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過去の礼拝説教

「三つの挨拶」

2015年04月05日 聖書:マタイによる福音書28:1~10

先ほど、須藤姉妹に、マタイによる福音書28章1節~10節を読んで頂きました。

今朝は、この中で、特に、9節の御言葉に、注目したいと思います。この御言葉は、「今週の聖句」として、週報にも記されています。

『すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。』

この28章9節の御言葉に加えて、今朝は、マタイによる福音書から、更に、もう二箇所の御言葉を読ませていただきます。

そして、これら三つの御言葉から、一つのメッセージを、聴き取っていきたいと思います。

その一つは、26章49節の御言葉です。

『ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。』

もう一つは、27章29節です。

『茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。』

なぜ、これら三つの御言葉を読んだかと申しますと、実はこれらの御言葉の中に、共通する「ある言葉」が、含まれているからなのです。

先ず、26章49節ですが、この御言葉は、ユダの裏切りによって、主イエスが、ゲツセマネにおいて、捕えられた出来事の中で、記されています。

ゲツセマネにおいて、主イエスは、悲しみ、もだえながら祈られました。

血の滴りのような、汗を流されながら、苦しみに満ちた、祈りを献げられました。

この時、主イエスは、背き続ける人間の、すべての罪を、一身に背負って、十字架に死ぬことを、父なる神様から求められていました。

それは、最愛の父なる神様から、引き裂かれ、父なる神様に呪われ、父なる神様に敵対する罪として滅ぼされる、ということを意味しています。

父なる神様から、完全に見捨てられて、最も遠いところへと、打ち捨てられようと、していたのです。父なる神様の敵となり、怒りを買い、呪われて、見捨てられる。

これは、主イエスにとって、何事にも勝る苦しみでした。究極の悲しみでした。

ですから、これだけは、避けたい。他の方法はないでしょうか、と祈り続けたのです。

しかし、聖書を読みますと、父なる神様は、主イエスの、その祈りに、一言も答えておられません。終始、沈黙されておられます。

この時、父なる神様ですら、答えるお言葉を、持っておられなかったのです。

父なる神様ご自身も、最大の悲しみの中におられたのです。

言葉にならないほどに、父なる神様も、苦しまれておられたのです。

背き続ける人間を救うために、最愛の独り子を、敵として、滅ぼさなければならない。

そのような、深い悲しみを、言い表す言葉など、持たれていなかったのです。

父なる神様は、ただ沈黙されました。そして、主イエスは、その父なる神様の沈黙の中に、答えを聞いていかれたのです。

父なる神様の沈黙の中に、その御心を聞き取っていかれたのです。

そして最後に、「あなたの御心が行われますように」、という祈りに導かれたのです。

この祈りを祈られた後は、主イエスには、もはや何の迷いも、ためらいもありませんでした。主イエスは、「十字架の死」を、真正面から受け止め、それに向かって、真っ直ぐに歩まれて行かれました。

もはや、「十字架の死」に向って、歩まれる主イエスを、妨げることが出来る者は、誰もいませんでした。

祈り終わった主イエスは、傍らで寝てしまっている、弟子たちに仰いました。

「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

主イエスが、このように弟子たちに語っておられた、その時に、「十二人の一人であるユダがやって来た」と、御言葉は記しています。

このユダと一緒に、大勢の群衆も、剣や棒などの武器を持ってやって来ました。

ここで、主イエスは戦われています。

しかし、群衆たちと違って、武器を持って、戦ってはおられません。そうではなくて、愛をもって戦っておられます。それは、私たちを、罪から救い出すための、戦いでした。

大勢の群集は、何が起こっても、大丈夫なように、周到に準備して、やってきました。

主イエスを捕らえる、段取りについても、十分に打ち合わせて、絶対に失敗しないように、準備して来たのです。このことは、ユダの言葉にも表れています。

「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」。

彼らは、そのように、前もって合図を決めていたのです。

かつては、「私の先生」と、尊敬と愛情をもって、呼びかけたその口が、今は裏切りの合図のために、用いられようとしているのです。

打ち合わせた通り、ユダは、「先生、こんばんは」と言って接吻しました。

私は、この箇所を読んだ時、「先生、こんばんは」、というユダの言葉が、何故か心に引っ掛かりました。何故ユダは、こんなにも平然と、ごく普通の挨拶の言葉をもって、主イエスを裏切ることが出来たのだろうか。そのことを、もっと詳しく知りたいと思いました。

