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過去の礼拝説教

「もう一度チャンスはある」

2015年08月30日 聖書:ペトロの手紙一3:18~22

「生きている時も、死ぬ時も、私たちに与えられている、ただ一つの慰めは何ですか」。

先週は、この「ハイデルベルグ信仰問答」の第一問と、その答を手引きとして、御言葉を黙想しました。

「人生を生きる苦しみの中で、或いは、死に臨んだ時にも、ただ一つの慰めは何ですか」。

「それは、私たちが、罪赦され、キリストのものと、されていることです」。これが答でした。

「私たちが、キリストのものであるということ」。これ以外に、私たちの慰めも、私たちの希望もない。ハイデルベルグ信仰問答は、第一に、そのことを語っています。

それでは、そのキリストは、私たちのために、一体、何をしてくれたのでしょうか。

今朝の御言葉の18節は、まず、そのことを、明らかにしています。

私たちの罪を赦し、ご自身のものとするために、主イエスがなさったこと。

それは、「正しいお方であるのに、正しくない者たちのために、死なれた」、ということです。

私たちの信仰の、出発点であり、また到達点でもある、福音の真理が、この18節の一言に、要約されています。

このことは、キリスト者であるなら、誰でも知っていて、最も大切にしていることです。

しかし、その後に続く、19節、20節は、昔から、多くの議論を、呼んだ箇所です。

それは、主イエスが、十字架で死なれた後に、死んだ人たちの霊に対して、伝道された、と語っているからです。

『そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました』、と書いてあります。

更に、この先の4章6節にも、『死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです』、と書かれています。

明らかに、これらの御言葉は、主イエスが、既に死んだ人たちに、伝道された、と語っています。使徒信条でも、「陰府に下り」、という言葉があります。

当時の人は、世界は、天上と、地上と、地下という三層から出来ている、と考えていました。

この、地下の世界が、「陰府」と呼ばれ、そこには、死んだ人が集る、と考えられていました。

今日では、「陰府」という言葉に、具体的なイメージを、結びつけることは、しなくなりました。

それが、どこにあるのか、などと詮索することはしません。

ここで、大切なことは、主イエスが、死人に対しても、伝道された、ということなのです。

イギリスの著名な神学者ウィリアム・バークレーは、この御言葉について、こう書いています。 「ペテロは、キリストが死人の世界に下っていき、そこで福音を宣教したという、驚くべき思想を伝えている。すなわち、死によって裁かれた人でも、なおもう一度、福音を受け入れ、神の御霊によって生きる機会がある、という意味なのである。ある意味では、これは聖書の中で最も素晴らしい文章の一つである。というのは、それが私たちに、福音の第二の機会という、息をのむような光景を、垣間みさせてくれるからである」。

イギリス人のバークレーでさえ、この御言葉は、聖書の中で、最も素晴らしいものである、と言っています。

そうであるなら、私たちのように、キリスト教国ではない国に、生まれ育った者にとっては、この御言葉は、更に大切なのではないでしょうか。

私たちの周囲には、福音を聞かないで、死んでいった人が、たくさんいます。

いえ、殆どの人が、福音の本当の意味を、深く知らされることなく、既に、死んでいます。

果たして、そういう人たちは、救われるのだろうか。自分たちと、同じところに、行くことができるのだろうか。そのような不安を持つ、キリスト者は、少なくないと思います。

ある牧師のところに、一人の学生が、洗礼のことで、相談に来ました。

彼は、深刻な顔をして、こう言いました。

「自分は、主イエスの十字架以外には、救いはない、ということが良く分かった。

だから洗礼を受けたいと思っている。しかし、自分の両親は、既に、死んでしまっている。

聖書によれば、両親は救われず、天国には行かれない。

でも、私の両親には責任がない筈だ。なぜなら、両親は、一度も、キリスト教について、詳しく聞く機会が、なかったのだから。だから、キリストを信じることなく、死んでいった。

しかし、自分にとっては、大変いい両親だった。その二人とも、滅んでしまって、自分だけが天国に行くことはできない。どうしたらいいだろうか。両親は、救われないのだろうか。」

この学生のような、悩みを持つ人は、多いと思います。ザビエルが、日本での布教で、最も困難を覚えたのも、この点だったと、伝えられています。

日本だけではありません。キリスト教の布教が、遅かった国においては、みな同じ悩みを持っています。

ある宣教師が、中国で伝道したとき、一人の中国人が、キリストを信じる、決心をしました。

彼は、宣教師に聞きました。「この素晴らしい教えは、最近与えられたものなのですか」。

その宣教師は答えました。「いえ、二千年前に、与えられたものです」。

すると、その中国人は、悲しげに叫びました。「エッ、二千年も前からなのですか。では、なぜ、もっと早く、私たちに、伝えに来てくれなかったのですか。私の両親も、親類も、皆この素晴らしい教えを、知らずに、死んでしまったのです」。

