MENU

過去の礼拝説教

「永遠の命のパン」

2015年05月17日 聖書:ヨハネによる福音書 6:22~35

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。今朝の御言葉の、中心聖句です。

ここで、「命のパン」という言葉が用いられています。

6章の初めに、主イエスが、男だけで5千人、女性と子どもを含めたら、恐らく1万人以上もの群衆を、五つのパンと二匹の魚だけで、満腹にさせた出来事。いわゆる「パンの奇蹟」として、知られている出来事が、記されていました。

その時配られたパンというのは、実際に私たちが、毎日食べているパンです。

しかし、35節で、主イエスが話しておられるのは、「命のパン」です。

こういう言葉を聞きますと、私たちが想い起す御言葉があります。

それは、荒れ野の誘惑の際に、主イエスが言われた言葉です。

「人はパンだけで生きるのものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。

この御言葉を、私たちは、どう理解しているでしょうか。

人間として生きるということは、食べ物を食べて、ただ生きていく、ということだけではない。肉体だけではなく、心が養われなければならない。心の豊かさこそが大切なのだ。

多くの人は、そういう捉え方をします。

そして、ここで、主イエスが語られた、「命のパン」についても、同じように理解する人がおられるかもしれません。

私たちは、主イエスの御言葉によって、心が養われなければならない。主イエスの口から出る、一つ一つの言葉によって、心が豊かにされなければならない。そう理解するのです。

そういう理解の仕方が、全く間違っている訳ではありません。

しかし、私たちにとって、主イエスというお方は、単に、私たちの心を、豊かにしてくださるだけのお方ではありません。

ここで、主イエスは、「わたしが命のパンである」、と語っておられます。

「わたしの言葉が、命のパンだ」、と言っておられるのではありません。

「わたしが、このわたしという存在そのものが、命のパンなのだ」、と仰ったのです。

もし、「わたしの言葉が、命のパンだ」、ということであれば、大事なのは、主イエスご自身というよりも、主イエスの言葉である、ということになります。

確かに、主イエスは、宝石のような、素晴らしいお言葉を、数多く語られました。

「心の貧しい人は幸いです。天の国はその人のものです」。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。「明日のことを思い煩うことを止めなさい」。「狭い門から入りなさい」。

まだまだ、たくさんあります。これらのお言葉は、人生の指針となるような、とても有益な教えです。しかし、これらの教えが、キリスト教の本質ではありません。

キリスト教のユニークなところは、これらの教えではなく、主イエスというお方そのものが、私たちの救いである、というところにあります。

五つのパンと二匹の魚だけで、一万人以上の人々を満腹にさせた。そういう力のあるお方が、つまり神ご自身が、人となって、私たちのところに来てくださった。

何のために来てくださったのか。私たちだけでは、どうすることもできない、「私たちの罪」という問題を、解決するために来てくださった。

そして、私たちの罪を、すべてその身に負われて、本来、私たちが受けなくてはならない、恐ろしい十字架の刑罰を、代わって受けてくださった。

そういう仕方で、私たちを、「滅びの死」から、贖い出してくださった。そして、復活してくださり、今も共にいてくださる。

この主イエスというお方、主イエスという出来事。それが、私たちの救いなのです。主イエスの教えではなく、主イエスという存在そのものが、私たちの救いであり、希望なのです。

このお方によって、私たちは、死の先にある、天の御国に生きる希望を与えられたのです。

永遠の命とは、霊魂不滅のことではありません。主イエスの十字架によって、罪赦されて、天の御国に生きるという希望。この希望に、今、この時、生かされている、ということです。

罪によって断絶していた神様との関係が、十字架の贖いによって、回復させられ、神様との、新しい関係に生きることです。

そのために、十字架において、主イエスは、その肉を裂き、血を流されたのです。

私たちに、永遠の命を与えてくださるために、ご自身の命を、ささげてくださったのです。

ですから、この主イエスご自身が、永遠の命のパンなのです。

この主イエスというパンは、私たちに全き充足を与えてくれます。これさえあれば、もう他に何も要らない、という全き充足を与えてくれます。

原崎百子さんという方がおられました。牧師夫人として、献身的に主と教会に仕えた人でしたが、肺がんのため、4人の子供を残して、42歳で亡くなりました。

亡くなるまでの1月半の闘病生活は、愛と平安に満ちたもので、その手記「わが涙よ、わが歌となれ」は、多くの人々に、深い感銘を与えました。

その本の中に、一つの詩が記されています。「わたしが共にいる」、という詩です。

「わたしが 共にいる 治らなくても よいではないか/わたしが 共にいる 長患いでも よいではないか/わたしが 共にいる 何も出来なくても よいではないか/わたしが 共にいる それで よいではないか/或る晩 キリストが そう言って下さった。」

