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過去の礼拝説教

「この方はメシアか」

2015年11月29日 聖書:ヨハネによる福音書 7:25~36

ヨハネによる福音書の7章、8章は、「仮庵の祭り」における出来事を、記しています。

仮庵の祭りというのは秋の祭りです。太陽暦では、9月か10月頃になります。

イスラエルの人々は、自分たちの信仰の原点である、出モシプトの出来事、特に、荒野の仮の宿の生活を想い起こして、一週間に亘って、仮小屋に住んで、この祭りを祝ったのです。大勢の人が集まる、その祭りの最中に、主イエスが、堂々と、神殿で教えておられる。

その姿を見て、「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない」、とエルサレムの人々は、不思議に思いました。

このイエスという男は、殺される筈の者だ、ということを知っていたからです。

ところが、主イエスは、そのような人々の思いを、まるで知らないかのように、公然と話をしておられる。そのお姿を見た時に、エルサレムの人たちは、戸惑い、考えたのです。

ひょっとすると、これは、権力者たちが、この男を許しているから、ではないだろうか。

そうでなくては、こんなに大胆に、自由に喋れる筈がない。

もしかしたら、最高議会の議員たちが、このイエスという男こそメシアだ、ということを、本当に認めたのではないか。人々は、そんな思いを、抱き始めたのです。

メシアという言葉は、ヘブライ語で「油注がれた者」、という意味で、「救い主」を表す言葉です。このメシアという言葉の、ギリシア語訳が、「キリスト」です。

ですから、メシアという言葉は、「救い主」、或いは「キリスト」、と置き換えて、読んでも良い言葉なのです。

人々は、もしかしたら、このイエスという男は、メシアかもしれない。救い主、キリストかもしれない、と思い始めたのです。

しかし、そこからまた、次の疑問が起こります。「だが、待てよ、それにしては」、という問いが起こったのです。

「しかし、わたしたちはこの人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」。

私たちは、この男の、氏素性を知っている。群衆の中には、ガリラヤから来ている人も、大勢いたでしょう。その人たちが、こう言ったかもしれません。

「私は、この男を生まれた時から知っている。大工の息子として育つ姿を見てきている」。

「彼は、私たちと同じ人間ではないか。どこに救い主らしさがあるのか」、と言ったのではないかと思います。こんなに、何もかも分かっている、ただの人間が、なぜ救い主なのか。

人々は、メシアは、突如として、神秘的な姿で、顕れると、思い込んでいました。

誰もその由来を、知ることができない。そういう神秘的な存在である筈だ、と思い込んでいたのです。人間は、神秘的な雰囲気に、惹かれるものです。

殆どの新興宗教は、そういう神秘的な雰囲気で、人々の心を掴もうとしています。何か訳が分からない、神秘的な雰囲気を、醸し出して、人々の宗教心を煽ろうとします。

しかし主イエスは、誰にでも分かるお姿で、ご自身を示されました。私たち人間と、全く同じお姿で、来てくださいました。まことの神が、まことの人となって、来て下さったのです。

それは、私たち人間の、完全な身代わりとなって、十字架に架かってくださるためでした。

人間としての、悩み、苦しみ、痛み。それらすべてを、味わってくださるためだったのです。

もし、主イエスが、私たちと違う、超人的な存在であったなら、十字架での苦しみも、ゲツセマネでの痛みも、無かったでしょう。そして、私たちの罪の贖いも、無かったのです。

