MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「主との二人旅」

2015年09月13日 聖書:詩編 71:1~24

今朝は、多くの信仰の先輩たちと共に、敬老祝福の日の礼拝を、献げることができる恵みを覚え、心から主に感謝いたします。

今朝、私たちは、80歳以上の先輩方が歩まれた、信仰の旅路に思いを馳せ、お一人お一人に注がれた、神様の豊かな恵みを、共に感謝する時を、持っています。

旧約聖書の箴言に、こういう言葉があります。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」。 この言葉は、白髪とならず、私のように脱毛してしまった人のことも含めて、語っていると思います。ただ、「禿は輝く冠」と言うと、あまりにもリアルに過ぎるので、白髪だけに止めたのでしょう。聖書は、一貫して、ご高齢の方々に顕わされた、神様の祝福を称えています。

歳を重ねるということは、神様の恵みと祝福の、証しであると、語っています。

しかし、そう言われても、やはり歳は取りたくない、と誰もが心の片隅では、思っておられるのではないでしょうか。

でも、ある時、私は、次のような言葉に、出会いました。

「私から、歳を奪わないでください。なぜなら、歳は私の財産なのですから」。

この言葉に出会って以来、私の心には、「財産となるような歳をとりたいな」という思いが芽生えました。

歳を取って、身体的機能は衰えていくとしても、人間としての成長は、尚も可能です。

ただ、ここで言う成長とは、伸びてゆくというよりも、成熟するということです。

要らない枝葉をそぎ落とし、身軽になること。意地や執着を捨てて、素直になること。

他人の言葉に耳を傾けて、謙虚になること。それらが、成熟する、ということです。

そして、世の中が、自分の思い通りには、ならないことを理解し、一人ひとりの違いを受け入れることの、大切さを知る。

これらのことも、歳を重ねていく内に、学びます。

そして、ここまで守ってくださった、神様の愛に気づいて、喜びと、感謝に生きる。

そのような生き方こそ、財産となる歳を取る生き方である、と思うのです。

しかし、そのように、歳を重ねるということは、決して容易い事ではありません。

歳をとることには、やはり辛いことも、多く伴います。

牧師であり、また老人ホームの園長でもある、ある先生のお話しを伺ったことがあります。

その先生は、色々なところで講演をされるのですが、講演の後の質疑応答で、必ずと言って良いほど出るのが、「ボケない方法を教えてください」、という質問だそうです。

その質問に対して、先生は、こう答えるそうです。

「ご安心ください。必ずボケます。ですから、ボケない方法を、考えて悩むよりも、物忘れが上手になる、と思っていた方がよろしいでしょう。『最近、物忘れが上手になっちゃってね』、とご挨拶するようにしてください。」

これは、歳を取ることを、前向きに捉えていこうとする、心の持ち方を示していると思います。ゼカリヤ書 14章 7節に、「夕べになっても光がある」、という御言葉があります。

