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過去の礼拝説教

「愛によって召し集められた私たち」

2016年02月28日 聖書:エフェソの信徒への手紙 1:1~14

この聖日礼拝では、ヨハネによる福音書と、比較的短い手紙を、交互に読み進んでいます。

ヨハネによる福音書を、3章読んだ後で、手紙を読み、またヨハネによる福音書に戻る。

これを繰り返しながら、主の恵みの、広さ、深さを、味わっていきたい、と願っています。

福音書を通して、主イエスの愛の御業を知り、手紙を通して、私たちが、その主の愛に、どのように応えていくかを、教えられていく。それを、繰り返していきたい、と願っています。

先週の礼拝で、ヨハネによる福音書の9章が、読み終わりましたので、今週からは、エフェソの信徒への手紙から、ご一緒に、御言葉に聴いて、まいりたいと思います。

このエフェソの信徒への手紙を書いた時、パウロは、囚われて、獄に入れられていました。

パウロが、この手紙を書いたのは、その最晩年、パウロが殉教する、少し前であろう、と見られています。年老いて、囚われて、獄に繋がれている、パウロ。

そのパウロは、自分の愛する教会のことが、心配でたまらないのです。まだ生まれて間もない教会。全てにおいて、まだ幼い教会。

牢獄にあっても、パウロは、ひたすらに、その教会のことを思い、その教会のために祈り、祈りの中で、何度も涙したことでしょう。しかし、また、その祈りを通して、教会に注がれている、神様の、恵みの大きさにも、気付かされていったと思います。

教会に対する、パウロの溢れる思い。それが、この手紙に、ほとばしり出ています。

エフェソの信徒の皆さん、教会は、キリストを頭とする、キリストの体なのですよ。

一つの頭に繋がる体は、当然、一つですよね。ですから、教会は、何よりも、先ず一つでなければなりません。

教会員それぞれは、出身や、考え方を、異にしているでしょう。しかし、キリストによって贖われて、救われたという、この最も大切な点においては、皆、同じである筈です。

教会には、このキリストの恵みが、満ち満ちているのです。このキリストの恵みの内にあるなら、教会は、一つとなることができます。いえ、一つとならざるを得ない筈です。

パウロは、溢れる思いをもって、そう語っています。

その思いは、冒頭の挨拶の中に、既に現れています。

1節、2節に書かれた、挨拶の中に、キリスト・イエス、或いはイエス・キリストという言葉が、3回も出てきます。これは、決して偶然では、ありません。

私が今あるのは、キリスト・イエスによるのです。そして、あなたがたが、今あるのも、キリスト・イエスによるのです。更に、私とあなた方が、このように、手紙を交信しているのも、キリスト・イエスによるのです。パウロは、そう言っています。

これは、教会生活の、基礎ではないでしょうか。教会は、何よりも、キリストに根ざし、キリストに基を置いているのです。

皆さん、私たちは、なぜ、教会に集まって来るのでしょうか。

お互いに、気が合うから、教会に集まって来るのでしょうか。或いは、共通する利害があるから、教会に来ているのでしょうか。そうではありませんよね。

様々な背景の人、様々な立場の人が、ここに集まって来ています。それを結び付けているのは、趣味や、思想や、利害の一致ではありません。

私たちを、結び付けているのは、ただ一つ、イエス・キリストです。

私が、今ここで、このように、お話をさせていただいているのも、イエス・キリストによるのです。そして、皆さん方が、休日にもかかわらず、朝から、こうして集まって来ているのも、イエス・キリストによるのです。そうであるなら、教会は、どんな時にも、一つである筈です。

