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過去の礼拝説教

「忠実な僕よ、よくやった」

2015年10月25日 聖書:マタイによる福音書 25:14~30

今朝は、私たちより、一足早く、この地上における、歩みを終えられ、天の御国に凱旋された、先達たちや、信仰の友を覚えて、礼拝を献げています。

今朝、祈りの中で、覚えさせて頂いている方々の多くが、人生のある時期に、あの第二次世界大戦と、戦前・戦後の激動の時代を、生き抜かれた方々です。

あの未曾有の困難によって、その人生に、少なからぬ、影響を受けた方々です。

梅田百合子姉妹のように、結婚されて間もなく、ご主人が戦地で、天に召されたため、戦後は、女手一つで、お子様を育てられる、というご苦労を、された方もおられます。

また、大戦前の生活の、一切を捨て去り、住む場所さえも、移された方もおられます。

東京から、或いは、関西や、九州から、この茅ヶ崎の地へと、移られた方。或いは、遠く満州や、朝鮮半島から、帰って来られた方も、おられるでしょう。

また、職業を変えられた方も、多くおられると思います。

軍人から、サラリーマンになられた方。或いは、自動車会社から、聖書協会にて、全国に聖書を配るお仕事に、着かれた方もおられます。

私たちは、世の中の、大きな変化に応じて、生きる場所や環境を、様々に移していきます。物理的な、場所を移動するだけでなく、仕事や、生き方、も変わります。

そうやって、様々に変化する状況に対応しつつ、生きていきます。

しかし、この世にあって、生きていく限りは、それらは、すべて横の移動です。

水平の移動です。この地上における、横の移動、水平の移動なのです。東京から、茅ヶ崎への移動。軍人から、サラリーマンへの移動。これらは、すべて水平の移動です。

これに対して、垂直の移動、というものがあります。

最近、ある牧師が、『水平から垂直へ』、という題の、説教集を出版しました。

その中で、この牧師は、こう言っています。

『私たちの一生とは、この地上の、様々な出来事を経験する、水平な旅から、主の許に帰っていく、垂直な旅へと、向かう歩みです。

信仰によって生きた、信仰の先達たちも、天の故郷を目指して歩み、そして、そこに帰って行かれたのです。この地上における「水平」の歩みを終えられ、神に至る「垂直」の歩みへと、移されていったのです。』

聖書は、私たちのことを、この地上における、旅人である、と捉えています。

私たちは、天に故郷を持つ者であり、天の故郷を目指して、この世を旅している者である、というのです。

その天には、神様が、私たちのために用意された、永遠の住いがある。だから、この世の住まいは、例えそれが、どれ程、豪華で、立派であっても、仮の住いである、というのです。

水平から、垂直へ。この言葉は、私たちに、十字架を想い起させます。

十字架の、横の杭は、縦の杭によって、支えられています。縦の杭がなければ、横の杭は、宙に浮いてしまいます。縦の杭がなければ、横の杭だけでは、立ち行かないのです。

私たちの人生も、同じです。この世における、水平の歩みは、垂直の歩みによって、支えられているのです。この世における、水平な歩みは、やがて主の許に、旅立つという、垂直な歩みによって、支えられているのです。

今朝、私たちが、想い起している、信仰の先達たちの多くは、世界大戦や、戦前・戦後の激動期の中で、この水平の旅を、歩まれた方々です。

しかし、最後は、皆、垂直の旅をもって、人生を、終えられています。皆、天の御国への移動をもって、水平の旅を、締めくくられています。

そして、天国に行かれて、そこで、主イエスから、「忠実な僕よ、よくやった」、とお褒めの言葉を、いただいておられると信じています。

では、どのような者が、主イエスから、「忠実な僕よ、よくやった」、というお褒めの言葉を、頂けるのでしょうか。

そのことについて、今朝与えられた、マタイによる福音書25章14節~30節の御言葉から、ご一緒に、聴いてまいりたいと思います。有名な「タラントンの譬え」、の箇所です。

今朝の箇所は、「天の国は、また次のようにたとえられる」という言葉で、始まっています。

「天の国」の話です。そうであるなら、今の、私たちの生活には、直接、関係がない話なのでしょうか。なんだ、死んだ後の話なのか、と思われるかも知れません。

けれども、この譬えは、決して死んだ後の、「天国」の話を、しているのではありません。

では、何が語られているのでしょうか。

14節は、続けて、「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」、と語っています。ここにある、「ある人」というのは、主イエスのことを、言っています。

或いは、神様のことである、と捉えてもいいと思います。

また「僕たち」というのは、私たち、キリスト者のことです。

そして、この後、僕たちの働きぶりが、いえ、働きぶりというよりも、僕たちの生きる姿勢が、譬え話で語られているのです。ですから、この譬えは、死んだ後の話ではなく、僕たちの人生の話、更に言えば、今の時代を生きる、私たちキリスト者の、生き方について、語っているのです。