一生を一日に譬えれば、歳をとった今は、夕方かも知れません。

しかし、預言者は、夕方には、夕方ならではの、優しい光がある、というのです。

真昼の照りつけるような、ギラギラした光ではなく、昼間の業で疲れた体を、いたわり、覆い包むような、優しい光がある、というのです。

その光に照らされて、今の、ありのままの自分を、感謝し、前を向いて、尚も、希望に生きる生き方。そのような生き方を、目指していきたい、と願わされます。

さて、ここまでの話しで、お若い方々は、「あぁ、今日は、高齢者向けの話だから、自分には関係ない」、と思っておられるのではないでしょうか。

しかし、決してそうではありません。老いへの旅路というのは、歳をとってから始まる、というものではないのです。生まれた時から、私たちは、この旅路を歩んでいるのです。

英語で、年齢を聞くときに何と言いますか。「How old are you?」、と聞きますよね。

そうすると、たとえ5歳の子どもでも、「I am 5 years old.」と答えます。

どんなに小さな子にも、「How young are you?」とは聞きません。また、「I am 5 years young.」とは答えません。

ですから、生まれた時から、私たちは、oldへの旅路を歩んでいるのです。

皆一緒に、oldへの旅路を、歩んでいるのです。ですから、お若い方々も、ご自分のこととして、今日の話しを、聞いていただきたいと思います。

先ほど詩編71編を読んで頂きました。この詩は、聖書の中では珍しく、「老い」の問題を扱っています。

この詩を詠った詩人は、生涯を通して、信仰に生き抜いてきた、一人の老人です。

しかし、今、この年老いた信仰者は、安らかな老後を、楽しんでいるのではなく、自分を苦しめる敵に取り囲まれ、辱めを受けています。

そのような中にあって、詩人は、自分が歩んできた、信仰の旅路を、振り返っています。

そして、そこに示された、神様の豊かな恵みを見つめ、そこから希望を、汲み取っているのです。この詩には、今、目の前にある、苦難に対する、嘆きが語られています。

しかし、それにも増して、神様に対する確かな信頼と、希望が繰り返して、語られています。

そして、最後は高らかな賛美へと、高められていっています。

主にあっての希望が、素直に、そして力強く歌われているのが、5節です。

「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。」

この時、詩人は、悪事を働く者、不法を働く者たちによって、苦しい立場に置かれていました。この時、詩人が、何歳であったのかは分かりません。

しかし、かなりの老齢であったと思われます。老齢の身にありながら、敵から攻められ、辱めを受けているのです。普通なら、絶望するような状況です。

でも、詩人は、そこでも尚、希望を抱いています。尚も、将来に期待しているのです。

「主よ、あなたはわたしの希望」。この一言は、詩人の信仰の、すべてを物語っています。

何故、そのような希望を、抱くことができたのでしょうか。

この時、詩人を慰め、励ましているのは、生れてから、今まで、変わることなく、彼を支え続けてくれた、主の恵みです。

彼の希望の根拠は、今まで与えられてきた、この主の恵みなのです。

自分は、母の胎にある時から、ずっと主に依りすがって来た。

そして、主は、自分から決して離れず、いつも共にいてくださり、支え続けてくださった。

その主が、今、この時も共にいてくださる。この事実が、彼の希望の根拠です。

ですから、詩人は、9節で訴えています。「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください」。

更に、12節でも叫んでいます。「神よ、わたしを遠く離れないでください」。

詩人にとって、最も恐るべきことは、敵の存在ではありません。或いは、苦難があることでもありません。

そうではなくて、自分が老いの日々を送る中で、神様と共に歩んでいることの、確信を失ってしまうことなのです。

神様に、見捨てられてしまったのではないかという、不安に陥ってしまうことなのです。

どんな時にも、主が共にいてくださるという、確信を持ち続けていきたい。

詩人は、そのことを、ひたすらに願っているのです。

自分の命を脅かす敵や、苦難からの救出よりも、そのことの方が大切なのです。

どんなに敵に攻められようとも、どんな苦難に遭おうとも、主が共にいてくださるなら、尚そこで、希望に生きることができる。

しかし、もし、その確信を失ってしまったなら、もはや、そこに希望はない。

詩人は、主との二人旅を、これからも続けられるようにと、ひたすらに願っています。

これこそが、詩人の最大の願いなのです。

私たちも、人生の旅路のどこかで、主に出会っています。

若い時に出会った人もいます。中には、この詩人のように、母の胎にいる時から、主に依りすがって来た方もおられるでしょう。

或いは、ずっと遅くなって、ごく最近になって、主に出会った方も、おられるでしょう。

主に出会った時期は、様々です。しかし、主と出会った後は、この詩人のように、主と共に、人生の旅路を、歩んでおられます。

私は、時々、もし主と出会っていなかったら、自分は、どんな人生を送っていただろうか、と思うことがあります。恐らく、随分と違った人生であったと思います。

美智子皇后の詠まれた歌に、こういう歌があります。

「かの時に 我がとらざりし 分去れの 片への道は いづこ行きけむ」。

あの時に、自分が選ばなかった、分かれ道の、もう片方の道は、どこへ通じていたのか、という意味の歌です。

この歌のように、もし、主と出会っていなかったら、私の人生は、どこに行っていたのか、分かりません。恐らく、随分と荒れ荒んだ違ったものになっていたでしょう。

主と共に歩む人生。それは、何が違うのでしょうか。

順境の時には、その違いは、それほど表れて来ないかもしれません。

しかし、違いが見えてくるのは、逆境の時です。この詩人のように、敵に攻められるような、苦難に出会った時です。

その時に、この詩人のように、そこで尚も、希望を持ち、主に、感謝と賛美を、献げることができる。この違いは、どこから生じるのでしょうか。

その違いの一つは、旅のゴールが、示されているか、いないか、ではないでしょうか。

旅の行き着く先にあるもの。それを、知らされているか、知らされていないか、の違いです。

これは、旅する者にとって、大きな違いです。

もし、この旅が、どこを目指しているのかを、知らないで歩いているなら、その歩みは、ゴールに近づけば近づくほど、不安になります。どんなゴールか分からないからです。

しかし、目的地が知らされているなら、安心して歩むことができます。

生涯、主と共に、二人旅を歩んだ人の話が、創世記5章に出てきます。

エノクという人です。聖書は、この人のことを、大変短く語っています。

「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」。たったこれだけです。

ですから、エノクという人が、どういう人であったのか、全く分かりません。しかし、一つだけ分かっていることがあります。それは、エノクは、神と共に歩んだ人である、ということです。

この詩人と同じように、若い時から、主に依り頼み、いつも主と共に歩んだ人だったのです。

このエノクという人は、死を見ることなく、天に移された、と聖書は語っています。

どういうことでしょうか。黙想の中で、私は、このような情景を、思い浮かべました。

神様と、エノクが、ずっと一緒に歩いている。長い道のりを歩いた末に、神様が、エノクに語りかけます。「エノクよ、随分遠くまで、一緒に歩いて来たね。もう、わたしの家が直ぐ近くですよ。どうですか、わたしの家に寄って、疲れを癒しませんか」。

