「あなたは誰の子か」
2016年01月24日 聖書:ヨハネによる福音書 8:39~47
今朝の御言葉の44節は、とても激しい言葉です。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」
31節を見ますと、主イエスは、この言葉を、「ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」、と書かれています。「信じたユダヤ人たち」、とありますが、その人たちが、主イエスのことを、どのように信じていたのかは、ここには記されていません。
主イエスが、人となられた神ご自身であり、私たちを、罪から贖い出すために来られた、救い主である。そのような、確固とした信仰を、持っていた訳ではありません。
主イエスの中に、何か特別のものを感じた。その程度の、信じ方だと思います。
主イエスを、信じたつもりになっていた人たち、と言った方が、良いかも知れません。
その人たちに対して、主イエスは、「あなたたちの父は悪魔であって、あなたたちは、その父の欲望を満たしたいと思っている」、と言われたのです。
恐らく、そこにいたユダヤ人たちは、こんな言葉を聞かされることは心外だ、と思ったのではないでしょうか。
自分たちは、主イエスのことを、信じたつもりだ。少なくとも、好意を持っている。
その自分たちに対して、どうしてこんな言葉が語られるのか。彼らは、理解できなかったと思います。怒りさえ覚えたと思います。
しかし、主イエスは、ここで、ユダヤ人たちが、自分自身でも気付いていない、彼らの罪の問題を、取り上げておられるのです。
今朝の説教の題を、「あなたは誰の子か」、とさせていただきました。
勿論、ここで問われているのは、戸籍上の、親子関係のことではありません。
「あなたたちは、神の子か、それとも悪魔の子か」、という問いです。
私たちは、神の子か、それとも悪魔の子か。これは、私たちの存在の、根幹にかかわる、重大問題です。今朝は、この重要な問題について、ご一緒に考えてみたいと思います。
今日の箇所の冒頭で、ユダヤ人たちは、「わたしたちの父はアブラハムです」、と主イエスに言っています。
私たちは、アブラハムの直系なのだ。まことの神から離れて、偶像礼拝をしたような、アブラハムの他の末裔たちとは違う。
アブラハムは、神を「父」と呼んだ。私たちは、そのアブラハムの直系なのだ。
だから、私たちの父も、神なのだ。私たちは、姦淫によって生まれた子ではない。
彼らは、その様に言い張ったのです。
それに対して、主イエスは、「もし、あなた方が、アブラハムを父とするのであるならば、真実、アブラハムの子として生きなさい。しかし、あなたがたはそのように生きていないではないか」、と問い掛けておられるのです。
「問題は、神の子であるあなた方が、実は神の子でなくなっている、ということなのだ。なぜ、そのことが分からないのか、どうか気付いて欲しい」、と主イエスは、言われているのです。
44節にある、「悪魔である父から出た者」というのは、実際に悪魔から生まれた子、という意味ではありません。
そうではなくて、本来、神の子として、造られたにもかかわらず、悪魔によって捕えられ、悪魔の支配のもとに、置かれてしまっている、という意味です。
「あなた達は悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」。
実は、この言葉が、世界の歴史の中で、ユダヤ人たちが迫害されてきた、原因の一つになっている、とする見方があります。
悲しいことに、教会が中心になって、そういう愚かな行為を、行ってきたのです。
古代や中世だけではありません。現代でも、教会は、時々、そういう間違いを犯します。
数年前に、「パッション」という映画が上映されて、大きな反響を呼びました。主イエスの受難の様子が、生々しく映し出されていて、多くの人に衝撃を与えました。
この映画が上映されていた時、アメリカで小さな事件が起こりました。
ある教会の前に、掲示が出されて、そこには「イエス・キリストを殺したのは、ユダヤ人だ」、と書かれていたのです。このような思いが、教会の中にすら、まだ残っているのです。