その宣教師の顔は、苦渋に歪んだということです。このような話は、よく聞きます。

先ほどの、洗礼をためらっていた、日本の学生に対して、牧師は問い返しました。

「それでは、あなたは、ご両親に義理立てして、信仰を持つのをやめますか。自分も、救いに与ることを、拒否しますか」。

その学生は、「勿論、それでいいとは思っていません。だから困っているのです。苦しんでいるのです」、と答えました。

その牧師は、更に続けました、「もし、そうであるなら、そのように、両親の救いについて、悩み、苦しんでいる、そのままの自分を、神様に委ねなさい。キリストの恵みに、すべて委ねたらよいのです。それこそが、信仰の告白ではないでしょうか」。

その学生は、それから暫くして、洗礼を受けたそうです。

このような、悩み、苦しみを持つ者にとって、先ほどの、19節、20節の御言葉は、大きな慰めと、希望を与えてくれます。

御言葉は、ここで、主イエスは、死の世界にまで、降って行かれ、生きている間に、神様の御言葉に、従わなかった人々に、もう一度、福音を伝えてくださる、と語っています。

このような信仰が、ここまで明確に語られているのは、聖書の中では、この手紙だけです。

ここに、ペトロの手紙の、ユニークさが、現れています。

既に、ご一緒に聴きました、2章12節にも、このように書かれていました。「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

「訪れの日に神をあがめるようになる」。終末に、すべての者が、神様の訪問を受ける。

その時、神様は、信仰を持たないで、死んでいった人たちに、キリスト者の、この世における生き方を、示される。そして、そのことを通して、その人たちを、信じる者へと、変えようとされる、というのです。

「ほら、キリストを信じて、生きた人たちを見てごらんなさい。天国の光に照らされて、あんなに輝いていますよ。あなたも、あの人たちの仲間に、入りませんか。最後のチャンスですよ」。そう言って、説得される、というのです。

2章12節の御言葉も、死んだ者を、もう一度、救いに招き入れようとする、神様のお姿を、暗示していました。

しかし、この信仰は、ここで、全く唐突に、出て来たものではありません。

すでに、旧約聖書においても、神様の働きが、及ばないところは、どこにもない、という信仰が表明されています。詩編139編8節の御言葉は、このように語っています。

『天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。』

陰府に身を横たえる。それは死ぬということです。たとえ死んだとしても、陰府の世界にも、既に神様はおられる。詩編の御言葉は、そう言っています。

この詩人が歌ったような、神様の御業の広さ、深さが、今や、主イエスにおいて、はっきりと現れている。ペトロの手紙は、そのことを、言っているのではないでしょうか。

では、主イエスは、陰府において、何をなさったのでしょうか。主イエスはそこで、「捕らわれていた霊たちのところへ行って、宣教された」、と書かれています。

死んだ魂で、獄の中にいるように自由でない、救われていない魂に、御言葉を伝えられた、というのです。

20節によれば、それらの魂とは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに、従わなかった者」たちの、霊であるとされています。

ノアの洪水の物語は、神様が人間を裁かれる物語です。神様は、人間に、まず言葉を与えられたのです。「箱舟を作って、洪水に備えよ」、という救いのお言葉です。

このお言葉に従ったのは、ノアとその家族の、8人だけでした。他の人たちは、神様のお言葉を、無視したのです。

ですから、お言葉に従った、ノアの家族にとっては、神様の言葉は、救いの言葉となりました。しかし、それに従わなかった者には、滅びを告げる、裁きの言葉になったのです。

同じ言葉が、一方には、救いの言葉となり、他方には、滅びの言葉になったのです。

それなら、神様に裁かれ、滅びの水に、飲み込まれた者たちは、どうなってしまったのか。

彼等は、今どうなっているのだろうか。当時の人たちは、そのことを考えました。

そして、神様に背き、神様に裁かれた者たちの魂なら、「獄に捕らわれている」に違いない。

そのように考えたのです。

20節の御言葉が、問題にしているのは、このように、神様の声を聞き、神様に従うチャンスがあったのに、神様に背いた魂。救われなかった魂。捕らわれて、獄にいる魂のことです。

このように、信仰を言い表す機会を、与えられていたのに、それを拒否した人々のところにまで、主イエスは行かれたというのです。

そうであれば、信じる機会も、与えられないままに、死んだ人のために、キリストが、陰府の世界にまで行って、福音を伝えてくださるのは当然だと、考えてよいのではないでしょうか。

もう一度、19節の御言葉を聴いてみましょう。『そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました』。

主イエスは、どうしても、彼らのところにまで、下って行かなければならなかったのです。

彼らにも、救いを宣べ伝えるために、主イエスは、十字架で死なれたのです。

主イエスは、彼らにも、自分が、何のために、どうして、あの十字架に、上らなければならなかったのか。そのことを、伝えたいと、ひたすらに願われ、下って行かれたのです。

そして、十字架の贖いという、人間の知識を、遥かに越えた、救いの言葉を、そこで伝えておられるのです。

『あなたがたを神のもとへ導くために、正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれた』。およそ人間が考えも付かないような、この救いの奥義を、陰府にいる魂にも、伝えておられるのです。

