MENU

過去の礼拝説教

「今や、あなたは光の子」

2016年05月29日 聖書:エフェソの信徒への手紙 5:6~20

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」。

今朝の御言葉は、このように、高らかに宣言しています。

私たちは、光である。救われる前は暗闇だったが、今は主に結ばれて、光となっている。

これが、キリスト者の自己理解です。

私たちは、「光と結ばれている」、だけではない。「光になりなさい」、と言われているのでもない。既に、「光となっている」、というのです。

救われた私たちは、既に、光となっている。この言葉は、主イエスも、言われています。

主イエスは、山上の説教の中で、「あなた方は地の塩である」と言われ、そして、更に「あなた方は世の光」だ、と言われました。

私たちキリスト者の生活は、「光として歩む」ことだ、と言われたのです。

これは、光の中を歩む、ということに留まらず、私たち自身が、光として輝くということです。

勿論、その光は、まことの光である、神様の光を受けて、それを反射する光です。

でも、私たちは、自分が光に照らされているだけではなくて、その光を反射して、他の人を照らす、光とされているのです。

光によって生かされるだけではなく、自らも光となって、光を指し示す者となるのです。

闇に覆われた世界にあって、光となりなさい。御言葉は、そう言っています。

さて、ここまでの話を聞きながら、皆さんはもう既に、御自分のことを、考え始めておられると思います。果たして、「私は光だろうか」、と考えておられると思います。

そして、「私は光だ」と、言い切ることなど、とてもできない。そう感じておられるのではないでしょうか。

突然、話を変えて恐縮ですが、今から50年近く前に、「帰って来たヨッパライ」、というコミカルな歌が、大ヒットしました。この曲を歌ったフォークグループの一人に、端田宜彦という人がいます。彼は、その後、別のグループを編成して、「風」という大ヒットをリリースします。

この端田宜彦さんは、京都の世光教会で、洗礼を受けたクリスチャンです。

大ヒットを飛ばして、人気絶頂で、寝る間もないほど、忙しかったこの人が、ある日突然、教会に来て、礼拝を守りました。

礼拝の後、端田さんは、牧師のところに来て、「先生、僕は、世の光にはなれないと思いますが、地の塩にはなりたいと思っています」、と言ったそうです。

端田さんも、自分は世の光だ、とはとても言えない。でも、せめて地の塩にはなりたい。

そのような思いを持っていたのです。

恐らく、皆さんも、この端田さんの言葉に共鳴して、「私もそう思います」、と心の中で、言われたのではないでしょうか。

しかし皆さん、ここで、ちょっと考えて見てください。一体、光の反対とは何でしょうか。

それは、ここにも出てきますが、暗闇です。光の子と、闇の子が対比されています。

「自分は光の子である」とは、とても言い切れない。そう思っておられる、あなた。

しかし、そのあなたに対して、「それではお前は闇の子か」、と問われたならどうでしょうか。

そう問われた時に、恐らく、ここにおられるすべての方が、「いや、自分は光の子だと、断言することはできないが、だからと言って、闇の子だとは思わない」、と言われると思います。

そして、小さな声で、「私は、輝く光ではないと思うが、ローソクのような、ほのかな光だと思う。いえ、ほのかな光になりたいと思います」、そのように囁かれるのではないでしょうか。

もしかしたら、「ローソクの光にもなれそうもないから、せめて線香花火のように、パッ、パッと、時々光るだけでも良い。闇の世に、一筋の光を放つ存在になりたい」、と思っておられるかも知れません。さて、私たちは、どんな光を放っているのでしょうか。

なぜ、「私たちは光の子だ」、と断言できないのでしょうか。

それは、「私たちは、光の子」と言った時に、私たちの日常生活の姿、私たちの日頃の業の事を、直ぐ考えてしまうからです。自分たちの、毎日の生き方を、振り返ってしまうからです。

しかし、私たちが光だ、ということは、私たちが、いつも光の業をしている、ということを、必ずしも意味しません。

私たちが、輝かし光の業をするから、光なのではなくて、存在そのものが光なのです。

世の人たちが、キリスト者を見て、「あの人たちは、なぜあんなに楽しそうに、活き活きとしているのだろうか」、と不思議に思う。

もしそういうことが起こるなら、キリスト者の存在そのものが、既に、光を放っているのです。何か特別なことをしなくても、光となっているのです。他の人にとって、気になる輝きを放っているのです。

恐らく、私たち自身は、気づいていないけれども、私たちが、光の中に生かされて行く中で、

いつしか、私たち自身が、小さな光にされている、ということが起っているのだと思います。

いえ、きっと起こっている筈です。私たちには見えなくても、神様にはそれが見えるのです。

たとえ、小さな光であっても、或いは、一瞬の光であっても、その小さな、一瞬の光が、より大きな、永遠の光の存在を、指し示しているなら、私たちは、間違いなく光なのです。

