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過去の礼拝説教

「貧しくなられた主」

2015年12月20日 聖書:コリントの信徒への手紙二 8:1~9

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。』

今年のクリスマスの主題聖句です。これは、使徒パウロが、コリントの教会の信徒に宛てた、手紙の中で、語った言葉です。

しかし、この言葉は、元々は、初代教会の人々が、繰り返して唱えた信仰告白、もしくは讃美歌の一部であったと、考えられています。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。初代教会の信徒たちは、この言葉に励まされて、厳しい迫害の中でも、信仰を守り貫いてきたのです。

なぜ、この言葉が、迫害の中にいるキリスト者に、慰めと、励ましを与えたのでしょうか。

今朝は、そのことを、ご一緒に考えながら、クリスマスの豊かな恵みに、共に与ってまいりたいと思います。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。

そうなのです。主は、貧しくなられたのです。この地上における、主のご生涯は、徹底して、貧しさに生きる、ご生涯でした。それは、そのお誕生の時から、始まっています。

ルカによる福音書2章には、そのことが記されています。

主は、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。なぜなら、宿屋には、彼らの泊まる場所が、なかったからである。福音書は、このように伝えています。

しかし、本当に、泊まる場所が、なかったのでしょうか。当時は、専門の旅館というのは少なくて、普通の人の家の、空いている部屋に、泊めてもらうことが、多かったようです。

それでは、ベツレヘムの家々の、すべての部屋が、塞がっていたのでしょうか。

それは、ちょっと考えにくいことです。

これは、推測ですが、もし、ヨセフとマリアが、身だしなみもよくて、裕福そうに見えたなら、部屋の一つや二つは、どうにかしてでも、工面されたのではないかと思うのです。

ですから、開いている部屋が、一つもなかった、ということではなくて、ベツレヘムの町の人々は、二人の泊まる場所を、そこまでして用意しようとはしなかったのです。

そのため、二人は家畜小屋に泊まります。

そこは、聖画に見るような、ほのぼのとした場所ではなくて、岩をくりぬいた、洞窟のような所であったと言われています。身重のマリアが泊まるには、全くふさわしくない、汚れて、暗くて、冷たい所だったのです。

そして、そこで、マリアは出産し、幼な子イエス様は布にくるまれて、飼い葉桶に寝かされました。

家畜の餌箱に、藁を敷いただけの寝床です。ふかふかしたベッドとは、ほど遠いものでした。この後、ご一緒に歌います、讃美歌256番の4節は、こう詠っています。

「きらめく明か星 うまやに照り、わびしき乾草 まぶねに散る。

こがねのゆりかご 錦のうぶぎぞ きみにふさわしきを。」

錦の産着に包まれて、黄金のゆりかごに、生まれるべきお方が、うまやに生まれ、わびしい乾草に寝かされた。貧しさの極みを、引き受けられた、主のお姿が、詠われています。

ルカによる福音書2章には、「飼い葉桶」という言葉が、3回も出てきます。

あまり重要とは思えない言葉が、3度も、繰り返して、語られています。

それは、主イエスが、そのような貧しさの中に、生まれたことを、福音書記者ルカが、大切な事だと考えたからです。

ですから、クリスマスの出来事は、先ほどのパウロの言葉のように、「主は豊かであったのに、貧しくなられた」、出来事でした。しかし、それには目的がありました。

「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」、というのです。

クリスマスのこの時、主が、私たちのために、貧しくなられたこと。そして、そのことによって、私たちが、豊かにされたことを、今一度、深く心に覚えたいと思います。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。

この言葉を理解することは、それほど難しくはないように思えます。

というのは、私たちの歴史を、振り返ってみましても、そのように生きた、「偉人」とか、「聖人」と言われる人たちが、多くいるからです。

例えば、カトリック教会に、フランシスコ会という、修道会がありますが、その創始者である、聖フランシスコは、アッシジという町の、大変豊かな、織物商人の跡取り息子でした。

しかし彼は、一切を捨てて、托鉢をしながら、ひたすら神様に従う生活を、貫き通しました。

また、アフリカの聖人と言われた、アルバート・シュヴァイツァー博士は、世界的に有名な聖書学者であり、またオルガン奏者としても、著名な方でした。

しかし、彼は、それらの名誉や地位を全て捨てて、アフリカのランバレネという村での、医療奉仕に、後半の人生をささげ尽くしました。

日本にも、そのような人は、たくさんいます。明治の初めに、沢山保羅というキリスト者がいました。彼は、当時、日の出の勢いであった、長州出身の若者で、明治新政府から派遣されて、アメリカに留学しました。アメリカでの、4年間の学びを終えて、帰ってきた沢山保羅に、明治政府は月給150円の仕事を用意して、彼を迎えようとしました。この月給は、当時の標準給与の十数倍もする高給でした。

