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過去の礼拝説教

「神に引き寄せられて」

2015年06月07日 聖書:ヨハネによる福音書 6:41~51

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」。

この47節の御言葉は、私たち信仰者にとって、決定的な言葉です。

主イエスは、「信じる者は永遠の命を得ている」、と言われました。

「永遠の命を得ることになる」と、言われたのではありません。

或いは、「永遠の命を得るだろう」と、将来のことを、言われたのでもありません。

「今、ここで、既に得ている」、とはっきり仰られたのです。

私たちが、主イエスを信じるなら、その見返りとして、死んだ後に、永遠の命という、ご褒美をあげましょう、と言っているのではありません。

そう誤解している人が、多いと思います。しかし、永遠の命の恵みとは、主イエスを信じたことのお返しとして、この世の命が尽きた後に与えられる、というものではありません。

主イエスを信じること。その中に、その信仰の中に、既に、永遠の命があるのだ、と主イエスは仰っておられるのです。

私を信じる者は、既に、永遠の命を得ている、と言われているのです。

「永遠の命を得る」。これは、罪の中にあっても、滅びない、ということです。

主イエスは、罪の中に滅びようとしている、私たちを救うために、人となってこの世に来てくださいました。そして、私たちの罪を、すべてその身に負われて、わたしたちに代わって、十字架にかかって、命を献げてくださいました。

そうやって、私たちを、罪の中から、贖い出し、ご自身のものとしてくださいました。

私たち一人一人を、しっかりと御手に握り締めてくださり、「もう、あなたは私のものだ」、と仰ってくださっているのです。

神様ご自身が、まさに命懸けで、そのことを成し遂げてくださったのです。

ですから、このことを信じる者は、揺るがないのです。どこにいても、どんな時にも、神様が、共にいてくださり、御手に握り締めていてくださるからです。

ですから、この確信は揺るがないのです。死をも突き抜ける、希望に生きることができるのです。そのように信じることが、永遠に命に生きるということなのです。

主イエスを信じるということは、この永遠の命の希望に、生きるということなのです。

世界中の教会で、広く学ばれている、ハイデルベルグ信仰問答は、その冒頭の第一問で、このように問い掛けています。

「あなたにとって、生きている時にも、死ぬ時にも、唯一の慰めは何ですか」。

死に直面しても、尚も、あなたを生かすことが出来る慰めとは何ですか、と問い掛けているのです。ハイデルベルグ信仰問答は、こう答えています。

「生きている時も、死ぬ時も、私の身も魂も、すべてがイエス・キリストのものである、ということです」。

十字架に死なれ、そして復活された、主イエスによって、贖い取られて、主イエスのものになっていること。それが、死ぬ時さえも、私の慰めです。そのことに尽きる、というのです。

永遠の命とは、この慰めの中を生きること、と言っても良いと思います。

宮沢賢治の詩、「雨にも負けず」の中に、「南に死にそうな人あれば/行ってこわがらなくてもいいといい」、という言葉があります。

この花巻の詩人は、一体、何の根拠があって、死に行く人に、怖がらなくても良い、と言えるのでしょうか。それとも、単なる、気休めを、言っているのでしょうか。

人は、死によって、すべてを一瞬に、失ってしまいます。どんなに財産があっても、どんなに権力を持っていても、どんなに名声を博していても、死んだら終わりです。

死を怖がらなくても良いとは、そういうお金とか、権力とか、名声とかではなく、死をも超える希望を、持っている人でなくては、言えないことです。

宮沢賢治には、「そういう者にわたしはなりたい」、と思わせるような友人がいました。

斉藤宗次郎という、キリスト者の友人です。斉藤宗次郎は、小学校の先生をしていましたが、日露戦争に反対したため、迫害され、職を追われ、新聞配達をして、一家を支えました。

