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柏牧師:過去の礼拝説教

「ただ一つ知っていること」

2016年02月14日 聖書:ヨハネによる福音書 9:13~34

ヨハネによる福音書の9章は、主イエスが、生まれながらに、目の見えない人の目を、見えるようにされた出来事から始まっています。

生まれながらに、目の見えない人の目が、開かれた。この素晴らしい奇跡を、周りにいた多くの人々が、目撃していました。

ところが不思議なことに、周りの人々は、そのことを見て、喜びの声を挙げた、というのではなかったのです。

生まれながらに、目が見えなった人が、見えるようにされたのです。素晴らしい奇跡が起こったのです。けれども、誰一人、「よかったねぇ」と言って、一緒に喜んであげていません。

人々は、この出来事を、素直に喜ぶことが、できなかったのです。

なぜ、喜ぶことが、できなかったのでしょうか。

この素晴らしい、癒しの業が、安息日になされたからです。

安息日には、働くことが、禁じられていました。命に関わる、緊急の処置以外は、病人を癒すことも、禁じられていたのです。

でも、主イエスは、まるで、そのことに挑戦されるかのように、この男の人を、癒してしまわれました。しかも、唾で土をこねて、その人の目に塗り、遠く離れた、シロアムの池まで行って洗いなさい、と言われたのです。わざわざ、目立つような仕方で、癒されました。

ですから、周囲の人たちは、困惑したのです。彼らは、人が作った言い伝えによって、目が塞がれてしまっていました。ですから、神様の御業を、見ることができなかったのです。

素晴らしい、癒しの業がなされた。しかし、よりにもよって、それが安息日になされた。

彼らは、この出来事を、どう理解していいのか、分かりませんでした。

そこで、この人を、ファリサイ派の人たちの所に、連れて行って、判断を仰ごうとしました。

13節以下は、いわば、非公式の宗教裁判の記録、ということができます。

この宗教裁判において、目を開かれた人は、必死に答弁をしながら、主イエスに対する信仰を、次第に深めていっています。答弁をすることにより、自らの身に起こった、出来事を振り返り、そこで示された思いを、一つ一つ確かめながら、信仰を深めています。

肉体の目が開かれたこの人が、心の目も開かれて、信仰に入って行く。その過程が、活き活きと語られています。この人の、「信仰の成長」が、ここで語られているのです。

先週、ご一緒に聴きました9節では、人々が、この男は、本当に、あの物乞いをしていた男なのか、と言って右往左往していたときに、「わたしがそうなのです」、と本人が、はっきりと答えています。

「わたしがそうなのです」。この言葉は、とても重要な言葉です。この言葉の原語は、「エゴー・エイミー」という言葉です。

8章58節で、主イエスが言われた言葉、「わたしはある」。それと同じ、「エゴー・エイミー」という言葉です。「わたしがそうなのです」。その私は、ここにいます。

この人は、まるで、なぞるようにして、主イエスのお言葉を、繰り返しているのです。

「私が、その当人です。神様の御業が、この私に現れたのです。神様の栄光が、この私に現れたのです」。この人は、はっきりと、そう言い表しています。

「わたしがそうなのです」。この人の信仰の成長は、先ず、この言葉から始まりました。

そして、この後、次第に、本当に大切なことが、見えるようになっていくのです。

その最後が38節です。来週、ご一緒に学ぶ箇所ですが、38節でこの人は、「主よ、信じます」と言って、主イエスの前に、ひざまずいています。

「主よ、信じます」。これは、「信仰告白」の言葉です。そして、この人は、ひざまずきました。

つまり、礼拝したのです。この人の信仰は、最後には、そこまで深まっていくのです。

主イエスは、この人を癒された後に、お姿を消してしまわれます。

一人になったこの人は、まるで裁判における尋問のように、次々に問い掛けられます。

しかし、彼は、それに対して、一つ一つはっきりと答えています。

初めに彼が答えているのは、どのようにして、自分の目が癒されたのか、ということです。

これは証しの言葉です。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」。

この証しの言葉が出発点です。自分が、どのようにして救われ、どのように変えられたか。そのことを、はっきりと捉え、証しすることが、信仰の出発点です。

しかし、ここでは未だ、癒したのは誰であったのか、そこで何が起こったのか、ということについて、この人は未だ十分に、理解してはいません。

ですから、あなたを癒した、イエスという人は、どこに行ったのか、と問われた時、ただ「知りません」、とだけ答えています。

しかし、その後、ファリサイ派の人々に対しては、「あの方は預言者です」、と言っています。

ここで彼は、一歩前進しました。あの方は、私に、ただ肉体の癒しを、与えてくださっただけではなくて、私に、神様を示してくださいました。ですから、あの方は、預言者です。

彼は、そう言ったのです。

この人は、更に問われていきます。そして、25節ではこう答えています。

「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。これは、まことに力強い証言です。

更に、27節では、こうも言っています。「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。私と同様に、あなた方も、あの方の弟子に、なりたいのですか。この言葉は、自分は、主イエスの弟子である、ということを、はっきりと認めている言葉です。

