MENU

過去の礼拝説教

「抵抗せよ」

2015年10月11日 聖書:ペトロの手紙一 5:8~14

南フランスのブルゴーニュ地方に、エイグ・モルトという、小さな町があります。

この町に、中世以来の、古い城塞があり、そこに、「コンスタンスの塔」と呼ばれる、高い塔があります。

中世の、フランス最盛期に、ルイ14世という、専制君主が現れました。

太陽王と言われた、ルイ14世は、絶大な権力を背景に、カトリックだけを認める、という勅令を出して、プロテスタント信者に、カトリックへの改宗を、強く迫りました。

改宗しなかった、多くのプロテスタント信者が、捕えられ、投獄されました。

そして、コンスタンスの塔は、改宗しなかった、女性専用の、監獄となったのです。

ここに投獄された、女性信者の中に、マリー・デュランという女性がいました。

牧師の娘として生まれた彼女は、改宗しなかったため15歳で投獄され、フランス革命後に釈放されるまで、何と38年間という、膨大な月日を、ここで過ごしました。

この塔の、下の部屋の縁石の一部が、特別に囲われていて、厚いガラスの板で保護されています。その縁石には、「レジステ」(抵抗せよ)という言葉が刻まれています。

多くの人々が、この文字を見るために、この小さな町を、訪れます。

にわかには信じられないことですが、この文字は、マリー・デュランが、石の壁に、自分の爪で、刻んだものだ、と言われています。

囚人には、金属などの硬い物は、一切与えられていませんでした。

ですから彼女は、自分の指の爪で、毎日毎日、石の壁をなぞるようにして、ひたすら「レジステ」(抵抗せよ)、と書き続けたのです。

爪は、ぼろぼろになり、血が滲んでいたことでしょう。

マリー・デュランは、そこに閉じ込められていた、38年の間、信仰を貫き通しました。

レジステという言葉の語源は、「立ち続ける」、という意味だそうです。

じっと立ち続ける、踏み止まる。これが、本来の意味だそうです。マリー・デュランは、信じたところに、立ち続けたのです。暗い監獄の中で、38年間も、立ち続けたのです。

爪から血を流しつつ、抵抗し続けたのです。

血を流して抵抗する、と聞きますと、私たちは、ある御言葉を想い起します。

ヘブライ人への手紙12章4節、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。 この御言葉です。

「罪と戦って」、と言っていますから、この御言葉は、私たちが、戦う相手は、「罪」である、と言っています。私たちが、血を流してまでも、戦う相手。それは、私たちの内にある、「罪」なのだ、と言っています。では、罪とは、何でしょうか。

