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過去の礼拝説教

「溢れるばかりの恵み」

2015年05月03日 聖書:ヨハネによる福音書 6:1~15

今朝の箇所には、主イエスが、5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人の人を養ったという、パンの奇蹟が記されています。福音書には、多くの奇蹟物語が記されていますが、4つの福音書のすべてに記されている奇蹟は、これだけです。

もし、十字架と復活を、奇蹟と呼ぶことが、許されるのであれば、勿論、十字架と復活の出来事も、4つの福音書のすべてに書かれています。

十字架と復活という、福音の中心となっている出来事と、同じような扱いを受けている出来事。それが、このパンの奇蹟なのです。そのことを見ても、教会がこの奇蹟物語を、どれほど大切なものとして語り伝えてきたかが分かります。

この出来事は、2千年も前に起こったことです。本当に、遠い昔の出来事です。しかし、この出来事は、単なる昔話ではありません。今の私たちにとって、大きな意味があるのです。

今の私たちのために、起こった出来事なのです。聖書は、そのことを、私たちに伝えようとしています。

教会は、このパンの奇蹟を、本当に嬉しい出来事、本当に慰められる出来事として、大切に語り伝えてきました。

この物語は、説明を必要としないほど、明らかなことです。

主イエスが、5つのパンと、2匹の魚で、5千人の人を養った、という出来事です。

5千人というのは、成人男子だけの数ですから、女性や子供を含めたら、1万人以上であったと思われます。1万人以上の人を、たった5つのパンと、2匹の魚だけで、満腹にする。

このような奇蹟物語は、しばしば私たちにとって、壁になります。

こういう奇蹟物語に出会うと、分からなくなってしまう。主イエスが語られた、慰めに満ちたお言葉を読んでいる時には、聖書というのは、本当に素晴らしい書物だと思う。

しかし、こういう奇蹟の話になると、理解できなくなってしまう。

そういう経験をされた方は、少なくないと思います。

そういう時に、私たちが良くすることは、分かり易い説明を求めることです。

奇蹟物語を、何とか合理的に考えようとするのです。このパンの奇蹟で、昔から最も良く知られている、合理的な説明というのは、こういう解釈です。

ここで主イエスが、人々に分け与えたパンと魚は、一人の少年が持っていたものです。

恐らく、お弁当として、持っていたのだと思います。小さな少年でも持っていた、ということは、恐らく、そこにいた殆どの人たちも、お弁当を持っていたに違いない、と考えるのです。

でも、もし、ここで広げたなら、持って来なかった人に、分けない訳にはいかない。

それはちょっと困る。自分だけ食べて、満腹したい。だから、持っていることを、隠しておこう。そう思っていたら、一人の少年が、ほんの僅かな食べ物を、喜んで差し出した。

それを見て、人々は、自分の身勝手さを、恥ずかしく思って、あちらでも、こちらでも、弁当を取り出して、皆で分け合って食べだした。

その結果、何と、そこにいたすべての人が、満腹するほどに、食べることができた。

こういう説明です。これは、とても分かり易い話です。これなら、誰もが納得します。

しかし、そういう話としてしまうと、逆に、分からなくなってしまうことがあります。

何が分からなくなるか、と言いますと、では、どうしてそんな話が、厳しい迫害の中にある教会の中で、大きな喜びと慰めを与える話として、大切に語り伝えられたのだろうか、ということです。それは確かに、心温まる話です。

でも、主イエス抜きでも、起こり得る話です。教会の外でも、起こり得る話です。

ですから、4つの福音書のすべてに記し、そして2千年後の私たちにまで伝えたい。

そう願うほどの、出来事ではないのではないか、ということです。

初代教会の人たちは、地下の穴倉で、毎日、命の危険に晒されながら、必死になって信仰を守っていたのです。そういう、命懸けの信仰に生きる人たちが、この物語を読んで、本当に慰められ、励まされ、力づけられたのです。

