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柏牧師:過去の礼拝説教

「主の言葉を信じる幸い」

2015年03月15日 聖書:ヨハネによる福音書 4:43~54

聖日礼拝では、ご一緒に、ヨハネによる福音書を、読み進んでいます。

今朝は、4章の結びの箇所です。この4章には、主イエスが、サマリアのシカルという町に立ち寄られ、そこで、福音を宣べ伝えられた出来事が、記されています。

主イエスと、一人の女性との出会いをきっかけに、多くのサマリアの人たちが、「あなたこそ、まことの救い主です」、と信仰を告白するに至りました。

これは、主イエスにとっても、サマリアの人たちにとっても、本当に幸いな出来事でした。

主イエスは、このシカルの町に、二日間滞在され、その後、そこを立って、ガリラヤに向かわれました。ガリラヤは、主イエスがお育ちになった場所です。主イエスの故郷です。

生まれ育った故郷に帰るのですから、主イエスのお心は、喜びと平安に満たされていた。

そう思うのが普通です。

ところが、その時、主イエスは、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」、と言われたのです。「預言者は自分の故郷では敬われない」。

この言葉は、その当時の諺であった、と見られています。

どんなに偉い人でも、一番身近にいる人にとっては、ただの一人の人間である、ということがよくあります。

偉い人も、身近な者からは尊敬されない。それは、古今東西変わらないようです。

イスラエルでも、そういうことが言われていたようです。

しかしここで、主イエスは、この言葉を、特別な思いを込めて、語っておられます。

何よりも、この言葉には、主イエスの深い悲しみが、込められています。

単に、諺を引用されたのではなくて、深い悲しみをもって、主イエスは、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と、語られたのです。

一体、主イエスは、ここで、何をお求めになられたのでしょうか。

預言者として敬われることでしょうか。ご自分が称賛されることを、求められたのでしょうか。

もし、そういう意味であるなら、次の45節で、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」、と書いてありますから、その歓迎をお受けになって、主イエスは満足されたと思います。

