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過去の礼拝説教

「どうしたら信じられるのか」

2015年04月26日 聖書:ヨハネによる福音書 5:41~47

今日の説教の題を、敢えて「どうしたら信じられるのか」と致しました。

考えようによっては、とても大胆な題です。「どうしたら信じられるのか」。

この問いは、未だ求道中の方々にとっては勿論のこと、既に洗礼を受けられた教会員の方々にとっても、本当に大きな問いです。

洗礼式の都度、私たちは、ある問いを抱くのではないかと思います。

それは、「どのようにして、この方は信仰を持つに至ったのだろうか」、という問いです。

今日の説教題と重なるような問いです。「どうしたら信じられるのか」。

この言葉は、今日の御言葉の44節にも出てきています。

「あなたたちには、どうして信じることができようか」。

今日の箇所で問題になっているのは、どうしたら主イエスという方を信じることができるのか、ということです。

5章の前半で、主イエスは、天の神様をご自分の父と呼ばれました。神様を父と呼ばれて、ご自分を神様と等しい者とされたのです。

ユダヤ人たちは、この主イエスのお言葉を受け入れませんでした。そんなことは許せないと言って、主イエスを殺そうとしました。それは、主イエスに対するはっきりとした態度表明です。私はあなたを信じないという意思表示です。

そこで、次に問われるのは、では、私たちはどうするのかということです。

「私は神の子だ」と言われるこの方のお言葉を、受け入れるのか、或いは、ユダヤ人のように拒否するのか。それが、今日の御言葉が私たちに問いかけていることです。

私たちキリスト者は、主イエスを信じています。主イエスが、神の子、救い主であると信じています。でも私たちは、そのことを、どのようにして信じているのでしょうか。

あまりそういうことは、改まって考えたことがないと思います。

しかし、主イエスを未だ信じていない方々が、私たちに一番聞いてみたいこと。それは、「どうしてあなた方は、主イエスを信じられたのですか」、ということではないでしょうか。

「どのようにして、信じられるようになったのですか」。そのことを聞いてみたい。

そう考えておられる方は少なくないと思います。

そして、私たちが、そういう問いにキチンと答えることができるということは、大変重要なことだと思います。「どうしたら信じることができるか」。

この問いを考える時に、先ず初めに、申し上げておかなければならないことがあります。

それは、「信じる」ということは、どのような道をたどろうとも、最後は決断する、言い換えればジャンプする、という部分が、どうしても必要となるということです。

全部理解して、納得して、更に確認して、その上で信じる。これは信じることではありません。全部分かって、納得して、確認できたことは信じる必要がないからです。

分かってから信じる、というのではないのです。信じてみてから分かる。

神様はそのようなお方なのです。信仰にはこういう要素があります。

しかし、このことは、私たち人間の世界でも、同じなのではないでしょうか。

例えば、結婚する時のことを考えてみましょう。

私たちは、30年、40年、或いは50年とお付き合いして、相手のことが全部分かってから、この人なら大丈夫だと納得して、結婚するのではありません。

全部分かっていなくても、信じて、決断して、結婚するのです。

そうして、一緒に歩いていく内に、段々と相手のことが分かってくるのです。

神様を信じるという場合も同じです。最後は、「神様、あなたを信じます。信仰の弱い私を助けてください」と決断するのです。それが信仰を持つということです。

しかし、そうしますと、「では信じる時には、何の確かさもないのだろうか」という問いが生まれます。そんなことはありません。

確かに信じるということは決断ですが、「この方を信じて、本当に良いのか」という判断は重要です。信ずべきでないものを信じてしまったら、大変なことになります。

アメリカに、こんな話があります。実話かどうかは確かめていません。

セスナ機に4人の人が乗っていました。一人はパイロット。この人は、そのセスナ機の所有者でもありました。

その他に、大学教授と牧師、そして一人の青年。この4人が飛行機に乗っていました。

すると突然、パイロットが、「二つの悲しいおしらせがあります」とアナウンスしました。

「一つは、このセスナ機は、エンジントラブルによって墜落します。二つ目、このセスナ機には、パラシュートは3つしかありません。私はこの飛行機の所有者ですので、まず私が、パラシュートを使わせてもらいます」。こう言って、パラシュートを使って飛行機からジャンプして行きました。残ったのは3人、パラシュートは2つです。大学教授が言いました。「私の頭脳は、まだ世界に必要とされている。だから、このパラシュートは私が使わしてもらいたい。

