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過去の礼拝説教

「謙遜のエプロンを締めて」

2015年10月04日 聖書:ペトロの手紙Ⅰ 5:1~7

皆さんは、自己紹介をされるときに、何と言って、ご自分を紹介されるでしょうか。

勿論、その時々の状況によって、自己紹介の言葉も、異なると思います。

今朝の御言葉の1節で、ペトロは自己紹介をしています。何といっているかと言いますと、「わたしは長老の一人です。また、キリストの受難の証人です」、と言っています。

ペトロは、使徒の中でも、リーダーでした。そのペトロが、自分のことを、皆さんと同じ「長老の一人」です、と言っているのです。これは、とてもへりくだった、自己紹介だと思います。

しかし、続いてペトロは、自分は「キリストの受難の証人」である、とも言っています。

ペトロが、キリストの受難の証人。

皆さん、この言葉を読まれて、「あれ、ちょっとおかしいな」、と思われませんでしょうか。

確かに、ペトロは、主イエスの一番弟子として、主イエスと、ずっと苦楽を共にしてきました。

しかし、思い起こして頂きたいのですが、主イエスが、十字架を担がれて、ゴルゴダへの道を歩まれた時、ペトロはその目撃者であったでしょうか。十字架の主イエスを、確かに見ていたでしょうか。いえ、その時、彼は、逃げ隠れていたのです。

ですからペトロは、主イエスの受難については、証人にはなれない筈なのです。

それなのに、なぜ彼は、自分を、「キリストの受難の証人」、と言ったのでしょうか。

私は、本当の証人とは、その出来事を、ただ見ただけの人、ではないと思います。

その出来事が、どのような意味を持っているのか。それを、きちんと証言できる人のことだと思います。

例えば、2歳の女の子が、窃盗の現場を見ていたとします。犯人の男は、その子の頭を撫でて、「いい子だから、黙っていてね」と言って、微笑んで去って行きました。

後で、警察が、その子に聞きます。「あのおじさんが、何をしたのか教えて」。「おじちゃん、私の頭を撫ででくれて、いい子だって、言ってくれた」。これでは、証人になりません。

主イエスの十字架を、大勢の人が見ていました。でも、そこにいた人は、誰もが、「このイエスという男は、ローマに対する反逆罪で、死刑にされた、哀れな男だ」、と思っていました。

一方、ペトロは、そこにはいませんでした。しかし、ペトロは、復活の主イエスに出会った後に、「主イエスの十字架は、自分のための苦難であった。自分は、あの十字架によって、救われたのだ」、ということを、心の底から、理解することが出来ました。

ですから、彼は大胆に、「自分は、キリストの受難の証人である」、と宣言しているのです。

十字架の意味を、正しく知っていたからです。

その意味では、主イエスの十字架の苦しみが、この私の救いのためである、ということを知っている者は、すべて「キリストの受難の証人」である、と言うことが出来ます。

私たちも、皆、ペトロや、長老たちと同じように、「キリストの受難の証人」なのです。

そして、「キリストの受難の証人」として、ペトロや長老たちと同じように、教会に仕えるという、尊い務めを、委ねられているのです。

2節でペトロは、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」、と語っています。この言葉は、ペトロ自身が、主イエスから、受けた言葉です。

ヨハネによる福音書の21章には、ガリラヤ湖畔で、ペトロが、復活の主イエスに、お会いした時の、感動的な出来事が、記されています。

その時、ペトロは、主イエスから、3回も、「ペトロよ、私を愛しているか」、と問われています。そして、3回とも、ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたが御存知です」、と答えています。