罪とは、私たちが、神様から、離れてしまっている、状態のことです。

神様との関係が、断絶してしまって、神様の方を、向いていない、状態のことです。

そのように、私たちを、神様から、引き離そうとする力。私たちを、罪に誘う力。

それを、聖書は、「悪魔、サタン」と呼んでいます。

ですから、私たちが、血を流してまで、抵抗する相手。私たちが、血を流してでも、戦わなければならない敵とは、悪魔である、ということができます。

マリー・デュランは、爪に血を滲ませながら、抵抗し続けました。

当初は、その戦いの相手は、自分の信仰を認めずに、一方的に迫害する、フランスの国王と、政府でした。

しかし、38年もの長い間、暗い牢獄に、閉じ込められているうちに、戦う相手は、徐々に、変わっていったのではないかと思います。

苦しみに、付け込んで、彼女を誘惑しようとした、サタンこそが、敵となっていったのです。

こんなに苦しい、思いをしてまで、信仰を守る、必要なんかないじゃないか。

お前を、こんなに苦しめる信仰なんか、捨ててしまいなさい。

信仰を捨てれば、愛する人たちにも会えるし、ずっと幸せな人生を、生きられるよ。

サタンは、実に巧妙に、マリー・デュランの心に、囁きかけてきました。

マリー・デュランは、このサタンの誘惑と、戦ったのだと思います。彼女が、血を流しながら、抵抗した相手。それは、自分を、罪に誘う、サタンであったのです。

「抵抗せよ」。この言葉は、今朝の御言葉の9節にも、はっきりと刻まれています。

「信仰にしっかり踏み止まって、悪魔に抵抗しなさい。」

この言葉は、マリー・デュランと同じような、いや恐らく、もっと厳しい迫害の中で、使徒ペトロが、教会の信徒たちに送った、励ましの言葉です。

今朝の箇所で、ペトロは、信仰生活とは、戦いである、と言っています。

吠えたける獅子のような、恐ろしい敵との、絶えざる戦いである、と言っています。

では、その恐ろしい敵とは、誰なのか。それは、悪魔だ、と言っているのです。

信仰の戦いとは、人間との戦い、ではないのです。

私たちを、神様から引き離そうとする、悪魔との戦いなのです。

福音書を、注意深く読みますと、主イエスのご生涯も、悪魔との戦いの、ご生涯でした。

主イエスは、宣教活動に入られる前に、荒野に行かれ、悪魔の誘惑を、受けられました。

40日に亘って、繰り返して、悪魔に試みられたのです。主イエスは、そこで、どのような戦いをされたのでしょうか。

主イエスが、この世に来られた目的。それは、十字架において、救いの御業を、成し遂げる、ことでした。本来は、罪を犯した、私たちが、かけられるべき十字架。

その十字架に、神の御子である主イエスが、身代わりとなって、かかってくださる。

それによって、私たちの罪を、贖ってくださる。これが、主イエスが、この世に来られた、目的でした。でも、それは、主イエスにとっては、耐え難い苦しみでした。

なぜなら、十字架の死とは、主イエスご自身が、最愛の父なる神様から、引き裂かれ、見捨てられ、父なる神様の敵として、呪われて死ぬ、ということを、意味していたからです。

それは、主イエスにとって、いかなる苦しみにも勝る、極限の苦しみでした。

しかし、これ以外に、罪に満ちた人間を、救う方法はない。そのことを、40日間の断食を通して、主イエスは、今一度、確認されたのです。

それが、宣教活動に入るのに、必要なことだったのです。

しかし、主イエスが、そのようにして、十字架に死なれる、ということは、悪魔にとっては、最悪の事態でした。

悪魔の狙い。それは、人間を神様から、決定的に引き離して、罪の中で、滅ぼすことでした。

そうやって、人間を支配して、自分の足元に、跪かせることだったのです。

しかし、十字架は、人間を、罪の中から、救い出してしまいます。

ですから、悪魔は、何とかして、主イエスを、十字架にかけさせまいとして、誘惑したのです。主イエスの、尊いご計画を崩そうと、挑戦してきたのです。悪魔は、囁きました。

「イエスよ、『十字架の死』、など選ばなくても、パンの奇跡を、行えばよいではないか。

人々は、皆、飢えているのだから、石をパンに変えて、人々に与えたなら、誰もが、お前のことを、神の子であると、信じるだろう。そうしたら、お前の宣教活動は、一挙に進展するよ。

それから、ファリサイ人や律法学者たちは、お前に、神の子のしるしを、求めるに違いない。

それなら、彼らの目の前で、神殿の高い屋根から、飛び降りるような、大きな奇跡を、行ってみれば良いではないか。そうすれば、彼らも、お前を、神の子と、認めざるを得なくなるよ。

また、お前が、天から軍勢を送って、ローマの支配から、イスラエルを解放したなら、それこそ、すべてのユダヤ人は、お前のことを、待ち望んでいた、救い主として崇めることだろう。

