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過去の礼拝説教

「キリスト者の幸いとは」

2015年09月27日 聖書:ペトロの手紙一 4:12~19

今朝、ここにおられる皆さん方には、例外なく、一つの共通点があります。

お年寄りであろうと、若い方であろうと、男性であろうと、女性であろうと、どなたにも共通している、ある特徴を持っておられます。それは、一体何でしょうか。

皆さんが、美男・美女であることでしょうか。それもあるかもしれません。しかし、もっと幸いな共通点があります。

それは、ここに居られる方は、どなたも皆、「愛されている」ということです。皆様方は、誰もが、例外なく、愛されている方々なのです。

今朝の御言葉は、「愛する人たち」、という呼びかけをもって、語り始めています。

「愛する人たち」と訳されていますが、原語では「愛されている人たち」と書かれています。

受身になっているのです。「愛されている」。

では、誰に愛されているのでしょうか。この手紙は、ペトロが書いたものですから、ペトロによって、「愛されている」、と捉えるのが自然でしょう。

ペトロは、厳しい迫害の中にいる、教会の信徒たちを、心から愛していました。

それは確かです。しかし、それだけではありません。

ペトロの愛にも、遥かに優って、「あなたがたは、キリストによって、愛されている」、ということを、ペトロは伝えたかったのだと思います。

あなたがたは、キリストによって、愛されている。そして、キリストによって、愛されている者同士として、お互いに愛し合っている。

お互いが、キリストにあって、「愛する人たち」、と呼び合っている。

教会とは、そのような群れなのだ。どんな時も、そのような群れであって欲しい。

ペトロは、そのような思いを込めて、「愛する人たち」、と呼び掛けているのだと思います。

そして、この言葉は、今朝、キリストによって、一人ひとり、名前を呼んで頂いて、この礼拝に招かれた、私たちにも、語り掛けられているのです。

私たち一人一人も、「愛されている者」なのです。神様から愛され、そして、お互いから、愛されている者なのです。

繰り返して申し上げていますが、この手紙の宛先は、迫害を受けている教会です。

初代教会は、どこにあっても、迫害の波にさらされていました。

ユダヤ人からは、異端と見做されて、会堂から追い出され、村八分に遭っていました。

知識を誇るギリシア人からは、死者の復活を信じるなんて、何と無知で愚かな者かと、馬鹿にされ、蔑まれていました。

異教徒からは、偶像の神を冒瀆する、不届き者として、石を投げられました。

そして、ローマ政府からは、皇帝崇拝を拒む反逆者として、捕らえられ、鞭打たれました。

いつでも、どこでも、信仰を守っていくことは、命懸けのことでした。

そういう中で、教会員同士が、愛し合うとは、具体的に、どういうことでしょうか。

仲良く一緒に、お食事をしよう、ということでしょうか。或いは、お茶を飲みながら、人生の話をしよう、ということでしょうか。そうではありません。

キリストから愛されている者として、キリストから頂いた愛をもって、互いに慰め合い、励まし合って生きる、ということであったのです。

幸いなことに、今日の教会には、そのような迫害はありません。言うまでもなく、迫害などは、無い方が良いのです。しかし、ここで問われなくては、ならないことがあります。

それは、私たちが、このような迫害を、単なる、遠い昔の、不幸な出来事として、心の片隅に押し込めてしまってはいないか、ということです。今の私たちには、関係がない、昔話である、と考えてしまっているのではないか、ということです。

しかし、今日の教会に迫害が無いのは、もしかしたら、教会が、本当にキリストを愛して、キリストのために、生きようとしていない、からなのかも知れません。

もし、教会が、福音を一切割り引くことなしに、純粋に語っていこうとするならば、今でも、困難な道を、歩まなければならないということが、起こり得ると思います。

確かに、初代教会のような、命の危険にさらされるような、迫害はないかもしれません。

しかし、世間からつまはじきに遭い、排除される、ということは、今でも、あり得ることだと思います。

今日でも、聖書の言葉を、割り引くことをせずに、そのまま生きていこうとすれば、社会から疎まれ、排除される恐れがあります。苦難の道を、歩まざるを得ないのです。

19節に、「神の御心によって苦しみを受ける人は」、と書かれています。

どの時代であっても、純粋に、神様の御心に従って、生きていこうとすれば、苦しみに遭う、ということがあるのです。

この世にあって、どこまでも、神様の御心に従って、生きようとするときに、周囲の人たちから、「変わり者」、「よそ者」、「調和を乱す存在」と、見られることがあるのです。