ところが、教会において、時々、お互いに、批判し合っているのを、聞くことがあります。

しかし、一人一人は、キリストによって招かれた、キリストの大切なお客様なのです。

ですから、お互いを、キリストの大事なお客様として、敬い合わなければ、一番悲しまれるのは、キリストご自身なのです。そのことを、いつも、心に留めていたいと思います。

また、牧師の批判を聞くこともあります。しかし、その牧師も、キリストによって遣わされた、キリストの器なのです。

先週、お許しを頂いて、箱根で行なわれた、ケズイック・コンベンションに、参加させていただきました。そこで、講師のアメリカ人牧師が、こんな証しをされました。

その牧師が、地方の小さな教会に招かれて、そこで7年間、牧会した時のことです。

田舎の小さな教会でしたが、その7年間は、本当に、恵みに満ちた日々でした。

やがて、他の教会に転任することになって、最後の役員会が持たれました。

その牧師は、「私は、こんなに問題のない、教会に仕えたのは、初めてです。この7年間、頭を悩ますような問題は、全くありませんでした。心から感謝しています」、と言いました。

すると、役員たちが、複雑な笑みを浮かべました。不思議に思ったその牧師は、その笑みの訳を、尋ねました。役員の一人が、答えました。

「実は、先生が来られる前、この教会は、問題だらけでした。皆が、それぞれ自分の意見を、主張して譲らなかったため、教会はバラバラでした。

先生の前任の牧師は、あまりにも問題が多くて、疲れ切ってしまって、体調を崩して、離れていったのです。

ですから、私たちは、今度来る牧師には、そのような苦労をかけさせてはいけない。

問題が起こったなら、私たちで解決し、牧師に届かないようにしようと、決心したのです。

そして、それぞれ、自分の意見を主張するのではなく、いつもイエス・キリストを見つめ、イエス・キリストの思いを、尋ねていこう、と誓い合ったのです」。

7年間に亘る、恵まれた牧会の背景には、そのような出来事があったのです。

皆さん、私たちが、教会生活をしていく上で、いつも、見つめていなければならないのは、イエス・キリストただお一人です。

教会においては、すべてのことを、イエス・キリストに根ざし、そこに基礎をおいて、物事を見ていくことが、大切だと思います。

何か分からないことがあった時は、もしイエス様だったら、こういう時はどうなさるだろうかと、先ず、自らに、問い掛けてみましょう。

私は、若い頃、ニューヨークに、3年ほど駐在していました。その頃、「WWJD」という、4文字のスティッカーを、バンパーに貼っている車を、よく見かけました。

「WWJD」というのは、「What would Jesus do」という言葉の、頭文字を取った標語です。「What would Jesus do」、「イエス様だったら、どうなさるだろうか」。この標語のスティッカーを、貼っている車に出会うと、思わずハッとさせられました。

今、自分が、抱えている問題、悩んでいる事柄。でも、もしイエス様だったら、どうなさるだろうか。この問いを、自らに問い掛けていく時に、答えが示されることが多くあります。

ただ、問題は、示された答えを、為し得るか、どうかです。ですから、答えが示された時には、それを為すための、力をも与えてください、という祈りが、必要になってきます。

いずれにしても、私たちは、いつも、イエス・キリストという、レンズを通して、相手を見、また教会の現実を、見ていかなければ、ならないと思います。

さて、今朝の御言葉で、パウロは、教会とは、三位一体の神様が、総力を挙げて、たて上げてくださったものなのだ、と語っています。

教会とは、決して、人間の意志で、始まったものではありません。人々が集まって、「ひとつ、ここらに、教会でもたててみようか」、ということで、始まったのでは、ないのです。

父なる神様と、子なる神様と、聖霊なる神様とが、一つとなって、全力を尽くして、私たちを、救ってくださった。

そのようにして、救われた者が、呼び集められた群れ。それが教会なのです。

パウロは、そのことを思うと、神様の恵みを、褒め称えずには、いられませんでした。

3節から6節では、先ず、父なる神様が、どのように働いて下さったか、が語られています。

4節に、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」、とあります。

神様が、天地が創られる前から、私たちを選んでくださった。これは、不思議な言葉です。

天地が創られる前。そんな途方もない遥か昔に、どのようにして、私たちは選ばれ、救われた、というのでしょうか。あまりにも、スケールが大きくて、ピンと来ない、御言葉です。