しかし、何と、彼は、この仕事を断って、会員がたった11人で、謝儀が僅か7円の教会の牧師となりました。世間から見たら、何ともったいない、と思うような選択です。

神様と人に仕えるために、貧しい生き方を選んだ人は、他にも沢山います。素晴らしい生き方です。

しかし、どんなに素晴らしくても、この人たちの生き方と、「主が富んでおられたのに、貧しくなられた」ということとは、本質的に違います。

「主は富んでおられたのに、貧しくなられた」。だから、あなたも、自分の富を、人のために用いて、貧しくなりなさい。

この御言葉を、そのように読むことも、全く間違っている訳ではありません。

しかし、そこに止まっているだけでは、クリスマスの主の御業が、私たち人間の慈善活動と、同じレベルに、引き降ろされてしまいます。

それでは、主が豊かであったとは、どういうことなのでしょうか。そして、主が、貧しくなられた、とはどういうことなのでしょうか。

これについては、聖書そのものが、解説してくれています。

フィリピの信徒への手紙2章6節~8節までの御言葉は、このように語っています。

『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』

この御言葉は、主が豊かであった、とはどういうことなのかを、はっきりと告げています。

それは、「神の身分」であった、「神と等しい者」であった、ということです。

キリストは、神であった、のです。神としての、無限の豊かさの中に、おられたのです。

その神が、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」のです。

主が、貧しくなられたと、いうことは、神が、人間になられた、ということです。

人間が、神様から与えられた財産や、地位を捨てて、貧しくなることと、神様が、神であることに固執せずに、人間になることとは、本質的に違います。

神様は、すべてのものの造り主です。人間は、造られたものです。

しかし、造られたものが、造り主の意に沿わない。神様が、愛の対象として、心を込めて造った人間が、その愛を拒んで、滅びへの道を歩んでいる。そういう現実があります。

神様は、何度も何度も、その過ちに気付かせようと、ありとあらゆる事をされました。

しかし、それにも拘らず、人間は、立ち帰ろうとしません。

そのように、自分の造ったものが、どうしても自分の意に、沿わない時、私たちなら、どうするでしょうか。

恐らく、その造ったものは諦めて、不良品として、廃棄処分にすると思います。そして、その代わりに、新しいものを、造ろうとするのではないでしょうか。

しかし、神様は、諦めなかったのです。そして、廃棄処分にされるべき、人間に代わって、ご自身が、自ら廃棄処分になられたのです。それが、十字架の出来事なのです。

主は、そのために、人間になられたのです。それが、主の貧しさなのです。

神様と、人間との間には、無限の隔たりがあります。主は、その無限の隔たりを超えて、来てくださいました。

そのことを、詠っている詩編があります。詩編113編の4節~6節です。

『主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。私たちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地をご覧になる。』

「低く下って」と詠われていますが、この言葉は、原語のヘブライ語では、旧約聖書全体で、三回しか出てきません。そして、他の二箇所では、「地に投げ捨てる」、と訳されています。

この訳の方が、原語のニュアンスを、より正確に、伝えていると思います。

すべての国を超え、天を超えて、限りない高みにおられるお方。輝く栄光の御座におられるお方が、その高みから、己を地に投げ捨てられて、低く下られたのです。

先ほど、フィリピの信徒への手紙を読みましたが、その中の、2章8節は、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」、と語っていました。

ここで「へりくだって」、と書かれている言葉は、以前の口語訳では、「おのれを低くして」と訳されていました。詩編113編も、フィリピ書も、同じことを、言おうとしています。

主が、己を地に投げ捨てられて、低くなられた。そのことを、言っているのです。

そうであれば、フィリピ書の御言葉も、「おのれを地に投げ捨てて、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」、と読み替えることができます。

キリストは、おのれを地に投げ捨てたのです。いや、もっと正確に言えば、父なる神様に、投げ捨てられたのです。

「人間になられた」ということは、十字架で死ぬために、投げ捨てられた、ということなのです。キリストが、貧しくなられた、ということは、ただ、人間になられた、ということばかりでなく、投げ捨てられ、蔑まれ、そして十字架につけられた、ということなのです。