その答を受けて、3回とも、主イエスは、「私の羊を飼いなさい」、と命じておられます。

主イエスは、三度も、同じ問いと、同じ命令を、繰り返されました。

実は、この時の、「わたしを愛しているか」、という問いは、その後に続く、「私の羊を飼いなさい」、という命令を与えるために、問われた問いであったのです。

「あなたはわたしを愛しているか」と、「わたしの羊を飼いなさい」。

この二つの御言葉は、深く結びついています。

いえ、実は、それらは、同じことなのだと、主イエスは、言われているのです。

「私を愛すること」とは、「私の羊を飼うこと」なのだと、主イエスは言われているのです。

この時、ペトロは、どういう思いで、これから教会に、仕えようとしていたのでしょうか。

使徒のリーダーとしての、使命感からでしょうか。

しかし、主イエスは、ペトロが、そのような使命感や、義務感から、教会に仕えることを、望んではおられませんでした。

そうではなく、教会に仕えるということは、主イエスを愛することなのだ。このことを、三度の問いと、三度の命令を通して、主イエスは、ペトロに、教えておられるのです。

皆さん、私たちはなぜ、教会の奉仕をするのでしょうか。

それが義務だ、と思うからでしょうか。その奉仕が、自分の特技を生かせるので、楽しいからでしょうか。或いは、自分の信仰を、全うしたいからでしょうか。そうではない筈です。

私たちを、教会の奉仕へと、向かわせるもの。それは、ただ、「主イエスを愛しているから」、であるべきなのです。

なぜなら、「教会に仕えること」は、「主イエスを愛すること」に、他ならないからです。

この手紙を書いた時、ペトロは既に、年老いていました。それにも拘らず、ペトロは、尚も、全身全霊をもって、教会に仕えました。

もし、そんなペトロが、質問されたとします。「あなたは、なぜそこまでして、教会に仕えるのですか」。恐らくペトロは、こう答えるでしょう。「それは、主イエスを愛しているからです。」

ところで、通常、大切なことを、任せる時には、任せる人の、実績を重視します。

今までの実績から見て、この人なら大丈夫だと思って、重要な仕事を任せるものです。

それでは、ペトロの場合は、どうだったでしょうか。

何度も言いますが、ペトロは、主イエスが、十字架に架けられた時には、逃げ隠れていました。主イエスの裁判の場では、三度も、主イエスのことを知らない、と言って否定しました。

ゲツセマネの園で、主イエスが、必死に祈っておられる時には、寝こけていた男です。

また、ある時は、主イエスから、「サタンよ、退け」、と叱られたこともあります。

福音書が伝えるペトロは、失敗ばかりしています。

まさに実績ゼロです。いや、ゼロどころではありません、マイナスであるともいえます。

そんなペトロに、主イエスは、「私の羊を飼いなさい」と、言ってくださったのです。

失敗ばかりしていて、実績がゼロ以下の、マイナスであるようなペトロを、主イエスは、尚も愛しておられたのです。

そして、命懸けで贖い取った、大切な羊を、そんなペトロに、委ねると言われたのです。

ですから、この「私の羊を飼いなさい」という言葉は、主イエスの、ペトロに対する、愛の言葉なのです。

ペトロは、この主イエスの愛に迫られて、この愛に押し出されて、羊を飼いました。

何とかして、主イエスの愛に応えたい。この一途な思いをもって、羊を飼いました。そうせずにはいられなかったのです。

そのような思いをもって、教会に仕えていくなら、強制されてではなく、進んで奉仕をしていく筈です。そこには、喜びこそあれ、卑しい利得を求めることなど、ない筈です。

主イエスが、命懸けで贖い取った、大切な羊の世話を、こんな自分に、委ねてくださった。

この感謝の思いをもって、奉仕するなら、権威を振り回すことなど、できない筈です。

2節、3節の御言葉は、そのことを語っています。これには、アーメンと言えると思います。

ただ、その中で、「群れの模範になりなさい」、という言葉には、抵抗感を持つ方が、おられるかもしれません。

「私は、とても、群れの模範になどなれない」。そう思う方が、多くおられると思います。

しかし、ここでペトロが言っている、「模範になる」ということは、特別に立派な信仰者になる、ということではありません。

ここでは、権威を振り回すことの、反対の言葉として、群れの模範になりなさい、と勧められています。ですから、それは、権威を振り回すのではなく、徹底的に仕える者となりなさい、という意味なのです。人に仕えることにおいて、模範になりなさい、と勧めているのです。

