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過去の礼拝説教

「神の民とされる幸い」

2015年07月26日 聖書:ペトロの手紙一 2:6~10

聖日礼拝では、ペトロの手紙一から、ご一緒に、御言葉に聴いています。

今朝はその5回目です。この手紙は、使徒ペトロが、迫害の中にいる、教会の信徒たちに書いた、励ましの手紙です。ペトロが、心に溢れる思いを語り、それを、ギリシア語に堪能な、同労者のシルワノが、書き留めたものです。

今朝の箇所で、ペトロは、教会にとって、最も大切なことを、熱い思いをもって、語っています。7節の御言葉、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。

ペトロは、教会を、建物に譬えています。教会という、霊的な建物は、主イエスという、土台の上に、建てられている。

主イエスという、尊い石が、教会という、霊的な建物の、隅の親石となっている。

この大切なことを、しっかりと捉えて欲しい。ペトロは、心をこめて、そう語っています。

主イエスという親石が、建物全体の、土台になっているのです。

一つ一つの石は、その親石の上に、積み上げられて、建物全体を、形作っていきます。

一つでも、その親石から離れたら、建物全体が、崩れてしまいます。一つ一つの石が、親石に、しっかりと繋がっていることが、建物を維持するために、絶対に必要なのです。

教会も同じです、主イエスという、土台から離れたら、教会は、教会ではなくなります。

一人一人が、主イエスという土台に、しっかりと繋がっていなければ、教会ではなくなります。

この世の建築家が、「使えないなぁ」と言って、隅っこに投げ捨てた、隅の親石。

ある英語の聖書は、これを、「コーナーストーン」、と訳しています。

このコーナーストーンを、隅っこから、中心に移して、大切な土台として、建てられているのが、教会なのです。

ところで、新共同訳聖書が、「親石」と訳した言葉を、他の聖書は、「かしら石」と訳しています。英語の聖書でも、コーナーストーンではなく、キャップストーンと訳しているものもあります。

頭にかぶる帽子、キャップのように、建物の一番上にあって、建物全体を、上から、ぐっと掴んでいる石。すべての石を、堅く結び合わせて、しっかりと全体を、固定する石。

石造りの建物では、こうした「かしら石」、キャップストーンが、大切です。

巨大なドーム形の天井や、アーチ形の橋などの真ん中に、かしら石が、「カチッ」とはめ込まれますと、石は互いの重みで、支え合って、しっかりと固定され、動かなくなります。

そうすると、もうどんな重さにも、耐えられるようになります、どんな激しい嵐に遭っても、崩れることはなくなります。

古代の石の建造物には、ドーム形の天井や、アーチ形の橋や、門が多くあります。

別に、セメントなど使っていませんが、何千年の歳月を経ても、崩れずにいます。

それは、真ん中の「かしら石」が、「カチッ」と、はめ込まれているからです。

教会も同じです。主イエスが、「かしら石」として、しっかりと真ん中におられる時に、どんな災いや、困難にも、崩れることなく、立ち続けることが、できます。

「親石」、或いは「かしら石」。どちらにしても、建物全体を支える、「かなめの石」のことです。

その「かなめの石」のお蔭で、他の石が生きるのです。

その石に、繋がる時に、それまで死んでいた他の石が、生きた石になるのです。

電気工事をしている人が、「こっちの電線は死んでいるけど、そっちは生きているから、気をつけろよ」、と言っているのを、聞いたことがあります。

生きているとは、電源に繋がっていて、電流が流れている、ということです。電源に繋がっていない線は、死んでいる、というのです。

ダランと垂れ下がっていても、電源に繋がっているなら、その電線は生きています。

ピーンと張っていても、電源に繋がっていないなら、その電線は死んでいるのです。

教会も、主イエスという、「かなめの石」に、繋がっている時に、生きた存在となります。

どんなに立派な会堂を持っていても、どんなに多くの会員がいても、主イエスという「かなめの石」に、繋がっていないなら、その教会は、生きていません。死んでいます。

逆に、どんなに粗末な会堂に集まっていても、どんなに小さな群れでも、主イエスという「かなめの石」に、しっかりと繋がっているなら、その教会は、生きています。

決して崩れません。厳しい試練に遭っても、耐えることができます。

神様は、預言者イザヤを通して、そのことを語っておられます。

6節の御言葉は、旧約聖書のイザヤ書からの引用です。『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』

神様によって、選ばれて、教会に置かれた、尊い「かなめの石」である、主イエスを信じる者は、決して失望することがない、というのです。

この「失望することはない」、という言葉は、他の聖書では、「失望に終ることがない」、と訳されています。

文脈から見れば、ここは、「失望に終ることがない」、と読んだ方が、相応しいと思います。

この手紙は、使徒ペトロが、厳しい迫害の中にいる、教会の信徒に宛てたものです。

この手紙の宛先である人々は、いつも殉教の死と、隣り合わせで、生きていました。

昨日まで、一緒に礼拝を守っていた人が、殉教して、今は、冷たく横たわっている。

そんな時、教会の人々は、やはり落胆します。失望します。

 

