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過去の礼拝説教

「あぁ、救われた!」

2015年12月27日 聖書:ヨハネによる福音書 8章 1 – 11 節

ドイツのある神学校で、教授が学生に、質問しました。

「キリスト教信仰とは何か。それを一言で言いなさい。」

学生たちは、それぞれの考えを述べました。しかし、教授は、そのどれにも首を振りました。

そこで学生が、「それでは、先生は何だと、言われるのですか」、と尋ねました。

その教授は、静かに答えました。「神との交わりです。それ以外にはありません。」

キリスト教信仰の本質。それは「神との交わり」であるというのです。

神様との、活き活きとした交わり。私たちの信仰は、すべてそこから生まれ、そこを目指していく歩みであると言えます。

信仰とは、神様からの働きかけ、「アクション」に対する、私たちの応答、「リアクション」。

この関係の中を歩み続けることです。そして、私たちをそのような歩みへと押し出す原動力。

それは、神様の全き愛です。

今朝の御言葉には、主イエスの全き愛によって、絶望の淵から救われ、主イエスとの交わりの中に、招き入れられた、一人の女性の話が記されています。

主イエスが、姦淫の現場で、捕えられた女性を、赦す物語です。一度読んだら、忘れることができなくなるような、印象深い物語です。

ウィリアム・バークレーという神学者は、この物語を、「福音書の中で、最も美しく、最も大切な物語の一つである」、と言っています。

また、内村鑑三は、「ここに、全福音書の縮図がある」、とまで言っています。

今朝、私たちは、そのような、御言葉の恵みの中に、全身を沈めて、浸り切りたいと思います。

この出来事は、仮庵の祭りの最終日か、その直後に起こった、とされています。

皆さん、この時の場面を想像し、御言葉の出来事を、心の中に想い描いて見ましょう。

仮庵の祭りは、秋の祭りですから、季節は秋です。時間は朝、それも早朝です。

場所は、エルサレム神殿の境内です。そこで主イエスは、民衆を教えておられました。

この時、主イエスは、座って話されていた、と書かれていますから、きっと石段か何か、ちょっと高い所に、腰掛けられて、人々に話されていたのでしょう。

爽やかな秋の日の早朝、エルサレム神殿の境内で、主イエスの説教を、静かに聞いている人たちがいる。きっとそこは、恵みと平安に、覆い包まれていたことでしょう。

ところが、その真只中に、律法学者とファリサイ派の人たちが、無遠慮に、そして騒々しく、割り込んできました。

彼らは、姦淫の現場で捕えた女性を、連れて来て、民衆の真中に立たせた、と聖書は伝えています。

そして、彼らは、主イエスに問いただします。「こういう女は、石で打ち殺せと、モーセは律法の中で、命じています。ところで、あなたは、どうお考えになりますか。」

姦淫は、十戒の中の、七番目の戒めとして、厳しく禁じられています。

結婚は、神様が定めた、聖なる秩序である。だから、人は、これを壊してはならない、という戒めです。そして、これを破った場合には、石打による、死刑と定められていました。

ところで、ここで不思議に思うのは、姦淫の相手の、男性のことです。

現行犯であるなら、男性も一緒に、捕えられた筈です。ところが、連れてこられたのは、何故か、男性より立場の弱い、女性だけでした。

しかし、律法学者や、ファリサイ派の人たちにとっては、そんな事はどうでも良かったのです。

彼らの目的は、主イエスに、律法の正しい解釈を尋ねて、裁きを仰ぐ、という事ではなくて、主イエスを陥れて、告発するためでした。

女性は、そのための罠として、使われたに過ぎなかったのです。

これは実に卑劣な、しかし巧妙に仕組まれた、陰謀でした。

なぜなら、もし主イエスが、「石打の刑にせよ」、と言えば、今まで主イエスが説いてきた、愛と赦しの教えに矛盾します。民衆は、主イエスに失望し、主イエスから離れていくでしょう。