しかし、このような思いを持つことは、明らかに間違っています。
確かに、歴史上の出来事としては、主イエスは、ユダヤ人によって、十字架につけられました。しかし、そこに留まっていては、聖書が語っていることを、捉え損なってしまいます。
聖書が言おうとしていることは、そんなことではありません。
ここに出てくる、ユダヤ人たちは、私たちの代表です。もし、私たちが、その場にいたなら、恐らく、このユダヤ人たちと同じように、主イエスを殺していたと思います。
ですから、この時の主イエスのお言葉は、私たち全てに、向けられている言葉なのです。
そのように読まなかったなら、この御言葉を、正しく受け止めることは出来ません。
ここで問題になっているのは、他でもない、私たちなのです。
しかし、そうなりますと、「それでは、私たちも、悪魔の子なのでしょうか」という問いが、湧き起ってきます。これはそう簡単に、「はい、そうです」と、受け入れられることではありません。出来れば、認めたくない思いがします。
しかし、このことを、正しく受け止められなければ、私たちが救われた、ということはどういうことなのか。それも、はっきりしないままで、終わってしまいます。
主イエスは、間違いなく、この言葉を、私たちに向かって、言われたのです。しかし、間違って頂きたくないのですが、この言葉は、私たちを裁くために、言われたのではありません。
そうではなくて、私たちが、一体どこから救われたのか。そのことを、明らかにしようと、されているのです。一体、どういう状態から、私たちは救われたのか。
それは、悪魔の子と呼ばれても、仕方のない者であった。そういう者が、そこから救われた。そして、悪魔の子でない者にして頂いた。神様の子にして頂いた。
それが、主イエスが、私たちのために、成し遂げてくださった、救いなのです。
ここで、主イエスが語っている、厳しいお言葉は、そのことを、明らかにしているのです。
私たちが救われる前。それは、悪魔に捕えられ、悪魔の支配のもとにあったのです。
そういう時には、私たちは、主イエスを、殺そうとするのです。
主イエスが、いて貰っては困る。主イエスがおられると、自分たちのやりたいことが、できなくなる。自分たちの好きなように、やって行かれなくなる。
だから、主イエスに、いなくなって欲しい。
私たちは、皆、このような気持ちを、持っていました。そんな私たちを、悪魔の支配から、贖い出すために、主イエスは、この世に来てくださったのです。
そして主イエスの、十字架の贖いによって、私たちは、初めて、罪から解放され、救われたのです。これが、聖書の中心メッセージです。
ですから、教会は、繰り返して、このことを語ります。何度でも、繰り返して語ります。
このことを語ることを、止めることはありません。
今朝の箇所で、主イエスは、「あなたたちは、このわたしを、殺そうとしている」、と仰っています。一度だけではありません。繰り返してそう言っておられます。
私たちは、勿論、主イエスを捕えて、十字架につけたりはしません。
しかし、主イエスが差し出してくださっている、十字架の贖い。血を流しながら、差し出してくださっている、救いの恵みを、無にしている、ということはないでしょうか。
差し出された主イエスの手を、振り払って、自分が欲しいものを、前面に押し出してしまう。
そして、「いえ、そんなものよりも、こっちの方が大事なんです」、と言い立ててしまう。
十字架の救いというような、目に見えないものよりも、今、目の前にある、この問題を解決して欲しい。私が、求めているのは、こっちなんです。
そうやって、主イエスを無視する。主イエスの思いを、無にしてしまう。
そういうことはないでしょうか。それは、主イエスが、「あなたたちは、わたしを殺そうとしている」、と言っておられることと、同じことなのです。
私たちが救われている、というのは、まさに、そこから救われている、ということなのです。そういうあり方から、救われているのです。そのことを御言葉は示しているのです。
今朝の御言葉を、黙想していた時に、思い起こした話があります。