そこで、この言葉について調べてみました。

この「先生、こんばんは」、という言葉の原語は、「カイレ、ラビ」というギリシア語です。

多くの方がご存知のように、ここで「先生」と訳された、「ラビ」という言葉は、ユダヤ教の教師のことを、表す言葉です。

そして、「こんばんは」と訳された言葉、「カイレ」の原形は、「カイロー」という言葉です。

実は、この「カイロー」という言葉が、先程の三つの箇所に共通して出てくる言葉なのです。

「カイロー」という言葉は、元々は「喜ぶ」とか、「喜びなさい」、という意味の動詞です。

しかし、当時のギリシア語社会においては、この「カイロー」という言葉は、日常の挨拶の言葉として、非常に頻繁に、使われていました。

ここでは、場面が夜ですので、「こんばんは」と訳されていますが、もし朝であるなら「おはよう」、昼間なら「こんにちは」、と訳されていた言葉です。

また、この言葉は、「御機嫌よう」とか、「ようここそ」とか、「おめでとう」、或いは「万歳」、という意味でも使われていました。

ですから、以前の口語訳聖書では、ユダの言葉は、「先生、いかがですか」、と訳されていました。また、他の聖書では、「先生、お元気で」、と訳されています。

それ程、日常的に使われていた、挨拶の言葉でした。

ユダは、このような日常的な言葉で、極めて日常的な仕方で、主イエスを裏切ったのです。

しかし、裏切りとは、厳しい迫害や、むごたらしい拷問があるから、起こるとは限りません。

教会の歴史を見ますと、そのような迫害によって、むしろ信仰が深められ、教会の結束が、強められていったことが分かります。

裏切りの現場には、激しい苦しみや、深い悲しみがあるのではなく、そこには、ごくありふれた、日常の営みがあったのです。

ある神学者は、『裏切りは、枯れ葉が一枚、枝から落ちただけでも起こるであろう。裏切りは、全く日常の次元でこそ、起こるのだ。そして、それゆえにこそ、裏切りの、戦慄すべき恐ろしさがあるのだ。』と述べています。

ユダの裏切りは、日常の挨拶、という仕方において、行われたのです。

さて、ユダが挨拶に用いた言葉、「カイロー」は、この後、マタイによる福音書の結びまでの間に、更に二回出てきます。

二つ目の「カイロー」は、27章29節に出てきます。

ここは、十字架刑を宣告された、主イエスを、ピラトの兵士たちが、さんざんに嘲り、侮辱する場面です。

兵士たちは、主イエスに、赤い色のマントを着せて、それを王様のマントに見立て、王冠の代わりに、茨で編んだ冠をかぶらせ、王の持つ笏の代わりに、葦の棒を持たせました。

そして、その前にひざまずいて、「ユダヤ人の王、万歳」、と言って侮辱したのです。

この「万歳」、と訳されている言葉が、「カイロー」なのです。

ユダだけではなく、兵士たちもまた、日常的な言葉をもって、主イエスを嘲り、侮辱し、主イエスを、悲しませたのです。

さて、このように読んできますと、「果たして、私たちはどうだろうか」、という問いが、心に沸き起こってきます。

私たちも、ごく日常的に、主イエスの御心を知りつつも、それに従わない、という仕方で、主イエスを裏切ってはいないでしょうか。

主イエスの御言葉を、行わないという仕方で、人々の前で主イエスを嘲り、侮辱していることはないでしょうか。

ごく日常的に、主イエスのお心を、悲しませていることはないでしょうか。

わたしは、かつて勤めていた銀行の職場で、感情に流されて、思わず、心無い言葉を、口にしたことがありました。

その時、同僚から、「柏さんはクリスチャンでしょう。クリスチャンが、そんなことを言って良いんですか」、と言われて、愕然としたことがあります。

当時私は、職場において、キリストの香りを放つことを、目指していました。

しかし、職場の仲間から、「それでもクリスチャンか」、と指摘され、キリストの香りを放つどころか、キリストの足を引っ張っている、自分を示されました。

ユダや兵士と同じように、ごく普通の生活の場で、極めて日常的な、言葉や仕方で、主イエスを裏切り、侮辱していた自分を、示されたのです。

先程も申しましたように、私たちが、何か大きな困難や、試練に出会っている時に、主を裏切る、ということは、それ程多くは無いと思います。

自分の信仰が問われている、と明確に自覚している時。或いは、自分の信仰に敵対する人が、現れた時。そんな時は、私たちは、むしろ必死になって、信仰を守ろうとするでしょう。

逆に、大した事はない、と安心しているようなことの中に、重大な裏切りの芽が、潜んでいることが多いのです。

悪魔の親分と、子分との会話について、こんな面白い話があります。

親分が、人間を誘惑して、滅ぼすために、三人の子分を、派遣しようとします。

派遣に先立って、子分が、どんな作戦を考えているかを尋ねます。

最初の子分は、「私は、人間に、神なんかいない、と言います」、と答えました。

すると、親分は、「そんなことで、多くの人をだますことは出来ない。神がいることは、皆知っているのだから」、と言いました。

次の子分は、「私は地獄など無い、というつもりです」、と報告しました。ところが、親分は、「そんなことで、だまされる人は、一人もいない」と言って、これもだめでした。

最後の子分は、「私は、急ぐ必要は無いよ、と言いましょう」、と答えました。すると親分は、「行け、お前はたくさんの人々を、堕落させることが出来る」、と言ったという話です。

