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柏牧師:過去の礼拝説教

「御言葉に留まりなさい」

2016年01月17日 聖書:ヨハネによる福音書 8:31~38

聖書に記されている、主イエスのお言葉の中には、教会の中だけではなく、世間一般でも、広く知られている言葉が、たくさんあります。

「人はパンのみに生くるにあらず」、「汝の敵を愛せよ」、「狭い門より入れ」。

これらの言葉は、一般の人たちにも、広く使われています。

今朝の御言葉の中にもあります。「真理はあなたたちを自由にする」。

この言葉も、世間一般で、よく知られている言葉の一つだと思います。

先日、テレビのニュース解説番組を見ていましたら、かつてこの茅ヶ崎恵泉教会の会員であった方で、現在は、作家・外交評論家として、幅広く活躍している方が出ていました。

番組の最後で、司会者が、その人に尋ねました。「今の、混沌とした中東情勢を、解決する鍵となる、一言を書いてください」。

すると、その人は、色紙に「真理は人を自由にする」、と書きました。

そして、「これは新約聖書の中で、イエス・キリストが言った言葉です」、と付け加えました。

番組の終了間際でしたので、なぜ、この言葉が、今の中東情勢を解決するキーワードなのかについての、説明を聞くことはできませんでした。

恐らく、その人は、こう言いたかったのではないか、と思います。

部族や宗派の違いに囚われて、お互いに憎しみ合い、殺し合うのではなくて、もう一段高い次元に立って、何が最も大切なことなのか、本当に守らなくてはならないものは何なのか。それをしっかりと捉え、そこに立つなら、部族や宗派のしがらみから、自由にされて、争いを解決する方向へと、向かうのではないだろうか。

その人が言いたかったことは、こういうことではないかと、私は推察しました。

「真理はあなたたちを自由にする」。この言葉は、世界中の、多くの図書館にも、掲げられています。日本の国会図書館の入り口にも、この言葉が掲げられています。

しかも、日本語と、ギリシア語の両方で、入口の壁に刻まれているのです。

もっとも、日本語の方は、「真理がわれらを自由にする」と書かれていて、「あなたたちを」という言葉が、「われらを」に変わっています。

しかし、ギリシア語の方は、聖書の御言葉そのものが、刻まれています。

国会図書館の設立を定めた法律、国会図書館法の前文には、こう書かれています。

「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する、日本の民主化と、世界平和とに、寄与することを使命として、ここに設立される」。

なぜ、この言葉が、法案に加えられたかと言いますと、この法案の起草に参画した、羽仁五郎という人が、この言葉を推薦したからだ、と伝えられています。

この羽仁五郎という人は、「婦人の友」を創刊した、羽仁もと子さんの娘婿です。

羽仁もと子さんは、自由学園を創立した、クリスチャンです。そして、自由学園という学校の名前も、この「真理はあなたたちを自由にする」、という御言葉に、由来しています。

1921年に設立された自由学園は、太平洋戦争の激化に伴って、政府から厳しい統制を受けるようになりました。羽仁もと子さん個人に対する、政府の圧迫も強くなってきました。

「婦人の友」を廃刊にせよとか、学園の名前についても、「自由」の二字を排除せよ、言ってきたのです。

ある時、羽仁もと子さんは、軍部から呼び出しを受けて、曲がった腰を伸ばすようにして、空襲の最中に、三宅坂の陸軍参謀本部に出かけて行きました。

彼女は、報道部長と会見し、「わたしは自由のない所に、教育はないと信じています。学園の名を変えるなら、学校を止めなければなりません」、ときっぱりと答えました。

目の周りに、いっぱい皺を寄せた、小さな老婦人の姿には、何ものにも動かされない、強い気迫がみなぎっていました。それを感じた部長は、何も言わないで、かえって彼女の老体に、いたわりの言葉をかけた、と伝えられています。

羽仁五郎が、国会図書館に、「真理がわれらを自由にする」、という言葉を掲げることを、提案した背景には、義理の母である、羽仁もと子さんの、このような姿があったからなのかもしれません。

国会図書館に、聖書の御言葉が掲げられている。これは、私たちにとって、大きな喜びであり、励ましでもあります。

しかし、今朝の御言葉が語っている真理は、人間の学問的な探求によって、発見することが出来るものではありません。図書館にこもって、勉強することによって、獲得できるようなものではないのです。

今朝の御言葉を、よく読むと分かりますが、主イエスは、ここで、一般的な「真理」について、語っておられる訳ではありません。

今朝の箇所の36節で、主イエスは、こう言われています。

「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。

ここでは、「子が、あなたたちを自由にすれば」、と言っておられます。

ここにある「子」というのは、言うまでもなく、主イエスのことです。つまり、主イエスは、ここで、「あなたたちを自由にするのは、私なのだ」、と言っておられるのです。

そうしますと、ここで言われている「真理」というのは、主イエスご自身のことだ、ということになります。

御言葉が語っている、真理と自由。これは図書館に尋ねても、得ることはできません。

真理とは、主イエスご自身のことであり、自由とは、その真理である、主イエスによって、生かされることだからです。

今朝の箇所で、主イエスが言われていることは、こういうことです。

真理そのものである、私の言葉に留まる者が、私の本当の弟子になる。そして、真理である私を知る。そして、私を本当に知った者は、まことの自由を得ることができる。

主イエスは、そう仰っておられるのです。このことを、主イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに語られた、と御言葉は語っています。