そして、更に問い詰められた時に、こう答えています。30節の御言葉です。

「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに」。

ここで、この人は、「あなたがたがご存じないとは、実に不思議です」、と言っています。

「実に不思議」、という翻訳は、少し控えめだと思います。

この人は、「何とも驚いてしまう」、と言っているのです。あなた方は、どうしてこんなことが、分からないのですか。逆に、自分には、それが分からない。

この私が癒されたということは、動かし難い事実ではないか。

そして、この癒しをなされた方が、ナザレのイエスだということは、みんなが知っている。

神様の御業が起こった。そのことが、こんなにはっきりしているのに、あなた方は、なぜそれを認めないのか。全く呆れかえった話だ、と言っているのです。

このように、この人の信仰は、人々との対話の中で、段々と確かめられ、深められていっています。

皆さん、信仰を与えられる、とは一体どういうことでしょうか。私たちが、しばしば思い違いをするのは、信仰に至るということは、高い山の頂に、一気に駆け上るようなことである、と思ってしまうことです。けれども、この人はそのようなことはしていません。

初めは、主イエスに、ただ触って頂いただけです。大切なことは、初めに、主イエスに、触れることです。いえ、主イエスに、触れて頂く、ということです。

そして、この自分に触れてくださっている、お方がおられる。そのことに、気付くことです。

信仰の第一歩は、触れてくださっているお方に、気付くことです。

私たちもそうです。私たちが、立派な信仰を言い表したから、「よし、それでは、お前のために死んでやろう」と、主イエスが、十字架にかかってくださった訳ではありません。

既に、救いは用意されていて、私たちを、包み込んでいるのです。

その救いの現実に、気付くのが信仰です。あぁ、私は、大いなるお方の、御手の中に置かれている。そのお方が、今も、私を捕らえていてくださる。

そのことに気がつくのが、信仰の第一歩です。この人は、そこから始まって、次第に、信仰の高嶺に至る道筋を、ここで辿っています。

しかし、その道は、そんなに平坦な道では、ありませんでした。それどころか、大変厳しいものでした。

33節に、「あの方は神のもとから来た」という、この人の言葉が、記されています。

しかし、この言葉を語った時、何が起こったのでしょうか。「あの方は神のもとから来た」、と言った時、この人は、外に追い出されたのです。

「外」というのは、ユダヤ教の会堂の外、という意味です。この人は、会堂の外に、放り出されたのです。

22節に、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」、とあります。

この言葉の通りに、「あの方は神のもとから来た」、つまりメシアだ、と言ったために、この人は、会堂から追放されたのです。

これは、単に礼拝から締め出される、ということに止まりません。ユダヤ人社会全体から、追放される、ということを意味しています。つまり、村八分に遭った、ということです。

しかし、この人は、それでも自分の言葉を、撤回しませんでした。自分の言葉に、踏み止まったのです。

今朝の箇所で、この人は、たった一人です。両親さえ、助けてくれていません。逃げてしまっています。たった一人で、大勢の人たちに、まことに勇敢に、立ち向かっています。

でも、たった一人でも、この人の態度は、実に堂々としています。指導者たちを相手に、一歩も引いていません。

25節の御言葉を、もう一度見てください。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

あなた方は、色々と議論したいのでしょう。しかし、私にとって大事なのは、あの方が、私の目を開いてくださった、ということです。ただ、それだけなのです。

私は、そのことしか知りません。しかし、それを知っているだけで、私には十分なのです。

この人は、そう言ってのけるのです。

お前は、罪の結果、目が見えない者として、生まれた。神様の祝福から、漏れている者だ。今まで、この人は、そう言われ続けて、生きてきたのです。

何十年もの間、自分は、神様に見捨てられた人間だと、ずっと思って、生きて来たのです。そのことは、目が見えない、ということ以上に、厳しいこと、辛いことであったと思います。

神様から、見捨てられている。罪人として、神殿に上ることも許されない。そういう、自分の運命を、呪い続けて、生きて来たのです。

でも、神様から、一番遠く離れている、と思っていた、この自分のところに、主イエスが来てくださった。

神様から、退けられている、と思っていた、この自分のところに、神様から遣わされたお方が、来てくださった。そして、この目を開いてくださった。

「あなたは、決して、神様から、退けられているのでは、ない」と、教えてくださった。

神様は、あなたを退けていない。それどころか、あなたを、愛してくださっている。

あなたが、神様の救いから、漏れていることなど、決してない。

そのことの証として、主イエスは、目を開けてくださったのです。

ですから、ただ目が開かれて、色々なものが、見えるようになった。今まで不便であったが、それが便利になった、ということだけではないのです。

今まで、神様に捨てられていた、と思っていた自分だったが、実はそうではなかった。

神様は、本当に遠いところに、おられると思っていた。でも、そうではなかった。

このような私の所にまで、あの方は来てくださった。

そして、「私にとって、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、と言ってくださった。

社会の片隅で、身を小さくしながら生きて来た。そういう自分のところに、主イエスが、来てくださった。あなたは、神様に、見捨てられてなどいない。そのことを示してくださった。