キリストを信じれば、落胆も、失望もしない、などということはありません。

信仰を持っていても、落胆し、失望するような、辛い、悲しいことに、出会うのです。

しかし、主イエスという、「かなめの石」に、繋がっている者は、失望したままで、終ることがないのです。

失望、落胆のただ中にあっても、そこで主イエスに、出会うことができるのです。

誰も、自分の悲しみや、苦しみを、分かってくれない。私はたった一人だ。

そう思っていた時に、主は、語り掛けてくださいます。

「あなたは決して一人ではない。私は、あなたと共にいる。私は、あなたのことを決して見捨てない。あなたの苦しみを、共に苦しみ、あなたの悲しみを、共に悲しんでいる。そして、やがて、その苦しみを、喜びに、涙を、笑いに変える。そのことを信じなさい。」

私たちは、この御声を聞くことができるのです。そして、そこから、再び立ち上がることができるのです。

この茅ケ崎の地で、29年という、短い地上の生涯を終えて、天国に旅立った、八木重吉という、クリスチャンの詩人がいました。

彼は、当時、不治の病と言われていた、結核に罹り、余命短いことを知らされました。

そして、この茅ケ崎恵泉教会と縁の深い、南湖院という、結核サナトリウムに入院しました。

自分が死んだら、愛する妻や娘は、どうなるのか。先行きへの不安と、深い悲しみの中で、彼は、短い詩を詠んでいます。

「悲しみ―かなしみと わたしと 足をからませて たどたどとゆく」

この詩のように、悲しみを抱えながら、たどたどしく歩いていた時、彼は、ふと道端の小石に目を留めました。そして、こんな詩を創りました。

「石―ながい間からだが悪く うつむいて歩いてきたら 夕陽につつまれた ひとつの小石がころがっていた」

病に、打ちのめされそうになって、うつむいて歩いていた時、路傍の小石が目に留まった。

その小石は、夕陽の光に、包まれていた。誰一人見てくれないような、道端の石ころ。

そんな小石も、夕陽の光を受けて、温められていた。神様の愛で、温められていた。

そうだ、私は一人ではない。神様が、傍にいてくださる。

私は、神様の光に、包まれているのだ。神様の光によって、温められているのだ。

その神様は、私のために、ご自分の命をも、献げてくださった、お方なのだ。ご自身を犠牲にしてでも、私を生かそうとして、くださっているのだ。

重吉は、道端の小石にさえも、注がれている、神様の光、神様の愛のぬくもりを知りました。

このことを知っている者は、失望しても、そのまま終わることはないのです。

主イエスの、十字架の救いを信じる者は、決して、失望に終わることはないのです。

キリスト者とは、この主イエスという、「かなめの石」の上に、しっかりと据えられた石です。

「かなめの石」によって、生きた石とされた者です。そして、同じように生かされた石が、お互いに支え合って、建物として建て上げられていく。それが教会なのです。

さて9節で、ペトロは、キリスト者とは、何者であるかについて、別の角度から語っています。四つの言葉を、重ねることによって、キリスト者を、説明しようとしています。

キリスト者とは、「選ばれた民」、「王の系統を引く祭司」、「聖なる国民」、「神のものとなった民」であると、言っています。

これらの四つの表現は、大きく、二つに分けることができます。

「選ばれた民」、「聖なる国民」、「神のものとなった民」。これらは、いずれも「民」のことを言っています。つまり、「神の民」を表現しています。

これに対して、「王の系統を引く祭司」、という表現は、少し違った言い方です。

ペトロは、ここで、キリスト者の特徴を、「神の民」と、「祭司」とに、大きく分けています。

キリスト者とは、「神の民」であり、また「祭司」でもある、と言っているのです。

では、神の民とは、どのような民なのでしょうか。神の民としての、キリスト者の特色とは、一体何なのでしょうか。

御言葉は、それは、神様が選んでくださったことにある、と言っています。

神様が選んでくださった。全く相応しくないにも拘らず、一方的に選んでくださった。

そのことに、私たちの特色があるのです。

神様が一方的に、「あなたはわたしのものだ」、と宣言してくださるのです。

神の民とは、神様によって、「あなたは私のものだ」と、宣言された民なのです。

人間が、どんなに離れても、どんなに背いても、尚も、ご自分のものにしようとして、神様が、一方的に、救ってくださった民なのです。

そうであるなら、私たちの方からも、神様のものになりたいと、願うのではないでしょうか。

そのようにして、神様のものとなっていることが、聖なる国民ということです。

私たちは、このようにして、神の民、神のものとされたのです。

そして、このようにして、神の民とされた者の務めが、「祭司」としての、務めなのです。

祭司の務めは、いくつかありますが、突き詰めて言えば、それらは一つです。

それは、人々のために、執り成しをする、ということです。人々を、神様のもとに、連れて行くのです。言い換えれば、それは、伝道をするということです。

そのことを、9節後半の御言葉は語っています。

『それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。』

祭司の務めは、神様の力ある業を、広く伝えることである、というのです。

しかも、それは、一般論として語ることではないのです。自分自身が、暗闇から、驚くべき光の中に入れられた。自分が体験した、その救いについて、語りなさい、というのです。

