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柏牧師:過去の礼拝説教

「まことの礼拝」

2015年03月01日 聖書:ヨハネによる福音書 4:16~30

ご一緒に、ヨハネによる福音書を読み進んでおりますが、前回から、主イエスとサマリアの女との対話の物語に入っています。

ここで、主イエスと話している、このサマリアの女性は、過去に5回も、結婚と離婚を繰り返し、今は、6人目の男性と同棲していました。

自分の心の奥深くにある、真実の愛に対する渇き。それを、癒してくれる相手を求め続けながらも、ずっと満たされないままに、生きて来た女性です。

主イエスは、この女性の、心の渇きを良く知っておられました。

そして、その渇きを癒してあげたい、と願われたのです。

ですから、主イエスは、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。

あなたの心の奥底にある渇き。それを癒す生きた水を、あなたにあげよう。そう言われたのです。しかし、この女性は、主イエスのお言葉を、誤解しました。

この人は、こんこんと湧き出てくる泉を、持っている。その泉の場所を、知っている。

それなら、その水をください。そうすれば、もうここに、汲みに来る必要がなくなる。

この女性は、そう思って、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」、と言ったのです。

しかし、主イエスは、その女性の誤解を、全く気に留めないかのように、話を続けられました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。

女性は、とても驚いたと思います。どうして、ここで、夫が問題になるのか分からない。

しかし、戸惑いながらも答えます。「わたしには夫はいません」。

それに対して、主イエスは、更に、こう言われました。

「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

この対話は、とても不思議な対話です。なぜなら、この女性は、ありのままを言ってはいないからです。ありのままを言ったのは、主イエスの方です。

「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」。

このことを指摘なさったのは、主イエスです。

この主イエスの言葉を聞いて、この女性は、心臓が飛び出るほど、驚いたと思います。

いえ、驚いたというような、生易しいものではありません。全身が凍りつくような、衝撃を受けたと思います。

このことは、この女性が、一番避けたかった話題です。一番、触れられたくないところです。

ですから、「わたしには夫はいません」と言って、やり過ごそうと思ったのです。

でも、この女性が、最も恥じていて、最も隠したいと思っていたことを、主イエスが、明らかにしてしまわれたのです。そうしておきながら、「あなたは、ありのままを言った」、と仰ったのです。これは、どういう意味でしょうか。

「わたしには夫はいません」。この言葉の中に、この女性の、これまでの悩みや、悲しみの、すべて込められている。主イエスは、そのことを、感じ取られました。

「わたしには夫はいない」。これは、この人が5回も、結婚と離別を、繰り返した結論です。

夫として、この私のありのままを受け入れ、そのままの私を愛してくれる人がいない。

そういう人を求め続けて、これまでずっと生きてきた。

でも、この世には、そういう人はいない。だから、私には、夫はいないのです。

この女性の、心の奥底にある、この思いを、主イエスは、聴き取られたのです。

この女性は、自分の一番触れられたくない部分を、言い当てられて、本当に驚きました。

しかし、一方では、嬉しかったかもしれません。自分のこれまでの歩みを、正しく理解してくれる人に、初めて出会ったからです。

今日の箇所の最後で、この女性は、町に帰って行きます。

これまでずっと避けてきた、町の人たちの中に、自分の方から、入って行ったのです。

そして、こういうのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

私の行ったことを、すべて言い当てた人です。でも、その人は、言い当てただけではない。

そのことを受け止めてくれて、そのことを理解してくださった。

これまで、誰一人として、理解してくれなかった。耳を傾けようとも、してくれなかった。

その私の人生を、この人は、受け入れてくださった。

ですから、もう、誰に恥じることもなく、堂々と自分の言葉で、話すことができたのです。

「さぁ、見に来てください、この人を。この人がメシアかも知れません。この人に出会ってください」。そう語ることが出来たのです。

この言葉は、主イエスとの対話が、この女性の心の渇きを、どれほど豊かに、潤してくれたかを示しています。

主イエスに、自分の過去を、言い当てられた、この女性は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」、と言いました。

この方は、普通の人間ではない。神様が、この方を、ここに遣わして下さったに違いない。

神様から遣わされて、この方はここにいる。彼女は、そう思ったのです。

彼女の心は、この方を、ここに遣わされた、神様へと向いました。

その時、彼女の口から、自分でも思ってもみなかった、問いが発せられたのです。

それは、礼拝に対する問いでした。人が、神様を想う時、自然に、そして、真っ先に尋ねたくなるのは、礼拝のことです。どのように神様を、礼拝すべきか、ということです。

「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

この女性は、主イエスによって、自分の生活の破れを、指摘された時、その問題に、深く立ち入ることをせずに、礼拝という別の問題に、話題を転嫁した。

悪く解釈すれば、そのように、採られてしまうかもしれません。

しかし、礼拝とは、破れ、傷ついた、日常生活と、切り離された、きれい事ではありません。

実生活の現場で、心ならずも犯してしまった、数々の罪や、破れ。私たちは、それらすべてを携えて、礼拝に来ています。

礼拝において、神様の御前に、それらを告白し、赦しを受け、聖められ、新たな力に満たされて、遣わされた場へと、戻っていくのです。

ですから、そのような礼拝が、どこでなされるべきか、彼女は、切実な思いで、主イエスに問うたのです。

「この山」とは、ゲリジム山のことです。ユダヤの人びとは、エルサレムの神殿で、礼拝をしていました。エルサレム神殿での礼拝こそが、まことの礼拝である、と言っていたのです。