しかし、主イエスは、私たちと全く同じ人間として、自然のお姿で、この世に来てくださいました。ですから、私たちの救いが、成し遂げられたのです。

主は、ナザレの大工の子として、誰にでも分かるお姿で、来てくださいました。

しかし、余りにも分かり易いお姿であったために、逆に、人々は受け入れませんでした。

余りにも、身近な存在で、よく知っているために、受け入れることができなかったのです。

何か、もっと神秘的で、奇跡的な存在として、顕れないと、物足りないのです。

ここにも、神秘的な雰囲気に、訳もなく頼ろうとする、人間の弱さが、表れています。

自分の身近にいる人のことは、良く知っているようで、あまり知らないということがあります。

主イエスのことを、一番よく知っていた、ガリラヤの人たちが、一番主イエスを信じることができなかったのです。

彼らは、主イエスの一番身近にいながら、主イエスを、「わが主」と言えなかったのです。

どうして言えなかったのでしょうか。人間としての、主イエスを、よく知っていたからです。

主イエスを、子供の時から、知っていたからです。しかし、彼らが知っていたのは、ナザレの大工、ヨセフの子イエスです。「わが主イエス」ではないのです。

彼らは、主イエスのことを、誰よりもよく知っている、と思い込んでいたのです。

ですから、このお方が「主」でいますことが、見えなかったのです。分からなかったのです。

身近な存在であるために、分からない。よく知っているが故に、受け入れられない。

こういうことは、現代でも、良くあることです。

例えば、かつて教会学校で、自分が教えたことがある女の子が、成長して献身し、牧師となった。そして、母教会の主任牧師として、赴任してきたとします。

昔の教え子が、牧師になって、自分を導く存在になった。今まで、~さんと呼んでいた。いえ、それ以前は、~ちゃんと呼んでいた。その人が、~先生となった。

さぁ今日から、~先生と呼びましょう、と言われても、その気になれない。

教会学校の生徒であった~さんは、理解できても、その人が、自分が属する教会の主任牧師、~先生であることを、受け入れられない。そういうことが、あり得ます。

よく知っているが故に、分からない。受け入れられない、ということがあるのです。

それは、知っている、と思っていても、実は良く分かっていないからです。

こういうことは、私たち自身についても、言えると思います。自分自身のことも、分かっているようで、実は、分かっていないのです

教会で、よくこういう質問を受けます。「何故この世には、理不尽なことが起こるのですか。正しい人が虐げられて、悪い人がのさばっている。こんな理不尽がなければ、私は、神様を信じます」。

この問いに対する一つの答えは、「自分に都合のよい世界であるなら、神様を信じるけれども、都合の悪い世界なら信じない、というのは傲慢である。それは人間の身勝手な思いである」、ということかもしれません。しかし、それだけでしょうか。

ある牧師は、そのような問いに対する、本当の答えは、「それは、あなたがいるからだ」、ということだ、と言っています。エッ、それはどういうことですか、と聞きたくなります。

その牧師は、こう言うのです。「この世界の、様々な理不尽な状況を、造り出しているのは、人間だ。その人間の一人、それは間違いなく、あなただ。あなたがいるから、この世界は、おかしくなっているのだ。それが答えだ。」

言われてみれば、確かにそうです。この世の中の、様々な理不尽。そのことに私たちは、怒りを覚えます。しかし、それらの理不尽は、突き詰めていくと、私たち一人一人の、心の奥底に潜んでいる思い。自己中心的な思いから、起こっているのではないでしょうか。

私たちは、この世界の理不尽な事柄と、自分とは、無関係だと思っています。

でも、そんなことはないのです。私も、この世界を、おかしくしている人間の、一人なのです。私の心の奥底にあるものが、この世界を、おかしくしているのです。

そして、そのことが、本当に分かったならば、「もし世の中に、理不尽なことがなければ、私は神様を信じる」、などとは言えない筈なのです。

そんなことを言うのではなくて、「どうしたら私は、この悲惨な状況から、救われるのでしょうか」、と真剣に問う筈なのです。

自分のことが、本当に分かったなら、そう問い掛けるのではないでしょうか。

そして、そのように、真剣に問う時、私たちは、初めて、神様に出会うのではないでしょうか。

神様が分かって来るのではないでしょうか。

あのダビデ王がそうでした。ダビデは、自分の忠実な部下である、ウリヤの妻、バト・シェバと姦淫の罪を犯してしまいます。バト・シェバが、ダビデの子を宿したことを知ると、その罪を覆い隠すために、ウリヤを最も激しい戦いの、最前線に送り出して、戦死させてしまいます。そして、バト・シェバを、自分の妻としてしまったのです。

