「イエスとは何者か」
2016年01月31日 聖書:ヨハネによる福音書 8:48~59
先程、ヨハネによる福音書8:48~59を、読んで頂きました。この箇所で、ユダヤ人たちが繰り返して問うているのは、一体イエスという男は何者なのか、ということでした。
53節の最後で、「一体、あなたは自分を何者だと思っているのか」、と言っている言葉に、それがはっきりと表れています。
そして、私たちの信仰生活においても、絶えず問われているのは、「あなたは、主イエスを、どのような方と捉えているか」、ということです。
私たちの毎日の生活、毎日の何気ない言葉、何気ないしぐさの中に、私たちが主イエスを、どのような方と捉えているか。それが顕れてきます。主イエスを、誰だと思っているか。
その捉え方が、私たちの生き方を方向づけ、それが日常の行動にも、顕れてきます。
さて、8章12節から、ユダヤ人と主イエスの、長い対話が続けられてきました。
8章の最後では、その長い対話の結果、ユダヤ人が、主イエスに、石を投げつけようとした、と書かれています。初めの内は、主イエスの言葉を、喜んでいた人たちが、最後には、主イエスを、殺そうとしたのです。なぜ、そんなことに、なってしまったのでしょうか。
今朝は、そのことを、ご一緒に考えていきたいと思います。
48節で、ユダヤ人たちは、主イエスに対して、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』、と言っています。
この言葉は、その前の箇所で、主イエスが、語られたことへの反論です。
44節で、主イエスは、ユダヤ人たちに、「あなたたちは悪魔である父から出た者である」、と言っておられます。更に、47節では、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」、とも言われました。
主イエスは、ユダヤ人たちに対して、あなたたちは悪魔の子であって、神に属していない、と言われたのです。これは大変厳しい言葉です。
このお言葉を聞いて、それまで、主イエスを信じようとしていた人たちは、激しく怒りました。
今風に言えば、切れてしまったのです。
でも、ここで、主イエスが言われたことは、本当のことです。何も、主イエスは、ユダヤ人たちを、敢えて怒らせようとして、こんな厳しいことを、言われた訳ではありません。
この主イエスのお言葉を、正しく捉えた人がいます。使徒パウロです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙2章3節で、「わたしたちも皆、…以前は肉の欲望の赴くままに生活し、…生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」、と言っています。
パウロが言っている、「生れながら神の怒りを受けるべき者」というのは、主イエスが仰った 「悪魔の子」と同じ意味です。
ですから、もしこの場面に、パウロがいたなら、パウロは恐らく、「主よその通りです。あなたに救われる以前の私は、生れながらの怒りの子、悪魔の子でした」、と言うと思います。
しかし、この時、ユダヤ人たちには、そのことが理解できませんでした。
ですから「悪魔の子、神に属していない者」と言われて、彼らは逆上して言い返したのです。
「何を言うのか。私たちはアブラハムの子だ。その私たちのことを、悪魔の子などと言うのは、私たちに敵対しているサマリア人か、若しくは悪霊に取りつかれている者だけだ。」
彼らは、そう言って反論したのです。
ここから始まって、この後、主イエスと、ユダヤ人たちとの、論争が続きます。そして、最後には、ユダヤ人たちが、石を持って、主イエスを殺そうとするに至るのです。
主イエスを殺そうとした、きっかけになったのは、58節の御言葉です。
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」
「わたしはある」という言葉は、神様がモーセにお告げになった、神様ご自身のお名前です。
ですから、ここで主イエスが、「わたしはある」と、はっきりと宣言されたということは、主イエスが、「わたしは神なのだ」、と言われたことに等しいのです。
目の前にいる、イエスという男が、「わたしは神だ」、と宣言した。
それを、ユダヤ人たちは、はっきり聞いたのです。ガリラヤのナザレという、田舎から出て来た、大エの息子が、「わたしは神だ」、と宣言したのです。
ですから、ユダヤ人たちは、「この男はどうかしているのではないか、悪霊に取りつかれたのではないか」、と考えたのです。そして、この男は、神を冒瀆している。こんな男を、生かしてはおけない、と思うに至ったのです。
しかし、まさにここに、私たちの信仰の要があります。私たちの信仰は、この主イエスの中に、神を見ることができるかどうか、ということに懸かっています。
主イエスこそ神だ、と証しすることが、できるかどうか。それが、私たちの信仰が、本物かどうかを決めるのです。
12弟子の一人のトマスが、復活された主イエスにお会いした時、思わず、「わが主よ、わが神よ」、と告白しました。このトマスの告白こそが、私たちの信仰の要なのです。
主イエスは、偉大な愛の実践者であるとか、主イエスにおいて、最高の倫理が示された、ということが、私たちの信仰の要ではありません。そうではなくて、「主イエスこそわが神です」と、はっきりと告白することが、私たちの信仰なのです。