しかし、主イエスを信じた、と言っても、その人たちの信仰は、確信に基づくものでなくて、表面的に信じただけのものでした。

ですから、この8章の終りを読んでみますと、59節では、この人たちが、最後には、主イエスに、石を投げつけようとした、と書かれています。

どうして、そんなことになってしまったのでしょうか。31節で、主イエスが仰ったことを、受け入れることができなかったからです。

主イエスは、ユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」、と仰いました。これは招きの言葉です。

あなた方は、私の話を聞いた。どうかその言葉に、留まり続けて貰いたい。

そして、本当の私の弟子になって貰いたい。主イエスは、そう仰ったのです。

この言葉は、今、ここにいる私たちも、繰り返して、聞くべき言葉です。

「私の言葉に留まり続けて貰いたい。そして、本当の私の弟子になって貰いたい」。

主イエスは、今も、私たち一人一人に、こう仰っておられるのです。

あなた方は、私を信じている。少なくとも、そう思っている。

そうであるなら、そこから一歩踏み出して貰いたい。

そして、あなた方が信じていると思っている、この私の言葉の中に、いつも留まり続けて貰いたい。そう仰っているのです。

時々私たちは、こういうことを言う人たちに、出会うことがあります。「私は、キリスト教を信じている。イエス・キリストを信じている。それで良いではないか。何故、教会に行って、洗礼を受けなければならないのか。自分の心の中で、信じていれば良いのではないか」。

こういうことを言う人たちに、私は言いたいのです。

「もし、そう思っているなら、そこから一歩踏み出して頂きたい。一人でそう思っているのではなくて、礼拝に出席して、神の言葉として語られる、説教を聞いて頂きたい。同じ信仰の友と御言葉を読み、祈りを合わせて頂きたい。そのように、神様の言葉の中に、留まり続けて頂きたい。そうでなければ、本当に主イエスの弟子になることは出来ませんよ」。

もし、皆さん方の周りに、そういうことを仰る方がおられるなら、是非、「そこから一歩踏み出してください」、と勧めて頂きたいと思います。励まして頂きたいと思います。

そうでなければ、このユダヤ人たちのように、信じていると思っている主イエスに、やがて石を投げるようなことに、なってしまうかも知れません。

もっとも、今朝、ここにおられる皆さんは、「自分はもう既に、主イエスの弟子になっている」、という人たちが、殆どだと思います。

それでは、皆さん方には、この言葉は意味がないのでしょうか。そんなことはありません。「私の言葉に、留まり続けて貰いたい。そして、本当の私の弟子になって貰いたい」。

この言葉は、既に弟子になっている、私たちこそが、真剣に聞くべき言葉であると思います。ここで主イエスは、「私の言葉に留まる」、と仰いました。これは、単に「言葉を聞く」ということではありません。