ダビデは、自分の企みが、うまくいったと安心していました。

しかし、ある日、預言者ナタンが、ダビデの許に来て、こう尋ねます。

「ある所に、沢山の羊を所有している、大金持ちがいる。一方には、たった一匹の雌の小羊を、目の中に入れても痛くないほど、可愛がっている、貧しい男がいる。しかし、貪欲な金持ちは、貧しい男の大切な羊を、強引に横取りしてしまった。この貪欲な金持ちを、どうしましょうか。」

それを聞いたダビデは、烈火のごとく怒って、「そんな男は、死刑にしてしまえ」、と叫びます。すると、預言者ナタンは、ダビデを指さして、「その男は、あなただ」、と言ったのです。

そう言われて、初めて、ダビデは、自分のことが、分かったのです。

そして、神様の前に、崩れるようにして、ひれ伏して自分の罪を告白し、赦しを求めました。

ダビデは、そこで、神様に出会ったのです。

それまでは、自分のことが、分かっていませんでした。

この時、主イエスの周りにいた、ユダヤ人たちも、自分たちのことが、分かっていませんでした。分かっていると思い込んでいましたが、実は、分かっていなかったのです。

主イエスのことについてもそうです。この男のことを、知っていると思っていた。

どこの出身かも分かっている。どういう人間かも知っている。そう思っていたのです。

でも、本当は分かっていなかったのです。主イエスが、神様から遣わされた、メシア、救い主であることが、分からなかったのです。

彼らは、自分たちは、神を知っていると思っていました。律法をよく知っていると、思っていました。メシアは、どのようにして現れるのか。勿論、そういうことも、知っている。

だから、このイエスという男が、メシアか、メシアでないか。そういうことは、自分できちんと、判断ができる。自分には、その知識がある、と思い込んでいたのです。

彼らは、自分の知識を、絶対的なものとしていました。ですから、自分の知識に、合わないことは、受け入れられないのです。

そして、その知識に縛られてしまって、主イエスを、理解できずにいたのです。

あのクリスマスの時も、そうでした。彼らは、救い主の誕生の知らせを、聞いたのです。

でも、その救い主が、布にくるまって、飼い葉桶に寝ている、と聞いたとたんに、「なんだ、馬鹿らしい。救い主が、飼い葉桶に寝ている筈がないではないか」、と言って、その知らせを、聞き流してしまったのです。

そして、人々から、無知で、愚かな者と、蔑まれていた、羊飼い以外は、誰一人、救い主に会いに行こうとしませんでした。

この時も同じです。メシアが、ナザレのような、田舎から出るはずがない。そういう、人間の狭い常識の枠の中に、メシアを閉じ込めてしまって、受け入れなかったのです。

このようなことは、しばしば見られます。自分の知識、自分の経験、自分の常識に沿わないことは、受け入れない。たとえそれが、神様の御業であっても、自分の物差しに合わなければ、拒否してしまうのです。