苦しい闘病生活の中で、死を目前にして、詠まれた詩です。この時、原崎さんは、尚も、キリストにあって、希望を抱いているのです。充足の中にいるのです。

この恵みが、主イエスが与えてくださる、永遠の命のパンの恵みです。

永遠の命のパンを頂いたからと言って、人生に何の困難もなくなるという訳ではありません。その後も、困難はあります。失望し、落胆することもあります。

しかし、絶望することはありません。永遠の命とは、「絶望なき人生」、と言い換えることができるのでないかと思います。

神ご自身が、この私のために、十字架に架かってくださった。私が受けるべき刑罰を、代わって受けてくださり、私を滅びの死から贖い出してくださった。そして、復活してくださり、今も生きて、私と共にいてくださる。どんな時にも、私を、決して見捨てることはない。

この事実を知ったとき、私たちは、絶望しません。どんなに失望し、落胆しても、絶望しません。それが、永遠の命に生きる、ということです。

以前、中高生のキャンプで、こんなクイズを出したことがあります。

「3+4=0」。これはどういう意味でしょうか。

様々な答えが返ってきましたが、正解はありませんでした。そこで私が、答えを明かしました。「3」は、お産のことです。「4」は、文字通り、死ぬことです。

産まれて、生きて、そして死ぬ。その結果は何もない。つまり「0」だということです。

皆が、「何だぁ、そんなことか」、と馬鹿にしました。そこで、もう一つの数式を出しました。

「3」の後の+のマークの下を少し延ばすと、十字架になります。そして、「0」を二つ繋げると無限大「∞」のマークになります。

「3†4=∞」となります。つまり、産まれて、主イエスに出会い、そして死ぬ。その結果は無限大、つまり永遠の命なのです。

中高生が、「なんだぁ、それが言いたかったのか」、と言って納得しました。中高生の多くは、私のクイズを、ジョークとして受け取った様でした。

しかし、これは、ジョークではなくて、真理なのです。私たちが、人生の途上で、主イエスに出会い、永遠の命のパンを頂く。これは、私たちにとって、決定的なことなのです。

主イエスは、ここで、はっきりと言っておられます。「わたしが命のパン」なのだ。

だから、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。

私を信じて、私のもとに来た者。そういう者を、私は決して飢えさせることはない。決して渇くことをさせない。主イエスは、そう断言しておられるのです。

主イエスは、ご自分との、そういう深い結び付きの中に、私たちを招いていらっしゃるのです。あなたも、この私との結び付きの中に入りなさい。そこで、あなたに生きてもらいたい。

この「わたしという命の糧」を食べて、真実に生きる者となってもらいたい。

これが、主イエスの御心なのです。そのように、主イエスは招いておられるのです。

さて、パンの奇蹟を経験して、興奮冷めやらぬ群衆は、カファルナウムまで、主イエスの後を追いかけてきた、と今朝の御言葉は記しています。

主イエスは、そういう人たちに対して、言われました。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。

あなた方にとっては、しるしを見たことよりも、パンを食べて、満腹したほうが重要なのだ、と仰ったのです。しるしというのは、奇蹟のことです。

一万人もの人たちのお腹を、五つのパンと、二匹の魚だけで、満たしてしまう。

それは、凄い奇蹟です。しかし、その奇蹟を起こされたのは、群衆たちに対する、主イエスの憐れみの心からです。主イエスの愛の故です。

聖書には、主イエスが起こされた、たくさんの奇蹟が、記されています。

しかし、主イエスが、ご自分の力を誇るために、起こされた奇蹟は、ただの一度もありません。どうして、ここで、主イエスが、奇蹟を起こされたのか。それを良く調べてごらんになると分かると思います。必ず、誰かが、助けられています。

