MENU

過去の礼拝説教

「あなたは最高の財産の相続人」

2015年06月28日 聖書:ペトロの手紙一 1:1~5

暫く、ヨハネによる福音書を、ご一緒に、読み進んできました。

少々難解な、ヨハネによる福音書を読んできて、皆さんの中には、幾分かのお疲れを覚えておられる方も、おられると思います。そこで、ヨハネによる福音書を、少しお休みして、今日から暫くは、ペトロの手紙一から、ご一緒に、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

この手紙は、使徒ペトロが、迫害の中にある教会に宛てた、励ましの手紙です。

宛先は、今のトルコにある、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散し、仮住まいしているキリスト者です。

遠くローマに滞在しているペトロが、迫害の中にある教会を励ますために、心を込めて語った言葉が、宝石のように散りばめられています。

この手紙の最後の部分、5章12節で、ペトロは、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」、と語っています。

この言葉が示しているように、この手紙は、ペトロが語った言葉を、シルワノが、口述筆記したものです。ペトロが、心に溢れ出る思いを、繰り返して語り、それをギリシア語に堪能な、シルワノが書き留めて、手紙にしたのです。

シルワノという人は、使徒言行録では、シラスという名前で、登場しています。パウロの第二次伝道旅行に、同行した人物です。この人は、ペトロの、良き協力者でもありました。

ペトロという使徒は、不思議に、心惹かれる人物です。

ある教会で、牧師が、「皆さんは、パウロとペトロのどちらが、人間的に好きですか」、と問い掛けたところ、「ペトロの方が好きだ」、という人が、圧倒的に多かったそうです。

皆さんは如何でしょうか。ある人が、ペトロのことを、「この人の中には、人間の脆さと、神の恵みの優しさが、不思議に組み合わされている」、と言いました。

なるほど、その通りだなぁ、と思わされます。

1節でペトロは、『イエス・キリストの使徒ペトロから』、と自分自身を紹介しています。

自分に、「イエス・キリストの使徒」、という肩書きをつけています。

ペトロが、自分のことを、「使徒」と、口ごもらずに、名乗るようになるまでには、かなり長い道のりが、あったと思います。

ペトロは、何度も、惨めな失敗を、繰り返してきました。しかし、彼は、つまずきながらも、キリストを愛し、必死になって、キリストに従ってきました。

様々な失敗や、つまずきを通して、ペトロは、そのような弱い、脆い自分を、尚も愛して下さり、用いようとして下さっている、主イエスの愛を、本当に良く分ったのではないでしょうか。

ですからペトロは、自分のことを、使徒として自己紹介する度に、いつも、心からの感謝の気持ちが、沸き起こってきたのではないかと思います。

自分のような者さえも、主は、使徒として、用いてくださっている。そのことに対する感謝です。これは、私が、自分を「牧師」として、自己紹介する時も、同じです。

こんな弱い、欠けだらけの自分が、牧師として用いられている。そのことを、感謝せずにはいられません。感謝というよりも、畏れに近いかもしれません。

皆さんはいかがでしょうか。「私はクリスチャン」です、と自己紹介する時に、やはり同じような思いを、持たれるのではないでしょうか。

このような私をも、神様は救ってくださって、クリスチャンとしてくださった。そのことに感謝の思いが、湧き起って来るのではないでしょうか。

1節に、「離散して」、と言う言葉が、使われています。

ペトロは、散らされて、仮住まいをしている、人たちの中に、「キリスト者」の姿を見ています。それは、天に故郷を移し、この地上のどこにも、最終的な拠り所を、持たない者の姿です。

ペトロは、自分も、離散して、仮住まいをしている者である、と自覚していました。

ですから、そのような人たちを、励ますことができたのです。

ヨハネによる福音書21章には、ペトロが、ガリラヤ湖畔で、復活の主イエスに、出会った時のことが、記されています。その時、ペトロは、何をしようとしていたのでしょうか?

ペトロは、また元の漁師に、戻ろうとしていたのです。

主イエスが、十字架に死なれ、これから先、自分は、一体何をしたらよいのだろうか。

生きる目標を見失った時、彼は故郷に帰り、以前の漁師の生活に、戻ろうとしたのです。

彼には、主イエスを失っても、未だ、帰るところが、残されていました。

彼には故郷があり、そこには家があり、主イエスに出会う前の、生活があったのです。

ある人が、このように言っています。「すべてを捨てて、我に従えと言われて、ついて行ったペトロは、未だ本当には、故郷を捨てていなかった。故郷から離れてはいなかった。

何処にいても、ガリラヤが故郷であり、私には帰るところがある、と思い続けていた。

その間は、実は、主イエスが分らなかった、と言ってよい。」

ペトロが、本当の意味で、ガリラヤを旅立つのは、復活の主イエスから、三度も、「私を愛しているか」と問われ、「私の羊を飼いなさい」、というお言葉を、与えられた後の事です。

ペトロは、この主の信頼の言葉に応えて、初めて、本当に故郷を捨てて、旅立ちました。

そうせずにはいられなかったのです。それは、地上に故郷を持たない生き方への、旅立ちでした。

キリスト者として生きる、ということは、究極的には、地上の故郷を捨てる、と言う決断を、伴うのではないでしょうか?

