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過去の礼拝説教

「神はお一人、信仰はひとつ」

2016年04月24日 聖書:エフェソの信徒への手紙 4:1~6

ご一緒に、エフェソの信徒への手紙を読み進んでまいりましたが、今朝から4章に入ります。エフェソの信徒への手紙は、1章から3章までの前半と、4章から6章までの後半とに、分けることができます。

前半部分で、パウロは、神様が、教会と私たちを、どれほど愛して下さっているか。

その恵みについて、心を尽くして、教えていました。

それに続いて、後半では、その恵みに応える、具体的な生き方が、語られています。

この順序が、大切だと思います。まず恵みが語られるのです。恵みが先なのです。

あなた方はこうしなさい、という命令や戒めが、まず語られているのではないのです。

戒めが、最初に語られているとしたら、それは私たちにとって、重荷になってしまいます。

しかし、パウロは、まず恵みを語るのです。

そして、その後で、こんなに素晴らしい恵みが、与えられているのだから、私たちは、その恵みに応えて、このように生きようではないか、と語りかけているのです。

今朝の箇所も同じです。パウロは、初めに、こう語っています。

あなた方は、神様から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。

ここでも、恵みが先行しているのです。あなた方は、既に、神様からの、招きを受けているではないか。それなら、その招きの恵みに、ふさわしい歩みをしなさいと言っているのです。

教会のことを、聖書では、「エクレーシア」と言っています。これは、「呼び集められた者の群れ」、という意味です。教会は、神様から、呼び集められた人たちの群れなのです。

私たちは、ただ偶然に、教会に来るように、なったのではありません。

或いは、自分で、教会に行こうと、一大決心して、来たのでもないのです。

そう思っておられる方も、おられるでしょう。しかし、実は、私たち一人ひとりは、神様に呼ばれて、教会に来たのです。神様に、覚えられ、呼ばれて、集められたのです。

皆さん、いかがでしょうか。私たちは、今朝、神様に、名前を呼ばれて、ここに来たという思いを、どれほど深く、心に留めているでしょうか。

私たちが、まだ寝ている時から、神様は、ここで待っていてくださり、心を込めて、一人ひとりを、呼び続けてくださった。私たちは、その呼びかけに応えて、今、ここに来ているのです。

呼びかけに応えて、ここに来た私たちを見て、神様は、どれほど喜ばれているでしょうか。

「よく来てくれましたね。嬉しいよ」、と言って、神様は、私たちを、迎えてくださっています。

もし、その神様の呼び掛けを、無視したなら、神様は、どれほど、がっかりなさるでしょうか。

よく、信仰は、賭けのようなものだ、と言われます。神様を信じるか、信じないか。二つに一つなら、信じる方に賭けて、人生を生きていこうではないか。信仰とは、そういうものだ。

確かに、そういう面も、あるかと思います。しかし、私たちが、賭けるよりも前に、実は、神様の方が、私たちに、賭けておられるのではないでしょうか。

私たちは、招きを受けるに、相応しいような者ではありません。神様に背き続け、汚れに染まっています。そんな私たちであることを、ご存知の上で、神様は、尚も、私たちを招き続け、呼び続けてくださっているのです。