これに対抗して、サマリアの人々は、ゲリジム山に神殿を築いて、そこで礼拝をしていました。この山は、シカルの町の、目の前に聳えています。

恐らく、この女性は、目を上げて、ゲリジム山を指差しながら、主イエスに問い掛けたのだと思います。

ある人が、こういうことを言っています。この女性は、この時、礼拝の話を持ち出しているが、この人自身は、礼拝には加われなかったに違いない。

ユダヤ教では、3回までの結婚は許されたけれど、それ以上は許されなかった、と言われています。

サマリア人の社会ではどうだったか、よく分かりません。しかし、恐らく5回の結婚は許されなかっただろうと思われます。しかも、今は、結婚もせずに、同棲をしている身です。

恐らく、この女性は、礼拝に加わることは、許されなかっただろうというのです。

そうかもしれません。礼拝に加わることができない。そのことで、彼女は、自分は、神様から退けられてしまった、と思い込んでいました。

この女性は、「わたしには夫はいません」、と言いました。

しかし、いなかったのは、夫だけではありません。神様もいなかったのです。

「私の神様」、と心から呼び掛けられる、神様がいなかったのです。

このことが、どんなに辛く、苦しいことであるかは、容易に想像できます。

私たちが、病気になって入院したとか、何らかの理由で、礼拝に出られない時、私たちは、本当に辛く、苦しい思いをします。

礼拝において、「私の神様」、と呼び掛けることができる喜び。

キリスト者にとって、これに勝る喜びはありません。信仰生活には、様々な祝福があります。しかし、それらの様々な祝福の根本にあるもの。

それは、天地を造られた神様が、私の神様でいてくださる、ということです。

そして、その神様に「私の神様」、と呼び掛けることが、許されている、ということです。

しかし、この一番大きな恵み、一番大きな祝福を、この女性は奪われていました。

そうなって、初めて、礼拝の大切さ、礼拝に出られることの喜びを知ったのです。

ですから、礼拝のことが、いつも、この女性の、心に掛っていたのです。

彼女は、「自分の先祖は、この山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。それはどういうことですか」、と主イエスに問い掛けました。

もし、エルサレムで献げる礼拝が、唯一の、まことの礼拝なら、私たちが献げている礼拝は、一体何なのですか。私だけではなくて、私の民も、神様から退けられているのですか。

これは、真剣な問いです。主イエスを預言者と認め、神様がこのお方と共におられる、と分かった時に、直ぐに、このような問いを投げ掛けた、この女性。この人は、単なるふしだらな女性ではないと思います。真剣に、物事や人生を、考えている人だと思います。