私たちキリスト者は、ただ水平の旅だけで、終ってしまう人生ではなく、垂直の旅を目指し、垂直の旅に支えられた、人生を歩んでいます。

それは、「天の国」と、繋がっている人生です。御言葉は、「天の国」を目指して旅する人生とは、こういうことなのだ、と語っているのです。

「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」。

この14節の御言葉は、「天の国」を目指して生きる、ということは、自分の人生を、「預けられたもの」として、生きることだ、と言っています。

主人が僕たちに、自分の財産を預ける。それは、神様が、私たちに、人生を預けておられる、ということです。命も、時間も、財産も、能力も、すべてのものを預けておられる、ということです。私たちの人生は、神様のものを、お預かりして、生きているのです。

ですから、やがて、それを、すべてお返しするのです。その時まで、預けられている。

言わば、期間限定で託されている。それが、聖書が語っている、人生の捉え方なのです。

預けられた人生を、どう生きるべきか。そのことが、今朝の御言葉では、3人の僕が、預けられた主人の財産を、それぞれ、どのように生かしたのか、という譬えで語られています。

このタラントンの譬えで、よく言われることがあります。それは、預けたタラントンに、差があるのは、不公平だ、という批判です。

しかし、ここで主イエスは、「それぞれの力に応じて」、という一言を、忘れずに、書き加えておられます。つまり、ある人に5タラントン、ある人に、2タラントンを託したのは、決して、主人の気まぐれではない、ということです。

しっかりと見られて、考えられた上で、5タラントンにし、2タラントンにした、ということです。

私たち一人一人に、さまざまな、異なった恵みが、与えられていることも、同じなのです。

神様は、私たちを、よく見られ、慎重に考えられた上で、それぞれ異なる賜物を、与えられているのです。神様は、私たち一人一人を、個性ある者として、創造してくださいました。

そして、自由に、あなたらしく、生きて欲しいと、望まれているのです。

人は、皆、違っています。しかし、一人一人が、それぞれ、与えられた個性と、使命と、責任を持って、生きるのです。

ここに出てくる、タラントンという言葉は、通貨の単位です。1タラントンは、その当時の労働者の、6千日分の賃金に相当する、金額である、と言われています。

安息日や、特別の祝祭日を除いて、1年に働く日数を300日と考えますと、1タラントンは、実に20年分の賃金に相当する金額になります。

日本円で考えたら、いくらぐらいでしょうか。仮に、年収500万円と考えたら1億円です。

そうしますと、5タラントンは5億円、2タラントンは2億円になります。

これは、主人が僕に預けるには、驚くほど多額のお金です。

ですから、1タラントンという財産は、決して小さくはないのです。むしろ大きいのです。

「あなたにも、これだけのタラントンを預けておくよ」。主イエスから、そのように言われて、預けられたもの。その大きさを感謝していく時、他人と比較しようという気持ちは薄れ、自分は、自分らしく、精一杯生きれば良いのだ、思えるようになる筈です。

いずれにしても、あくまで期間限定です。旅に出た主人は、必ず帰ってくるのです。

必ず、お返ししなくては、ならない時が来るのです。人生の清算をする時が、来るのです。

さて、主人が帰ってきました。その場面でのやりとりをもう一度読んでみましょう。

「まず、5タラントン預かった者が進み出て、ほかの5タラントンを差し出して言った。

『御主人様、5タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに5タラントンもうけました。』主人は言った。 『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 次に、2タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、2タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに2タラントンもうけました。』 主人は言った。 『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」。

これを読んですぐに気づきますのは、僕の報告はそれぞれ異なりますが、それに対する、主人の言葉は、全く同じだということです。

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。原文を見ても、一字一句同じです。

一人は、別に5タラントン儲けて、10タラントンにし、もう一人は、2タラントン儲けて、4タラントンにしました。最初に、預かった財産の差は、3タラントンでしたが、結果的には、二人の差は、6タラントンに広がりました。それは、とても大きな差です。

しかし、この二人に対する、主人の賞賛の言葉は、全く同じです。

主人にとっては、5タラントンだろうが、2タラントンだろうが、どうでもよいのです。

主人が喜んでいるのは、「忠実な良い僕」だ、ということなのです。

5タラントンと、2タラントンを、預けられた僕は、なぜ「忠実な良い僕だ」、と褒められているのでしょう。そして、1タラントン預けられた僕は、どうして、「怠け者の悪い僕だ」、と叱られているのでしょう。

譬え話の内容を、単純に考えれば、儲けた者が褒められ、儲けなかった者が、叱られているように思われます。つまり、主人が褒めたり、叱ったりする理由は、儲けがあったか、無かったか、という結果による、ということになります。

けれども、果たして、本当にそうでしょうか。もし、5タラントンと2タラントンを、預けられた僕たちが、商売に失敗して、儲けが全く無かったら、主人は何と言ったでしょうか。「怠け者の悪い僕だ」、と言ったでしょうか。そうではないと思うのです。主人はやはり、「忠実な良い僕だ。よくやった」、と褒めただろう、と思います。