貧しく、苦しい生活の中でも、彼は、花巻の人々を助け、励まし、慰め続けました。

初めの内は、非国民だと言って、迫害していた、町の人たちも、やがて、斉藤のことを、「花巻のトルストイ」、と呼んで、敬うようになりました。

「南に死にそうな人がいれば、行って怖がらなくても良いと言い」。これは、恐らく、斉藤が、病人を見舞う時の姿を見て、賢治が詠ったものではないかと思います。

死が怖くない。この言葉を、私は、ある人から聞いたことがあります。

以前、アメリカのシアトルに駐在していた時、合同メソジスト教会の北西部の監督に、初めて黒人の先生が就任され、お会いする機会を得ました。

その先生は、かつてマルティン・ルーサー・キング牧師と共に、黒人の公民権運動のために戦ったことのある方です。そのために、警察に捕らえられ、投獄された経験をお持ちでした。

「その時、怖くはなかったですか?」と質問されて、その先生はこう答えました。

「いえ、怖くはありませんでした。人間は、命を賭けることが出来た時には、殆どの恐れはなくなるのです」。更に、質問が続きました。

「では、どうして、死を恐れずに、命を賭けることができたのですか?」

その先生が答えました。「私が主イエスのものとされ、主イエスによって、握り締められている。これは、死んだ後も、決して変わることがない。そのことを信じていましたから、怖くなかったのです。」

このような、揺ぎ無い希望をもって、今、この時を生きること。それが、永遠の命を持っている、ということです。

さて、41節に、ユダヤ人たちが、主イエスのことでつぶやいた、と書かれています。

聖書の中には、つぶやきの言葉が、度々出てきます。

その中でも、典型的なつぶやきは、エジプトを脱出して40年の間、荒れ野の旅をした、イスラエルの民が、繰り返したつぶやきです。

喉が渇いた、水が無いと言ってつぶやく。お腹が空いた、食べ物が無いと言ってつぶやく。

マナが与えられたにも拘わらず、マナだけでは飽きてしまった、と言ってまたつぶやく。

なぜ、直ぐに、つぶやくのでしょうか。神様を、信頼していないからです。

それと同じ、不信仰のつぶやきが、この時、ユダヤ人たちの口から、発せられています。

主イエスは、「わたしが天から降って来たパンだ」、「わたしを食べれば生きることができる」、と言われました。でも、人々は、信じなかったのです。

なぜ、ナザレの大工の息子が、そんなことを言えるのか。彼は、大工ヨセフの子ではないか。父親も母親も、我々はよく知っているではないか。

百歩譲って、大工の子イエスが、一生懸命勉強して、そして厳しい修行をして、偉大な教師になった、というのならまだ分かる。珍しいことだけれども、あり得ないことではない。

しかし、そのイエスが、自分のことを、「天から降って来た、命のパンである」、というのはどういうことか。そんなことは、あり得ないだろう。

「自分を食べろ」とは、どういう意味なのか。分からない。

こんなことを言うとは、非常識だ。これは、神を冒瀆する言葉だ。そう言って、ユダヤ人たちは、主イエスにつまずいたのです。

これは、今の時代でも、教会に対して、人々がよく言う言葉です。

イエス・キリストが、偉大な聖人である、というのなら良く分かる。優れた倫理的な指導者である、というなら理解できる。しかし、人となった神である、と言われると分からなくなる。

そんなことはあり得ないだろう。もし、教会が、そんなことを言わなければ、信じてあげよう。

しかし、神が人となって、この世に来た、などというから、信じられなくなってしまう。

現代でも、人々は、教会に対して、このようにつぶやきます。

主イエスは、そういう思いを克服する道を、44節で示してくださっています。

「わたしをお遣わしになった父が、引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」。主イエスは、そう言われたのです。