それは、ムツゴロウさんと呼ばれた、畑正憲さんの話です。畑さんは、とにかく動物が好きで、北海道に「ムツゴロウ動物王国」を作られ、たくさんの動物たちと暮らしておられます。
随分前に、テレビで見た話ですが、ある時、畑さんは、山猫の檻に入って行きました。
山猫の子が二匹捕まって、檻に入れられている。
その山猫の子と接触したくて、畑さんは、いきなりその檻の中に、入って行ったのです。
身を守るための、何の道具も持たずに、素手で、いきなり檻に、入って行ったのです。
当然、山猫はびっくりします。子どもと言っても山猫です。しかも、二匹です。その上、捕まって気が立っています。
そんな山猫の子の所に、畑さんは、何の警戒も見せずに、近づいていって、手を差し出すのです。山猫は、見知らぬ人間が、近づいてくるので、恐がって、荒れ狂います。
そして、畑さんの手を引っ掻きます。畑さんの手は、引っ掻かれて、血だらけになります。
でも、畑さんは、その手を引っ込めないのです。ずっと差し出し続けるのです。
引っ掻かれても、引っ掻かれても、血だらけになって、手を差し出し続けているのです。
何とかして、山猫に接触したい。山猫に触りたい。山猫をなぜてあげたい。その一心で、手を差し出し続けるのです。
私は、お前に対して、敵意を持っていない。お前を抱き締めたいのだ。そのことを何とかして伝えたいとの一心で、手を差し出し続けるのです。
どれくらい時間が経ったのでしょうか。結局、そうやって最後には、二匹とも胸に抱きとってしまうのです。
抱かれた山猫は、すっかりおとなしくなって、畑さんの胸の中で、穏やかな表情を示しています。この人は、信頼しても大丈夫だ、と思ったのでしょう。
荒れ狂っていた時とは、全く違って、安らかに、畑さんに抱かれている。
畑さんは、手を血だらけにしながらも、山猫をしっかりと抱きしめている。自分のものにしてしまって、いるのです。もう、お前は、私のものだと、山猫を抱き締めているのです。
私たちが救われるというのは、こういうことではないかと思うのです。
野生の動物というのは、誰の指図も受けずに生きています。自分の思いのままに、自由に動き回って、したいことをして、生きています。
そんな山猫に、手を指し出したら、どんなに良い思いを持っていても、手を引っ掻かれます。
お前と一緒に生きたいのだ、という思いを持って、手を差し出しても、引っ掻かれるのです。
でも、そこで手を引っ込めてしまったら、心は通じないままです。ですから、血だらけになっても、手を差し伸べ続けるのです。
主イエスというお方は、神様から差し伸べられた、この手のようなお方であると思います。
私が、お前の神だ、私はお前を自分のものにしたいのだ、と言って手を差し伸べてくださる。
でも、山猫みたいに、自分の思い通りに、歩き回っている私たちは、その手を拒否して、引っ掻くのです。
こんなものよりも、自分には欲しいものがあるのだ。そう言って、その手を引っ掻くのです。
でも、神様は、その手を、決して引っ込めないのです。
畑さんは、山猫に、殺されはしませんでした。でも、主イエスは、殺されてしまったのです。
命懸けで、私たちを、愛してくださったのです。
これは、私たちに対する、神様の宣言です。あなた方が、どんなに反抗しようとも、私は手を引っ込めない、という宣言です。必ず、あなた方を、救い取るという宣言です。
全能の神様が、そういう思いで、私たちに、手を差し伸べられたなら、私たちは、もう負けるしかありません。どんなに抵抗しても、神様の愛には敵いません。
どんなに引っ掻こうとも、殺そうとも、手を引っ込めない神様の愛。この神様の愛に負けて、私たちは、神様の胸に抱かれるのです。
十字架において、主イエスが血を流されたのは、そのためです。私たちが救われた、ということは、そういうことなのです。
今朝の箇所に、「悪魔は最初から人殺しだ」という、主イエスの御言葉があります。
悪魔は人を殺す、というのです。悪魔が人を殺すなら、神様はどうされるのでしょうか。
神様は、人を生かすのです。私たちを生かしたいと願われて、本当に、私たちを生かしてくださるのです。それが、私たちが信じている神様です。