また、もし、「この女を赦しなさい」と言えば、主イエスが、律法違反を指示したとして、訴えることが出来ます。どちらの答えでも、主イエスを、失脚させることが出来る。

彼らは、主イエスを、完璧な袋小路に追い詰めた、と確信しました。

これで、あの目障りなイエスを、失脚させることが出来る。彼らは、ほくそえみ、勝ち誇ったように、主イエスに返答を迫りました。「さあ、どうされますか?どうなんですか?答えてください」。

ところが、主イエスは、ここで、不思議な行動を取られます。

「かがみ込み、指で地面に、何かを書き始められた」、と聖書は伝えています。

主イエスは、それまでは座って、民衆に語っておられました。それが、この時、何故か、一旦立ち上がって、そして次に、かがみ込んで、地面に何かを、書き始められたのです。

主イエスの、この不思議な行動が、何を意味するのかは、はっきりとは分かりません。

一つ考えられることは、女性に対する、主イエスの思い遣りです。

姦淫の現場で捕らえられた、この女性に対して、人々は、刺すような視線を、容赦なく浴びせかけていました。

それは、軽蔑と、好奇心と、更には、この女性に対して下される、裁きへの期待が入り混じった、冷たい、残酷な視線でした。

しかし、主イエスが、地面にかがみ込んだことによって、人々の視線は、恐怖と恥ずかしさで、震えているこの女性から、主イエスの方へと向けられました。

主イエスは、彼女の恥と恐怖を、代わって、その背中に負われたのです。

しかし、後でお話しさせて頂きますが、この時、主イエスが引き受けられたのは、恥や恐怖心以上のものだったのです。そのことを、心に留めながら、先に進みましょう。

主イエスが、何かを書かれた、ということは、聖書では、ここしか出てきません。

主イエスは、この時、一体何を、書かれていたのでしょうか。

もしかしたら、「みだらな思いで、他人の妻を見る者は、誰でも、既に心の中で、その女を犯したのである」という、あの山上の説教の一節を、書かれていたのかもしれません。

或いは、そこにいる人たちの名前と、その人たちが犯した罪を、一つ一つ記していた。

それを見て、群衆は、恐れを抱いたのではないか。そのように推測する人もいます。

もしそうであれば、これは、誠に厳しい御姿です。もし、私が、その場にいたら、何度も、私の名前と、犯した罪が、書かれるだろう。そう思わざるを得ません。

この時、主イエスが、何を書かれていたのか。大変、興味深い問いですが、誰もその答えを持っていません。

この主イエスの、予想外の行動に、問い詰めていた人たちは、当惑しました。彼らの予想では、主イエスは、追い詰められて、オロオロしながら、どちらかの答えをする筈でした。

そして、その答えがどちらであっても、彼らは、主イエスを、陥れることが出来る筈でした。

しかし、主イエスは、無言のまま、地面に何かを、書いておられました。

彼らは当惑しながらも、なおも主イエスに、回答をしつこく迫っていきました。

やがて主イエスは、立ち上がって、口を開かれました。

ここで、主イエスが語られた、三つのお言葉に、注目していきたいと思います。

聖書の中で、主イエスが、直接話法で語られている時、そのお言葉は、キーワードである場合が多いからです。

先ず、主イエスは、「あなたがたの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。

確かに、この女のしたことは悪い。彼女には罪がある。

だから律法によって裁かれるなら、それは正しいことである。

しかし、あなた方はどうなのか?罪があるのは彼女だけなのか?