そして、4節では、その様な者こそ、主イエスが、再びお見えになられる時、つまり最後の裁きの時に、主イエスから、お褒めに与ることができると、約束されています。

1節~4節で、御言葉は、私たちを、教会の奉仕へと、招いています。

そのような奉仕の道を、歩もうとする時、最も必要なことは、「謙遜である」、ということです。

ですから続く、5節から7節で、ペトロは、謙遜な生き方へと、私たちを招いています。

5節の御言葉は、「皆互いに謙遜を身に付けなさい」、と語っています。

この「身に付ける」、という言葉は、大変興味深い言葉です。

もともとは、奴隷や召使いが、仕事をする時に、「前掛けを結ぶ」、という意味の言葉です。

ですから、ある英語の聖書は、「謙遜のエプロンを身に着けなさい」、と訳しています。

主イエスが、このような前掛けを、着けられた時がありました。

あの最後の晩餐の時です。ヨハネによる福音書13章にはこう書かれています。

主イエスは、「席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。

最も卑しい奴隷の仕事である、足を洗うという務めを、主イエスがなさったのです。

神の独り子としての、権威を持っておられるお方が、手ぬぐいを前掛けのように、腰にまとわれ、数時間後には、自分を見捨てて、逃げていくことが分っている、弟子たちの足を、洗われたのです。謙遜の極致のお姿が、ここにあります。

5節の御言葉は言っています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には、恵みをお与えになる」。私たちは、皆、このことを、よく知っています。

しかし、私たちは、教会の奉仕に、熱心であればある程、知らず知らずのうちに、謙遜から遠ざかっている、ということがあります。

韓国の大衆伝道者、車潤順(チャ・ユンスン)さんは、ある時、こんな質問を受けたそうです。

「あなたが一番罪深かった時は何時でしたか」。車(チャ)さんはこう答えました。

「それは、私が一番きよくて、献身的で、忍耐し、苦労していた時です。」

エッと、怪訝な顔をする相手に、更にこう続けました。「それは、自分のことを正しい人だと、思っていたからです。そして、他人を裁いていたからです。」

熱心に奉仕することは、素晴らしい事です。しかし、御言葉は、熱心に奉仕をすればするほど、ますます自分を、小さくしていくことが、必要である、と教えています。

「奉仕」は、常に、「謙遜」を伴っていなくては、まことの恵みとはならないのです。

謙遜は、その人に恵みを、齎すだけではなく、教会全体をも、豊かにします。

明治の時代に、高知教会に、片岡健吉という長老がいました。

この人は、衆議院の議長まで務めた、有名な政治家でした。しかし、日曜日にはいつも、教会の下足番をしていたそうです。

それが高知の町で、大変評判になりました。「片岡先生が、あそこでぞうりを揃えている」、というので、大勢の人が集まりました。

当時、高知教会の礼拝には、350人位の人が出席し、祈祷会でも120人位の人が集まっていたそうです。一人の人の謙遜によって、教会全体が大きな恵みに与ったのです。

6節の御言葉は、具体的に、へりくだる道を示しています。

『だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。』

「自分を低くする」。これは、言うのは簡単ですが、実行することは、容易ではありません。

徹底してへりくだる、という事は、自分の力では、出来ないことなのです。まして、人と比較していたのでは、とても出来ません。神様の恵みに、完全に打ち砕かれなければ、出来ないことです。「神の力強い御手の下」に、自分を置かなければ、出来ないのです。