しかし、パウロは、教会をたてて、私たちを救おうとされる、神様のご計画は、天地創造の御業の前から、既に、定められていたのだ、というのです。

私たちは、そういう神様の、遠大なご計画の中に、生かされ、選ばれているのです。

天地創造以前から、という言い方は、いかにも大袈裟のように、聞こえます。

しかし、考えてみてください。神様が、罪に汚れたこの私を、「聖なる者、汚れのない者」と、してくださる。

こんな私一人を救うために、神様が、全力を尽くして、働いてくださる。そして、私の罪が、無条件で、無制限に、しかも無代価で、つまり、ただで赦される。

そのために、なんと、神が人となって、この世に来てくださり、人の罪を、代わって負ってくださって、十字架に死んでくださった。罪人が赦され、罪なき神が、処刑されたのです。

この救いは、それこそ天と地が、ひっくり返るような、大きな出来事なのです。

この神様の救いの、あまりの偉大さを思うとき、人は、神様の偉大な御業である、天地創造を、思わずにはおれない、のではないでしょうか。

そのことを、旧約の詩人は、詩編8編4節、5節で詠っています。

「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」

詩人は、こんな小さな者をも、顧みてくださる、神様の愛に触れたとき、思わず天を見上げて、月や星を造られた、神様の御業を、思わずには、いられなかったのです。

同じ様に、この私のような者が、救われるということは、天地創造の御業に、匹敵する、いやそれをも上回るような、大きな出来事だと、思わずには、おられません。

ですから、神様が、この私を、天地創造の前から選ばれた、というのは、神様の救いの偉大さを、知った者の言葉なのです。その救いの、偉大さを、語る言葉なのです。

天地創造の前から、神様は、この地上に、教会をたてることを、計画しておられた。

そして、その教会の中に、私も、そして皆さん方、御一人一人も、招かれることが、既に、計画されていた。これは、なんと素晴らしいことでしょうか。

日本のクリスチャンの数は、総人口の1%以下です。そうであるなら、私たちは、なんと100人以上の人の中から、選ばれているのです。

私たちに、選ばれる理由が、あったからではありません。ただ、恵みによって、愛によって、選ばれたのです。

しかも、その選びは、私たちに、神の子としての、身分さえも、与えてくださるというのです。

5節の御言葉はこう言っています。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

「神の子にする」、という言葉は、養子縁組をする、という言葉です。

相応しくないにも拘らず、神様の一方的な働きによって、養子にしていただけるのです。

皆さん、私たちは、天地を造られた神様から、私の養子になってください、と言われているのです。しかも、そのことを神様は、「御心のままに」なさる、と書かれています。

神様は、イヤイヤなさるのではないのです。「仕方がないなぁ」と言って、重い腰を上げられるのではないのです。

お前が救われることは、私の最上の喜びだから、どんなことでも喜んでやるよ、と言われているのです。それが、私の心なのだ。それが、私の思いなのだ、と言われているのです。

神様は、私たちを、愛をもって、選んでくださり、愛をもって、救ってくださり、愛をもって、養子縁組をして、神の子としてくださったのです。

毎年、秋に、プロ野球の、ドラフト会議が開かれます。プロ野球の監督は、どうしても欲しい選手を、ドラフトで一位指名します。そして、くじに当たって、入団交渉権を獲得しますと、本当に喜びます。「あァ、これで、あの選手は、私のものだ」、と言って喜びます。