しかし、実際はそうではなったと思います。どんなに歓迎されても、どんなに人々から称賛されても、主イエスのお心の中にある悲しみは、癒されなかったと思います。

なぜなら、主エスが、ここでお求めになったことは、ご自分が尊敬されたり、称賛されたりすることではなかったからです。

このお方は、そんなことで、満足されるような、お方ではないのです。

主イエスは、「預言者は自分の故郷では敬われない」、と仰りながら、ご自分が敬われることを求めてはおられなかったのです。では、一体、何をお求めになられたのか。

それは、私たちが生きることです。

私たちが、与えられた命を、喜んで、活き活きとして、生きることです。

このお方は、いつも、ご自分のことではなくて、私たちのことを、願っておられるのです。

私たちが、活き活きとして生きるためには、主イエスを愛し、主イエスを敬い、その御言葉を聞くということが、どうしても必要なのです。

このお方は、そのことを、心から願っておられたのです。

そういう意味で、「預言者が敬われていない。人々が活き活きと生きていない」、ということを、このお方は悲しまれたのです。

このことは、私たちにも、当てはまることです。私たちの願いとは、一体何でしょうか。

それは、神様の恵みを喜んで、活き活きと生きることではないでしょうか。

そして、教会員一人一人が、キリストの恵みの内に、お互いに愛し合いながら、活き活きとして生きていることです。それ以外に、私たちの願いはありません。

主イエスは、ご自分が称賛を受けたいために、預言者が敬われない、ということを問題にしておられるのではありません。

そうではなくて、神を神とし、預言者を預言者として敬った時に、私たちは、本当に人間らしく、生きることができる。そのことを、問題にしておられるのです。

神を、真実に敬うことが、私たちを、人間として生かすのです。

サマリアの町で、主イエスが経験されたことは、まさしくそういうことでした。

サマリアの人たちは、神を正しく敬うことを通して、人間としての本来の生き方に、立ち返ったのです。そして、主イエスは、それを、心から喜ばれました。

さて、今日の箇所で、問題になっていることは、しるしや不思議な業です。

「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」、という人間の態度です。

敬って貰いたければ、しるしや不思議な業を見せてくれ。証拠を見せてくれれば、敬ってあげよう。そういう人々の態度です。

でも、サマリアの町では、主イエスは、大きな奇蹟など、起こされませんでした。

サマリアの人たちは、主イエスの話を聞いただけです。それなのに、ただ話を聞いて、この方は、本当に世の救い主だ、と信じたのです。

そして、そういうお方が、自分たちの所に来てくださったということを、心から喜んだのです。

その喜びの中で、彼ら自身が、人間本来の生き方を、生きる者になったのです。

そういう喜びの人生を、故郷であるガリラヤの人たちにも、味わってもらいたい。

主イエスは、そう願われたのです。

ですから、「預言者は自分の故郷では敬われない」、という現実を、主イエスは、悲しまれたのです。

ガリラヤに戻られて、人々の歓迎を受けられても、心から喜ばれなかったのです。

このガリラヤの人たちは、エルサレムで主イエスがなさった、不思議な業を見ていました。

見ないで信じたのではないのです。

エルサレムで、不思議な業をなさった、あの方が来てくださった。そう言って、主イエスを歓迎したのです。

見ないで信じていたなら、どんなに素晴らしいかと思います。でも、主イエスが、本当に望んでおられるような敬い方を、ガリラヤの人たちは、していないのです。

そのことを、主イエスは、悲しんでいらっしゃるのです。

そういう中で、一人の人が、主イエスの許にやって来ました。

この人は、王の役人です。ヘロデ王に仕え、王の権威を後ろ盾にして、生きている人です。

自分は王ではない。しかし、王の名前で行動することができる。

だから民は、言うことを聞かざるを得ない。自分が、ああしろ、こうしろと言えば、どうにでもなる。そのような体験を、何度もしてきた人だと思います。

しかし、ここで、この人は、自分の無力さを、思い知らされています。自分の愛する息子が、死にかかっているからです。

この人は、主イエスが、カナにおられると聞いて、カファルナウムから、やって来ました。

恐らく、ここに至るまで、八方手を尽くして、それこそ王の権威を借りてでも、息子の病気を治そうとしたに違いありません。

でも、あらゆる手を尽くしても、息子の病気を、治すことが出来なかった。

それで、途方に暮れて、カファルナウムから、主イエスのもとに、やって来たのです。

カファルナウムという町は、ガリラヤ湖の一番北にある、かなり大きな町です。

ですから、王の役人がそこにいたのです。一方カナは、湖の西の方にある、小さな村です。

それなのに、カファルナウムまで「下って来て」、息子を癒してください、と主イエスに頼んだのです。ここで、「下って来て」と、この人は言っています。

普通は、大きい町から、小さい町に行く時に、「下る」と言います。小さい町から、大きい町に行くのは、「上る」と言います。

ですから、ここでも、小さなカナの村から、大きなカファルナウムの町に、「上って来て」というのが普通です。

でも、この人は、「どうか、カファルナウムまで、下って来てください」、と言いました。

主よ、どこであっても、あなたがいらっしゃる所が中心です。

そのような思いを持って、「下って来てください」、と言ったのだと思います。

聖書には書いてありませんが、恐らく、この時、この役人は、主イエスの足元に、ひれ伏して、願ったと思います。どうか、私たちの所に、下って来てください、と頼みました。

何とかして、息子を助けたかったのです。

でも、そうやって、ひれ伏して願っている役人に対して、主イエスは、「分かった。では行ってあげよう」、とは仰いませんでした。

「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」、と言われたのです。

一読すると、冷たいお言葉のように思います。

しかし、実は、ここで主イエスは、最も大切なことを、言われているのです。

私たち人間の判断では、この時、一番大切なことは、この役人の息子が、死にかかっている、ということです。人が死にかかっているということは、いつでも、どこでも、緊急事態です。