そのような時、キリスト者は、神様の御心と、この世との、狭間に立って、悩みます。

私は、実社会で、永く働いていましたが、その時、キリスト者であるが故の苦しみを、多少なりとも味わいました。思い出すと、今でも、心が痛むことがいくつかあります。

それらの多くは、利益を最優先する会社の方針と、キリスト者として、その方針に従うことができない、という思いとの葛藤でした。

ある時、会社の業績が悪化して、人員を削減しなくては、ならなくなりました。私の部署でも、削減する人のリストを、出すように言われました。

「皆の給与を、少しずつカットすれば、人員削減をしないで、済むのではないでしょうか。それがだめなら、私の給与を、半分にしてもいいですから、私の部署は、全員残れるようにしてください」。そう申し出ても、受け入れられませんでした。

あまりにも執拗に反対したので、最後は、会社の中で、非難され、孤立してしまいました。

会社に抗議して、辞職するのは簡単ですが、そうすると私の後任は、もっと大幅に、人員を削減する可能性が、大きかったので、仕方なく、最小限の削減を受け入れました。

辞めてもらう人と、面談した時の苦しみは、生涯、忘れられないと思います。

そのような時は、皆、苦しみます。キリスト者だけが、苦しむ訳ではありません。キリスト者でない人も、勿論、苦しみます。

でも、キリスト者でない人の多くは、最後には、これも仕事の一つと、割り切って、実行すると思います。そうしなければ、やって行けないからです。

しかし、キリスト者は、最後まで、本当に苦しみます。今でも、その人たちのことを思うと、胸が張り裂けるような、痛みを覚えます。

現代でも、神様の御心に従って、生きていこうとする時に、様々な苦しみに出会うことが、あるのです。

チイロバ牧師として親しまれた、榎本保郎先生は、こんなことを書いておられます。

「『私はクリスチャンです』と言うと、『はぁ、そうですか。それは、まぁ、おめでたいことで』、と言われることがある。そんな時、私は、『はぁ、おめでたく見えますかねぇ』と、受け流すのだが、心の中では、『何がおめでたいものか。クリスチャンとして生きることは、戦いなんだぞ』、と言い返している。」 いかにも、榎本先生らしいコメントです。

確かに、キリスト者として生きる時に、苦しみに遭うことがあります。

しかし、聖書の最大の関心は、苦しみに、向けられているのではありません。

聖書は、苦しまないキリスト者は、キリスト者ではない、などとは言っていません。

ですから、敢えて、苦しみを求めて、生きる必要が、ある訳ではありません。

キリスト者は、この世の不条理や矛盾を、一身に背負っているかのように、いつも暗い顔をして、眉間に皺を寄せて、うつむいて歩かなければいけない。そんなことは、全くありません。また、あの人は、キリスト者の癖に、苦しみが無いように、のんびり生きているから、本物ではない、などと言うことも、間違っています。

聖書は、あなた方は、愛されている者として、喜んで生きなさい。いつも喜んでいなさい、と繰り返して、語っています。苦しみの中でも、喜びなさい、と言っています。

ここで聖書が、大切なこととして、語っているのは、12節にあるように、「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではならない」、ということなのです。

