用意してくださったのです。

でも、そうであっても、やはりここで、考えてしまいます。

果たして、私たちは、この御言葉のように、本当に喜んでいるだろうか。

自分自身を顧みて、私はどうも喜んでいない、と感じる人は、多いのではないでしょうか。

一喜一憂という言葉があります。辞書を見ますと、「状況が変わる度に、喜んだり、心配したりすること」、と説明されています。

私たちは、状況に左右され、一喜一憂しながら、過ごしています。そうやって、一日が過ぎ、一年が過ぎ、そして遂に、一喜一憂しながら、一生が終わってしまうのでしょうか。

確かに、私たちは、一喜一憂します。それが、私たちの現実の姿です。

しかし、それでは、状況次第の生き方、ということになってしまいます。

たまたま状況が良ければ喜び、悪ければ悲しむ。そうなりますと、私たちの幸せは、温度計のように、周りの状況に反応して、くるくる変わる、ということになります。

喜びの根拠が、自分の中になく、自分の外側の状況にあるからです。

ですから、人は皆、少しでも外側の状況を良くして、喜ぶことができるようにと、努力します。

しかし、いくら努力しても、ここでパウロが言っているように、「常に喜ぶ」ことはできません。

御言葉は「常に喜びなさい」と命じています。そんなこと出来るでしょうか。不可能ではないでしょうか。

でも、神様は、私たちに、出来ないことをせよ、と言われるお方ではありません。

では、ここで、神様が、このように命じておられる、その根拠は、一体何なのでしょうか。

フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが、牢獄から書いた手紙です。

明日、死刑になるかも知れないというような、最悪の状況の中で、書かれた手紙です。

周りの状況次第で、喜んだり悲しんだりするのであれば、死刑を目前にしていたパウロは、この時、とても喜べないような、状況にいたのです。

でも、そのパウロが、「常に喜びなさい」、と言っているのです。

このような中で、パウロが、尚も「喜びなさい」と言う時、そこには、何かしらの裏付けがある筈です。一体、その喜びは、どこから来るのでしょうか。

御言葉は、「主において常に喜びなさい」、と語っています。「主において」なのです。

私たちは、キリストに結ばれ、キリストのものとされ、キリストとの交わりの中に置かれている。それ故、喜びなさい、と言っているのです。

喜びの根拠は、「主において」、という事実にあるのです。

御言葉は、「主において」ということを、「主はすぐ近くにおられます」、とも表現しています。「主はすぐ近くにおられる」。これは、主の再臨が近い、ということを言っている御言葉です。

この世の終わりの日、終末に、主が再び来られる。その日が近い、と言っているのです。

しかし、私たちは、この御言葉を、「主はいつでも、私たちの近くにおられる」、と広く解釈することが、許されるのではないかと思います。

今、この時も、主はすぐ近くにいてくださる。主は、共にいてくださる。その主において喜ぶのです。

この苦しみ、この悲しみの只中でも、主が尚、共にいてくださる。そして、この私にために用意された救いの御業を、今この時も、確かに為していてくださる。

きっと何かをしていてくださる。その事実を喜ぶのです。

苦しみや、悲しみの只中にあっても、共にいてくださる主を喜ぶのです。

共にいてくださる主によって、絶望の淵から立ち上がった、ある婦人を紹介させて頂きます。

宣教師として、満州、熱河省における伝道に生涯を献げた、砂山貞夫牧師の奥様の、砂山せつ子さんの話しです。

貞夫先生とせつ子夫人は、生まれたばかりの赤ちゃんと5歳の男の子を連れて、満州、熱河省の興隆という町で、教会を開拓し、伝道と医療活動に励みます。

しかし、その年、長男の正ちゃんを失います。興隆教会の最初の葬儀は、川原での正ちゃんの火葬でした。せつ子夫人は、言葉に尽くせない悲しみを味わいます。

しかも、その3年後には、夫の貞夫先生が、招集されてしまいます。

敗戦の混乱の中で、貞夫先生は奇跡的に戻ってきました。夫との再会を喜んだのも束の間、今度は、共産党の八路軍が貞夫先生を連行して行き、やがて行方不明となってしまいます。