信じられない思いを、克服することは、あなた方自身ではできない。

それができるのは、私をここに遣わしてくださった、父なる神様ご自身だけである。

父なる神様が、あなた方を引き寄せてくださる。

その時に、初めて、あなた方は、信じることができない、という思いを、克服できるのだ、と言われているのです。

ここで用いられている、「引き寄せる」という言葉は、大変強い意味の言葉です。

「引きずってでも連れて行く」、というような意味を含んだ言葉です。

或いは、「網を引き上げる」、という意味でも使われる言葉です。

いずれも、抵抗するものを、力強く引き寄せることを、意味する言葉です。

抵抗する者を、引きずってでも連れて行くように、引き寄せる。

或いは、漁師が、渾身の力を込めて、網を引き上げるように、父なる神様が全力で、私たちを引き寄せてくださる。あなたも、主イエスのところに来なさいと言って、引っ張ってくださるのです。この神様の御業がなければ、私たちは、信仰を持つことは出来ません。

どんなに深く聖書を学んでも、どんなに素晴らしい霊的指導者に出会っても、神様の御業がなければ、その人が信仰を持つことは出来ません。

よく言われることですが、私たちは、人をレストランに連れて行くことはできます。

しかし、その人に、料理を食べたい、と思わせることは出来ません。

その人に、食欲を起させることはできません。それがお出来になるのは、神様だけです。

神様が、一人一人の心の内に、働かれる時に、人は初めて信仰を持つことができるのです。考えてみれば、人が救われる、ということは、とても不思議なことです。

2千年も前に、遠く離れたユダヤの地に生きた、無力な一人の人である、主イエスを、「わが主」と呼んで、生涯かけて、従っていく決断をする。

目に見えないお方を信じて、その方にすべてをかけていく。

これは、本当に不思議なことです。人間が、いくら努力しても、そんなことは成し得ません。

神様が、私たち一人ひとりを、引き寄せてくださらなければ、それは起こりません。

私たちは、自分が決断したから、信仰を持ったと思っています。

確かに、決断は必要であったと思います。しかし、その決断は、私たちの知恵や、私たちの努力によって、成し得たのではありません。神様が、そうさせてくださったのです。

神様が、「私は、お前を、引きずってでも連れて行く」、と言われて、引き寄せてくださらなければ、人が救われるという、出来事は起こらないのです。神様が、渾身の力を込めて、網を引き上げてくださらなければ、私たちは、誰一人として、救われないのです。

私たちは、それ程、罪深い者なのです、その罪人一人を救うために、神様が、まさに、総力を傾けてくださっているのです。

私たちを愛してくださり、何とかして私たちを救いたい、と願われる神様が、最初から最後まで、そのすべてを、なさってくださっているのです。

私たちの救いは、一切合財、すべて神様ご自身の働きによるのです。

私たちは、その御業を、ただ感謝して、受けるだけなのです。

以前、フランソワ・モーリアックという人の、「待ち伏せする神」、という言葉を紹介させていただきました。こういう言葉です。

「主は、エルサレムからダマスコへ行く道の、曲がり角で待ち伏せをし、サウロを、つまり彼の最愛の迫害者を狙っていた。このとき以後、全ての人間の運命の中に、この待ち伏せをする神がい給うであろう」。

気が狂ったように、主の教会を迫害していた、サウロさえも、主イエスは愛しておられ、是非出会って、話をしたいと、ずっと待っておられた、というのです。

そして、ダマスコの教会を、迫害しに行くサウロを、曲がり角で待ち伏せして、彼を捕え、彼を救いへと、引き寄せてしまわれたのです。

同じように、主イエスは、すべての人の、それぞれの人生の、曲がり角で、待ち伏せしておられる、というのです。是非あなたと会って、話がしたい。あなたを救いたい。

そういう切なる思いを持って、待ち伏せしておられる、というのです。

そのお方が、私たち一人一人を、主イエスのもとに、力強く引き寄せてくださっているのです。私たちの気付かない所で、私たちの知らない時に、力強く働いていてくださるのです。

先週の祈祷会で、ある方が、このような証しをされました。

その方が、高校生の時、同級生に、いつも明るくて、周りを和やかにする人がいたそうです。「あー、私もあんな人になりたいなぁ」、「どうしたら、あんなになれるのかなぁ」、と思っていたら、その人が教会に行っている、と聞かされました。