天に故郷を移した者は、もはや、地上には、帰るべき、心の故郷を、持たないのです。

それが御言葉の言う、離散して生きるキリスト者の姿です。

ペトロは、12弟子の筆頭です。弟子の中の弟子です。しかし、聖書は、ペトロを、揺らぐことのない、確固とした信仰者としては、伝えてはいません。

むしろ、いつでも、危うさを抱えた、信仰者として記しています。

しかし、そういう危うさを抱えたペトロを、主イエスは信頼してくださり、ご自身が命懸けで、贖い取った、大切な教会を託されたのです。

その主の信頼に応えて、ペトロは、一切を捨てて、旅立ちました。

今度こそ、本当の意味で、船も、網も、そして故郷も捨てて、旅立ったのです。

そのペトロは、紀元64年に、ローマで殉教しています。しかし、この時のペトロも、揺るぎない信仰に、生きていたのではなく、やはり危うさを、抱えていました。

ネロ皇帝の迫害の中、ペトロは、また逃げ出したのです。ペトロは、いざという時に、逃げ出してしまう危うさを、最後まで、捨て切れなかった弟子です。

迫害の嵐に荒れるローマを、変装までして、脱出したペトロは、町の門で、向こうからやってくる、一人の旅人に出会います。それは、ローマに入られる、主イエスのお姿でした。

ペトロは、尋ねます。「クォ・ヴァディス・ドミネ、(主よ、いずこに)」。

主イエスが答えます。「お前が、ローマのキリスト者たちを、捨ててきたので、お前に代って、私が行く。もう一度、十字架に架けられるために。」

ペトロは、「主よ」、と叫び、今来た道を引き返し、迫害の只中に、戻って行きました。

そして、最後は、逆さはりつけに架かって、殉教したと、伝えられています。

こんな私が、主イエスと同じ姿では、申し訳ない。そう言って、逆さはりつけに架かった、と言われています。

ペトロは、弱さ、脆さ、危うさを、抱えながらも、主と教会に仕え、主と教会のために生き抜いた、幸いな弟子でした。そのペトロが、今、私たちに、語り掛けています。

あなたも、私と同じように、教会の中に、身を置いて良いのですよ。

弱さや、脆さや、危うさを抱えた、あなたこそ、教会の中で、主イエスの愛の御手の中で、生きるべきなのです。

このペトロの呼び掛けは、私たちにとって、大きな慰めではないでしょうか。

2節でペトロは、『あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです』、と語っています。

この御言葉には、父なる神様の、救いのご計画が、語られています。聖霊による聖めが、書かれています。そして、イエス・キリストの、血の注ぎが出てきます。

ここには、父、子、聖霊の、三位一体の神様が、語られています。

私のような者、一人を救うために、父、子、聖霊の神様が、まさに総力を挙げて、働いてくださっている。そのことが、語られているのです。

背き続ける、一人の罪人を、救うために、神様が、どんなに大きな、業を為してくださるか。

まさに、持てる力を、総動員して、あらゆる手段を、尽くしてくださるのです。

お前を救うために、私はどんなことでもする。最愛の独り子を、失っても良い。十字架に架けられて、身を引き裂かれても良い。唾を掛けられ、嘲られても良い。

お前を得るためなら、どんなことも、厭わない。そう言ってくださっているのです。

三位一体などと言うと、難しくて、捉えどころが無いように思えます。

しかし、それは、私たちを命懸けで愛して、何とかして、一人でも多くを、救おうとされる、神様の御姿を表しているのです。

神様は、私一人を、救うために、そのすべてを、注ぎ込んで、くださっているのです。

1節、2節での挨拶が済むと、ペトロは、真っ先に、神様を賛美しています。

『私たちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように』。

この言葉は、恐らく、爆発するように、叫び出したものだと思います。

ペトロは、こんな自分をも、救ってくださった、神様の恵みを、想い起しているうちに、神様を賛美したいという思いが、心に強く迫ってきて、思わず叫んでしまったのです。

このような、突然の賛美は、パウロの手紙にも、しばしば出てきます。

私は、このような、突然の賛美が好きです。神様を賛美するとは、このようなことではないでしょうか。黙ってはいられないのです。押さえているわけには、いかないのです。

今、私たちが献げている礼拝も、神様を誉め讃えることです。

心の内から溢れ出る思いを、皆で、声の限りに、力の限りに、賛美するのが、本来の礼拝の姿だと思います。

私に洗礼を授けて下さった老牧師は、聖日礼拝で、まるで子供のように、無邪気に、力いっぱい賛美していました。少々調子が外れていても、一向に気にしないで、賛美することが、只ただ嬉しくてたまらない、といった思いが、満ち溢れていました。