自分に与えられた試練を、「何か思いがけないこと」のように捉えて、動揺してはいけません、ということなのです。

信仰の故に、こんな苦しみを受けるのは、おかしい。そのように、驚き怪しんで、遂には、信仰を捨てるようなことが、あってはならない、ということです。

キリスト者として、生きていく時に、出会う苦しみ。そのことの故に、信仰そのものが、ぐらついてしまうことが、ないようにしなさい。

こんな苦しみに遭うなら、いっそ信仰を捨ててしまおう、などと思っては、いけません。

試練を逃げずに、受け止めなさい。御言葉は、そう言っているのです。

キリスト者は、ややもすると、「苦しいときの神頼み」ではなく、「苦しいときの神離れ」、をしてしまうことがあるのです。

苦しみに遭うと、信仰を持っているのに、なぜこんなに苦しい目に遭うのかと、神様を疑ったり、神様から離れたり、してしまうことがあるのです。

ある人は、苦しみに直面した時、「私はこの時のために、信仰を持ち続けてきたのだ」、と自分に言い聞かせるそうです。苦しみの時こそ、実は、信仰の本領を、発揮する機会なのです。今朝の御言葉も、思いがけない試練の時には、自分の信仰が、試されることになる、と語っています。

キリスト者とは、「キリストの僕」、或いは「キリストのもの」、という意味の言葉です。

どんな時にも、キリストのもので、あり続けようとする。そのことによって、苦しみに遭う。

その時、それを受け止めるか、それとも、拒否していくか。そこで、私たちの信仰が問われる、と言っているのです。

この手紙を書いたペトロは、何度も主イエスを、裏切った弟子です。危険が迫った時に、キリストのものとして、生き抜くことに、失敗した経験の持ち主です。

苦しい時の神離れ、をしてしまった人です。ですから、苦しみの中で、キリスト者として生きていくことの、難しさを、人一倍、よく知っていました。

しかし、ペトロが、「神離れ」をしていた時も、主イエスは、「ペトロ離れ」を、されてはいなかったのです。

そして、逃げ隠れていたペトロを、どこまでも探してくださり、御手に捕えてくださり、再びご自分のものとしてくださったのです。

ペトロは、この経験を通して、もっとしっかりと、キリストと、結びつくようになったのです。

だからこそ、心を込めて、語っているのです。主を信頼し、試練に立ち向かいなさい。試練の時こそ、主イエスとの交わりを、深める機会なのだから。

しかし、どうすれば、その苦しみに、耐えることができるのでしょうか。

どうすれば、苦しみの時でも、なおキリスト者で、あり続けることが、できるのでしょうか。

苦しみに耐えることができるのは、キリストがそこにおられるからです。悲しみのただ中にも、キリストが、共にいてくださるからです。

そして、キリストも、同じ苦しみを、味わっておられることを、知るからです。

そのことを通して、キリストと、ますます深く、交わることが、出来るからです。

14節の御言葉、「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」。

試練の苦しみの中で、まるで、神様が、一番遠くにいるかのように、思える時に、尚も、キリスト者として生きる。その時、あなた方は幸いだ、というのです。なぜ、幸いなのでしょうか。

それは、その時、神様の輝きを見るからです。その時、栄光の霊、神の霊が、私たちと、共にいてくださることを知るからです。

最も深く傷つく者は、最も深く癒されるのです。自分が、神様から、最も遠くに置かれていると、感じている者は、やがて、最も明らかに、神様の輝きを、知る者とされるのです。