しかし、既に死んだ人々に、どのような救いの道が、具体的に備えられているのでしょうか。それについては、ここには、はっきりとは書いてありません。

それは、神様が、ご存知のことですが、人間には知らされていません。

ここで語られていることは、死んだ魂が、どのようにして、主イエスの宣教によって、救われるかという、手続きではありません。

そうではなくて、ここでは、主イエスの、救いの御業の、大きさが、語られているのです。

福音を聞くことなしに、死んだ人にも、主イエスが宣教されている。この恵みの深さを、告げようとしているのです。

主イエスが、陰府にまで行かれたのは、それ程までに、主イエスが、あらゆる人間を救おうと、願っておられることを、示しています。

十字架につけられ、葬られ、甦られた主イエスは、それ程までに、ひたすらに、人間を救おうと、されておられるのです。

ですから、使徒信条にも、「陰府にくだり」という言葉が、入れられているのです。

使徒信条は、ここで、主イエスの、救いの御業の大きさと、そこに見られる、主イエスの愛の激しさを、告白しているのです。

このことについて、ある人が、このように言っています。

「陰府というのは、暗いところである。しかし、その暗さが、良く分かるのは、そこに光である主イエスが、行かれたからである」。確かに、そういえると思います。

しかし、そのことは、逆に、主イエスが行かれたときに、陰府は陰府でなくなった、と言うことも、出来るのではないかと思います。

言い換えれば、今生きている世界であろうと、死んでから後の世界であろうと、それを、暗闇にしてしまうのは、神様ではなくて、私たち人間である、ということです。

私たちの、神様に逆らう思い。それが陰府の暗闇を作り出すのです。

神様に逆らって生きる。それは、この世を、陰府の暗闇で覆ってしまうことです。

そのように、この世を、暗闇で覆ってしまうという、人間の行為の極限が、主イエスを、十字架にかけて殺してしまった、ということなのです。

私たちは、今でも、主イエスを殺しています。主イエスの愛を裏切り、主イエスの教えを踏みにじり、主イエスが示された、神様の栄光を曇らせています。

そうすることによって、神様が、「光あれ!」と言われて、造られたこの世を、陰府の暗闇に、変え続けています。

しかし、そのような暗闇の中に、まことの光である、主イエスが来てくださり、十字架の贖いによって、私たちの罪を赦してくださったのです。

そして、甦りの主は、今も生きて、私たちの救いのために、執り成してくださっています。

それによって、罪に満ちたこの世も、尚も、神様の光を、仰ぎ見ることができるのです。

希望の光が、私たちの生きる、この世界に、差し込んでいるのです。

もう一度、18節を見てください。『キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。』

なぜ、キリストは、十字架で苦しまれたのか。それは、正しくない者を救い、神様のもとへと導くためであったのです。

正しい者のためではなく、罪人の救いのために、十字架の死を、引き受けられたのです。

そこで、19節は、このように問います。主イエスの十字架の苦しみは、信仰を持たずに死んだ、あの人たちのところには、及ばないのだろうか。そんなことはない筈だ。

主イエスは、獄に捕らえられている、人たちのところにまで、下って行かれたのだ。

主イエスの救いの御業が、及ばないところは、どこにもない筈だ。

そのために、主イエスは十字架で苦しまれ、死なれたのだ。

そのように、ペトロは語っているのです。

主イエスの救いの力の、及ばないところなどない。天上にも、地上にも、地の底にも、福音の及ばないところなど、あり得ない。これが、ペトロの信仰でした。

それは、フィリピの信徒への手紙2:10~11にある、パウロの言葉とも重なります。

『こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』

主イエスは、すべての者の主です。それは、主イエスが、すべての者に対する、救いの御業を、成し遂げてくださったからです。この恵みが、生と死の境をも越えて、陰府の世界も、福音の及ぶところと、してしまったのです。

ペトロは、死んだ者が、どのようにして救われるのか、という手続きなどには、関心を払っていません。

そんなことより、主イエスが、どれほどの力を持って、徹底した救いの御業を、成し遂げてくださったか。そのことに、関心を集中させています。

そして、主イエスの十字架の苦しみを思うと、その救いから漏れるところなど、どこにもない。そのような確信に至ったのです。

私たちは、天の上も、地上も、地の底も、すべてを支配しておられるお方の、救いの力のもとに置かれているのです。

それを、成し遂げてくださった、主イエスの救いに、心から感謝したいと思います。

皆さんの愛する人の中にも、信仰を持たずに死なれた人が、たくさんおられると思います。

しかし、望みを捨てないでください。もう一度チャンスがあるのです。

ですから、天国での再会を、楽しみにしつつ、信仰の旅路を、共に歩んでまいりましょう。