ですから、このことを、主イエスは、「はっきり言っておく」と、前置きして言われました。
この「はっきり言っておく」、という言葉は、原文では「アーメン、アーメン」という言葉です。
「まことに、まことに」、という意味の言葉です。これから言うことは、真実なこと、本当のことなのです。だから、聞き流さずに、しっかりと聴いてもらいたい。
そのような思いを込めて、「わたしはある」。「わたしは神なのだ」、と言われたのです。
今朝の御言葉の中で、主イエスが、「はっきり言っておく」、と言われた箇所が、もう一つあります。51節です。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。
ここでも主イエスは、「はっきり言っておく」、「アーメン、アーメン」、と言われています。
真実なお心を持って、このことを約束されています。
「私の言葉を守るなら、その人は永遠に、死を味わうことがない」。
「アーメン、アーメン」と言われながら、主イエスは、そう宣言されているのです。
主イエスの御言葉を守る、ということは、主イエスの御言葉の中、にいつもいる、ということです。主イエスが語られる、命の御言葉の中に、浸り切るということです。
その時、私たちは、この世にあって、既に永遠の命に、生かされている。どんな時にも、決して消えない希望に、生かされている、というのです。
主イエスの御言葉の中に、居続ける限り、私たちは、どんなことがあっても、絶望しません。
失意や、落胆はするでしょう。でも、絶望はしないのです。失意や、落胆のどん底にあっても、なお御言葉が示す、一筋の希望に生きることができます。
すべてを無にしてしまう、と思われるような、死の壁をも突き抜ける、希望に生きることができます。永遠の命とは、死が絶望ではなくなる、ということです。
死が絶望ではなくなる。なぜなら、死を超えた先に、復活の主がおられて、どんな時にも、私たちを見守っていてくださり、私たちを待っていてくださるからです。
甦りの主の御言葉の中に、永遠の生命の希望が、息づいています。そして、その御言葉が、私たちを生かすのです。これが、私たちの信仰です。死に打ち勝つ信仰です。
ユダヤ人たちは、このことが分かりませんでした。主イエスが、単なる、肉体の滅びの、死のことを言われていると思ったのです。
ですから、「あなたは、アブラハムよりも、偉大なのか。彼は死んだではないか。いったい、あなたは、自分を何者だと思っているのか」、といって、主イエスに迫りました。
「一体、あなたは何者なのか。自分を神だと言い、自分の言葉を守るなら、決して死なないと言う。そんなことを言う、あなたは、何者なのか」。そう言って、主イエスに迫ったのです。
このユダヤ人たちの思いとは、全く異なりますが、私たちも、よく神様に迫ります。
「神様、こんな目に遭わせて、ひどいじゃないですか。一体、私をどうするつもりなんですか」と言って、神様に迫ることがあります。文句を言うことがあります。
アブラハムもそうでした。神様は、アブラハムの子孫が、大きな民となって繁栄する、と約束されました。それなのに、いつまでたっても、子供が与えられません。アブラハムは、神様に迫って、文句を言いました。神様の胸ぐらを掴むようにして、言いました。
「約束の子は、いつまで待っても、与えられません。このままでは、私は、財産のすべては、家来のエリエゼルが、相続することになってしまいます。あれだけ約束をされたのに、あなたは、私に、一体何を下さるというのですか」。そう言って、神様に迫ったのです。
神様は、このアブラハムの抗議を、しっかりと受け止めて、静かに言われました。
「空の星を見なさい。あなたの子孫は、あの星のように、多くなるのだ」。
夜空に輝く、無数の星を見上げた時、アブラハムは改めて、神様の創造の御業の素晴らしさ、その偉大さを、思い知らされました。そして、こんな偉大なことをなさる神様の約束なのだから、ただ信じて、待ち続けよう、という思いに、導かれたのです。
パウロもそうでした。パウロには、身体的なハンディがありました。このハンディさえなければ、もっと神様のために働ける。神様、あなたは、なぜ、こんなハンディを、私に与えられたのですか。そう言って、神様に迫ったのです。しかし、神様は、パウロに言われました。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。私の力は、弱い所にこそ現れるのだ」。
パウロは、主のご計画の深さに、打ちのめされました。そして、「分かりました。これからは、この弱さを誇っていきます。こんな弱い私を、用いて下さる、主の恵みを、誇ります」。
そう言って、再び立ち上がりました。
アブラハムも、パウロも、神様に、迫って、文句を言いました。そして、私たちも同じように、文句を言います。
しかし、皆さん、考えてみてください。天地万物を造られた神様に、文句を言うことができるとは、何と素晴らしい、恵みではないでしょうか。
私たちの神様は、近寄りがたいお方で、私たちが、話しかけることもできない。そんなお方ではないのです。
私たちが、胸ぐらを掴んで、「神様どうしてですか。どうして下さるのですか」と迫って、文句を言うことを、許してくださるお方なのです。
そして、その文句を、しっかりと受け止めてくださり、応えてくださるお方なのです。
アブラハムや、パウロにしたように、一つ一つ丁寧に、応えてくださるお方なのです。
私たちは、そのような、神様との交わりに、生きることが、許されているのです。