ある人が、大きな苦しみの中で、叫びました。

「主よ、私は、今、耐え難い苦しみの中にいます。あなたを、最も必要としています。それなのに、あなたは、一体どこにおられるのですか。私を見捨てられたのですか」。

その時、その人の心の中に、神様の御声が、迫ってきました。

「友よ、私は、決して、あなたを見捨てていない。私は、私の最愛の独り子が、あの十字架で苦しんでいた時と、同じ所に、今もいるのだよ」。

主イエスも、極限の苦しみの中で、共におられる父を、見ておられたのです。

苦しみは、神様がおられないことの、証しではありません。私たちは、苦しみの中で、主が共におられることを、一層はっきりと、知ることができるのです。

深い孤独に悩む時、すべての人に裏切られて、たった一人で、十字架に上られた主が、共にいてくださいます。

一歩も歩けないほどに、疲れ果てた時には、人の子には、枕するところもない、と嘆かれた主が、共にいてくださいます。

貧しさと、空腹に耐え難くなった時には、40日の断食の後、尚も、パンよりも御言葉を、慕い求めた主が、共にいてくださいます。

人々から、辱めを受け、惨めな思いをしている時には、嘲られ、唾かけられながらも、十字架を背負って、黙々と歩まれた主が、共にいてくださいます。

痛み、苦しみに、呻き、もがく時、十字架の苦しみの中で、尚も、人々のために祈られた主が、共にいてくださいます。

どこでも、どんな時にも、主は、決して、私たちを見捨てることなく、共にいてくださるのです。キリスト者の幸いは、そこにあります。どこか他の所に、あるのではありません。

御言葉は言っています。キリストのために苦労する者は、幸いです。神の霊、つまり聖霊が、その人の上に、とどまってくださるからです。

今から100年以上も前に、中国の奥地に伝道に行った、アメリカ人宣教師がいました。

外国人が一人も訪れたことのない、中国の奥地に、若い宣教師の夫妻が赴任したのです。

言葉の壁、外国人に対する激しい偏見の中で、厳しい伝道生活が続きました。

14年掛かって、やっと一人の信者が与えられました。

更に14年掛かって、やっと信者が10人となり、粗末な会堂を建てました。

さぁ、いよいよこれからという時に、何と一人娘が、ハンセン病に罹ってしまったのです。

三日かけて、親子3人で上海の港まで辿り着き、奥さんと娘さんをアメリカに帰国させました。その宣教師は、その夜、上海のホテルのベッドで、泣きながら、ひたすら祈りました。

ちょうど同じ部屋に、その宣教師が属する団体の、中国総監督が居合わせました。

総監督は、この宣教師が、あまりにも長く、泣きながら祈っているので、声を掛けました。

そして、その事情を聞きました。事情を聞いて、総監督は、即座に言いました。

「兄弟、それはいけない。後のことは、私が、一切の責任を取るから、あなたは、次の船で、直ぐにアメリカにお帰りなさい」。

すると、その宣教師はこう答えたそうです。「いいえ、先生、そうではないのです。誤解なさらないで下さい。私は、一人中国に残ることになったことが、悲しくて泣いているのではないのです。私は、一人の信者を得るのに、14年も掛かった駄目な宣教師です。

28年掛かっても、やっと10人の信者を得られたに過ぎない、無力な宣教師です。

神様のために何も出来ない者です。けれども、そんな、私に、先ほどイエス様が、『兄弟、さぁ、これからまた、私と一緒に、あの村に行ってくれますか。たった10人だけれども、生まれたばかりの信仰の赤子が、待っているあの村に、私と一緒に行ってくれますか』と、言ってくださったのです。私は、そのイエス様のお言葉が、嬉しくて泣いていたのです。」

この宣教師は、悲しみと嘆きの祈りの中で、共にいてくださるイエス様と出会い、その幸いに満たされていたのです。嘆きの祈りが、感謝の祈りへと変えられていたのです。

以前、原崎百子さんという、牧師夫人が作った詩を、紹介させて頂いたことがありました。

原崎百子さんが、肺がんで召される、直前に詠んだ詩は、このように詠っています。

『わたしが共にいる、治らなくてもよいではないか。わたしが共にいる、長患いでもよいではないか。わたしが共にいる、何も出来なくてもよいではないか。わたしが共にいる、それでよいではないか。或る晩 キリストが そう言って下さった』

原崎さんは病の床にあって、何もする事が出来ない重病人でした。

しかし、彼女の心は、豊かに満たされていたのです。すべてを益としてくださるキリストが、共にいてくださったからです。

キリストが、共にいてくださるではないか。キリストとの交わりが、与えられているではないか。「それでよいではないか」、という思いに導かれていったのです。

キリスト者の幸いとは、このことです。どこでも、どんな時にも、主が共にいてくださる。

これに優る幸いは、ありません。

愛されている皆さん。皆さんは、この幸いに生かされているのです。

そのようなお互いとして、感謝しつつ、励まし合いつつ、共に歩んでまいりましょう。