多くの日本人が、我先にと逃げ帰る中で、せつ子夫人は危険を顧みず、夫の帰りを待って、満州に留まります。

しかし、37歳の時に栄養失調で次女を失い、やがて自分自身も栄養失調で失明してしまいます。遠い満州の地で、敗戦国の国民として、幼い子ども3人を抱え、女一人で残され、自らも失明してしまった。

あぁ、これから私は、一体どうして行けばよいのか。どうやって、生きていけばよいのか。

これからのことを、思った時、彼女の目から、止め処もなく涙が流れました。

祈る言葉も見付からず、ただ泣き崩れていた。その彼女の冷えた心を、かすかに残った御霊の灯が、暖めました。彼女の心に、愛唱聖歌の604番が響いてきたのです。

「望みも消えゆくまでに/世の嵐に悩む時/数えてみよ、主の恵み/なが心は安きを得ん/数えよ、主の恵み/数えよ、主の恵み/数えよ、一つずつ/数えてみよ、主の恵み」

この聖歌が、心に響きました。そして、彼女は、はっと我に帰ります。

あぁ、私は、目を失ったが、まだ手もある、足もある、命もある、そして何よりも、イエス・キリストが共にいてくださる。

数えてみよ、主の恵み。あぁ、あの時も、主は支えてくださった。あぁ、あの時も、あの時も、そしてあの時も。そうだ、これからも、主は必ず、共にいて守ってくださる。

私には、イエス・キリストが与えられているではないか。

彼女は、そこから立ち上がり、想像を絶する苦労の末に、日本に帰りました。

そして、盲人伝道のために働き、北海道から沖縄まで、更には、韓国、中国、ハワイへと講演するまでに用いられたのです。

彼女は、悲しみ、苦しみのどん底で、主が共にいてくださることを、知ることができました。

そして、共にいてくださる主に支えられ、その主に祈り、その主を喜ぶことによって、立ち上がることができたのです。

「主において喜ぶ」とは、こういうことを言うのではないでしょうか。共にいてくださる主が、私たちの喜びの根拠なのです。

主にある喜びとは、何もかもが、順調に与えられて、何も不自由しないことではありません。

そうではなくて、最も大切なもの、最も大きなもの、決定的なものが、既に与えられている、ということなのです。

今朝の御言葉は、主にある喜びの、反対のことも、記しています。

皆さん、主にある喜びの、反対は何だと思われますか。

恐らく、直ぐに帰って来る答は、悲しみでしょう。しかし、御言葉は、そうは言っていません。

パウロや、砂山せつ子夫人のように、悲しみの中でも、喜ぶことができるからです。

では、主にある喜びの反対とは、何なのでしょうか。その答は、6節に書かれています。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」。