単なる人道的な美談が、命懸けの信仰を、守り抜いてきた人たちに、そのような生きる力を与えるとは思えません。

ですから、この話は、皆がお弁当を分け合った、というような、単なる美談にしてしまう訳にはいかないのです。

聖書は、これを奇蹟として伝えているのですから、私たちも、そのように、これを奇蹟の話として、聞いていくべきだと思います。

聖書は、主イエスが、奇蹟を起こされたのだと語っているのです。主イエスというお方は、このような奇蹟を起こす力を、お持ちなのだ、と言っているのです。

そういう力のあるお方が、私たちの只中に来てくださった。あなたのために来てくださった。

そのことが、今のあなたにとっても本当に大きな意味があるのですよ、と言っているのです。さて、この出来事について、ある牧師が、興味深いことを言っています。

こういう奇蹟物語を、私たちは、理解できないとか、あり得ないと言って、退けようとする。

しかし、この奇蹟は、田んぼや畑では、毎年のように起こっていることなのだ。

田んぼや畑で、種が蒔かれる。その蒔かれた一粒の種から芽が出て、何十倍、何百倍にもなる。その収穫の恵みによって、私たちの命が支えられている。

でもこれは、毎年、繰り返して起こるので、誰も不思議なこと、奇蹟とは思わない。当たり前のことだと思っている。でもこれは、良く考えれば不思議なこと、奇蹟なのである。

そう言われてみれば、その通りだと思います。一粒の種が成長して、多くの実を結ぶ。

確かに、種を蒔くのは人間です。でも、成長させてくださるのは神様です。

自然に、種から芽が出て、根が生え、根から吸収された水と、空気中の二酸化炭素と、太陽の光によって、でんぷん質が造られる。そして、そのでんぷん質によって、私たちの命は支えられている。考えてみれば不思議なことです。

でも、普段、私たちはそのことを不思議だとは思いません。奇蹟が起こっているとは思いません。当然のように思っています。

でも、現実に、私たちの周りで起こっていることは、不思議なことなのです。

聖書は、ここで、主イエスが、不思議なことをなさいました、と伝えているのです。

このパンの奇蹟において、主イエスがなさったこと。それは、神様が畑でなさっていることを、ご自分の手の中で、なさったということです。

主イエスは、神様と同じことを、一瞬にして、その手の中でなさったのです。そういうお方が、私たちの所に来てくださり、私たちに、その力を示してくださったのです。だから、このお方は神なのだ。人間となられた神なのだ。聖書は、そのことを語っているのです。

さて、今日の箇所の最初に、主イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸に渡られた、と書かれています。ところが、大勢の群衆が、湖畔づたいに、その後を追って、ついて来ました。

主イエスが、病人たちになさった、癒しの奇蹟を見たからです。

主イエスは、向こう岸について、山に登られ、大勢の群衆をご覧になりました。

そして、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」、と尋ねられました。そう問われて、フィリポは答えます。

「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。

デナリオンというのは、当時のお金の単位で、労働者一日分の賃金に、相当する額でした。

今の価値に換算して、仮にこれを5千円としますと、二百デナリオンは100万円になります。

そこにいる人たちが、女性や子供も含めて全部で1万人としますと、一人当たり100円です。ですから、フィリポは、もし今、手元に二百デナリオンという大金があったとしても、一人当たり100円のパンにしかなりません。それでは、とても足りません、と言っているのです。