「急ぐことは無い」、というような、ちょっとした気の緩みが、最終的に、大きな失敗、大きな裏切りになってしまう、ということは良くあることです。

ユダも、当初は、主イエスを、十字架に架けてしまうような、裏切りになるとは、考えていませんでした。ですから、「こんばんは」という、日常的な挨拶で、裏切りを切り出したのです。

兵士たちも、自分たちのしていることの、本当の恐ろしさを、理解しないままに、日常的な言葉をもって、神の子を侮辱したのです。

さて、三つ目の「カイロー」は、28章9節に出てきます。

復活された主イエスが、マグダラのマリアと、もう一人のマリアに、語られたお言葉です。

主イエスが、甦られたことを、天使から聞いた、マグダラのマリアと、もう一人のマリアは、この喜ばしい知らせを、弟子たちに知らせるために、走って行きました。

その時、行く手に、甦られた主イエスが立たれて、「おはよう」、と言われたのです。

この「おはよう」の原語が、「カイロー」です。

この言葉は、以前の口語訳の聖書では、「平安あれ」、と訳されていました。

因みに、もっと古い文語訳聖書では、「安かれ」、と訳されています。

興味深いことに、文語訳では、ユダの言葉も、「ラビ、安かれ」、兵士の言葉も、「ユダヤ人の王、安かれ」、そして、甦りの主イエスのお言葉も、「安かれ」でした。

新共同訳聖書が出版された時、ある信仰の先輩は、「おはよう」という訳は、復活の主が語られた言葉としては、軽すぎる。以前の「平安あれ」の方が良かった、と言っていました。

私も、その時は、「そう言われれば、そうかな」、と思っていました。

しかし、よく味わってみますと、この「おはよう」という、日常的な挨拶の中に、主イエスの深い愛が、込められていることに、気付かされました。

私たちは、日常的に、主イエスを裏切り、主イエスを侮辱しています。主は、そのような私たちを、深く悲しまれていることでしょう。

しかし、主は、私たちが寝ている、暗い夜の間も、あのゲツセマネの園で、夜を徹して祈られたように、私たちのために、執り成しの祈りをして下さり、そして、朝毎に、「おはよう」という、愛に満ちたお言葉を、掛けて下さっているのです。

私たちが、裏切っても、裏切っても、尚も、「おはよう」という、爽やかな御声と笑顔で、私たちを迎えてくださるのです。

私たちが、主を裏切り、主を侮辱した、その同じ言葉、「カイロー」を、復活の主は、愛の言葉に変えて、私たちに返して下さるのです。

私たちは、普段の生活の中で、日常的に主を裏切り、主を侮辱しますが、主は普段の生活の中で、日常的に、私たちを赦し、愛してくださるのです。

私たちは、その愛を、ただ受けるだけで良いのです。

キリスト教信仰とは、この主イエスの愛を、素直に受け入れて、生きて行くことなのです。

主の御心を、悲しませてばかりいる私を、毎朝、「おはよう」、と言って、爽やかに迎えてくださる主。その主に、「おはようございます」、と応えることが許されている。

これは、何と言う喜び、何と言う幸せでしょうか。

主イエスの愛は、何か特別な時に、特別な機会にのみ、与えられるようなものではありません。或いは、私たちが、十分に準備して、かしこまっていなければ、受け取れないようなものではありません。

主イエスの愛は、「おはよう」という、毎朝の挨拶のように、ごく日常的な仕方で私たちに注がれるのです。

最後に、この「おはよう」という、主のお言葉に感動した、一人の詩人の詩を、ご紹介したいと思います。週報の【牧師室より】にも、記されていますのでご覧下さい。

この詩は、東京の頌栄教会の会員である、林あまりさんという詩人が作られたものです。

おはよう                         林あまり

「おはよう」と のんびり明るい声がする 道の向こうで待っている人

この声は――低くて澄んだ、やわらかな―― 世界で一番なつかしい声

右手を上げて白い衣のそのひとは ちょっぴりいたずらそうに笑った

傷だらけの・・・・、日に焼けた・・・・、高い甲・・・・、

指が長くて・・・・、まちがいない・・・・、先生の足!

わたくしに、まずわたくしに会いに来てくださったのですか、

このわたくしに――。

どのようなお姿でしょうとわかりましたのに あなたはあんまりあなたのままで

最悪の夜のあとでも朝が来る怒りを 三度味わったのち

ああわたし あれから初めて泣いている こんなにも死んでいたのだ、わたしは

なんだろう このいい香り 先生のほほえみのたびに、まばたきのたびに

お命じになる静かな瞳は変わらない いいえ。前より、強く、やさしく――

もう死など死ではなくなり いつだってあなたはわたしと共におられる。

こんな私を救うために、十字架上で、苦しみの極限を、味わわれた主。

その主が、今朝も「おはよう」と、明るい、爽やかなお言葉を、掛けて下さいます。

私たちも、思い切り明るく、思い切り爽やかに、思い切り喜んで、「イエス様、おはようございます」、と元気よく、応えていく者でありたいと思います。

なぜなら、私たちには、そうすることが、許されているのですから。

そして、そうすることを、主ご自身が、願っておられるのですから。