牧師よ、あなたはいつも、死を恐れずに永遠の命の希望に生きよ、と言っていましたよね。まぁ、後は、青年と話してくれたまえ」。

そう言って、ジャンプして行ったそうです。残ったのは2人。

牧師が、必死のやせ我慢をして、震えながら青年に言います。「青年よ、私はキリストを信じて死後の解決があるから、このパラシュートを使いたまえ」。

すると青年が言いました。「牧師さん、ここにパラシュートは2つあります。さっきの教授は、僕のカバンを背負って飛んでいきました。」

どれだけ堅く、カバンが自分を救うと信じてジャンプしても、カバンは教授を救うことはできません。たとえ信じる力は弱くても、パラシュートがその人を救うのです。

信仰においても、信じる対象が、果たして私たちを救う力があるのか。それが決定的に大切なことなのです。

では、この方なら信じて大丈夫と、どうして分かるのでしょうか。

先週ご一緒に聴きました御言葉の中で、主イエスは、「私が神の子、救い主である、ということは、私が成し遂げた業そのものが、証ししている」と言われました。

主イエスは、ご自分がなされた数々の御業が、ご自身が、神の子、救い主であることを証ししていると言われたのです。

その中で、最大の御業は十字架です。十字架こそが、主イエスが成し遂げられた御業のすべてです。主イエスの御業は、あの十字架に結集しています。

真珠湾攻撃の実行部隊長であった淵田美津雄海軍大佐は、敗戦後、日本人捕虜に対する、アメリカ人の温かい取り扱いが、一体どこから出ているのか知りたくて、聖書を読み始めました。マタイによる福音書から読み出して、ルカによる福音書23章34節に来ました。

そこにはこう書いてありました。『そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」』

これは、十字架の上で、主イエスが父なる神様に叫んだ祈りです。

十字架の耐え難い苦しみの中で、主イエスは、自分を十字架につけた人たちのことを赦してあげてください、と父なる神様に執り成しているのです。

この言葉を読んだ時、淵田は全身が雷に打たれたような衝撃を受けました。

「これは、決して人間が言える言葉ではない。神にしか言えない言葉だ。この方は神だ」。淵田は、そう確信し、クリスチャンとなり、更には、伝道師となりました。

「どうしたら信じられるのか」。淵田のようにすれば良いのです。

淵田のように、聖書の中にイエス・キリストを探せば良いのです。

聖書が証ししているイエス・キリストを探して、そのお方に出会えば良いのです。

聖書は、イエス・キリストの御業を記しています。そして、その御業を通して、イエス・キリストが神の子、救い主であることを証ししています。

それなのに、私たちは、間違った聖書の読み方をしてしまうのです。

今日の箇所の直前の、39節に、こういう主イエスの御言葉がありました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。

この場合の聖書とは、未だ新約聖書は書かれていませんから、旧約聖書のことです。

あなた方は、一生懸命に、聖書を研究しながらも、私を信じない。それは、聖書の中に、私ではなく、永遠の命という自分たちの願いしか探していないからだ。

自分たちの願いしか探していないから、私を見つけ出せないのだ。

そんなことで、どうして信じることができるのか、と主イエスは言われているのです。

私たちも、うっかりすると、ユダヤ人たちと同じ間違いを犯してしまう恐れがあります。

聖書を読んで、「あぁ、この言葉はためになる。この言葉を人生訓にして、生きてみよう」。

そういう風に聖書を読む。聖書の中に良い言葉を見い出して、それによってより豊かな人生を生きられたら、それで良い。そういう読み方です。

でも、聖書が私たちに語っているのは、そういうことではありません。

聖書は、私たちに、神様を教えようとしているのです。神様が、私たちを愛してくださり、私たちのために命懸けでなさってくださった出来事を伝えているのです。

でも、私たちは、何かためになる言葉を見つけるために、聖書を読んでいることが、多いのではないでしょうか。

もしそうであれば、一生懸命聖書を読んでも、神様のことは分かりません。

ユダヤ人たちが間違ったのは、まさにそこなのです。神様が、聖書を通して、自分たちに伝えようとしている思いを、神様の愛を、受け取ることができなかったのです。

そのことについて、主イエスは42節で、「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」と言っておられます。これは鋭いお言葉です。

「神への愛」という言葉ですが、直訳すると「神の愛」です。あなた方は、神の愛を持っていない、というのです。「神の愛」という言葉には二つの意味があります。

一つは、神様が、私たちを愛してくださる愛です。神様から私たちに向けての愛です。

もう一つは、私たちが、神様を愛する愛です。私たちから神様に向けての愛です。

新共同訳聖書では、後者の意味で、「神への愛」と訳しています。

でも、この言葉は両方に訳せる言葉です。神様が私たちを愛してくださる愛と、それに応えて、私たちが神様を愛する愛。その両方を表わすことができる言葉です。

信仰生活とは、そのような神様との愛の交わりの中で生きることです。

そういう愛の交わりの中に、あなた方が生きていないから、あなた方は信じることができないのだ、と主イエスは仰っているのです。

そういう神様との愛の交わりの中で、生きていない時に、一体何が起こるのか。

44節で主イエスが言われているように、「あなた方は、互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」、ということが起こるのです。