エノクが答えます。「はい、主よ、そうします」。そうして、二人は神様の家に入って行った。

こんなシーンを思い浮かべました。

エノクは、ずっと神様と一緒に、二人旅を続け、神様に招かれるままに、そのまま神の家に入って行ったのです。

これは、私たちの目指すべき、旅路のゴールを、示しているのではないでしょうか。

私たちは、目的地が分からないまま、旅を続けているのではありません。

結末が分からない、スリラー小説を、びくびくしながら、読んでいるのではありません。

スリラー小説の最後のページの結末を、既に読ませていただいているのです。

ですから、与えられた旅路を、最後まで、安心して、生き抜くことができるのです。

この詩人も、行くべき所が分かっているので、地上の生活が、どんなに困難や苦しみに満ちていても、耐え忍ぶことができたのです。

20節の御言葉は、そのことを語っています。

「あなたは多くの災いと苦しみを/わたしに思い知らせられましたが/再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から/再び引き上げてくださるでしょう」。

この世にあって、私は、多くの災いと、苦しみの中を、通らされた。

これは過去形です。詩人は、この世では、数々の苦難に出会ったのです。

しかし、主は、この私に、「再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう」、と言っています。これは、未来形です。

ここで、詩人は、旅が終わって、ゴールに入った後の、祝福について、語っています。

主は、再び命を得させてくださり、地の深い淵から、再び引き上げてくださる、というのです。

詩人は、来るべき世における、復活の希望を、喜びをもって語っています。

それでは、もう高齢になった詩人は、ゴールまでは、静かに、その祝福を、ただじっとして、待つことにしているのでしょうか。いえ、そうではありません。

詩人は、高齢になっても、尚も、自分に与えられた、使命を全うしようと、ひたすらに願っています。17節、18節で、詩人は、こう語っています。

「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。

わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください」。

詩人に与えられた使命。それは、神様の御業を、来るべき世代に伝えることです。

この尊い務めを果たせるように、詩人は、今一度、主に助けを求めています。

高齢になっても、詩人の目は将来に向けられています。残された人生における、使命と希望を見つめています。

私たちは、この詩人の中に、活き活きとした、若さを見ることが出来ます。

詩人は、既に、自分の旅の、行き着く先を知っています。ゴールに入った後の、すばらしい祝福の約束を得ています。

それ故に、詩人は、今の時を、一層活き活きとして、生きられるのです。

歳をとっても尚、与えられている使命を、果たすことに、生き甲斐を持っているのです。

自分に与えられた、神様の恵みを、次の世代に伝える使命。

これは、この詩人だけではありません。私たち、信仰者すべてに、与えられた使命です。

私たちは、あの駅伝のランナーのようなものです。前の走者から引き継いだ「たすき」を、次の走者に、確かに手渡すこと。それが、私たちに与えられた務めです。

もし、私たちが、その「たすき」を、繋ぐことに失敗したら、そこで宣教のリレーは、途絶えてしまいます。ですから、私たちは、この「たすき」を繋ぐ、という尊い務めを、最後まで諦めてはいけないのです。

ジェラール・シャンドリーという人が、「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ」と言っています。

私たちは、「たすき」をたくさん貯め込むのではなくて、託された「たすき」のすべてを、次の世代に手渡して、空手でこの世の旅路を、終えたいと思います。

私は、駅伝の最後を見るのが好きです。最終走者が、「たすき」をかけて走り込むゴール。

そこには、既に、走り終えたランナーたちが、待っていて、最終走者を、皆で出迎えます。

私たちも、自分に託された区間を走り終え、「たすき」を次の世代に手渡した後は、ゴールに行くのです。

そして、そこで、いつの日か、最終走者が、ゴールに飛び込んでくるのを、出迎えるのです。

先輩のランナーたちと、皆で、揃って最終走者を待つのです。

そこには、主イエスもおられます。ペトロやパウロなどの使徒たちもいるでしょう。

主イエスや、信仰の先輩たちと一緒に、最終走者を出迎える。

これが、ゴールにおける光景です。何と言う心躍る時でしょうか。

主の驚くべき御業を語り伝える、と言っても、それは、言葉による伝道だけではありません。

私たちの生きる姿。生き様を通して、主の恵みを伝えることは、言葉による伝道に、勝るとも劣りません。私たちの人生を通して、主の栄光を顕す。主に生かされている、私たちの姿を示すこと。それこそが、生きた伝道であり、私たちに託された、使命です。

今朝、覚えさせていただく、80歳以上の先輩方は、そのように生きて来られた、証し人です。

ステンドグラスに描かれた聖人たち。あの聖人たちは、自分では輝いていません。

背後から差し込む光によって、きれいに輝いているのです。

私たちは、背後の光の素晴らしさを知らせる、ステンドグラスでありたいと願います。

そして、人生の旅路において、いつも主が共にいてくれることを、心から喜び、そのことを、生涯かけて、高らかに賛美していく者でありたいと願います。