それ以外には、説得力のある言葉を、語ることはできない筈だ。そのように、御言葉は言っています。

暗闇の中から、驚くべき光の中へと、招き入れてくださった。

それは、罪と死の暗闇から、救いの光、命の光に、入れられた、ということです。

ここにある、「招き入れてくださった」、という言葉は、「呼んでくださった」という意味です。

暗闇の中で、どちらに行って良いのか分からずに、迷いと不安の中で、手探りをしている。

そんな時に、自分を呼んでくれる声が、聞こえるのです。

「おーい、こっちだよぅ」、と自分を呼ぶ声が、聞こえるのです。

その声を頼りに、声のする方に進んで行く。すると、かすかな光が、見えてきます。

それは、ドアの隙間から、洩れてくる、一筋の光でした。

その光の方に、更に進んで行き、やがてドアに辿り着きます。そして、思い切って、そのドアを開けた途端、目もくらむような、大きな光の中に、すっぽりと、招き入れられてしまった。

それは、自分を全く変えてしまうほどの、驚くべき光だった、というのです。

そのような、暗闇から、光に招き入れられた、一人の人を紹介させていただきます。

一戸満という人です。 一戸さんは、東京大学大学院の人文科学研究科を卒業後、翻訳の仕事をする傍ら、ドイツ文学の研究者として、著作活動をしていました。

「頑張れば幸せな人生を生きられる」。そう信じて、家族4人で、暮らしていました。

ところが、相続財産をめぐる、親族間の争いの醜さに、言いようもない、「怒り」を覚えたのをきっかけに、酒びたりの生活になってしまいます。

やがて家族も去り、すべての財産を売り払って、友人のところに、身を寄せながら、職を転々とする生活を送るようになります。まるで、糸の切れた、凧のような生活で、全く希望がなく、孤独の中をさ迷っていました。

仕事を求めて、地方に移住しましたが、体調を崩して、挫折してしまいます。何とか、生活を立て直そうと、再び上京しました。ところが、上野公園の、公衆トイレに入っていた、一瞬の隙に、財産の全てであった、鞄2個を盗まれてしまい、とうとうホームレスの生活となってしまいました。

それでも、なんとかして、ホームレス生活から、抜け出そうとして、もがいていたある日、ショーウインドーに映った、自分の姿をみて、「もう救われない」、と思ったそうです。

それは、埃と垢で、赤黒く変色した、自分の顔でした。同じホームレスの人たちが、朝になると、ベンチで冷たくなっていたり、桜の木で首を吊って、死んでいたりするのを見て、どうすれば楽に死ねるか。そのことばかり、考えるようになりました。

ホームレス生活を始めて、約3ヶ月経ったころでした。このままでは、いずれ近いうちに死ぬだろう、という思いの中、体力も落ちて、普通の人なら、10分で歩けるところを、1時間もかけて、上野公園の炊き出しの場所に行きました。

そこで、炊き出しをしている、教会の牧師と出会います。その牧師の勧めで、教会へと導かれました。その教会で聞いた、メッセージの一声一声が、昔の辛い思いを、一つひとつ壊していき、温かい気持ちになり、涙が出てきたそうです。

そして、これからは、自分の力で生きるのではなく、この神様についていけば良いのだ、という思いに導かれました。すると、なぜか、身も、心も、本当に楽になったそうです。

「もし、だまされても結構です。イエス様、どうか私を、生まれ変わらせてください」、と夜明けまで祈りました。

その後、一戸さんは、教会からの援助を受けて、神学校で学び、現在はキリスト教の宿泊施設、「日光オリーブの里」で、牧師兼チャプレンを務めています。

一戸牧師の愛唱聖句は、エペソの信徒への手紙5章8節です。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

一戸牧師は、こう語っています。「私の人生は、まさに、この御言葉の通りです。

信仰を持つ前の、「暗やみ」のような人生から、主イエスを、救い主として迎えてからの、「光」のような人生へと、全く変えられたのです。

神様は不思議な方で、自分でも分からない方法で、導いてくださいます。

ですから、皆さんも、わくわくしながら、これからの人生を、楽しみに待ってください。」

一戸牧師は、暗闇から、光へと招かれた、自分自身の体験を通して、救いの恵みの、素晴らしさを語っています。

光と出会う仕方は、様々です。人によって、皆、違います。しかし、暗闇の中で、呼んでくださる声に、導かれて歩み出す時、私たちは、小さくても、確かな光を見出します。

そして、その小さな光の先には、驚くような大きな光が、必ず用意されています。

私たちが、祭司として、語り伝えるのは、この神様の、救いの御業です。

自分が変えられた、その神の御業を語ること。それが、私たちがなすべき伝道です。

私たちが、神の民となり、祭司とされているのは、この神様の、大いなる御業を、広く伝えるためなのです。

そのような、光栄ある務めに、招かれていることを、心から感謝したいと思います。

八木重吉も、このように、詩を通して、語っています。

「在天の神よ この弱き魂をすくいて 神とキリストの光のために 働かせてください」