人々からの誉れだけに心を奪われて、神様を愛することができない。神様から愛されていることを尊ばない。そういうことが起るのだ、と主イエスは言っておられるのです。

神様の眼差しの中で、自分がどのように見えているか。そのことを、何よりも大切にする思いが、どこかに消えていってしまっている。それが、あなた方の問題なのだというのです。

人からの誉れを求めていく時には、人に認められることが必要です。ですから、絶えず人の目を気にして、生きていかなければなりません。

主イエスは、マタイによる福音書の「山上の説教」において、そのような生き方を戒めています。人の誉れを受けたい人は、施しをする時にも、祈る時にも、人の大勢集まる場所で、よく目立つように、施しをしたり、祈ったりする。

また、自分が断食をしていることを、人に分からせるために、わざと見苦しく装う。

そのように、人の目だけを気にしていて、神様の眼差しを全く気にしていない。

そんなことをしている人が、どうして神様を信じられるだろうか。

人からの誉れを喜ぶのではなくて、神様から受ける誉れを喜んでご覧なさい。

そうしたら、あなたは自由になりますよ。そして、その自由に生きる時に、主イエスを信じることができますよ、と仰っているのです。

主イエスは、神様の愛を実現するために、この世に来られました。このお方には、神様の愛が満ち満ちています。

神様の愛を、実現するために来られたお方は、人からの誉れを求められるようなことはありません。主イエスは、神様からの誉れだけを求められました。

この「誉れ」という言葉は、聖書の中では、「栄光」と訳されることが多い言葉です。

主イエスは、すべてのことを、神様の栄光のために行われました。ひたすらに、神様の御心を実現するために働かれたのです。

神様の御心は、安息日にも愛の御業を行うことでした。ですから、主イエスは、安息日にも、病人を癒されたのです。

もし、人からの誉れを求めておられたのなら、安息日ではなく、他の日に癒されたでしょう。そうすれば、人々から、文句なく賞賛されたでしょう。

しかし、父なる神様からの誉れだけを求められておられたから、安息日にも癒しの業をなされたのです。

そうすることによって、ユダヤ人たちから迫害され、殺されることになるかもしれない。

そのことをご存知の上で、敢えて癒されたのです。

そうすることによって、神様に栄光を帰そうとされたのです。

そのように、主イエスは、神様と人々を愛し抜かれました。

どこまでも、神様の愛の御心に忠実に生きられ、命を懸けて、人々を愛されました。このように、全身全霊をもって、神様を愛し、また人々を愛されたのは、主イエスただお一人です。

今日の箇所で、主イエスは、「モーセは、私について書いている」のだと仰っています。

この当時は、旧約聖書の初めの五つの書、創世記から申命記まで、いわゆるモーセ五書と呼ばれる書は、モーセ自身が書いたと信じられていました。

そこに、私のことが書いてある。だから、そこを読んだら私のことが分かる、と主イエスは言われたのです。これは一体どういうことでしょうか。

実際に、旧約聖書を読むと分かりますが、旧約聖書の中には、イエス・キリストという言葉は一度もできません。勿論モーセ五書の中にも、イエス・キリストという言葉は出てきません。

そこに書かれているのは律法です。でもその部分を読んだら、私のことが分かる筈だ、と主イエスは言われたのです。それはどういう意味なのでしょうか。

モーセが語ったのは律法です。その律法は、すべてを尽くして神を愛することと、自分のように隣人を愛すること、この二つに集約されると主イエスは仰いました。

すべてを尽くして神を愛するのです。100%を献げ尽すのです。

そして、自分のように隣人を愛するのです。その人が、たとえ敵であっても愛するのです。

そのように考えた時、この二つの戒めを、本当に守れる方は、主イエスお一人であるということが分かります。

主イエスは、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神様に従順に従われました。

文字通り、すべてを献げて神様を愛し抜かれました。

そして、背き続け、裏切り続けている、私たちを愛してくださり、私たちのために命を献げてくださいました。その愛によって、私たちは救われたのです。

モーセの書いた律法を、完全に守ることができたのは、主イエスただお一人です。

ですから、もし、あなた方が、モーセの書を真剣に読むならば、「あぁ、そうか、モーセの律法に書いてあることは、このイエス・キリストの中に実現している」と分かる筈だ。

そのように、主イエスは語っておられるのです。

すべてを尽くして神様を愛し、敵である隣人をも自分のように愛する。

そのことを、本当に教えてくださり、本当に示してくださったのは、主イエスです。

主イエスは、このように、人の誉れではなく、神の誉れを求め続けてくださり、その実現のために、十字架の上に命を献げてくださいました。

翻って私たちは、神の誉れよりも、人の誉れを大切にしてしまうような者です。

でも、主イエスは、そんな私たちを、それでも尚も愛し、それでも尚も赦してくださることによって、神様に栄光を帰してくださいました。

それによって、私たちは救われたのです。この恵みを心から感謝したいと思います。

そして、このお方を、「わが主、わが神」と、力強く告白する者として、共に歩んでいきたいと願います。