その人を助けるために、他に方法がない時に、主イエスは、奇蹟を起こされているのです。

あの時もそうだったのです。一万人もの群衆が、空腹のために、倒れてしまうことがないように、と思われたのです。それには、奇蹟を起こすしかなかったのです。

ですから、奇蹟を起こされたのです。

そして、それは、天の父なる神様の、思いでもありました。

そのように、奇蹟を通して、神様が、私たちに、お示しになっておられることがあるのです。

奇蹟には、神様の思いが、示されているのです。ですから、それは、しるしなのです。

神様が、本当に、私たちのことを、心にかけていてくださる。

神様が、私たちのことを、思っていてくださる。そのことを示す、しるしなのです。

そういう目に見えない神様の思いが、主イエスの奇蹟となって、目に見える形で示されているのです。

ですから、大切なことは、目に見えるしるしを通して、目に見えない神様の思いを、しっかりと見るということです。

ところが、この時の群衆は、主イエスの奇蹟を見ながら、その背後にある、神様の思いを、見ることができなかったのです。

この時の群衆にとっては、そんなことよりも、お腹がいっぱいになった、ということの方が重要であったのです。主エスは、そのことを嘆かれているのです。

彼らは、心の奥底で、このように思っていたのです。

神様の愛が、どんなに大きくても、私たちのお腹は、一杯にはなりません。そして、お腹がいっぱいにならなければ、自分たちにとって意味がないのです。

主イエスは、このような彼らの思いを、見抜いておられたのです。

群衆の中にある、この欲望を、更に言い表している言葉が、34節です。

「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」

彼らは、パンを、いつも私たちにください、と求めています。

何もしなくても、いつもパンが、与えられるようにして欲しい。

そういう願いを、叶えてくれる王になって欲しい。群衆は、そう言っているのです。

この当時、世界を支配していたのはローマ帝国です。この時、ローマ帝国は、世界中の富と権力を一手に握っていました。

その支配者であったローマ皇帝は、ローマの市民には、パンをただで与えた、と言われています。ローマの市民は、ただでパンを、食べることができたのです。

そして、ローマの市民は、そのようにパンを与えてくれる皇帝を、神として崇めました。

ですから、ここで群衆が、主イエスに求めていることは、ローマ皇帝がしていることを、あなたもして欲しい、ということであったのです。

そうすれば、あなたのことを信じましょう。神として崇めましょう、と言ったのです。

しかし、主イエスは、そのような要求を、はっきりと拒否なさいました。

ユダヤ人たちは、一度だけでは意味がありません、と言いました。

でも、主イエスは、一度だけしか起こされませんでした。

何故でしょうか。それは、しるしだからです。

あなた方に、分かって貰いたいことがある。私がこうして、奇蹟を起こして、あなた方のお腹を満たそうとしたこと。それは父なる神様の御心なのだ。

あなた方の天の父は、あなた方のことを、心から思っていてくださるのだ。

そのことに気付いてもらいたい。

そのために、主イエスは、しるしとして、奇蹟を起こされたのです。

ですから、もし、この奇蹟から、しるしを見つけ出さなかったなら、意味がないのです。

この奇蹟の中に、神様の愛を見ることができなかったなら、あなた方にとって、何の益にもならない。主イエスは、そう仰っておられるのです。

ですから、主イエスはこう言われました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。

食べれば無くなってしまう、食べ物のために、働くのではなくて、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、と主イエスは仰ったのです。

ユダヤ人たちは、湖の向こう側から、大変な思いをして主イエスのもとに来ました。

その人たちに向かって、主イエスは言われるのです。

「そこまでして、私のもとに来るのは、一体何のためか。

食べれば無くなってしまう、パンのためなのか。もし、そこまで苦労するなら、食べてなくなってしまうパンのためではなく、私が与える、永遠の命のパンのために働きなさい。」

ユダヤ人たちは、この主イエスのお言葉が分からず、「永遠の命に至る食べ物のために働く」とは、どういうことなのですか。どういう神の業をしたら、よいのですか、と質問しました。

主イエスは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになられました。信じることだ、それが神の業だ、と仰ったのです。

原文を見ますと、ユダヤ人たちが尋ねた時の、「神の業」は複数形です。

しかし、主イエスが答えられた「神の業」は、単数形です。ただ一つの業です。

これだけやれば良い。このことに集中すればよい、と言われたのです。

主イエスを信じて、主イエスに従えば良い。ただそれだけで良い、と言われたのです。

ところが、ユダヤ人たちは、「それでは、あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」、と言い返して来ました。

モーセが民にしたように、天からの食べ物、マンナを降らせてくれたら、あなたを信じましょう、と言ったのです。

こういうユダヤ人たちとのやり取りを見ると、この人たちは、何とまぁ、頑なな人たちだろう。

それに比べて、主イエスは、何と忍耐強いお方だろうか、と思います。

しかし、こういうユダヤ人たちの姿は、私たちと無関係ではありません。

この人たちが示している姿は、私たち人間の、心の奥底にある思いを、正直に見せてくれています。

私たちにも、そういう面がありました。信じることができない。証拠を見るまで信じない。

そういう思いに、捕らわれていたことが、私たちにもありました。

そういう者が、主イエスに出会って、信じる者にしていただきました。

今、私たちは、「わたしが命のパンである」という主イエスの言葉を聞いて、「アーメン、その通りです」、とお答えすることができる。それは、本当の大きな恵みです。

どうしても信じられない、と言っている、ユダヤ人たちの姿を見る時に、私たちが、主イエスとの、交わりの中に生かされていることが、どんなに幸いなことであるかを、示されます。

しかし、私は未だ信じ切れていない、という思いを持っておられる方も、おられると思います。でも、心配することはありません。初めから信じられた人など、誰一人いません。

期間が長いか、短いかの違いはありますが、誰もが、どうしたら信じられるのだろうかと、悩んだ時があるのです。このユダヤ人たちのように、迷った時が必ずあるのです。

でも、そういう者が、今は「わたしが命のパンだ」ということを、信じることができる者と、させられたのです。

神様の願いは、私たちすべてのものが救われて、永遠の命に生きることです。

私たちは、その神様の願いの中で生かされています。

そのために、主イエスは来てくださいました。その主イエスは、私たちすべてに、今も語っておられます。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。