私たちが、大きな光になる必要はありません。というより、大きな光には、なれません。

小さな光として、大きな光を、指し示す者となるのです。

たとえ一瞬の光であっても、線香花火のような光であっても、それをもって、より大きな光を、証しする。それが、光の子として生きる、ということなのです。

そうであるなら、私たちは、その小さな光を、もっと、高く掲げなければならないと思います。

大きな光を指し示す、小さな光を、高く掲げなければ、ならないと思います。

続いて9節~11節の御言葉は、光の子として生きる際に、心すべきことを、語っています。

「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」。

光に生きている者は、自分の言葉や、自分の行動を、吟味しなさい、というのです。

果たして、これでいいのだろうか、と自分自身に、問いかけてみるのです。

そして、その時、吟味する基準がある、と言っています。それは、「果たして、このことは、主に喜ばれるかどうか」、いうこと。それが、吟味する基準だというのです。

何かを言ったり、何かをしたりする時に、これは、主イエスに喜んでいただけるかどうか。

そのことをいつも問う、ということです。

10節にある、「吟味する」という言葉は、「わきまえる」とも、訳されている言葉です。

そうしますと、10節の御言葉は、今年度の主題聖句、ローマの信徒への手紙12章2節。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この御言葉と、同じことを言っていることが、分かります。

「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」この御言葉は、「何が神の御心であるか、何が神に喜ばれるかをわきまえなさい」、と勧めている主題聖句と、重なっています。

そのことを覚えつつ、更に、17節の御言葉を見てください。

「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」。

ここでも、主の御心が何であるかを悟りなさい、と勧められています。

そして、そのときに大切なことは、無分別な者とならない、ということだと言っています。

現代では、この「分別」という言葉は、あまり使われなくなりました。

少し古い言葉だと、見做されるようになりました。今では、同じ漢字を、「ぶんべつ」、と呼ぶ方が多くなりました。ゴミを仕分けるときに、使われる言葉です。

しかし、「ふんべつ」と言おうが、「ぶんべつ」と言おうが、事柄を仕分ける、という意味は変わりません。毎日、分別をもって、なすべきこと、語るべきことの、仕分けをする。

では、どのような基準に従って、仕分けるのでしょうか。「これは、主に喜ばれることだろうか、主の御心だろうか」。この基準に従って、仕分けなさい、と御言葉は言っています。

数年前、民主党が政権を取った時、国の行っている事業を見直す、という作業をしました。

これが、「事業仕分け」と呼ばれて、その年の流行語になりました。

この事業仕分けでも、国にとって、今、本当に必要なものは何か、という観点から、正しい仕分を行うために、多くの人が、真剣に話し合いました。

私たちも、日常の生活において、これは、本当に、主に喜ばれることか、本当に、主の御心に適ったことか。その仕分けが出来るかどうか。そのことが、大切なこととして問われるのです。そういう分別が、自然に身についているならば、すばらしいことです。

主イエスが、何を喜ばれるか、いつもそのことを、心の中で問い続けているなら、咄嵯の時にも、そういう判断が、出来るようになるのではないかと思います。

正しい判断をするために、瞬間的に、ごく短く祈る、ということが有効です。短く、「主よ、御心を教えてください。なすべきことを示してください」と、心の中で、瞬間的に祈るのです。

作家の三浦綾子さんは、このような祈りを、「射祷」と名付けて、大事にしました。弓を射るように、瞬間的に祈る。ですから、射る祈りと書いて、「射祷」と呼んだのです。英語では「フラッシュプレヤー」と言います。カメラのフラッシュのように、一瞬の祈りだからです。

なさってみると分かりますが、この一瞬の祈りは、とても有効です。是非お勧めします。

もう一つ大切なことが、16節に書かれています。「時をよく用いなさい」、という言葉です。

この「用いなさい」という言葉は、元々は「買い取りなさい」、という意味の言葉です。欲しいものを買うように、時を買い取るのです。

御心を行うために、神様が定められた時があります。そのような時を、何物にも優先して、買い取りなさい、言っているのです。

ある教会で、牧師が、アンケートを取りました。「皆さんが、最も大切だと思っているものを、主に献げるとしたら、一体何を献げますか。一つだけ紙に書いてください」。

アンケートの結果、一番多かった答えは、何だったと思いますか。それは、「時間」でした。

これは、まことに、適切な回答結果であると思います。

邪悪な時代の中に在って、今こそ神の時、という時を買い取るのです。そして、買い取ったその時を、主に献げ、主のために用いるのです。これこそが、主が、最も喜ばれることではないでしょうか。

更に御言葉は続けて、こう語っています。「暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」

この御言葉との関連で、想い起したいのは、マタイによる福音書の18章15節です。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。

大変興味深いことですが、エフェソの信徒への手紙で、「明るみに出す」、と訳された言葉が、マタイによる福音書では、「忠告する」、と訳されているのです。二つとも、原語では同じ言葉なのです。