そこで、聖書を買って、教会に行き始めまたそうです。大学に入って、教会から足が遠のいていた時、今度は、別の友人から、讃美歌を贈られたそうです。

こんなことがあって、信仰を持ちたいという思いに、導かれたと言っておられました。

この方の人生にも、待ち伏せする神がおられ、知らない所で、引き寄せてくださっていたのだと思います。

私自身の人生を、振り返ってみても、そうでした。何の気なしに入学した、青山学院の中等部で、たまたま熱心なクリスチャンの担任と出会い、勧められるままに、教会に行った。

すると、父が、そんな私を見て、突然、皆で教会に行こう、と言い出した。

確かな、求道の思いがあった訳ではなかったのですが、少しずつ神様によって、引き寄せられ、やがて、一家6人全員が、揃って洗礼を受けたのです。

献身して、牧師となった時も、そうでした。一大決心をした、というよりも、そうせざるを得ないような状態に、追い込まれていった、というのが実態です。

「神様、私にはとても無理です。牧師に、相応しくありません。どうか、他の人を用いてください」。そう言って、抵抗しても、ぐいぐいと引き寄せられて、いつしか、献身していたのです。

この神様の、引き寄せる力は、ここぞという時には、とても強く働きます。

私たちが抵抗しても、敵わないほどの力で、私たちを引き寄せてしまいます。

映画「ベン・ハー」は、ルー・ウォーレスという人が書いた、小説がもとになっています。

作者のルー・ウォーレスは、かつては無神論者で、キリスト教を完全に否定するための、本を書こうと思い立ちました。

そして、欧米の主要な図書館を巡り歩き、二年間に亘って、熱心に研究しました。そして、いよいよ本を書きはじめました。

しかし、その執筆の途中で、突然彼はひざまずいて、主イエスに向かって、「わが主よ、わが神よ」、と叫んだそうです。キリストを否定しようとして、研究を始めたのですが、逆にキリストが神であるということを、否定できなくなってしまったのです。

キリスト教を否定しようと、必死になって、神様に抵抗したルー・ウォーレスでした。しかし、神様は、そんな彼を、秘かに待ち伏せして、捕えて、御許に引き寄せてしまわれたのです。

反発しても良い、抵抗しても良い。でも、私は、そんなあなたを、尚も愛している。

あなたは、私のものだ。何があっても、あなたを離さない。

主はそう言って、私たちを、握り締めてくださっているのです。

45節に、『彼らは皆、神によって教えられる』、と書いてあります。

私たちが救われるために、神様ご自身が、私たちを教えてくださる、というのです。

ある人は、この御言葉を、「わたしたちは皆、父なる神の生徒」である、と言い換えています。私たちは、皆、神様という先生から、教わっている、生徒である、というのです。

教会において、聖書が開かれ、説教者を通して、聖書の御言葉が説き明かされる。

そのことを通して、神様から教わっているのです。

神様が、教壇に立たれて、私たちが、その前に机を並べて、教わっている。想像すると、何か、温かい、ほほえましい光景が浮かんできます。

神様は、私たちを引き寄せてくださり、御言葉によって、私たちを教えてくださり、私たちを救ってくださるのです。そのように、神様が、すべてをしてくださるのです。

私たちが救われたのは、神様が、私たちを、ぐーっと引き寄せて下さったからです。

救いの出来事は、何から何まで、神様の御業です。

預言者イザヤ書を通して、神様はこう言われています。

「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救いだす」。

この御言葉のように、私たちを造ってくださった神様が、私たちを担ってくださり、背負ってくださり、救い出してくださったのです。

その神様の愛に、心から感謝して、その恵みに押し出されて、この所から、それぞれの持ち場へと、遣わされていきたいと思います。

命のパンをいただき、永遠の命の希望に生かされて、共に歩んで行きたいと思います。