皆さん、ここにいる私たちは、誰もが、神様から、ドラフト一位指名を、頂いているのです。

神様が、この人を、是非とも獲得したい、と願われて、一位指名してくださったのです。

そして、それは、プロ野球のドラフト指名とは、比べ物にならないほど、尊いものなのです。

神様は、プロ野球の契約金など、比べ物にならないほどの、莫大な契約金。

御子イエス様の命という、契約金と引き換えに、私たちが、この教会に入るための、交渉権を獲得してくださったのです。

そして、その指名を受け入れて、教会に加わったのが、私たちクリスチャンなのです。

私たちは、神様から、ドラフト1位指名を、受けたのです。そのことを、忘れないようにしたいと思います。

7節から12節では、教会をたて上げるためになされた、御子イエス・キリストの御業が、語られています。ここに語られているのは、主イエスによる、贖いの恵みです。

尊い御子の血による、贖いの恵みです。この贖い、という言葉は、捕虜や、奴隷となった人を、買い戻す時に、使われる言葉です。つまり、身代金のことです。

私たちが、罪の奴隷となっていたとき、神様が身代金を払ってくださって、贖い出してくださった。そのことを言い表しているのです。

そして、その身代金こそが、主イエスが、十字架で流された、血潮なのです。

人間の罪は、神の御子の血によってしか、贖うことができません。罪ある人間は、他人の罪を、贖うことはできないのです。ですから、主イエスが、十字架において、血を流してくださったのです。命をささげてくださったのです。

確かに、それは、私たちにとっては、素晴らしい救いです。しかし、そのために、どんなに大きな痛みが、神様の側にあったかを、私たちは、決して、忘れてはならないと思います。

そのキリストは、終末に、再び来られて、私たちの救いを、完成してくださいます。

10節にある、「時が満ちるに及んで」、というのは、主イエスが、再び来られる時に、という意味です。その時に、私たちの救いが、完成するのです。

その時には、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに、一つに纏められます。

キリストが、あらゆるものの、頭となるのです。そして、あらゆるものが、キリストに繋がって、統一されるのです。

それは、混乱して、バラバラであったものが、本来の場所に、戻される、ということです。

キリストにおいて、すべてのものが、神様によって、定められた、本来いるべき場所に、立ち返ることになる、ということなのです。

最後の13節、14節では、聖霊の役割について、語られています。私たちが、救われて、教会に加えられる。その恵みの御業における、聖霊なる神様の役割について、語られています。

聖霊は証印を押してくださる、と書かれています。ここで言う証印とは、材木や、牛などに、「これは誰々のものだ」、ということを、証明するために押される、焼印のことです。

私たちが、誰のものなのかを、聖霊が証ししてくれる。私たちが、神のものであり、神の子とされたことを、聖霊が確認してくれる、というのです。

私たちが、神の子とされ、神のものとなった。もし、私たちが、自分の勝手な思い込みで、そう思っているだけなら、何とも心もとない話です。

しかし、聖霊が、そのことを、本当に分からせてくださり、確信させてくださる、というのです。

更に、聖霊は、私たちが、御国を受継ぐための、保証となってくださる、と御言葉は言っています。この保証とは、「手付金」を意味する言葉です。

皆さん、私たちの救いは、単なる希望ではありません。私たちが、救われて、神のものとされた時に、手付金が、既に打たれているのです。ですから、間違いないものなのです。

神様が、私たちを、買い取ったことの、手付金が、既に支払われているのです。

ですから、間違いなく、私たちは、神様のものとされているのです。

神様は、言われています。「もう、あなたは、私のものだ。私は、もう手付金を支払って、あなたを、私のものとした。そして、あなたに、私の焼き印を押した」。

そのことを、聖霊が、確かに保証して、くださっているのです。

皆さん、私たちの救いは、このように、父、子、聖霊なる、三位一体の神様が、総力を挙げて、成し遂げてくださったものなのです。

そして、それによって救われた者が、教会に、召し集められているのです。それは、神様の、輝かしい御業を、褒め称えるためです。神様を、褒め称えるために、私たちは、ここに、集められ、ここにいるのです。

その教会の一員と、されているとは、何と、素晴らしいことでしょうか。

そのことを、心から、感謝しつつ、共に歩んでまいりたいと願います。