私たちは、山猫みたいに、自分の思い通りに歩き回って、思い通りのことをしようと、あくせくして生きています。でも、そういう私たちを、神様は、生かそうとしてくださっているのです。
本当の人間らしい生き方に、私たちを、招き入れようと、してくださっているのです。
神様は、私たちを、生かしてくださるのです。
悪魔は、殺すのです。でも、神様は、生かすのです。
マタイによる福音書には、荒れ野で、悪魔が、主イエスを誘惑した、という出来事が記されています。主イエスは、宣教活動に歩み出される前に、40日間断食をされました。
その断食が終わった時、悪魔が現れて、「もし、あなたが神の子なら、ここにある石をパンに変えてご覧なさい」、と言ったのです。
その時、主イエスは、「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだ」と言われて、悪魔の誘惑を退けられました。
この出来事は、人間の救いとは、一体何なのか、ということを、良く示しています。
ここで悪魔は、人間を救いたいと思ったら、食べ物を与えればよいのだ、と言ったのです。「そうしてご覧。そうすれば、お前の宣教は、大成功するだろう」。そう言ったのです。
人間を救おうと思ったら、食べ物を与えてやれば良いのだ。何故かというと、それが人間の、一番切実な問題だからだ。悪魔は、そう言ったのです。
先ほども申しましたが、いつでも、私たちの前には、目に見える問題があります。
いつも、具体的な、苦しみや、悲しみや、不安が、目に前にあります。私たちは、それらを、解決してもらいたいのです。神様に、そこで働いて頂きたい、と思うのです。
それが、私たちの願いなのです。だから悪魔も、石をパンに、変えてやれば良いのだ。
そうしたら、世界中の人が、お前を救い主として、歓迎するよ、と言ったのです。
でも、主イエスは、その提案を、拒否なさいました。何故か。私たち人間は、どれほど食べ物が、豊かに与えられても、どれほど生活が、保障されていようと、神様の言葉を聞かなければ、本当に人間らしい生き方を、することが出来ないからです。
もし主イエスが、私たちのことを、ペットと見ておられるなら、欲しい時に、食べ物を与えればよい、と思われるでしょう。でも、主イエスというお方は、私たちを、ペットではなく、人間として生かそうとしてくださっているのです。
悪魔は、人間も、所詮は動物だ、と言ったのです。だから、食べさせておけばいいのだ、と言ったのです。
でも主イエスは、その悪魔に向かって、いや人間は、動物ではない、人間は人間なのだ、と言ってくださったのです。神様の言葉を聞いて、初めて、人間は人間らしく生きられるのだ。
私は、そういう風にして、人間を生かすのだ、と言われたのです。
もし、この時、主イエスが、悪魔の提案を受け入れて、私たちの生活を保障してくれる、救い主になっておられたら、十字架の上で、死なれることはなかったと思います。
それどころか、世界中の人々が、主イエスを、単純に、歓迎したと思います。
もしかしたら、私たちの教会にも、人が一杯になるかもしれません。
あそこに行けば、食べ物がタダでもらえる。そういうことになれば、ここにある120席ばかりでは、とても足らなくなるかもしれません。
でも主イエスは、それを拒否なさいました。それが、私たちを、本当に生かす道では、ないからです。主イエスは、私たちを、本当の人間としての幸せに、生かそうとなさいました。
ですから、山猫のような、私たちに向かって、お前は山猫ではない。私の兄弟なのだ、と言ってくださったのです。
山猫を、自分の兄弟として、胸に抱き抱えてくださる。主イエスとは、そういうお方なのです。
そのために、主イエスは、血を流してくださったのです。命を、献げてくださったのです。
そこに私たちの救いがあります。そこに私たちの喜びがあります。
主イエスが、悪魔の手から、私たちを、勝ち取ってくださった、喜びです。
汚れに満ちた、私たちを、悪魔の子から、神の子にしてくださった、喜びです。
そのことを、心から感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと思います。