ですから、主イエスも、真正面から、この人に向き合われました。

21節から24節までに、主イエスのお言葉が記されています。

ここには、礼拝についての、最も大切な教えが、凝縮された形で、語られています。

その初めに、主イエスが言われたことは、まことの礼拝とは、場所には捕らわれない、ということです。

エルサレムの神殿であろうが、ゲリジムの山であろうが、場所には捕らわれないのです。

言い換えれば、どこであっても、まことの礼拝が献げられているなら、私たちは、神様にお目にかかれるのです。

私たちが、どこで礼拝を献げていても、神様は、私たちを、訪ねてくださるのです。

今は、著名な牧師が、まだ若い伝道師だったころの話です。一人の女性が、教会を訪ねてきました。彼女は、家庭問題の悩みを、とうとうと話し出し、3時間位が経ちました。

さすがに疲れてきた時に、やっと立ち上がってくれたので、内心、ホッとしたそうです。

ところが、彼女は、出口の方に行かず、会堂の中の方に進んで行ったのです。

「出口はこちらですよ」、と言いましたが、「いいの、いいの」、と言って会堂の中に入り、振り向いて、「ねぇ、神様はどこにいるの」、と尋ねたそうです。

意外な質問に、答えをためらっていると、その人は、説教壇の方を見て、「あぁ、あの辺ね」、と言って、両手を合わせて、暫く黙祷してから、帰って行ったそうです。

もし、皆さんが、その場におられたら、どう答えられるでしょうか。

今朝の御言葉にもある通り、神様は 霊ですから、目には見えません。ここにいる、あそこにいる、等と指し示すことはできません。それでは、どこにおられるのでしょうか。

コリントの信徒への手紙一14章24節、25節に、その答えが、記されています。

「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」

「皆が預言しているところへ」、とありますが、この預言とは、説教と言い換えてもいいと思います。説教がなされているところ、それは礼拝の場です。

もし、まことの礼拝が献げられているなら、未信者の人や、初めて教会に来た人も、ここに、この場に、神様は確かにおられる、と言う筈だ、と聖書は言っているのです。

まことの礼拝とは、そのように、その場に、神様がおられることを、証する礼拝です。

私たちが、まことの礼拝を献げているなら、必ず、そこに神様はおられます。

そこに、確かに、臨在されるのです。

ですから、どこで礼拝を献げるべきか、が問題なのではありません。どこで献げられても良いのです。どこで礼拝が献げられても、その礼拝が、神様の臨在を、証ししているかが、問題なのです。その場に、神様がおられるかどうかが、問題なのです。

主イエスは言われています。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」。

「今がその時である」と言われましたが、「今」とは、いつでしょうか。それは、主イエスがここにおられる、その時です。主イエスが、臨在している、その時です。

霊と真理をもって、礼拝が献げられている、その時が、「今」です。

ということは、今、私たちが、霊と真理をもって、礼拝を献げているなら、神様は、ここに、この場に、臨在されているのです。

この場、というのは、礼拝堂の、どこか特定の場所ではありません。霊と真理をもって、礼拝が献げられているなら、礼拝全体に、霊なる神様は、おられるのです。

では、一体、「霊と真理」とは、具体的に、何を意味しているのでしょうか。

以前の口語訳聖書では、「霊とまこと」、と訳されていました。

この「まこと」という言葉の故に、誤解を招きやすかったところがあります。

実は、私自身も長い間、この言葉を誤解していました。

普通「まこと」と言えば、「まごころ」、「誠実」のことだと、考え易いのです。

私たちが、「まごころ」を込めなければ、礼拝にならない。そう思うのです。

しかし、ここで語られているのは、そのような、私たちの「まごころ」、私たちの真理ではありません。私たちの霊的な力や、私たちのまごころを、一生懸命に、まじめに献げれば、礼拝が成り立つ、ということではないのです。

私たちは、本当に罪深い者です。そのままでは、どんなにまごころを込めても、聖なる神様を、礼拝することなど、とても許されない者です。

そのような、汚れに満ちた私たちが、聖なる神様の、御前にひざまずいて、神様を礼拝できるのは、御子イエス・キリストの、十字架の血潮によって、聖められているからです。

十字架の贖いによって、罪あるままに、罪なき者と認められて、礼拝することを、許されているからです。

そして、そのような救いの奥義を、私たちに示してくださり、分からせてくださっているのは、聖霊なる神様です。

ですから、私たちが、神様を礼拝できるのは、主イエス様のお蔭です。そして、そのことを、分からせてくださっている、聖霊のお蔭なのです。

ですから、ここにある「霊と真理」とは、聖霊と主イエスのことです。

主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」、と言われました。

その真理としての主イエスと、今も生きて、働いていてくださる聖霊のことです。

私たちの献げる礼拝を、まことの礼拝とならしめるものは、私たちの霊的な力、私たちのまごころではありません。それは、神様の霊であり、神様の真理なのです。

私たちが、聖霊の導きによって、主イエスの真理の御言葉を聞くところに、まことの礼拝が成立するのです。

このまことの礼拝によって、私たちは変えられます。

サマリアの女性も、主イエスとの出会いで、変えられました。

この女性は、こう言っています。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

こう言いながらも、この女性は、「いや、このお方は、メシア以上のお方ではないだろうか。

もし、メシアが来られても、このお方以上のことを、語ってくれるだろうか。このお方以上に、私の渇きを癒してくれるだろうか」。そう思ったのではないでしょうか。

ですから、主イエスが、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と言われた時、この女性は、何の疑問もなく、この言葉を受け入れたのだと思います。

そして黙って、水がめを置いて、町に帰って行きました。

水がめを置いたままで帰って行ったのですが、主イエスは、その水をお飲みになられたとは、書いてありません。結局最後まで、主イエスは水を飲まれなかったのでないでしょうか。

飲ませて貰ったのは、この女性の方です。

渇きを癒されたのは、この女性であって、主イエスではありません。主イエスは、渇きを忘れておられました。渇きだけではありません。主イエスは、空腹をも忘れておられました。

渇きを忘れ、空腹を忘れて、一人の魂に向かわれました。

私たちの神様とは、このようなお方なのだ、と聖書は語っています。

ここに、私の、そして、あなたの神様がいらっしゃる。

ここに座っていらっしゃる。一人の魂を求めて、待っておられる。そう言っているのです。

そして、その方が、一人の女性を、新しい人生へと、よみがえらせてしまわれました。

今、私たちは、この神様に、礼拝を献げています。

この神様の霊に満たされ、この神様の真理に支配されて、礼拝を献げています。

そのことを心から喜び、感謝していきたいと思います。