主にある喜びの反対。それは悲しむことではなくて、思い煩うことだ、というのです。

ある人が、思い煩うとは、心がバラバラになってしまうことだ、と言いました。

扇子の要がなくなってしまうと、扇子はバラバラになってしまいます。

そのように、心の中心にある、要がなくなって、心がバラバラになってしまうこと。

それが思い煩いである、というのです。

つまり、思い煩いは、主イエスという、心の要が無くなってしまうために、起こるのです。

そのために、バラバラになった心が、あちこちにさ迷って、疲れ果ててしまうのです。

また、思い煩いは、「もしこうなったらどうしよう」、という心配で、心をいっぱいにします。

私たちは、取り越し苦労が得意です。まだ起こってもいない将来について、「もしこうなったらどうしよう」と、心配を先取りしては、悩みを自分から抱え込んでしまうのです。

それは、すべてを、自分の力だけで解決しよう、と思うからではないでしょうか。

神様が働いてくださることを、本気で信じていないからです。現在の自分も、将来の自分も、主の御手の中にある、と信じていないからです。

主において喜ぶとは、心の中心にいてくださる、主との交わりに生きることです。

心をバラバラにするのではなく、要である主に、しっかりと結び付いていくことです。

「心配を先取り」するのではなく、主に結ばれて、「恵みを先取り」していくのです。

思い煩いは、「心配を先取り」することから生じます。しかし、主において喜ぶことは、「恵みを先取り」することによって、もたらされるのです。

ピューリタン革命を指導した、クロムウェルという偉大な信仰者がいました。彼は、口癖のように、「私はもう給金を前払いで貰っている」、と言ったそうです。

ここで、彼が言っている「給金」とは、福音のことです。主イエスによる救いのことです。

この先、どのような困難があろうとも、私は、既に、この救いの出来事を、前払いとして、受け取っている。だから、現実がどんなに困難でも、喜ぶことが出来る、と言ったのです。

主イエスの救いの力、その恵みを、前払いの形で貰う。それが、「思い煩うのを、やめなさい」、「主において、常に喜びなさい」、ということではないでしょうか。

思い煩っている時、私たちは、問題を自分の中に、抱え込んでいます。誰にも打ち明けることができずに、孤独です。

神様にさえ、打ち明けようとしません。ですから、聖書は、「思い煩いを、やめなさい」と言った後で、「何事につけ、感謝をこめて、祈りと願いをささげ、求めているものを、神に打ち明けなさい」、と続けています。

自分の秘密を、誰かに打ち明けた時、そこに深い関係が築かれます。そして、そこに、友情や愛情が生まれます。

辛い、苦しい、心の内を、打ち明けた時、その相手の人は、特別な存在になります。

しかし、誰に、打ち明けるかが、問題です。打ち明ける相手は、どんなことでも受け止めてくれて、絶対に裏切らない人でなければなりません。

ある人が、「人に言えば、愚痴になり、神様に向かえば、祈りとなる」、と言いました。

これは、名言だと思います。神様は、私たちの、どんな不満も、どんな訴えも、すべて聞いてくださり、受け止めてくださいます。「愚痴を言うな」、などとは言われません。

ですから、私たちは、安心して、神様に祈ることができるのです。

自分の秘密を、神様に打ち明けて、親密な関係を、築くことができるのです。神様との愛の関係を、結ぶことができるのです。

フォーサイスという人が、そのような祈りをささげた時、そこに「魂のロマンス」が生まれる、と言っています。神様とのロマンス。聖なるロマンスです。

かつて三浦綾子さんも、星野富弘さんとの対談の中で、こういっていました。

「祈りって、神様と私しか知らない対話よね。これって、すごく親密な関係だと思わない」。

この三浦綾子さんの言葉に、星野富弘さんも、「そう言われれば、そうですね」、と喜びをもって、応えていました。

私たちは、祈りを通して、そのような親密な、神様との関係を、喜ぶことができるのです。

祈りを通して、聖なるロマンスに、生きることができるのです。

それが主にある喜びです。そして、その喜びは、外に向かっても現れ、他の人にも知られるようになる、と御言葉は語ります。

「あなたがたの広い心が、すべての人に知られるようになさい」、とあります。

主にある喜びに生かされる時、私たちは、お互いに、広い心になる、というのです。

広い心という言葉は、「思いやり」とか、「親切」とか、「優しさ」とも、訳せる言葉です。

主において喜ぶ教会では、お互いの間に、親切が働き、思いやりが見られ、優しさが現れるのです。そういう広い心が、主にある喜びには、伴うのです。

そしてそれが、教会の外にも知られ、すべての人にも知られるようになる、というのです。

皆さん、茅ケ崎恵泉教会を、そのような教会に、しようではありませんか。

なぜか茅ケ崎恵泉教会には、いつも喜びがある。優しさがある。親切がある。

なぜだろう、と不思議に思われるような、教会にしようではありませんか。

それが、主ご自身が望んでおられる、教会の本来の姿なのです。