この主イエスのお言葉は、偽善と悪意に満ちた、彼らの心を、鋭く刺し通しました。

この主イエスの一言によって、状況は一変しました。今まで、「さぁ、どうなんですか」、と回答を迫っていた人たちが、逆に問い詰められる事になりました。

主イエスを、裁こうとしていた人たちが、逆に裁かれる立場に、置かれる事になったのです。

「自分には全く罪がないと言える人が、最初に石を投げなさい」。この主イエスのお言葉を聞いて、そこにいた人たちは、夫々、自分の歩んできた人生を、振り返ったことでしょう。

そして、自分は罪を犯したことがないと、自信を持って言うことなど、とても出来ない。そういう思いに、導かれていきました。

ただ、もし、このことを言われた方が、主イエスでなかったなら、或いは石を投げた者が、いたかも知れません。

そして、もし、一人が投げれば、後はもう堰を切ったように、全員が競って、石を投げることになったことでしょう。しかし、彼らは、今、主イエスの前に、立っているのです。

みだらな思いをもって、女を見る者は、すでに姦淫の罪を犯しているのだ、と言われた、そのお方の前に、立っているのです。

このお方の前に立った時、人はその汚れを、否応無しに意識させられます。

光の少ない所では、汚れは見えません。しかし、明るい光の中では、普段は見えない汚れも、くっきりと浮かび上がるように、主イエスの前では、人は、自分の罪に、気付かされるのです。

そして、自分は、全く罪を犯したことが無い、などとは言えなくなります。

主イエスは、ただ一言、言われると、また身をかがめて、地面に何かを、書き続けられました。

重苦しい沈黙が訪れ、人々の中に、何か気まずい緊張感と、聖なる畏れが、漂い出します。

やがて、いたたまれなくなったかのように、年長者から一人去り、二人去り、遂に全部の者が去って行きました。そして、そこには、主イエスと、女性だけが残りました。

聖なる静寂の後に、主イエスは身を起こして、女性に言われました。

「婦人よ。あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

彼女は答えます。「主よ、だれも」、「誰もいません。主よ、あなただけです」。

主イエスのお言葉、「あなたを罪に定める者はなかったのか」、に注目したいと思います。

ここで主イエスは、全ての人は罪の中にある、だから人は誰も、他人を罪に定めることも、罪を裁くこともできないのだ、と言われているのです。

と言うことは、同時に、誰も、罪を赦すことも出来ない、と言われているのです。

この女性は、石打の刑から、免れました。まさに九死に一生を得た、と安堵したことでしょう。

しかし彼女にとって、この時点は、未だ物語の最後、ハッピーエンドではありませんでした。

皆は去っていきましたが、ただ一人、主イエスが、残っておられます。

この主イエスが、人は誰も、他人を罪に定めることは出来ない、と言ってくださった。

この言葉によって、彼女は命を救われました。

しかし同時に、主イエスは、人は誰も、他人を赦すことも出来ない、と言われているのです。

これは、「だから、あなたの罪は、まだ残っていますよ」という、まことに厳格なお言葉なのです。目に見える石は、もはや飛んでこないかもしれません。しかし、赦す者がいないのであれば、彼女にまことの救いもないのです。罪は、ずっと、残ったままなのです。

そして、その時、彼女は気づくのです。このイエスというお方は、他人を罪に定めることも出来るし、また他人を赦す事も出来る、ただ一人のお方なのだ。

自分が、本当に恐れなくてはならないお方は、自分を死刑にしようとした、律法学者やファリサイ派の人たちではなくて、このお方なのだ。自分は今、そのお方の前に立っている。

まことに恐れなくてはならない、唯一のお方の前に立っている。

彼女は、そのことを知らされたのです。

大勢の群集は、自分に何も出来ずに、去っていった。しかし、このお方は、私を罪に定めることも、私を赦すことも、お出来になる、唯一のお方なのだ。彼女は、そのことを知ったのです。

彼女は、固唾を呑む思いで、主イエスの、次のお言葉を待ちました。

主イエスが、第三のお言葉を語られます。

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」

「私も、あなたを罪に定めない」。主イエスが、このお言葉を語られる時、それは、「私はあなたを赦す」、と言う意味を含んでいます。

この第三のお言葉によって、この女性は初めて、救いに入れられました。

主イエスは、彼女の罪を赦す、と言われました。では、どういう仕方で、罪を赦す、と言われたのでしょうか。罪を、見て見ぬ振りをする、ということなのでしょうか?