それは、この人にとって、人生が、全く新しくなるような、出来事であったのです。

この人は、目を開いていただいた。でも、開かれた目で、この人は何を見たのでしょうか。

周りの景色を見たり、人々を見たり、したのではないのです。この人は神様を見たのです。

信じるものが、一人も滅びないで、永遠の命に生きることを、ひたすらに願っておられる、そのお方を見たのです。

誰が何と言おうと、あの方が、私のところに来てくださった。そして、愛の業をなしてくださった。この事実は動かないのです。そのことが、この人を強くしました。

この人は、自分が知っていることは、たった一つだ、と言いました。

私は、たった一つのことしか知らない。でも、この一つのことを知っていれば良い。それで十分だ。この人は、力強くそう言っています。

信仰とは、そういうものです。色々なことが、議論されます。色々と、研究されます。

しかし、私たちが信じていることは、実はそんなに複雑で、難しいことではないのです。

私たちは、何を喜んでいるのでしょうか。神様が、共にいてくださり、私を愛してくださっている。そのことを喜んでいます。ただ、それだけです。そして、それだけで十分なのです。

私たちは、それを喜んでいるのです。それが、クリスチャンです。

大事なことというのは、多くはありません。でも、それを知っているということは、私たちにとって、本当に大きな喜びです。

この目を開いてもらった人は、自分は、たった一つのことしか知らない、と言いました。

知っているのは、たった一つのことです。自分は神様に捨てられてなどいない。神様は、この私を愛していてくださり、この私と共にいてくださる。そのことだけです。

しかし、そのことが、この人を、全く新しい人生に、導き入れたのです。

アントニー・デ・メロという、インドのカトリックの司祭が書いた、「小鳥の歌」という本に書かれている短い話を、紹介させていただきます。

最近、キリスト教に改宗した人と、信仰を持たない友人との会話です。

「そこで君は、クリスチャンになった、というわけだね?」 「そうだよ」

「では君は、キリストについて、たくさんのことを、知っているに違いない。話してくれたまえ」。「彼は、どこの国に、生まれたの?」 「知らないよ」

「死んだとき、何歳だったの?」 「知らないよ」

「彼がした、説教の数はいくつ?」 「知らないよ」

「君は、キリスト教徒になったけれど、キリストについて、殆ど知らないんだね?」

「その通りさ。キリストについて、殆ど知らないことが恥かしい。でもこれだけは知っている。

3年前、僕は酔っ払いだった。借金があった。僕の家族はばらばらになってしまっていた。

妻と子どもは、毎晩、僕が家に帰るのを、怖がっていたんだ。

でも今、僕は飲むのをやめた。借金もない。僕の家庭は幸せだ。子どもたちは、僕の帰りを、毎晩とても待ち望んでいる。これはみんな、キリストが、僕にしてくれたことなんだ。僕はキリストについて、これだけは知っているんだ!」

この話の中の人も、たった一つのことしか、知りません。でも、そのことを知って、新しい人生に、歩みだすことができたのです。闇から、光の中へと、導き入れられたのです。

キリストに、本当に出会ったなら、この人のように、キリストによって、変えられるのです。

私は、ただ一つのことを知っています。それは、私が、キリストの愛を知って、変えられたことです。このことだけは、確かです。

私たちも、このように、証しできる者となりたい、と願わされます。

今朝の箇書の最後で、ユダヤ人の指導者が、目を開かれた人を、追い出しました。

でも、指導者たちから、追放されながら、この人は心の中で、秘かに笑っていたのではないかと思います。

「あなたたちは、いつまでそんなことを言っているのですか。神様が、全く新しい出来事を起こしてくださったのに。そして、私を愛し、私と共にいてくださるということを、示してくださったというのに。あなた方には、それが見えないのですか」。そう思ったに違いないと思います。

「あなた方には、それが見えないのですか」。この言葉は、元旦礼拝において示された、イザヤ書の御言葉を想い起こさせます。

「あなたたちは悟らないのか。気が付かないのか。私がなそうとしている、新しい業を」、とイザヤ書は語っていました。

主の御業、主の恵みは、既に、備えられているのです。大事なことは、私たちが、それに気づくことなのです。それを見ることなのです。

荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる、主の大いなる御業。それは、既に、芽生えているのです。この新しい主の御業が、茅ヶ崎恵泉教会に、力強く実現すると信じます。

そのために、私たちに大切なことは、ただ一つのことを、確かに知り、それを喜び、そこに堅く立つ、ということではないでしょうか。 そのことを目指して、共に歩んでまいりましょう。