私たちが、招きに応じて、御許に行くかどうか、全く分からないのに。いえ、むしろ、招きを拒む可能性の方が、大きいにも拘らず、呼び続けてくださっているのです。

割に合わない賭けであることを、ご承知の上で、命を賭けて、呼んでくださっているのです。

ですから、パウロは、心を込めて、勧めているのです。そのように、呼び集められた者として、少しでも、招きに相応しく、歩もうではないか。

招きに相応しく歩む。それは、自分一人の救いに、関するだけではありません。

この世全体の救いに、関わることなのです。なぜなら、私たちの生き方を通して、周りの人たちに、主イエスを指し示すことになるからです。

インド独立運動の指導者ガンジーは、こう言いました。「私はキリスト者になりたいですが、先ず、キリストの教えに、心から従って生きる人に会いたいのです」。

また英国の哲学者バートランド・ラッセルは、こう言っています。「もしキリスト者が、信じた事を本当に実行したら、彼らはこの世をすっかり変えるでしょう。」

ガンジーや、ラッセルの言葉は、私たちに対する、大きな挑戦の言葉です。

では、「招きにふさわしい生き方」とは、どのような生き方なのでしょう。

2節と3節に、その生き方が、記されています。

それは、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つ」生き方だ、というのです。

ここに挙げられているのは、謙遜、柔和、寛容、愛、平和、の五つの徳目です。

招きに相応しい生き方とは、これら五つの徳目を、目指す生き方である、というのです。

その、第一に挙げられているのが、「高ぶることがない」ということ、つまり謙遜であるということです。

面白いことに、ここで「高ぶることがない」、と訳されている言葉は、教会が作り出した、造語であると言われています。

元々ギリシア語には、謙遜に相当するような、徳目がなかったそうです。

しかし、教会は、謙遜ということを、当初から、非常に大切にして来ました。

古代教会に大きな影響を及ぼした、バシリウスという教父は、「謙遜とは、あらゆる美徳を入れた宝石箱である」、と述べています。

どのような美徳を備えていても、それが、謙遜によって、覆われていなければ、本当の意味での美徳とはならない、と言っているのです。大変、味わい深い言葉だと思います。

そのように、教会は、古くから謙遜を、大切にして来ました。

しかし、キリスト教以前の世界では、謙遜は、美徳の中に、入っていませんでした。

その当時の、ギリシア・ローマ世界では、謙遜とは、臆病で、奴隷根性をした、卑屈な資質である、と見られていたのです。

しかし、教会は、この謙遜を、キリスト者の美徳の、最初に置きました。なぜでしょうか。

それは、私たちを呼び集めてくださった、主イエスご自身が、徹底して謙遜に生きたお方だったからです。主イエスは、私たちに、謙遜の完璧な模範を、示してくださいました。

限りない栄光に包まれた、神の独り子が、私たち罪人の為に、その全てを投げ捨てて、ナザレの田舎に住む、無力で、貧しい夫婦の、赤ちゃんとして、この世に生まれてくださった。

そして、背き続ける人間を、罪の中から、贖い出すために、最も恥ずかしく、最も残酷な、十字架刑を、自ら引き受けられたのです。

私たちには、謙遜のモデルとして、この主イエスが、与えられているのです。

その主イエスに捕えられ、招かれたのが、キリスト者です。

そうであるなら、招いてくださったお方に従って、そのお方の、謙遜なお姿に倣っていくのが、招かれた者の生き方であると思います。

次に、挙げられているのは、柔和ということです。

ここで言われている柔和とは、ただ優しい、ということだけではありません。

この言葉の元々の意味は、自分をコントロールする、ということなのです。

キリスト者に求められる柔和さとは、自分の感情に任せて、むやみに怒るようなことはしない。けれども、怒るべき時には、相応しい仕方で、怒るということなのです。

不信仰や不正に対しては、正当な怒りを示すけれども、自分自身に対する、侮辱や不名誉には、怒りをコントロールできる。そういう人のことを、言っているのです。

主イエスは、神殿を祈りの家ではなく、強盗の巣にしてしまった人たちには、激しく怒られました。しかし、ご自分のことに関しては、どこまでも怒りを抑え、十字架の辱めをも、進んで受けられました。私たちは、その主の柔和さに、倣っていくことが、求められているのです。

次に、寛容です。ある人は、ここで言う寛容とは、報復する力を持っているけれども、決して報復しない精神である、と言っています。

主イエスは、不正に満ちたこの世を、拭い去ってしまおうと思えば、たやすくお出来になられるお方でした。しかし、そうされずに、忍耐と愛をもって、この世に応えていかれたのです。

皆さん、ちょっと考えてみてください。もし、神様が、寛容なお方でなかったなら、私たちは、どうなっていたでしょうか。

私たちは、善いものとして、神様の愛の対象として、造られたのです。それなのに、神様の愛を拒んで、自分勝手な生き方をして、造ってくださった神様を、裏切り続けているのです。