マタイによる福音書の御言葉は、教会の中から、迷い出た人の話をしています。

百匹の羊の群れから、迷い出た一匹のように、教会の仲間が、暗闇の中に、出て行ってしまった。

けれども、神様は、その一人の人が、そのまま滅んでしまうことを、深く悲しんでおられる。

それを知ったなら、その神様の、御心を映すように、あなた方は、行動しなければならない。

その兄弟を、捜し出さなければいけない。

そして、「二人だけの所で忠告をしなさい」、と言っています。二人だけのところで、その兄弟を、明るみに出しなさい、と言っているのです。

明るみに出す、ということは、光に照らされて、闇が闇であることが、はっきりさせられる、ということです。

光が照って、初めて、それとの対比で、あぁこれは間違いだった、ということが分かります。

光の子とされたあなたは、闇の虜になった兄弟を捜して、その過ちを、明らかにしてあげなさい、と言っているのです。

明らかにして、元の羊の群れに、連れて帰って来なさい、と言っているのです。

間違いを明らかすることが、目的なのではありません。群れに戻すことが、目的なのです。

そのように語った後で、パウロは、突然のように、18節で、「酒に酔いしれてはなりません」、と語っています。

「酒に酔いしれるな」、ということは、多くの人が言っていることで、特に聖書が言わなくても、良いような気がします。しかし、ここでも、問題になっているのは、信仰の事柄なのです。

単に、酒を控えなさい、ということではありません。仕事で疲れて帰って来て、静かに晩酌を楽しむ。そのようなことまで、禁止しているのではありません。

実は、当時、お酒の力で、宗教的興奮を、高めようとした宗教があったのです。

ここでパウロが言っていることは、信仰によって、満たされるべき、魂の問題を、お酒でごまかしてはいけない、ということなのです。

ですから、パウロは、その直ぐ後で、「むしろ、霊に満たされ」なさい、と言っているのです。

私たちの信仰を、高めてくださるお方は、聖霊です。お酒ではありません。

パウロは、心の空しさを、お酒でごまかさないで、聖霊に満たされて、まことの満足を得るようにしなさい、と言っているのです。

そのように、聖霊に満たされた時、人は、一体、何に導かれるでしょうか。

聖霊に満たされた時に、導かれるもの。それは礼拝です。聖霊に満たされた時、私たちの心は、礼拝へと向けられます。

そこで、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と語られているのです。これは、礼拝における、姿勢の話です。

この「詩編」というのは、旧約聖書の中に記されている、詩編のことです。

それを、当時の教会の人たちは、節をつけて歌ったのです。

その次の「讃歌」というのは、今、私たちが、礼拝で歌っている讃美歌と同じです。

但し、当時は、楽譜もなく、伴奏の楽器もありませんでした。ですから、今よりずっと、単調な旋律でした。

そして、「霊的な歌」というのは、自然に生まれてくる即興の歌です。

礼拝や集会の中で、霊に促された人が、立ち上がって、即興の歌を歌うのです。

このように、初代教会の礼拝では、様々な讃美歌が歌われました。喜びにつけ、悲しみにつけ、讃美歌が歌われました。歌いつつ歩む、というのは、昔からの教会の姿でした。

14節で「 」で括られている言葉も、そのような讃美歌からの引用だと考えられています。

当時、洗礼式で歌われていた、讃美歌の一部であろうと見られています。

闇の中で死んでいたような者が、洗礼によって、眠りから目覚めて、生まれ変わり、これからは光の子として、キリストによって照らされて生きる。

その恵みと幸いを、歌ったものであると、言われています。

賛美は、私たちの心の中にある、感謝、喜び、願いを、引き出してくれます。

言葉では、十分に言い表せない思いを、時に力強く、時に優しく、時に高らかに、時に静かに、表現してくれます。

私たちは、その讃美によって、励まされ、慰められ、立ち上がる力を、与えられます。

ご本人を前にして恐縮ですが、沢井哲朗兄弟は、糖尿病性脊椎炎のため、5ヶ月も入院生活を続けられました。辛いリハビリの期間中、沢井兄弟は、偶々病院にあった本を読んで、短歌を作ることを学ばれ、たくさんの歌を詠まれました。その中に、このような歌があります。「生涯に しびれと痛み 残るとも 我が唇に 歌あればよし」。

たとえ、一生、しびれや痛みと、戦わなければならないとしても、讃美歌を歌うことができるなら、それで良い。「我が唇に 歌あればよし」。

沢井兄弟にとって、賛美できるということは、痛み、苦しみをも、突き破るほどの、大きな喜びなのだと思います。その喜びを詠った歌もあります。

「歌声は そよ風にのり 流れゆく 賛美の歌ぞ 喜びの歌」

どのような時にも、賛美できるというのは、キリスト者に与えられた、素晴らしい特権です。

私たちには、賛美する喜びが、与えられています。そして、その賛美から、また新たな力を与えられます。私たちが、聖霊に満たされたときには、歌いださずにはおれないのです。

ですから、礼拝では、上手でも、下手でも、皆、心から、喜び歌います。

闇の中にいた者が、光とされたことを、感謝し、喜びの賛美をもって、再び遣わされた場へと立ち帰って行く。礼拝とは、そのような場です。

私たちは、そのような礼拝によって生かされている事を、心から感謝したいと思います。

そのような礼拝に生きる、お互いでありたいと願います。