その方が、効果的だし、お前も苦しまなくてすむよ。」

このように、サタンは、何とかして、十字架への道を、阻止しようと、必死に誘惑したのです。主イエスの十字架を妨害して、人間の救いを、阻止しようとしたのです。

しかし、これらの誘惑を、主イエスは、はっきりと退けてくださり、十字架への道を、選び取ってくださいました。人間の救いを、選んでくださったのです。

これらの誘惑は、荒野だけではなく、主イエスのご生涯の、全体を通して、ずっと続いたのです。ゲツセマネにおいても、そして、十字架に上がられた後までも、続いたのです。

十字架の主イエスに、人々が、「神の子なら、十字架から降りて来い」、と言いました。

この言葉も、荒野の試みと、同じ誘惑の言葉です。

しかし、主イエスは、「神の子」であることを、ご自分の救いのためには、用いられなかったのです。ご自分を、十字架にかけて、嘲り、罵り続ける人間。そんな私たちの救いのために、用いられたのです。そして、十字架での御業を、成し遂げてくださったのです。

まさに、主イエスのご生涯は、十字架に向かっての、戦いのご生涯でした。

私たち信仰者の生涯も、また、戦いです。信仰の戦いは、特別の時代や、特別の場所で、なされるのではありません。毎日の、日常生活そのものが、神様に従うか、サタンの誘惑に負けるか、という戦いの中のあるのです。

「抵抗せよ」。この言葉は、私たちが、信仰の歩みを、続けていく時に、いつも、覚え続けていなければならない、言葉なのです。

私たちの、一週間の歩み、一ヶ月の歩み、一年の歩みを、振り返って見た時、どうでしょうか。私たちは、信仰を持ち続けるのに、マリー・デュランや、初代教会の信徒たちのように、特別に困難な状況に、置かれていた訳ではない、と思います。

それなら、私たちは、本来立つべき所に、立ち続けて、来たでしょうか。この問いを、自分自身に向けて、真剣に問う時、まことに、心もとないところが、あるのではないでしょうか。

「抵抗せよ」。この言葉は、迫害の中にいる、キリスト者だけに、語られている言葉ではありません。日常の生活のただ中で、悩み、苦しみながらも、立つべき所に、立ち続けること。

これこそが、私たちの信仰の戦いなのです。

厳しい迫害を受けながらも、抵抗を続け、信仰を貫いた先達たち。彼らも、突然、そのような信仰の勇者に、なった訳ではないのです。

私たちと同じように、日常の戦いにおいて、抵抗し続けたことによって、そのような力強い信仰を養っていったのです。それが、「いざ」という時に、力を発揮したのです。

私たちは、そのような先達たちと、同じ戦いを、今ここで、しているのです。

ですから、今朝の御言葉は、今、ここに生きる、私に対しても、語られているのです。

それでは、どのようにして、私たちは戦うべきなのでしょうか。

「絶対負けないぞ」、とガチガチに身を堅め、いつもピリピリして、肩肘張って、生きていかなければ、ならないのでしょうか。御言葉は、そのような戦い方を、勧めてはいません。

ここで、前回学びました、7節を見ていただきたいと思います。

7節に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」、と書かれています。

御言葉は、先ず神様に、自分の思い煩いを、何もかもお任せしなさい、と言っています。

肩肘張って、身構えるのではなくて、砕けた心をもって、すべてを、神様に委ねることから、始めなさいと言っているのです。

自分の力で、戦おうとして、色々と思い煩うのではなくて、「神様、悪魔は、とても私の力では、戦うことが出来ない、恐ろしい敵です。ですから、あなたご自身が戦ってください。あなたにすべてを委ねます」。そう言って、神様に先ず、お任せしなさい、というのです。

でも、委ねるということは、自分は戦わない、ということではありません。「神様、後は、宜しくお願いしますよ」。そう言って、自分は、昼寝を決め込んでも良い、ということではありません。委ねるということは、戦いの指揮を、取っていただく、ということです。

神様に、戦いにおける、自分の上官、いや、大将になっていただく、ということです。兵隊は、大将にすべてを委ねて、大将の指揮のもとに、戦うのです。それが、委ねるということです。