ですから、神様に見捨てられ、滅ぼされても、文句は言えない者なのです。

それなのに、神様は、私たちの思いを、遥かに超える、素晴らしい忍耐と寛容をもって、私たちのために、主イエスの十字架という、救いの道を、開いてくださったのです。

そして、今も、この救いを、無対価で、無条件で、無制限に、与えてくださっているのです。

ですから、寛容ということに関しても、モデルとして、主イエスが与えられているのです。

その次は、いよいよ愛です。ギリシア語の愛には、四つの言葉があります。

まず、エロースの愛。これは、男女間の愛を示す言葉です。

次に、フィリア。これは、友人のような、親しい間柄に存在する愛です。

更に、ストルゲー。これは、家族に対する愛を示す言葉です。

そして、アガペー。この言葉が、ここで使われている、愛を表す言葉です。

このアガペーの愛とは、相手の人が、どのような人でも愛する愛です。相手の人が、何が出来るかとか、何をしてくれるか、ということに関係なく、相手がどうであろうと、愛する愛です。その人が、何々だから、愛するのではなく、たとえ何々であっても、愛するという愛です。

このような愛を、完全な形で、私たちに示してくださったのは、主イエスただお一人です。

ローマの信徒への手紙5章8節にはこう書いてあります。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

私たちが罪人で、神様に敵対していたにも拘らず、主イエスは、私たちのために、命を捨ててくださったのです。

ですから、愛についても、主イエスが、私たちのモデルです。というよりは、主イエス以外には、このような愛を、持っている人はいません。愛は、主イエスの本質であるとも言えます。

さて、招かれた者に相応しい生き方として、謙遜、柔和、寛容、愛という、四つの美徳について見て来ました。

これら四つの美徳の、結果として生じるものが、平和です。平和とは、主イエスをモデルとした、謙遜、柔和、寛容、愛という四つの美徳が、実際に存在するときに、保たれるものです。

そう考えていきますと、招かれた者に相応しい生き方というのは、主イエスに似た者とされていく生き方である、ということが出来ます。

招かれて、集っている私たちは、主イエスに、似た者となることを目指して、お互いに平和の絆で結ばれ、霊による一致を求めていくのです。それが、教会のあるべき姿です。

続いて、パウロは、4節から6節で、一つとなることの、大切さを説いています。

ここでは、一つという言葉が、7回続けて出てきます。

ご存知のように、ユダヤでは、7という数字は、完全数として、大切にされていた数字です。その数に合わせて、パウロは、教会が一つであるべきことを、強調しているのです。

パウロは、教会は、完全に一つでなければならない。いや、本来教会は、一つなのだ、と言っているのです。キリストの体である教会は、元々一つなのだ、と言っているのです。

キリストが、いくつも存在する、などということは、あり得ません。私たちの救いの源は、ただ一つです。そうであれば、その体である教会も、一つです。

教派・教団に分かれていても、皆キリストの体であるということにおいては、同じです。

ですから、体は一つ。教会は一つです。体が一つであるなら、そこに働かれる聖霊も一つです。そして、教会は、一つの希望を、共有する者の群れです。

人の人生は、何を望んでいるか、何を目的としているかによって、決定されます。

例えば、スポーツのチームは、優勝することを望み、そのことを目的としている者たちが、集まった群れです。細かい所での相違はあっても、優勝を目指すという、最終ゴールは、皆が共有しています。そこにおいては、一致しています。教会も同じです。