神様を賛美するとは、本来、このような姿なのではないでしょうか。

では、なぜ、私たちは、賛美せずには、いられないのでしょうか。

ペトロは、こう言っています。それは、神様が、その豊かな憐みによって、私たちを、新たに生まれさせてくださり、活き活きとした希望に、生かしてくださったからだ。

神様が、罪の中にいる私たちを、新しく生まれ変らせてくださった。そして、活き活きとした希望に生かしてくださった。

それは、ただ、神様が、私たちを、憐れんでくださったから、愛してくださったから。

ただそれだけなのだ、というのです。だから、賛美せざるを得ないのです。

インドのカトリックの司祭が書いた、「小鳥の歌」という本に、新しく生まれた人についての、例話が記されています。

最近、キリスト教に改宗した人に、友人がいろいろと質問します。しかし、その人は、何も答えられません。友人が言います。「君は、キリスト教について、ほとんど知らないんだね」。その人は言いました。

「そう、恥かしいけど、僕は、キリスト教について、ほとんど知らない。

でも、3年前、僕は酔っ払いだった。借金があった。僕の家族はばらばらだった。

妻と子どもは、毎晩、僕が家に帰るのを怖がっていた。

でも今、僕は飲むのをやめた。借金もない。僕の家庭は幸せだ。子どもたちは、僕の帰りを、毎晩、楽しみに待っている。これはみんな、キリストが、僕にしてくれたんだ。」

たったこれだけの、短い話しです。でもこの話は、私たちが、主イエスの愛を、本当に知ったなら、この人のように、新しく生まれ変わることができる、ということを教えてくれています。

新しく生まれ変わった人生は、新しい希望に支えられます。新しい希望。それは、復活された主イエスから、与えられる希望です。ですから、死をも超える希望です。

ペトロは、復活の主イエスと出会い、新しい希望に、生きる者とされました。

そのペトロが、迫害の中にいる教会に、「あなた方も、この希望に、生きて欲しい」、と呼び掛けているのです。

殉教の死と、隣り合わせに生きている人には、見せ掛けの、安っぽい希望などは、無意味です。本物だけが、意味を持ちます。本物の希望だけが、慰めになるのです。

主の復活の希望。キリスト教は、まさにここからスタートしたのです。

4節で、ペトロは、この希望を、別の表現で言い表しています。

『また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。』

ここで語られている財産とは、父が子に与える、相続財産のことです。

神様は、私たちを、ご自身の養子としてくださり、天の財産の、相続人としてくださるのです。

しかも、その財産は、朽ちず、汚れず、しぼまない財産だというのです。

まさに、最高の財産です。私たちは、最高の財産の相続人、としていただいているのです。

ここに出てくる、「しぼまず」、という言葉の原語は、アマラントスというギリシア語です。

この言葉は、絶対にしぼむ事がないという、アマランスという、想像上の花に由来しています。もともとは、想像上の花でしたが、いつの間にか、この名前を、実際の花に、付けた人がいたようで、現在は、「アマランサス」という花が、存在します。

日本のケイトウに似た花の様です。

では、絶対にしぼまない財産とは、一体何でしょうか。私たちのために、天に蓄えられている、朽ちることなく、汚れることなく、しぼむこともない財産。

それは、どんなに環境が変化しようとも、失われない財産です。バブルが崩壊した途端に、消え去ってしまうような、財産ではありません。

また、死によって、朽ちてしまう財産でもありません。死をも、超える財産です。

そのような財産とは、ただ一つだけです。それは、永遠の命の恵みです。

永遠の命こそが、朽ちず、汚れず、しぼむこともない宝です。

マルティン・ルーサー・キング牧師の文章に、ある老牧師と、才気すぐれた大学生の会話が、紹介されていました。老牧師が尋ねます。「君の将来に対する計画は何かね」。

学生が即座に答えます。「法学部の大学院に進むつもりです」。

「それからどうするのかね」。「弁護士になって、結婚して、家庭を持ちます」。

「それから」。「出来るだけお金を稼いで、早めに引退して、世界各地を旅行します」。

「それからどうなるのかね」。「はぁ、これが僕の計画の全部です」。

老牧師は、思いやりを込めて、言いました。「君の計画はあまりにも小さすぎる。それはせいぜい、75年か100年の範囲でしかない。君は、神を含むほど大きく、永遠を包含するほどに、遠大に、人生の計画を立てなければならない」。

一般的にみれば、この大学生の計画は、とても立派だと思います。

しかし、キング牧師は、この老牧師の言葉を、「賢明な忠告」である、と言っています。

ペトロも、この老牧師のように、「永遠を包含する希望」に、生きて欲しい、と言っているのです。そして、それは、主イエスに出会うことによってのみ、得られるのだ、と言っています。

しかも、この財産は、これから準備するのではなく、もうすでに蓄えられているのです。

すぐにでも渡せるように、神様の手の内に、準備されているものなのです。

それが、私たちに約束された救いなのだ、と御言葉は言っているのです。

皆さん、私たちは、そのような救いに向かって、歩んでいるのです。

なんと素晴らしいことでしょうか。

神様は、私たちのために、永遠の命の救い、という最高の財産を、既に蓄え、準備して、待っていてくださるのです。私たちは、それを、ただ感謝して、受け取るだけでいいのです。

このような神様を、私たちは誉め讃えずにはおれません。

この確かな救いによって、活き活きとした希望に、生かされて歩むのが、私たちキリスト者なのです。