これが、私たちに与えられている、信仰生活の恵みなのです。これは本当に素晴らしい恵みです。
しかし、ここで、注意しなくてはいけないことがあります。間違ってはいけないことがあります。アブラハムも、パウロも、そして私たちも、神様を信じています。その信仰に立って、神様に迫っています。信仰を持って、神様に訴えて、そのお応えを、待ち望んでいます。
ですから、神様のお応えを聞いて、新たな歩みを、踏み出すことができるのです。
しかし、ここに出てくるユダヤ人たちは、神である主イエスを、信じていません。
ですから、ここでの対話は、全然噛み合っていません。全くすれ違っています。
そのことを、黙想していた時に、思い出した本があります。イギリスの神学者であり、また作家でもある、C.S.ルイスという人が書いた、「被告席に立つ神」、という本です。以前にも、ご紹介したことがありますが、この本の中で、C.S.ルイスはこのように述べています。
「現代に生きる私たちも、神様を全く無視している訳ではない。私たちも、神様の言葉に、耳を傾けることもある。しかし、問題なのは、その耳の傾け方である。
現代人は、まるで、神様を、被告席に立たせているかのように、取り扱っている。
神様を被告席に立たせておいて、その神様に、様々な質問をして、答えさせている。これはどういうことなんですか? なぜこうなのですか? あなたは、神として、一体何をしているのですか?このような、色々な疑問を、神様にぶつけて、それに答えさせている。
そして、その答えに、自分が納得している限りにおいて、神様を信じている。
しかし、それは、信仰ではない。信仰とは、神様を被告席に立たせて、自分が裁判官の席に座って、神様に答えさせることではない。
そうではなくて、信仰とは、自分が被告席に立って、裁判官である神様の問い掛けに、答えていくことである。しかし、現代人は、神様を被告席に立たせ、自分が裁判官になってしまっている。」
C.S.ルイスは、現代人の問題は、神様を被告席に立たせておいて、自分が裁判官になっていることである、というのです。
しかし、本来、被告席に立つべきは、神様ではなくて、私たちです。問われるのは、神様ではなくて、私たちです。
あなたの生き方は、それで良いのか?あなたは、何をしているのか?あなたは、どこにいるのか?私たちが、そのような神様からの問いに、答えていくのが信仰です。
それが私たちの、基本的な生き方です。ところが今の世の中は、それが逆転してしまっている、というのです。
今朝の箇所でも、ユダヤ人たちは、主イエスを、被告席に立たせて、裁こうとしています。
しかし、キリスト者である私たちが、神様に訴えている時には、飽く迄も、私たちは、被告席に立って、訴えています。
被告席に立って、「神様、何とかしてください」、と裁判官である神様に、訴えています。
裁判官の言葉を聞き、それに従って、歩みだすために、訴えているのです。
被告席か、裁判官の席か。どちらに立って、神様に迫っているか。これは決定的な違いです。ユダヤ人たちは、主イエスを、被告席に立たせて、「あなたは自分を何者だと思っているのか」と言って、主イエスを裁こうとしています。ですから対話が、噛み合わないのです。
しかし、本当はその逆で、「あなたは自分を何者だと思っているのか」、と問うべきお方は神様の方であって、私たちではないのです。
私たちは、主イエスを、被告席に立たせて、問い詰めるのではなくて、自分が被告席に立って、主イエスのお言葉によって裁かれ、主イエスのお言葉を通して、自分を改めて見つめなくてはならないのです。そのことを、深く覚えたいと思います。
今朝の御言葉の中で、主イエスは、なぜ私の言葉を、受け入れないのか。なぜ私のことを信じないのか、と繰り返して言っておられます。
私のことを受け入れなさい。私のことを信じなさいと、心を込めて、言っておられるのです。
主イエスは、ご自分は、神様のもとから、遣わされて来た者なのだ。永遠なる存在なのだ、と言われています。そういうお方が、私のところに来てくださったのです。
これは本当に素晴らしいことです。
もし、私たちに、「私の主よ、私の神よ」、と呼ぶお方が、おられなかったなら、私たちは本当に孤独です。でも、そういう私たちのところに、神様が来てくださったのです。
あなたを、永遠の命に生かすために、私は来たのだ、と仰ってくださっているのです。
これは、素晴らしいことです。
ですから、この時、ユダヤ人たちが、「私の言葉を受け入れなさい。私のことを信じなさい」、と語られる主イエスに、「はい、分かりました。あなたのことを信じます」、と応えたなら、素晴らしいことが、起こった筈なのです。
ですから、主イエスは、ユダヤ人たちが、何と言おうと、どういう反応を示そうと、「私は神だ」、ということを隠さないのです。そのために、石を投げつけられて、殺されそうになりました。
でも、殺されようが、何をされようが、「私は神だ。あなたを、永遠の命に生かすために、来た神なのだ」、と言い続けられたのです。
悪霊に取りつかれている、と言われようと、サマリア人だと、言われようと、何と言われようと、ご自分を隠すことを、なさらなかったのです。
噛み合わない対話を、一生懸命に、丁寧に続けて、「わたしを信じなさい」、と語り続けておられるのです。私たちの信じている神様とは、こういうお方なのです。
私たちは、そのお方の御言葉によって自分を知り、救われて、命を頂いて生きていくことができるのです。そこに私たちの幸いがあるのです。そこに私たちの希望があるのです。