或いは、「まあ、今回は見逃してやるよ」と言って、罪を不問に付す、ということによってでしょうか?そうではありません。

それは、ご自身が十字架で、身代わりになって、罰を受けるという仕方で、彼女の罪を赦す、と言われたのです。

主イエスは、ここで、姦淫の女を赦すと言われました。この時、主イエスは、十字架での痛みを、既に味わっておられたのです。

主イエスの十字架は、主イエスの地上のご生涯の、最後だけに起こった、出来事ではないのです。その全生涯を通して、常にその背後に、存在し続けたのです。

主の十字架によって、赦されるとは、私たちの罪が、どこかにフッと、消え去ってしまうのではありません。

そうではなくて、主イエスが、罪を代わって、負ってくださるのです。主イエスが、痛みを引き受けて下さるのです。これが、私たちに与えられている救いなのです。

さて、主イエスは、姦淫の女を赦すと言われた後に、「行きなさい。」と言われました。

しかし、ちょっと考えてみて下さい。

主イエスは、この女に、一体どこに行けと、言われているのでしょうか。姦淫の大罪を犯して、捕えられた女です。そんな彼女に、一体何処へ行けと、言われるのでしょうか。

もし、この女が結婚していたとしても、夫の元に帰ることなど、とても出来ないでしょう。

家族も、大罪を犯した彼女を、快く迎えてくれることはないでしょう。社会からも、つまはじきにされてしまうでしょう。彼女の行くところなど、何処にもないように思われます。

それでも、主イエスは、「行きなさい」と言われます。一体、どこへ行けばよいのでしょうか?

主イエスは、彼女が行くべき、具体的な場所を、示しておられるのではありません。

主イエスは、ここで、「私の愛のうちを行きなさい」、と言われているのです。

「どこにも行くところがない」、「誰にも受け入れてもらえない」。

あなたが、そのような絶望と孤独の中にいる時も、私はあなたと共にいる。

誰からも愛されていない、と思うような時にも、私はあなたを愛している。

そのために私は、十字架で肉を裂き、血を流したのだ、と主は言っておられるのです。

なんという、慰めに満ちたお言葉でしょうか。

教会は、この姦淫の女のように、本来は死刑にされる所を、主イエスの十字架によって、赦された者たちの群れです。

私たちも人生の旅路の途上で、どこにもいく所がないと思うような、困難に会うことがあります。そのような時は、主イエスの、豊かな愛に戻りましょう。主イエスの、慈しみの御懐の中に、飛び込ませていただきましょう。

主イエスは、どんな時にも、しっかりと受け止めてくださいます。

しかし、この主イエスの愛には、一つの切なる願いが、込められています。

それは、主イエスの最後のお言葉、「これからはもう罪を犯してはならない」、という願いです。

この姦淫の女は、絶体絶命の危機の中で、最も惨めな、どん底の状態で、主イエスと出会いました。そして、こんなに罪深い自分をも、命を懸けて愛してくださる、主イエスの愛を知りました。彼女の心は、この主イエスの愛によって、砕かれました。

今や、彼女の心は、主イエスの、愛と赦しの恵みに、満たされています。

こんな自分にも、注がれている、主の愛の大きさに圧倒され、この主の愛に、どのようにして応えていくか。そのことを、ひたすらに求めていく者とされたのです。

これが、神様との、活き活きとした交わりに生きる、という信仰者の姿です。

もはや、この女性には、この生き方しか残されていません。このような生き方しか考えられません。主イエスの愛にすがるほかに、生きる術を持っていません。

その彼女に、主イエスは言われました、「行きなさい、わたしの愛のうちを。これからはもう罪を犯してはならない。いや、私の愛の内に、留まっているならば、もう罪を犯そうとは、しない筈だ。」

今朝、私たちは、この御言葉を、主イエスが私たち一人一人に下さった御言葉として、頂いてまいりたいと思います。

主は今日も言われています。「行きなさい。私の愛のうちを」。