自分で低くなるのではなく、神様によって低くされるのです。

「ラルシュ共同体」という、障害者施設の創設者、ジャン・バニエ神父は、「一つとなるために」という本の中で、このように述べています。

「もしあなたがたが、イエスに従おうと思うなら、成功と権力への階段を、昇ろうとするのではなく、梯子を一段一段、降りていかなければなりません。

傷つき、苦しむ人と、出会い、そして共に歩むのです。傷ついた人に仕える、ということは、母親が子どもを手助けするように、秘かに手を貸して、彼らが自分で、賜物と美点を見つけ出したら、後は、ゆっくりと、私たちは姿を消せばよいのです。

これは階段を下りていくことであり、イエスがなさったように、彼らの足を洗い、そして、小さな祝福を見出すことなのです。人目につかない仕え人となり、いちばん隅に自分の場所を見つけ、そこでこそイエスに出会うのです。」

バニエ神父は、私たちは、姿を消せばよい、と言います。また人目につかない仕え人となり、いちばん隅に、自分の場所を、見つけるのだと言います。

これは、社会の常識とは、正反対の生き方です。この社会は、階段を上っていくことを勧めます。より大きな権力や、世間の評判が、その人の評価に繋がります。

しかし、私たちが主イエスに出会う場所は、そのように権力や、世間の評判のある場所ではないのです。

むしろ、そのようなものから遠く離れ、姿を消して、人目につかない、仕え人となる時に、主イエスに出会える、というのです。

私たちも、神様の、力強い御手の下で、梯子を一歩一歩、降りて行きたいと願わされます。

しかし、そのように、徹底して降りていってしまって、本当に大丈夫なのでしょうか。

果たして、この世で、生きていけるのだろうか。そういう不安が、心をよぎります。

でも、ペトロは、7節で、こう言っています。

『思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを、心にかけていてくださるからです。』

ここでペトロは、確信をもって、「何もかも神にお任せしなさい」、と言っています。

その根拠は、「神が、あなたがたのことを、心に掛けていてくださるからだ」、というのです。

すべてを支配されておられる神様が、あなたのことを、心に掛けてくださっている。

何という、力強い御言葉でしょうか。

あなたは、何も心配しなくても良い、神様が心配してくださる。あなたが心配するよりも、神様が心配してくださる方が、ずっと確かなのだ。御言葉は、そう語っています。

私たちを心配してくださる神様は、私たちのために、御子をさえ惜しまずに、死に渡されたお方です。

御子と一緒に、すべてのものを、私たちに下さる、と約束してくださっているお方です。

そして、万事を益としてくださるお方なのです。

キリスト者の、まことの謙遜とは、自分を否定するという、消極的な生き方ではありません。そうではなくて、万事を益としてくださるお方に、すべてを委ねて、自分のなすべきことに、ひたすらに励むという、積極的な生き方なのです。

生涯を通して、日本人の心情で、主イエスを捕らえようと努め、昨年3月に、天に帰られた、カトリック司祭の井上洋治神父は、「南無アッバの祈り」、という題の本を書いておられます。

「南無」と言うのは、仏教用語ですが、「お委ねする」、という意味の言葉です。

「アッバ」とは、アラム語の「お父さん」という意味で、幼な子が父親を呼ぶときの言葉です。

主イエスの祈りは、いつもこの「アッバ」という、呼び掛けで始まっていました。

幼な子が、「お父ちゃん」と呼ぶよう様な、全き信頼をもって、神様に委ねていく時に、私たちは、まことの平安に生きることができる。

井上神父は、そのような生き方を、「南無アッバの祈り」、という言葉に込めているのです。

私たちも、幼な子の、お父さんに対するような、全き信頼をもって、神様にすべてを委ねていきたいと願わされます。「南無アッバの祈り」を、献げていきたいと思います。

そして、謙遜のエプロンを締めて、梯子を一段一段、降りて行きたいと、思います。

その降り切った所には、主イエスが、愛の御手を広げて、待っていてくださいます。

そして、その御手に、私たちを、握り締め、素晴らしい恵みの世界へと、引き上げてくださいます。私たちには、そのような生き方が、許されています。

私たちは皆、そのような生き方へと、招かれているのです。