さて、先ほど、抵抗するということは、「立ち続けること」だ、と申しました。

このことが、12節において、語られています。「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」。

神様の恵みに、しっかり踏みとどまって、戦いなさい。御言葉は、そのように、私たちに勧めています。では、その恵みとは、どのようなものなのでしょうか。

10節の御言葉が、明らかにしてくれています。

「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」

あらゆる恵みの源である神様は、あなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる。

この言葉は、言い尽くせない、神様の恵みを、精一杯の表現で、言い表そうとしています。

ここにある、「完全な者とし」、と訳されている言葉。これは、破れたり、壊れたりしたものを、繕い直して、元に戻す、という意味の言葉です。

主イエスが、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネを、弟子として招いた時、彼らは舟の中で、網を繕っていました。

この「繕う」という言葉と、10節の「完全な者とする」という言葉は、全く同じ言葉なのです。

神様の恵みとは、私たちの破れを、繕ってくださるものなのです。私たちが、ぼろぼろになって、崩れそうになると、神様が、それを支えてくださり、繕ってくださる。

ちょうど、母親が、愛するわが子の、着物の破れを、繕うように、私たちの、欠けを、繕ってくださり、本来の姿を、回復してくださる、というのです。そのような、神様の恵みの中に、私たちは立ち続けるのです。その恵みの中に、踏み止まるのです。

スコットランドのある大学に、一人の教授がいました。この教授は、いつも、ニコニコしていて、どんな時も、穏やかな顔を、崩しませんでした。

学生たちが、不思議に思って、尋ねました。「先生は、誘惑にあったことは、ないのですか」。

教授が答えました。「いいえ、とんでもない。私は、罪人の頭です」。

「では、なぜ、いつも穏やかでいられるのですか」。

「私は、サタンが、誘惑しようとして、近づいた時には、『もういっぱいです』、と言って、断っているのです。すると、サタンは、いつしか、去って行ってしまうのです」。

教授の心は、いつも、神様の恵みで、満たされていたのです。

神様の恵みが、破れそうになる心を、繕い続けて、くださっていたのです。その恵みに、踏み止まり続けていたのです。

その恵みから、引き離そうとするものと、私たちは、戦うのです。

「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」

ここに出てくる悪魔の姿は、獲物を探す、飢えたライオンに、譬えられています。

シマウマが、ライオンに襲われると、皆が、頭を真ん中にして、群れを作るそうです。

そして、後ろ足を跳ね上げながら、ライオンが、攻め込めないように、するそうです。

しかし、ライオンも飢えています。決して諦めません。周りをぐるぐる廻って、隙を狙います。そうすると、群れの中に、必ず気の弱そうな、馬が見つかります。

今朝の御言葉で言えば、目を覚まして戦わずに、隙を見せてしまう者がいるのです。

ライオンは、そのような馬を見つけて、そこに襲いかかるそうです。

悪魔というライオンに、襲われ易い人とは、神様に委ねることをしないで、思い煩っている人、のことではないでしょうか。

神様を自分の大将にして、神様の後ろに、従っていく時、悪魔は手が出せません。

しかし、神様に委ねるのではなく、自分で何とかしようと、思い煩う者は、やがて疲れ果てて、悪魔に、隙を見せてしまいます。

その隙を見せた所に、悪魔は襲い掛かってくるのです。悪魔は、少しの隙も、見逃しません。悪魔は、思いがけない時に、思いがけない所から、思いがけない仕方で、襲ってきます。

悪魔は、悪魔の顔をしては、襲ってこないのです。光の天使を装って、襲ってきます。

いかにも、私たちの見方であるかのような、顔をして、誘惑してくるのです。

ですから、私たちは、自分の力で戦おうとしても、悪魔には勝てません。

悪魔に勝つためには、神様の恵みの中に、いつも立ち続けて、いなければならないのです。思い煩いを、神様に委ね、身を慎んで、目を覚まして、神様に従うのです。

愛する皆さん、悪魔との戦いは、どうやって悪魔に従わないようにするかではなく、どのように神様に従うか、にあります。

どのように、神様の恵みの中に、しっかりと踏み止まれるかにあるのです。

私たちが、神様の恵みの中に、立ち続けることができるならば、あらゆる恵みの源である神様が、私たちの欠けや、破れを、繕ってくださり、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださるのです。この約束を信じて、共に、信仰の戦いを、戦い抜いてまいりましょう。