以前お話した、インドの真珠採りの名人、ランパンさんもそうでした。

ランパンさんは、ヒンドゥー教徒でした。彼は、昔から、難行苦行しなければ救われない、と教えられてきたので、そう思い込んでいました。それが、彼の常識でした。

そのランパンさんに、宣教師が熱心に、聖書に記されている、救いを語りました。

ただ信じるだけで良いのですよ。あなたの罪は赦されて、天国に行けるのです。

ただ神様の愛を、受け取るだけで、救われるのです。

宣教師が、いくらそう言っても、ランパンさんは信じることができませんでした。

そんなことがある筈が無い。自分の今までの数々の悪行が、ただ信じるだけで、赦されて、救われるなんて。自分の常識では、そんなことは有り得ない。

そう言って、信じようとしなかったのです。

そして、難行苦行の旅をするために、出て行こうとしたのです。

その前に、宣教師のところに来て、それは見事な一粒の真珠を、宣教師に上げる、と言ってきたのです。聞くと、彼の息子は、その真珠を採るために、命を失ったそうです。

息子が、命がけで採った、かけがえの無い真珠なので、売る訳にはいかない。だから、私が尊敬する人に貰っていただきたい。そう言って、その真珠を差し出したのです。

宣教師は言いました。「いえ、息子さんの命がかかっている大切な真珠を、ただで貰うなんて出来ません。どうか値段を言ってください。」

「いえ、息子の命がかかっているからこそ、お金を頂く訳にはいかないのです。どうか貰ってください」。「いえ、貰うわけにはいきません」。

そのような押し問答を繰り返しているうちに、遂にランパンさんが怒り出しました。

「では、あなたは、私の息子の命に、値段を付ける積もりなんですか」。

その時、宣教師が言いました。

「そうでしょう。大事なものであればあるほど、値段なんて付けられないでしょう。

愛をもって上げようと思っているものに、値段をつけようとしたら、あなたは怒るでしょう。

息子さんの命に、値段なんて付けられないでしょう。分かりませんか。

神様は、独り子を、あなたのために、お与えになったのですよ。

あなたのために、独り子の命を、十字架の上に、犠牲にされたのです。それほどまでに、あなたを愛しておられるのです。神様が、あなたに求めておられるのは、難行苦行して、今までの罪滅ぼしをしてください、ということではありません。

償いは、もう全部イエス様が、成し終えてくださっているのです。神様が、あなたにして貰いたい事は、「ありがとうございます」と言って、黙って受け取ることだけなのです。

あなたは、「尊い息子の命に値段なんか付けられない」と言ったでしょう。「だから、黙って貰ってください」と言ったではないですか。

イエス様が、私たちのために、十字架で献げてくださった命は、私たちが難行苦行したり、お金を払ったりして、受け取れるようなものではないのです。

そんな安っぽい恵みではないのです。ただ、感謝して、受け取る以外にないのですよ。」

この宣教師の言葉で、ランパンさんは、初めて分かったのです。

十字架の救いは、神様からの、かけがえのない贈り物なのだ。

信じるということは、「ありがとうございます」と言って、それを受け取ることなのだ。

そのことが、本当に良く分かったのです。この時、ランパンさんは、自分を縛っていた、常識の枠から、解放されたのです。

罪が、無条件で赦される筈がない。そんなことは、自分の常識では、考えられない。

そう思い込んで、常識の枠の中に、留まっている限りは、神様に出会うことはできません。

私たちは、そこから、一歩踏み出して、主イエスを、体験しなければ、ならないのです。

料理のレシピ本を、ただ眺めているだけでは、料理の味は分かりません。

実際に、食べなければ、味が分からないように、主イエスを、実際に、味わうことをしなければ、主イエスのことは、分からないのです。

この仮庵の祭りの時も、群衆の中には、主イエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」、と言ったと、記されています。

この人たちは、実際に、一歩踏み出して、主イエスと出会い、僅かであっても、主イエスを体験したのです。

それまでの自分の知識や、世間の常識から、一歩踏み出して、主イエスに近づき、主イエスを味わったのです。

ナザレのイエスを、キリスト・イエス、わが主イエス、と呼ぶ者となるための、小さな一歩を、踏み出したのです。

そして、この一歩は、私たち一人一人にとっても、とてつもなく、大きな一歩なのです。

愛する兄弟姉妹、私たちも、知識で、主イエスを知ろうとするのではなく、実際に、主イエスを味わい、主イエスを体験する者となりましょう。

主イエスに出会い、主イエスを体験することによって、素晴らしい恵みの世界に、生きる者とならせていただきましょう。