あらゆる活動を停止しても、そのことに対処しなければ、ならないことです。

ですから、この役人も、我を忘れて、主イエスにお願いをしているのです。そして、周りの人たちも、固唾をのんで、それを見守っていました。

でも主イエスは、「それは大変だ。直ぐに行ってあげよう」、とは言われなかったのです。

「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」、と仰ったのです。

その方が、ずっと大きな問題なのだ、と仰ったのです。

私たちにとっては、肉体の命がどうなるかは、大問題です。でも、主イエスにとっては、それよりももっと大きな問題がある。

それは、あなた方が、見なければ信じないということなのだ。その方が、もっと大きな問題なのだ。主イエスは、そう仰ったのです。

神様が、全力を傾けて取り組んでおられるのは、私たちの肉体の命の問題ではないのです。もちろん、肉体の命も大切です。でも、見なければ信じないという、不信仰の方が、もっと大きな問題だ、と言われているのです。

肉体の命の問題よりも、永遠の命の問題の方が大切だ、と言われているのです

主イエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」、と言われました。

「あなたがた」というのは、この役人だけのことではありません。

しるしを求め、しるしが見られれば信じるという姿勢は、現代人にも見られます。ですから、超常現象を演出して、人々を引き付けようとする、新興宗教が、後を絶たないのです。

主イエスは、この役人にも言うのです。あなたの信仰も同じではないか。

それが信仰と言えるか。そう問われたのです。

しかし、この役人は、そういう主イエスの問い掛けに、答えることもせずに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」、とひたすら頼み続けました。

主イエスが、せっかく、真理について語ろうとしておられるのに、自分の願いしか述べることができなかったのです。それほどまでに、追い詰められていたのです。

ただ息子の危機だけが、その心を占額していたのです。

息子は、もう死んでしまっているかもしれない。「主よ、死なないうちに来てください」。

この自分勝手な要求に対して、主イエスは、真実の信仰があるかどうか。その問いに答えなければ、私もあなたに答えない、などというようなことは、言われませんでした。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる」、と言われたのです。

役人は、「来て下さい」と頼んだのに、主イエスは「帰りなさい」と言われました。

恐らくこの時、役人は考えたと思います。もし、この言葉を信じて、帰って見たけれども、息子が死んでしまったらどうしよう。取り返しがつかない。

主イエスの手を引いてでも、強引に連れて行った方が確実です。

でも、主イエスは、「帰りなさい」と言われました。私の言葉を信じる信仰を見せてご覧なさい、と言われたのです。

考えた末に、この人は、帰っていったのです。主イエスの言葉を信じて、帰って行った。

主イエスの腕を引っ張ってでも連れて行きたい、という思いを断ち切って、帰って行きました。そして、帰る途中で、「あぁ、信じるということは、こういうことなのか」、とこの人は体験させられたと思います。まだ見ていない事実を信じて、帰って行ったのです。

今や、この役人は、「あなたの息子は生きる」と言われた、主イエスのお言葉を信じるしかないのです。そのお言葉にすがるしかないのです。信仰とは、こういうものなのではないでしょうか。聖書は、ここに、この役人の信仰があると見ています。

この役人は、主のお言葉を信じて帰って行った。でも、この役人が偉かったからではありません。主イエスが、この信仰の中に、役人を引きずり込んでくださったのです。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という御言葉で、この役人をぐっと捕えておしまいになったのです。その言葉によって役人を捕え、支えて、息子のところに帰してくださったのです。この役人は、その帰る途中で、息子が助かった、という知らせを聞きました。