それよりも、そもそも、100万円ものパンを、一度に売っている所など、どこにもありません。

今、この便利な時代でさえ、100万円分のパンを、今直ぐ買ってきなさい、と突然言われたなら、どこに行けばよいのか、途方に暮れると思います。

まして、2千年前の、田舎のさびしい村での話です。ですから、フィリポは、「そんなことを仰られても無理です。不可能です」、と言ったのです。

その時、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、一人の少年を連れてきます。

この少年は、大麦のパン5つと、魚2匹を持っていた、と書かれています。

この当時、大麦は、主として、家畜の餌として使われていました。その大麦から作られた、粗末なパン5つと、小さな魚2匹です。

ですから、アンデレは、「ここに大麦のパン5つと魚2匹があります。けれども、何の役にも立たないでしょう」、と言ったのです。

このフィリポと、アンデレの言葉は、同じことを言っています。

フィリポは、「せめて、二百デナリオンのパンがあればよいけど、それでも未だ足りないでしょう」、と言いました。

アンデレは、「大麦のパン5つと、小さな魚2匹。こんなものでは、何の役にも立たないでしょう」、と言いました。

どちらも、自分が置かれた現状に対する、無力感、敗北感を、言い表しています。

そして、これは、私たちが、いつも口にする、呟きではないでしょうか。

「もう少しお金があれば良いけど、それでも未だ足りない」。「もう少し若ければ良いけど、それでも力が足りない」。

或いは、「今持っている、これっぽっちのお金では、何もできない」。「今持っている力では、何の役にも立たない」。

私たちが、予期せぬ困難に出会った時には、しばしば、そういう呟きが、口から出てきます。

私たちは、自分には今、5つのパンと2匹の魚が与えられている。神様が、私に、これだけのものをくださっている。

そのように、現実を、感謝をもって、前向きに捉えることが、なかなかできません。

しかし主イエスは、そのパンをお取りになり、感謝の祈りを献げられたのです。

この少年が持っていた、パンと魚。これは、神様が備えてくださったものなのだ。神様が、このパンと魚を使えと、仰ってくださった。そのことを、主イエスは見ておられるのです。

父なる神様、あなたは、このパンを備えてくださいました。このパンを用いさせていただきます。そのように感謝されて、パンと魚を配られたのです。

きれいな小麦のパンではない。貧しい大麦のパンを、主イエスは喜んで手にしてくださり、感謝して、それを用いてくださったのです。

そして、その小さな、粗末な食べ物を、1万人もの人々を養うものへと、変えてくださったのです。何というスケールの大きな恵みでしょうか。

5つのパンと2匹の魚しかない現実。たったこれだけしかない。人々の必要を満たすことなど到底できない。何の役にも立たない。そう思わざるを得ない現実。

今日、日本のキリスト者も、同じ経験をしています。私たちの群れには、これだけしかいない。教会のメンバーはこれだけしかいない。若い人が来ない。財政的にも縮小している。

こんな状況では、人々の必要を満たすことなど、到底できない。

二千年前も、今も同じです。もし、私たちが、自分たちの力だけに頼るならば、同じです。

その時には、たったこれっぽっちしかない、という絶望的な現実しかありません。

しかし、その絶望的な現実を、主イエスの御手に委ねていく時に、主は、すべての人が満腹して、なお有り余るほどの、豊かさに変えてくださるのです。

目の前の現実が、私たちには絶望としか見えないような状況であっても、主イエスは、そこに神様のご配慮を見ておられます。

ですから、その主イエスに、貧しい大麦のパンを差し出していく時に、それが、主イエスの手の中で、限りない豊かさへと変えられていくのです。

私たちは、その希望に生きることが許されています。

私たちに必要なことは、目の前の現実の貧しさに、嘆くことではありません。

貧しい自分を、主イエスに、そのまま差し出していくことです。その時、主イエスは、驚くべき御業をもって、私たちを用いてくださいます。

スペインの修道女テレサは、生涯に17の女子修道院と、15の男子修道院を建てました。

それは、まさに奇蹟としか思えないような、出来事の連続でした。

ある時、今までで一番大きな修道院を、建てる計画を発表しました。会衆の一人が、その計画のために、今、手許にどれくらいの資金があるか、と尋ねました。

彼女は、ここに二つのコインがあります、と言って、そのコインを見せました。

皆は、「それが一体何の役に立つのですか」、と言って笑いました。

すると彼女は大声で答えたのです。「皆さんは、掛け算を知っていますか。この二つのコインに、神様を掛けたら、いくらになると思いますか」。

そして、彼女は、その二つのコインに、神様を掛けて、見事に大事業を成し遂げたのです。

神様は、私たちの、小さな力も用いてくださいます。ですから私たちは、どんなに貧しくても、どんなに小さくても、真心を込めて、持てるものを、主に献げていきたいと思います。