また、もし、1タラントンを預けられた僕が、その財産を、何らかの形で、生かそうと努めたのであれば、たとえ儲けが無かったとしても、いや、元手の1タラントンまで失ってしまったとしても、主人はやはり、「忠実な良い僕だ。よくやった」、と褒めてくださったに、違いないと思います。

つまり、主人は、儲けがあったか、無かったかという結果で、僕たちを評価しているのではなく、預けられた財産を、生かそうとしたかどうか、その生き方を評価しているのです。

私たちは何かをする時、事の結果を、恐れがちです。できなかったらどうしよう、失敗したらどうしよう、と恐れます。そして、そのために、やらない方がましだ、と考えたりします。

タラントンを預けられた僕も、「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり」、と言っています。

結果に対する、主人の目を恐れたのです。それは彼の誤解なのですが、そのために、積極的に、財産を活用することが、できなくなってしまったのです。

ところで、皆さんは、神様について、どのようなイメージを持たれているでしょうか。

長く信仰生活を続けていても、どこか辛そうな、雰囲気を漂わせている方を、見かけます。

もしかすると、そういう方は、初めに怖い神様、恐ろしい神様のイメージを持ってしまって、ずっとそのイメージを、心の奥底に、抱えているのかも知れません。

3番目の僕は、主人が、ただ厳しいだけの人である、と思い込んでいたので、無くしてしまうことを恐れて、お金を隠していたというのです。

それに対して、他の二人は、主人の心の広さを、知っていました。ですから、活き活きと活動して、実り豊かな人生を、送ることが出来たのです。

作家の太宰治は、真剣に神を求めた人でした。しかし、太宰は、「罰を与える神」は理解したけれども、「赦しを与え、ありのままの人間を愛する神」を、信じることが出来なかった、と言われています。

そのため、救いに至ることが出来ず、自ら命を絶つことになってしまったのです。

このように、神様を、どのようなお方と捉えるかで、私たちの生き方は決定します。

聖書が伝える神様は、私たちの一挙手一投足をすべてチェックして、「そらまた失敗した」、「そらまた守らなかった」と、一々追及されるような、お方ではありません。

私たちが、失敗したら、すぐに罰を与えようとして、手ぐすね引いて、待ち構えている。

そんなお方ではないのです。

そうではなくて、5億円ものお金を与えながら、これは小さいもの、僅かなものだと言われるような、心の広いお方なのです。これは小さい。私は、あなたに、もっともっと与えたい。

私のあなたに対する愛は、こんなものではない。もっともっと大きいのだ、と仰っておられるお方なのです。その私の愛を、素直に受け取って欲しい。

それを隠し込んでしまうのではなくて、私の愛を受け取って、それを生かして、活き活きとした、実り多い人生を送って欲しい。そう仰っておられるのです。

でも、3番目の僕は、そうしなかったのです。それを神様は悲しまれたのです。

私たちの人生に対する、神様の評価は、儲けたか、儲けなかったか、うまくいったか、失敗したか、という結果によるのではなく、その人が、どのような姿勢で生きたか、という生き方によるのです。

私たちは、ともすれば、結果で評価しがちです。勉強でも、運動でも、仕事でも、子育てでも、何についても、結果で評価してしまうところがあります。

主イエスの時代の、ユダヤ人社会もそうでした。律法という、神様の掟をどれだけ実行したか、どれだけ守ることができたか、その結果によって評価が下されました。

表面的に、律法を守っていた、律法学者やファリサイ派の人々は、神様から祝福される人間として、高く評価され、徴税人や遊女など、律法を守れない者は、神様から見捨てられ、呪われた人間として、軽蔑されました。

けれども、そこに登場されて、徴税人や遊女たちの友となられ、神様の愛を伝えたのが、主イエスなのです。徴税人や遊女たち。あなた方は、自分の汚れや、弱さをよく知っている。

だから、心からの悔い改めに、生きることができる。そのようなあなた方こそ、神様から祝福され、神様の愛の御翼に、覆われるべき者なのだ、と仰ったのです。

その主イエスが、儲けがあったか、なかったか、という結果で、僕たちを、そして私たちを判断し、評価される訳がありません。

たとえ失敗しようと、挫折しようと、神様は常に、そのような私たちを、「忠実な良い僕だ。よくやった」と、暖かいまなざしで、見守っていてくださいます。

今朝、この礼拝で、覚えさせて頂いている方々も、この主イエスの愛に支えられて、主イエスの眼差しの中を、水平の旅を歩まれ、垂直な旅へと、旅立って行かれました。

激動の時代にあって、与えられた賜物(タラントン)を、精一杯活かして、主のご期待に、少しでも応えようと、懸命に歩まれました。

ですから、今は、痛みも、苦しみも、悩みもない、天の御国において、大好きな主イエスから、「忠実な良い僕だ。よくやった」、とお褒めの言葉を、頂いていると、信じています。

私たちも、いずれ、水平から、垂直の旅へと旅立ちます。先輩方と同じように、「忠実な良い僕だ。よくやった」、とお褒めの言葉を、頂けますように、預けられた賜物を、精一杯生かして、主の栄光を顕わしていきたいと願います。