そして、その時、主イエスを信じるということが、どれほど確かなことであるかを知らされたのです。

私たちの信仰生活は、この帰る道を歩いていく、役人のようなものです。

主イエスのお言葉を信じて、歩いて行くのです。

神様は、私たちのことを気に掛けてくださっている。神様は、私たちに最善をなしてくださる。そのお言葉を信じて、道を歩いて行くのです。

幸いにして、この役人は、すぐ次の日に結果を見させていただきました。

しかし、私たちの場合は、そんなに直ぐに結果が示されるとは限りません。

その時に、私たちは、つい「しるし」を求める思へと、誘われ、心を揺るがせてしまうことがあります。ある人は、それを、「瀬踏みの信仰」と言い表しています。

人生という旅を歩んでいく時、その道を遮る河がある。橋がない時には、浅瀬を見つけて渡ります。川の流れの中に、確かな岩を探して、一歩一歩足を乗せて行きます。

そのように神様を、いちいち確かめる。この神様を信じていって大丈夫かと、一歩一歩踏んで確かめるのです。

ところが、ちょっと、ぐらっとくると、「あぁ、信仰を持っていても意味がない」と思うようになる。私たちは、そのような「瀬踏みの信仰」に、留まってはいないでしょうか。

主イエスは、ここで、息子を癒してくださいました。そのことは確かです。

しかし、このような癒しの奇蹟が、キリストの教会を、造ってきたのではありません。

信仰を持っている者でも病気になるのです。信仰を持っている者でも、破産の悲劇を味わうのです。信仰を持っている者でも、家庭の危機を体験することがあります。

しかし、そこでいちいち、そんな神様なら信じられない、ということなら、信仰生活は続けられません。神様が、もっと大きなご計画の中で、私のことを考えていてくださる。

神様が、必ず私に、最善をなしてくださる。

私たちは、そのことを信じて歩いて行くのです。神様は、必ず、そのことを分からせて下さいます。あぁ、神様が、最善をなしてくださるということは、こういうことだったのか、と分からせてくださる日が、いつか必ず来ます。

ですから、困難にあった時に、そこで、いちいち、神様のことを確かめるような信仰から、解放されたいと思います。

そうでなければ、困難に向かい合うことができません。人生の危機に、本当に対決することはできないのです。

福島第一原発から、一番近い教会と言われていた、福島第一バプテスト教会の佐藤彰牧師は、事故から2年間、約50人の信徒と共に、各地を転々としながら、避難生活を続けられました。その時のことを記した本の中で、こう書いています。

「あの時以来、数々の奇蹟を、見させていただいた。しかし、何よりの奇蹟は、誰からも、『どうして神は、私たちを、こんなめに遭わせるんだ』とか、『神はいない、もう信じない』、というような言葉が聞こえてこないことです。

所在の確認がとれたた160名の兄弟姉妹からは口々に、『主はすばらしい』とか、『これからはもっと、神を信頼して歩んでいきたい』、との報告が届いています。彼らはいつから,こんなに信仰が強くなったのでしょう。」

どう受け止めて良いのか、分からないような苦難。その中でも、信仰を捨てたり、神様を呪ったりする人は、一人もいなかった。

むしろ、教会員の口からは、そのような中で与えられた、神様の恵みに対する、感謝の言葉が語られている。そして、新たに主イエスを信じる人たちが、起こされている。

これこそが、一番の奇蹟だと、佐藤先生は書いておられます。

福島第一バプテスト教会の教会員たちだけではありません。私たちの信仰の先輩たちも、確かめ続ける信仰から解き放たれて、真実に信じる信仰に生きられました。

そのお陰で、私たちは、今ここに、その信仰を、受け継ぐことができているのです。

何故、先輩たちは、困難の中にあっても、尚も心揺るがずに、真実な信仰に、生き

ることができたのでしょうか。

それは、主の御言葉が、聞こえ続けていたからです。礼拝において、主の御言葉を聞き続けてきたからです。そして、そのような群れを、主が、担ってきてくださったからです。

そのことを信じ、そのことを感謝して、これからも信仰の道を、共に歩み続けていきたいと思います。