さて、ガリラヤ湖畔における、この食事は、あの「最後の晩餐」の先触れである、と見做されています。主イエスは、そこに集まった1万人もの人たちを、主の食卓に招かれたのです。

ですから、この時、主イエスが群衆に与えられたのは、物質的なパンだけではありません。

空腹を満たすパンだけではなく、私たちを罪から贖い出す、ご自身の御体なるパン。

十字架の上で裂かれた、御体なるパン。つまり、命のパンをも、与えようとされたのです。

しかも、11節を見ますと、主イエスは、人々に「欲しいだけ分け与えられた」と書かれています。欲しいだけ、命のパンをあげたのです。

必要なだけあげます。私の命を、あなた方に、十分に与えます。

そう言われたのです。そして、その通り、皆はそれを頂いて、満腹したのです。

主イエスの恵みは、それほど豊かなものなのです。

そして、食べ終わった後、残ったパンを集めると、それは十二の籠にいっぱいになったと書かれています。

パン屑と書いてありますが、地面にポロポロと、落としたものではありません。

食べ切れずに残したものです。それが十二の籠に、いっぱいになったというのです。

では、この十二の籠いっぱいに残ったパンは、その後どうしたのでしょうか。

それよりも、なぜ主イエスは、残ったパン屑を、集めさせたのでしょうか。

主イエスは、「少しも無駄にならないように」、と言われました。ここに出てくる「無駄にする」という言葉は、他の箇所では「失う」とか、「滅びる」と訳されています。

あの有名な、3章16節の御言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

この御言葉にある、「滅びる」という言葉も、原文では同じ言葉です。

主イエスは、残ったパンを、一つも無駄にすることなく集めなさい、と言われています。

それは、私たちを、一人も失うことなく救いたい。一人も滅びることなく救いたい、と言われていることと、同じ意味を持っているのです。

主イエスが、ここで見ておられるのは、私たちなのです。

私たちを、一人も失いたくない、と主イエスは言われているのです。

あなた方が、一人でも滅びるのを見たくない。あなた方が皆、永遠の命に生きて欲しい。

だから、私は命の糧を、あなた方に分け与えるのだ。それは、溢れ溢れて、十二の籠に満ちるほどなのだ。主イエスは、そう言われているのです。

この十二の籠に満ちているパン。それは、その日、その場にいなかった、人たちのためのパンなのです。

今日の教会に置き換えて言えば、それは、未だ洗礼を受けていないので、聖餐の恵みに与れない人たちのために、主が備えていてくださるパンなのです。

主イエスは、すべての人が、救われて、主の食卓に着くことを、心から願っておられるのです。一人の人も失いたくない。一人の人も滅んで欲しくないのです。

ですから、今は未だ、食卓につけない人たちのために、十二の籠いっぱいに満ち溢れるパンを用意して、待っていてくださるのです。何という深い愛でしょうか。何と素晴らしい救いでしょうか。

この後、聖餐の恵みに与ります。この主イエスの思いを、私たち自身の思いとしていきましょう。私たちも、すべての人が、一緒に食卓に着くことが出来るようにと、祈り求めつつ、聖餐を受けたいと思います。

そして、そのために、自分の持てるものを、主の御用にために、差し出していきましょう。

主は、それがどんなに貧しいものでも、「ありがとう」と、喜んで手にしてくださり、感謝の祈りを献げて、それを何十倍にも用いてくださいます。

私たちは、そのような希望に生きることを、許されているのです。

そのことを、心から感謝し、喜んで、共に歩んで参りたいと思います。