主イエスによって、救われ、永遠の命を頂くという望み、ゴールは、皆同じです。

教会は、一つの望み、一つのヴィジョンを、共有することによって、一致を保っていくのです。主は一人である。今の私たちにとって、これは、当然のように聞こえます。

しかし、初代教会にとっては、これは、命懸けの信仰告白でした。

この当時、人々は、ローマ皇帝のことを、キュリオス、即ち「主」、と呼んでいました。

いえ、呼ばされていたのです。皇帝こそ主である、と言わなければ、身の安全が危ぶまれたのです。

そのような時代にあって「イエスこそ主である、このお方のほかに、主と呼ぶべきお方はいない」、と告白することは、まさに命懸けのことだったのです。

主イエスだけが、ただ一人の主であるならば、その主を信じる信仰も、ただ一つである筈です。そして、その信仰を告白する聖礼典の、バプテスマも一つです。

バプテスマの形式に、違いはあっても、その意味においては、一つです。

そして、父なる神はお一人です。

これも当然と、思われるでしょうが、決して、そうではありません。

特に、日本のような、八百万の神々がいる、と信じられている社会にあって、神は、お一人であることを信じ、告白することは、決して容易いことではありません。

「分け登る 麓の道は 多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」、という歌があります。

一休和尚の作だと言われています。宗教の入り口は、いろいろ違っていても、最終的に到達するところは、皆、同じである、ということを言おうとしています。

仏教も、イスラム教も、神道も、最終的には、皆、同じ所を目指しているのだから、どれを信じても同じだ、というのです。それを突き詰めていきますと、「イワシの頭も信心から」、ということになってしまうのです。

この歌に示された考え方が、日本人には、根強くあります。そして、それが、日本における伝道を妨げる、大きな要因になっています。

それに対して、「いや、そうではない。神は唯一である」と言うと、そういう考えは、狭くて、排他的だ、と言って反論されます。

でも、そういう人たちに、私は言いたいのです。

全世界の人が、一人も滅びることなく、永遠の命を得るために、十字架につかれた、主イエスのお姿を、どうか見て頂きたい。

このようなことをされた神様は、他のどこにもいません。

「汝の敵を愛せよ」、と説かれた、主イエスのお声を、どうか聴いて頂きたい。

このようなことを説かれ、しかも自ら実行された神様は、他に一人もいません。

ご自身を十字架につけた人のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と、必死に、執り成しの祈りを献げた、主イエスの叫びに、耳を傾けて頂きたい。これは、あなたのための、叫びなのです。

あなたのために、こんなに苦しまれた神様が、他にいるでしょうか。

そんな神様は、他に、絶対にいません。まさに唯一のお方です。唯一の神なのです。このお方によらなければ、私たちの、まことの救いは、ないのです。

このお方が、私たちの主なのです。

そして、その主が、私たちに、一つとなるように、模範を示してくださったのです。

もともと、教会は、一つである筈なのです。それなのに、その一致を保つことが、できずにいます。少しばかり、意見が違うと言っては、対立しています。

考えが異なると、直ぐ批判し合います。

そんな私たちに、御言葉は、語ります。あなた方は、主イエスに招かれたのですから、その招きに相応しく歩みなさい。

主イエスの謙遜に、主イエスの柔和に、主イエスの寛容に、そして主イエスの愛に、倣う者となりなさい。そして、平和の絆で結ばれて、霊による一致を、保つように努めなさい。

神は唯一、主はお一人であるように、教会も一つでなければならないのです。

お互いの愛をもって、教会の一致を保っていくこと。それが、主イエスの招きに相応しい、教会の歩みなのです。

昨日、信仰の友である、熊本城東教会の中村牧師から、ファックスを頂きました。

今回の大地震で、教会員の殆どが、避難所や車の中で、数日を過ごされたそうです。

幸い、教会堂は大きな被害がなかったため、17日の礼拝を会堂で守ることができそうです。

出席者は、だいぶ少なかったですが、心から神を呼び求める礼拝が、献げられたそうです。

中村先生は、こう書いておられます。「とにかく皆が無事であったこと、会堂に於いて礼拝を守ることができたことに、感謝しています。そして、教会の皆が、お互いを気遣い、物だけでなく、心の面でも支え合っていることに、神の国を見ることができます。」

中村先生の言葉の中に、教会が一つであるとは、どういうことであるかが示されています。

それは、この世に、神の国を、実現することである、というのです。

神の国には、主イエスの、謙遜、柔和、寛容、愛が満ち溢れています。ですから、神の国では、皆が一つです。教会が一つであるとは、神の国を、先取りすることなのです。

私たちも、そのように、一つとされた教会を目指して、お互いに祈り合い、励まし合って、共に歩んで行きたいと願います。