聞いた言葉に留まるのです。留まるというのは、決断を要する行為です。

「よし、この方の言葉の中に留まろう」と決断して、そこに留まり続けるのです。

「留まる」と訳されている言葉は、この福音書では、特に重要な所で用いられています。

たとえば、あの有名な、「ぶどうの木」のたとえです。

主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。「わたしにつながっていなさい」。

この「つながっている」、と訳されている言葉。これが「留まる」、と同じ言葉なのです。

主イエスの言葉に繋がり、留まっているなら、真理を知る。そして、その真理が、あなたたちを自由にする、というのです。

ぶどうの枝が、幹に繋がっているように、あなた方も、私の言葉に繋がっていなさい。

そして、幹から、豊かな養分を吸い上げて、活き活きと生きなさい。豊かな御言葉の実を結びなさい。それが、本当に私の弟子となる、ということなのだ。

もし、私の言葉に繋がっていないなら、ぶどうの枝が、幹から切り離されたら、枯れてしまうように、あなた方は、活き活きとして、生きていくことはできない。

主イエスは、そう言われているのです。

そして、その主イエスの言葉に、繋がっている時、私たちは、自由に生きられるのです。

それは、丁度、空を飛ぶ凧のようなものです。凧は、しっかりと、紐で繋がっている時に、風を受けて、自由に空を舞うことができます。

もし凧が、「紐で繋がっているのは不自由だ」と言って、自分で紐を断ち切ったら、どうなるでしょうか。自由になるどころか、たちまち墜落してしまいます。

私たちも、主イエスという糸に、しっかりと繋がっている時、聖霊の爽やかな風を、一杯に受けて、自由に舞うことができるのです。

主イエスに「繋がっている」ところに、まことの自由があります。

そのとき、私たちは、何物をも恐れません。ただ、主イエスという糸から、切り離されてしまうことだけを恐れます。

自由である、ということは、恐れるものがない、ということです。人間は、様々なことに、恐れを感じます。

先ず、世間体を恐れます。人の目、世間の評判を恐れます。

また、この世の様々な権力を恐れます。或いは、自分の将来を恐れます。

そして、何よりも、死を恐れます。これらの恐れによって、活き活きとして生きることができずに、自由が奪われてしまいます。

これらの恐れから解放され、ただ神様のみを恐れる。それが、本当の自由です。

先ほどの羽仁もと子さんのように、軍部の圧力をも恐れない、毅然とした生き方。

それが、本当の自由に生きる生き方です。主イエスの言葉に、留まり続ける時、その自由を貫くことがでる、と御言葉は言っています。

主イエスが語られた、迷子の小羊の譬えを、想い起してください。自由に歩き回りたいと思って、羊飼いの許を飛び出した小羊。

始めの内こそ、楽しく歩いていましたが、やがて、夜になり、野の獣が恐ろしくなります。

お腹も空いて、飢えの恐怖に襲われます。夜の闇が恐ろしくなります。どこへ行って良いか分からず、堪らない不安に襲われます。自由に生きられる、と思っていたのに、様々な恐れに取り囲まれて、身動きすらできなくなります。

そんな時、自分を捜し求める、羊飼いの声を聞くのです。「わたしの愛する子よ、あなたはどこにいるのか」。

羊飼いに見出されて、その懐に抱かれた時、小羊は、初めて分かるのです。「ここが、私にいるべき場所だ。ここに留まっていれば、恐れはない。これが、まことの自由なのだ」。

御言葉に留まっている時に、私たちは、まことの自由に生きることができるのです。

「私の言葉に留まる」、ということに関して、主イエスは37節で、ユダヤ人たちに、こう言っておられます。

「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」。

私の言葉を受け入れないならば、それは、結局、私を殺すことになるのだ、と言われているのです。ここにいる私たちは、主イエスを、十字架につけたりしないかも知れません。

しかし、もし主イエスの御言葉を、無視するなら、主イエスの言葉を殺すことになります。

そして、言葉を殺すということは、その人自身を殺すことになるのだ、と主イエスは仰っておられるのです。

「わたしの言葉を受け入れない」、と語られています。ここで「受け入れる」と訳された言葉は、もう少し丁寧に訳しますと、「言葉が留まる場所を持つ」となります。

心の中に、主イエスのお言葉が、留まる場所を持つ、という意味です。私たちの心の中のその場所で、主イエスのお言葉が留まり、働くのです。

働いて、出来事を起こしてくださるのです。それが、「私の言葉を受け入れる」、という意味です。

心の中に、主イエスの御言葉を、留める場所を作り、そこに、主イエスに入って頂くのです。そうしたら、心に入った、その言葉が働いて、私たちを変えてくださる、というのです。

信じないということは、この場所を、初めから作ろうとしない、ということです。

主イエスはここで、「私の言葉を受け入れて貰いたい」、と切に願っておられるのです。

私の言葉の中に留まりなさい。そして本当に私の弟子になりなさい。主イエスは、私たちに、そのような決断を、求めておられるのです。

主イエスの御言葉の中に、留まり続けていくところで、私たちは、本当に主イエスの弟子になります。

私たちは、自分たちのことを、「私はクリスチャンです」と言います。しかし、教会がスタートした当初は、教会の人たちは、自分たちのことを、「キリストの弟子」と呼んでいました。

私たちは「弟子」という言葉を聞くと、12人の使徒たちや、パウロのような人たちのことを考えます。自分は主イエスの弟子だ、という意識はあまり持たないと思います。

しかし、使徒言行録は、教会員の数が増えたということを、「弟子の数がいよいよ増えた」と言っています。

主イエスご自身も、マタイによる福音書の最後で、「すべての民を私の弟子にしなさい」、と使徒たちに命じておられます。ですから、私たちは皆、「主イエスの弟子」なのです。

弟子であるということは、師匠と共に生きる、ということです。師匠の真似をして生きる、ということです。そのためには、師匠の言葉の中に、留まらなければなりません。

落語家を志す人は、弟子入りした師匠の語る言葉を、むさぼるように聞きます。

師匠の言葉の中に留まり続け、師匠の真似をすることで、落語を覚えていきます。

私たちも同じです。私たちが、主イエスの弟子であるということは、主イエスの御言葉の中に留まり続け、主イエスの御言葉に囲まれるということです。主イエスの御言葉が、いつも聞こえているということです。

私たちが、この世の様々な試みの中にあって、尚も信仰に生きることができるとすれば、私たちがいつも、主イエスの御言葉の中に、生きているからです。

主イエスは、「私の言葉に留まりなさい。そして、本当の弟子になりなさい」と仰っておられます。

弟子にして頂いた私たちこそ、この言葉を、しっかりと受け止める必要があります。

「真理はあなたたちを自由にする」。この言葉は、本来は、図書館の入り口に掲げられるべき言葉ではありません。これは、私たちの人生を導く言葉です。

真理である主イエスの御言葉を、しっかりと心に留め続け、御言葉に生かされ、御言葉に励まされて、自由に生きる者とさせていただきたいと、心から願います。