罪なきお方が、私たちの罪を贖うために、罪そのものとなられたのです。それが、貧しくなるということであったのです。

キリストは、その誕生の始めから、十字架の死を目指して、お生まれになりました。

十字架の死を目的として、お生まれになったのです。

今までに、何百億という人が、この世に生を受けて生まれてきました。

一人ひとり、皆それぞれ、目的をもって生まれてきました。しかし、始めから、死ぬことを目的として、死ぬことを目指して、生まれてきた人は、主イエスただお一人です。

ですから、飼い葉桶は、十字架と結びついています。「飼い葉桶の中に」ということは、「十字架の上に」、と結びついています。

十字架を目指して、この世に来られたお方。そのお方が、生まれるべき場所は、飼い葉桶でしか、あり得なかったのです。

飼い葉桶も、十字架も、木でできています。そのことを黙想していた人が、可愛らしい絵本を書きました。世界中で愛されている、「三本の木」という絵本です。

以前、「恵泉」でも紹介させていただきましたので、覚えている方も多いと思いますが、このような話です。

昔、ある山の頂に、三本の木が立っていた。

一本目の木は、将来、すばらしい宝物を入れる、宝石箱になりたいと願った。

二本目の木は、将来、王様を乗せる、立派な船になりたいと願った。

三本目の木は、将来、天にまで届くような、梯子になりたいと願った。

しかし、一本目の木は、馬小屋で使われる、飼い葉桶になった。

二本目の木は、漁師が使う、粗末な小舟になった。

そして、三本目の木は、角材にされて、材木置き場に、投げ捨てられてしまった。

それぞれの願いは、天に届かなかったように思われた。

けれども、数年して、馬小屋の飼い葉桶には、一人のみどりごがいた。

その何年か後には、漁師の乗る粗末な小舟に ある説教者が乗っていた。

さらに、その数年後には、十字架となった角材の上で、その説教者が死んだ。

 

それぞれの木の願いは、実は成就したのだ。

実は、みどりごは、「人類の宝石」であり、漁師の小舟には、「王の王」が乗ったのであり、

十字架で、天と地との橋渡しが、完成したからである。 このような物語です。

これら、三本の木は、皆、同じ目的のために、用いられました。

豊かであった主が、貧しくなられるという、目的のために、用いられたのです。

クリスマスは、私たちにとっては、貧しさから豊かさに、移された、喜びの日、祝いの日です。しかし、父なる神様にとっては、断腸の思いをもって、独り子を、地に投げ捨てた日です。

そして、御子イエス・キリストにとっては、父なる神様に、敵対する罪として、十字架の上に死なれる、という歩みを始められた日です。

ですから、父なる神様にとっても、御子イエス・キリストにとっても、クリスマスは、大いなる痛みの日なのです。

そのことを、詠った俳句があります。

「真珠は 貝の生身の傷や クリスマス」。この句です。

真珠を作るために、アコヤ貝に、ナイフで傷をつけるそうです。すると、その傷を覆うために、幾重にも分泌物の膜ができて、それが真珠となるそうです。

あの美しい真珠は、貝の生身を、傷つけることによって、生まれるのです。

聖書の中に、すべての持ち物を、売り払ってでも、手に入れたいと思うほど、高価な真珠の話が出てきます。主イエスが語られた譬え話です。

すべての持ち物を、売り払ってでも、手に入れたいと思うほど、高価な真珠。

それは、主イエスの十字架によって、与えられる、私たちの救いのことです。永遠の命という、宝物のことです。

クリスマスは、そのような高価な真珠が、神様から、私たちにプレゼントされた日です。

しかし、その真珠を生み出すために、貝は傷つけられたのです。貝が、生身に傷を負うことなしには、真珠は生まれなかったのです。

真珠を与えられて、私たちは、豊かにされました。しかし、貝は、そのために傷を負い、貧しくなったのです。私たちは、主の十字架の貧しさによって、豊かにされました。

その豊かさとは、金銭的な豊かさではありません。

永遠の命という、高価な真珠が与えられた豊かさです。

主が、貧しくなられたことによって、私たちは、罪赦され、神の子とされ、平安と希望を与えられている。それが、私たちに与えられた、豊かさです。

第二次世界大戦中に、ナチスに抵抗し、捕らえられ、処刑された、ボン・フェッファーという牧師は、獄中にあっても、他の囚人を励ますための祈りを、たくさん書きました。

その中の一つに、このような祈りがあります。

「主イエス・キリストよ。あなたは貧しくあられました。そして私と同じようにみじめであり、囚えられ、見捨てられました。あなたは人間の困窮を、知っておられます。あなたは、私のそばにいて下さいます。たとえ誰一人、私のそばにいてくれなくても。あなたは私をお忘れにならず、私を探して下さいます。」

ボンヘッファーは、獄中にあっても、貧しくなられた主イエスが、共にいてくださることを知っていました。そのことに、光を見ていました。

ですから、獄中にいる人たちを、励ますことができたのです。

まことの豊かさとは、このようなことを、言うのではないでしょうか。

冒頭で、聖フランシスコや、シュバイツアーや、沢山保羅の話をしました。

なぜ、彼らは、この世の富を捨てて、貧しさを生きるという、選択ができたのでしょうか。

実は、彼らは、豊かだったからです。金銭的に豊かであったのではありません。キリストの恵みに満たされた、豊かさの中にいたからです。

彼らだけではありません。主が貧しくなってくださったことによって、私たち、すべてが、豊かにされました。

「真珠は 貝の生身の傷や クリスマス」。主が、傷つけられたことによって、私たちは素晴らしく高価な、真珠のプレゼントを与えられたのです。

主のご降誕を祝う、クリスマスの時、この言い尽くせない恵みに、心から感謝する、お互いでありたいと願います。